憂鬱な日々の始まり その5
アリスとチェシャ猫の静かなる攻防。途中乱入者あり。
アリスについに生命の危機がおとずれます。
「じゃあ、いいよね?」
清々しいほどの笑顔でチェシャ猫が笑う。
こいつがこんな笑みを浮かべる時はろくな事がない。
「……何がいいんだ?」
「何って当然、僕を抱く話のことだよ」
「はあっ!?」
何でそうなるんだよ!?
意味がわかんねえよ!?
「だから僕はね、見た目はアリスより若いけど実年齢はアリスより上って事。つまり、僕は年上。アリスの好みどおりでしょ?」
チェシャ猫の一言にぴったりと俺は動きを止める。
年上?
チェシャ猫が?
こんな男が俺よりも年上だと?
「あり得ない」
絶対にあり得ない。と言うかあってほしくない。
「それに帽子屋さんに見つかって撃たれたとしても僕は死なないから、全然平気だよ」
まあ……そうだな。
こいつは平気だよな。このバカ猫はな。
だが、俺はどうなる?
「お前は不死身かもしれないが、俺は不死身じゃない」
「……」
「……」
チェシャ猫がそっと手を合わせて笑う。
「ご愁傷様」
おい!? 何だよ、その哀れんだような目は!?
結局あれか!? 俺に殺されろって言うのか!?
レノに殺されろと?
ふざけんな! まだ19だぞ!?
こんなところで人生を終わらせる気はない。
「もう、アリスったら抵抗しないでよ」
するに決まってるだろう!?
襲われてるんだぞ!?
「もう、いい加減アリスも腹をくくりなよ。童貞でもあるまいしさ」
そこは問題じゃないだろう!?
「お前と違って俺は好きでもない奴とそうゆう事しない主義なんだ」
「そんな言い方酷いよ……僕だってアリスの事が好きなのに……」
わざとらしくチェシャ猫が泣いて見せる。
「こんなにアリスの事思ってるのに……僕が信じられないの?」
信じられる訳ないだろう。
潤んだ瞳がこちらをじっと見つめる。
こうして見ればチェシャ猫だって案外可愛いものだ。
確かに一見見れば純粋な幼気のある青年に見える。
見えるが……俺は騙されないぞ。
「おい……下手な芝居は止めろ」
俺がそう言った途端チェシャ猫はペロリと舌を出して、笑う。
さっきの涙は何だったんだ?
思わずそう言いたくなるほどの変容ぶりだ。
何だか無性に腹が立つ。
「あ~あ、やっぱりばれちゃった?」
「殴り飛ばすぞ……」
「アリスったらすぐ怒るんだから。あ、それともこれは照れ隠し?」
だからどうしてそうなるんだ?
一回医者にその頭の中が正常かどうか見てもらえ。
「ねえ、どうしても嫌?」
当たり前だ。誰がお前みたいな訳のわからん奴を抱くか。
「じゃあ僕が抱く側でいいから……」
「絶対に嫌だ」
「もう、アリスの意地悪」
言葉とは裏腹に顔は実に嬉しそうに見えるが?
嫌な寒気を感じて、あえてそれ以上何も言わない事にする。
「もう、そんな冷たい態度ばっかとってたら、そのうち帽子屋さんにも嫌われちゃうよ?」
余計なお世話だ。
「お前には関係ないだろう?」
「あるある。だってもしもそんな事になったら帽子屋さんはアリスを殺しちゃうでしょう? 僕はそれがとっても困るんだ」
困るだと?
チェシャ猫には悪いが俺が死んだからといって、気にするような性格にはとてもじゃないが思えない。
だいたい、誰のせいで俺が手を怪我したと思ってるんだ?
「アリスは特別だからね」
「信じられないな」
「そう?」
ああ、全く信じられない。
「お前の言葉には信憑性がないからな。それに話を聞いたかぎりではこの国にやって来るアリスは死んでも数年後には別のが現れるんだろう? なら、別に気にする必要なんかない。違うか?」
そう、気にする必要などない。
俺が死んでもまたアリスはやって来る。
チェシャ猫はニヤリと笑って頷く。
「そうだね。アリスは必ずやってくる。君はちょうど13人目のアリスだ」
13人目……
微妙な数字だな。
「その中で誰かの狂愛をまともに受け入れたのは君だけ。これって何だか運命を感じない?」
「はあ?」
意味わかんねえよ!
時々思うがこいつの頭の中はいったいどうなってんだ?
少しぶっ飛びすぎじゃないか?
だいたい俺は運命なんてものを信じてはいない。
そんなものあってたまるか!
「お前はつまり何が言いたいんだ?」
頼むからわかりやすく、俺にわかるように言ってくれ。
「僕とアリスは出会う運命だったってこと」
俺の期待はあっさりと裏切られ、またとんちんかんな答えが返ってくる。
そうか、運命か。なるほど。
で、だから何なんだ?
こいつ、本気で頭がどうにかなってるんじゃないか?
「結局お前は何で俺に抱かれたいんだ?」
「もう、さっきから言ってるでしょう? 僕はアリスの事がもっと知りたいんだよ。それに……」
それに?
チェシャ猫が目をきらきらさせ、嫌みなくらいの笑みを浮かべる。
「アリスと寝たら、帽子屋さんの面白い反応が見れると思って」
「……」
本当の目的はそっちか。
レノの面白い反応ね。ふざけんな。
「誰がそんなもの見せるか」
レノに構っていいのは俺だけだ。
いちいち可愛い反応をするレノを他の奴なんかに見せてたまるか。
一瞬の隙をつき、俺はチェシャ猫を突き飛ばす。
床に倒れたチェシャ猫を今度は逆に俺が抑えこむ。
チェシャ猫は目を見開き、驚いた表情をするが、すぐにいつもの笑みを浮かべる。
本当にムカつく奴だ。
押し倒されても余裕かよ。
「やっとその気になった?」
「バカ言うな。そんな気を少しでも起こせば、レノに殺される」
「意気地なし」
「どうとでも言え」
俺は別に平気だ。
「ただ、一言だけ言っておく。いいか? そのイカレた頭が忘れないようによく聞け」
チェシャ猫の目を見据える。
チェシャ猫の金色の瞳が静かに見つめ返してくる。
「レノは俺のだ。誰にも渡す気はない。あいつに必要以上に構うな」
悪いが俺は本気だ。俺はレノ以上に心が狭い奴なんだ。
はっきり言って、俺に隠してこんな変な知り合いがいたその時点で既にそうとうきている。
「あいつは俺のだ。あいつに構うな」
チェシャ猫は何も言わない。
しばらくそうやって睨み合う。
「ねえ、アリス」
「何だ?」
「僕も一言言っていい?」
「ああ?」
「帽子屋さん、起きたみたいだよ?」
「そうかレノが起きた……って、なあっ!?」
離れる暇なんかある訳なかった。
扉が開く。
当然ながらそこにはまだ眠そうに目をこする、完璧今起きたばかりの様子のレノが立っていた。
おまけにワイシャツのボタンも一個ズレているし、寝ぐせもついている。
こいつはまともに身仕度さえ出来ないのか?
そんなレノを可愛いと思うと同時に自分の命の危機を感じる。
「アリス……何で起こしに来なかったんだよ? いつもは……」
そこで言葉が止まる。
レノの目が俺とチェシャ猫の状況を見て大きく見開かれる。
やっちまったな。
この状況だと明らかに俺が押し倒したように見える。
血の気がひく。嫌な汗が流れる。寒気がしてきた。
「レノ……これはな……」
レノの瞳が怒りで燃える。
一言も何も言わずにレノは無表情で俺に近づく。
「レノ……誤解だ……これは……」
次の瞬間レノの拳が容赦なく、飛んできた。
凄まじい衝撃とともに意識がふっとぶ。
本気で走馬灯が見えた。