憂鬱な日々の始まり その6
強く殴られるとその前後の記憶がとぶって本当ですかね?
どうやらアリスは無事だったようです。
夢を見た。
昼下がりの土手。
大きな懐中時計を持つ、チョッキを着た二足歩行の白いウサギ。
それは突然視界に現れ、気づいたら俺はそれを追いかけていた。
理由なんかない。そうしなきゃいけない気がなんとなくした。
ウサギは生け垣の下にある大きな穴に飛び込む。
それを見て、俺も後に続こうと穴の縁に手をかける。
ぽっかりと地面に空いた穴。よほど深いのか、穴の底が全く見えない。
「大変だ! このままだと遅れちゃう!」
ウサギの声が穴の中から聞こえてくる。
大丈夫。怖くはない。
意を決して、穴に飛び込もうとしたその時。
「アリス!」
誰かが俺の名前を確かに呼んだ。
「アリス、アリス、アリス! なあ、アリス、大丈夫か?」
「見ればわかるでしょう? このどこが大丈夫そうに見えるの? あ~あ、かわいそうなアリス。こんなにほっぺたが腫れちゃって」
「……っ! アリスに触るな!」
「うわっ!? 暴力反対! そんなんだといずれアリスに嫌われちゃうよ?」
「うるさい、うるさい! だいたいお前がいけないんだ! アリスを誘そうから……」
「誤解してアリスを殴ったのは帽子屋さんでしょう? 僕に八つ当たりしないでよ。まあ、見るかぎり、未だに意識が戻らないみたいだね」
「うっ……」
「これじゃあ、記憶も飛んでるかもしれないよ? 目覚めた時にここはどこ? 貴方誰? とか言いだしたらどうしようか」
「そんな……」
今にも泣きそうな声と冗談でも言うかのような軽い声。
どちらも嫌という程聞き覚えがある。
俺の記憶はどうやら無事みたいだ。
もっとも頭はわれる程に痛いし、殴られた頬が熱をもち、じんじんと痛みだしている訳だが、このさいそこは気にしないでおこう。
「おい……少し静かにしろ。うるさい。それとチェシャ猫、レノに構うな」
そいつに構っていいのは俺だけだ。俺だけなんだ。
「アリス!」
レノの声が聞こえる。目を開ければそこには泣きはらした目をしたレノの顔がすぐそばにある。
見たところ、すでに泣いてしまっているようだ。
「アリス! 大丈夫か!? 記憶は!? 記憶はあるか!?」
大声で騒ぐな。頭に響く。
とはいえ、そんな事を必死な様子のレノに言えるはずもない。
俺はため息をつきながら大丈夫だと答える。
「本当に?」
「ああ」
「俺の事……覚えてるか?」
「ああ、覚えてる」
「本当に?」
「ああ」
「昨日の夜の事とか……」
「覚えてる! 覚えてるからもう何もお前は言うな!」
何でよりによってそれを聞くんだよ!?
嫌がらせか!?
「良かった……」
レノは優しく笑うとそっと俺の頬に何か冷たい物を押し当てる。
おそらく氷か何かだろう。
「つめたい……」
「少し我慢しろ。じゃないと……」
「せっかくのアリスの綺麗な顔が台無しになっちゃうよ」
チェシャ猫がからかうようにそう言う。
おい……俺の顔はどれだけ腫れてるんだ?
そんなふうに言われたら余計に不安になるだろう。
気になって確認しようと体を起こせば、慌ててレノに押し戻される。
「動いちゃ駄目だ! 気を失うほど衝撃が強かったんだ。もうしばらくこのまま寝てないと……」
心配そうな表情をするレノ。それに対しチェシャ猫はやはり笑顔で、その言葉に少し付け足す。
「まあ、帽子屋さんが殴ったから、アリスがそんなめにあってるんだけどね」
レノの表情が固まる。本当の事なだけになんとも言えない。
「お前は……いちいちうるせえ! さっさと屋敷にでも帰れよ!」
半ばやけくそになってレノがチェシャ猫を怒鳴りつける。
もちろん、チェシャ猫がそんなものでひくはずがない。
「駄目だよ。アリスと約束したんだ。一緒に屋敷に来るって、アリスも一緒に来てもらわないとね」
チェシャ猫はそう言ってわざと俺の腕をつかむ。
それにレノは素早く反応し、チェシャ猫の手を払いのける。
「ふざけんな! 誰がそんなの認めるか! お前の屋敷になんか行って、アリスに何かあったらどうすんだよ!?」
「もう十分何かは起きてるんじゃない? ついさっきアリスは帽子屋さんに殺されかけたし」
「殴っただけだろう!? 俺はアリスを殺そうとなんかしてない!」
「どうだか」
「このっ……、殺してやる! 今すぐその額に穴をあけてやる!」
売り言葉に買い言葉。
正直かなりうるさい。
人のすぐそばで騒ぐな。
だいたい俺は怪我人だぞ?
少しは俺をいたわれよ。
言い争う声が頭に響いてがんがんする。
少しでもそれを防ごうとして、レノ達に背を向けるように寝返りをうつ。
ふと今さらだが自分がベッドではなく、ソファーに寝かされてる事に気づいた。
まあ、二人がかりとはいえ、俺を寝室まで運ぶのは大変だろうからな。
その点は別にいい。
そう、問題はそこじゃない。
俺の頭の下にある物だ。
枕にしては柔らかくて気持ちいいと思っていたそれの正体が意識がしっかりしてくるにつれ、わかりだす。
これは……
膝?
誰のかなんて、言わなくてもわかる。
「……っ!? お、お前っ!?」
顔が一気に熱くなる。
ヤバい。ヤバすぎるだろう?
慌てて起き上がろうとする俺をまたしてもレノが止める。
「アリス!? まだ安静にしてなきゃ駄目だって!」
安静にしてろだ?
ふざけるな!
こんな状況で誰が安静にできる!?
「レノ! おい、離せ! 俺はもういい! 大丈夫だ!」
「何言ってんだよ。もう少し寝てろって……」
「そうだよ。もう少し寝てなよ、アリス」
チェシャ猫がニヤリと笑う。
このやろー……どうりでにやにやしてると思ったら、俺の事をずっと笑ってやがったな!?
「離せ!」
「何だよ? 急にどうしたんだよ?」
困惑気味にレノは俺の方を見る。
「そうだよ。たかが膝枕ぐらいでそんなに慌てる事ないじゃんか」
チェシャ猫がそう言って笑う。
たかが膝枕だと?
膝枕のどこが、たかがなんだよ!?
「なんだ。膝枕を気にしてるのか? 別に重くなんかないぞ」
そうじゃない。
そこは問題じゃない。
「何でこんな事して……」
「何でって、普通恋人ならこれぐらい当たり前だろう?」
「あのな……」
そんな訳あるか!!
「とにかくどけ……」
「何でだよ!? 俺とアリスは恋人なんだからいいじゃねえか!」
いい訳あるか!
2人っきりの時ならまだしも、人前でこんな事普通するか!?
何でこいつはそうゆうところをいっさい気にしないんだ?
俺にはそれが理解できない。
「もう、アリスの照れ屋さん。今さらそんな事したって無駄なのに」
僕、全部見ちゃったし。
そう言って笑うチェシャ猫に本気で殺意がわいてくる。
このやろー……何が全部見ちゃっただよ。
もとはと言えば全部お前のせいだろう?
痛む頭を抱えこみ、俺は大きくため息をついた。