異世界に転生して騎士団長になったと思ったら、やってることは殆ど探偵っぽい!?
人が燃えている。
そこは何の変哲も無い広場だった。噴水から湧き出す水が月明かりに照らされて輝き、星々の輝きを陰っている。常日頃、人々はこの噴水に癒されていた。その日常を浸食するかのように、燃えさかる人が歩みを進めている。
広場を取り囲む多種多様の店舗の中で、唯一この時間でも営業を続けていたカフェ。店主を始め香り高きコーヒーを味わっていた客達は一様に店先に並び、その光景をただただ眺め立ち尽くす。
一歩一歩、炎は歩みを進めていく。轟々と、尋常ではない炎がうねりをあげ、ボトボトと悍ましい轍を作り上げていく。
「ワ――レロ、ワス――、ロォォォ」
店先に並ぶ人々は、一様にその言葉を聞いた気がした。激しく爆ぜる炎により、それは定かではないものの、人々は確かに、振り撒かれるようなその呪いを感じていた。
***
この世界には、魔法という物がある。人々には、魔力という力が満ちている。その魔力を神と呼ばれる不可視の存在へ同調させることで、魔法と呼ばれる奇跡はこの世に発現するのだ。
その魔法により文化を発展させてきたのがエレクメルという国であり、不可視の存在であるはずの神が現存し、統治する国として広く知れ渡っている。
その神が同調し、魔法を扱う者は、全てを与えられし者なのだと。その容貌と共に人々の畏敬を受けていた。
「もっと近うよれ。その頬を撫でさせるのじゃ」
その言葉を受け、椅子を軽く持ち上げて近くへと座り直す人物の顔は、美しさを残したままに酷く顰められている。
「美しい。やはり美しいのぅ。張りのある肌、丸く柔らかな輪郭、ぷくりと程良く厚みのある唇。小さな鼻に程良く釣り上げられた大きな目。いや、可愛らしいと言うべきか。ほほほ、よくぞ妾の望むとおりに育ってくれた。うむ? 言い方が違うな。妾のデザインセンスに天晴れじゃ」
その口ぶりは、けして隣に座る人物を誉めたわけではなかった。ただ、自身の力が及ぼした結果に満足しているだけに過ぎない。こうしてふくよかな香り漂う紅茶を共に飲み交わすのも、ただの自己満足でしかないのだ。
それを解っているからこそ、頬を撫で回される彼女、のようにさせられてしまった彼は、眉間にしわを寄せるしか抵抗の意思を示せずにいた。意味のないことと解りつつも。
彼の名はハルフォール。元々は現代日本で高校生をしていた少年だった。当たり前のように朝に家を出て、当たり前のように学校で授業を受ける。夜になればテレビゲームを嗜み、翌日の話題に備えて寝る。そんな生活に満足し、いずれ訪れる就職という苦難に頭を悩ませていた、ただの少年だった。
そんな日常に終わりを告げたのが、誰であろうこの神、エレクメルの国王であり現存する唯一の神である、エレクメルハルその人である。
神は突然、彼の家に訪れた。風呂上がりにアイスを食べながら、部屋へと戻ってきた彼の元へ。その時のことは彼もよく憶えている。突然現れるなり、私の世界を救ってよ、と。部屋にあったハエ叩きで顔面を叩かれたのを。
そうして気が付いたときにはこの世界に生まれ落ち、神の、国王の子として育ちこうして今を生きているのだ。
理不尽な死を与えられたことに対する憤りも勿論あった。喋れるまでに成長したときには怒りをぶちまけたときもあった。何故、自分だったのか。異世界転生のよくある展開、トラックにはねられた人でも良かったのではないか。失礼な発言であると承知しながらも、そう問い詰めたハルフォールにかけられたのは、優しさが込められた答えだった。
あの日は秋も進み、日に日に寒さがつのり始めた頃だった。今シーズン最後だと、呑気に風呂上がりのアイスに夢中であった彼は気が付かなかった。両親が自室で使っていた石油ストーブが不完全燃焼を起こし、一酸化炭素中毒を引き起こして倒れていたのを。
おまけに吸いかけの煙草がカーペットに落ち、今まさに燃え広がるかといった状況だった。
それを見ていたエレクメルハルは思う。彼は無事に生き延びることが出来るだろうか。生き延びたところで、その先の人生に安寧はあるのだろうか。自分にとっても、彼にとっても。この選択は都合の良いものなのではないかと。
もしかしたら、この時すでに母性に目覚めていたのかもしれない。あのアイスを選ぶなんて、趣味が合いそうだと勝手にシンパシーをもったのかもしれない。そこに予てからの懸念事項が混ざり合い、彼女にとっては奇異とも言える、突発的な考えが過ったのだろう。
それを聞き、敷地内に両親の墓まで建ててくれたとなれば、怒りの虫も腹から消えていくしかない。未練は勿論ある。けれど、『必要とされたら全力で応えるのが男だ』と、口癖のように言っていた父親の姿と笑う母親の姿だけは裏切れなかった。
願わくば、両親も何処かへ転生してくれていればいい。そうやって彼は全てを受け入れ、ハルフォールとして生きている。
「しかし、この憩いの一時は長く続かぬのが道理なのかもしれんのぅ」
その言葉と共に頭を撫で、長い髪を掬いキスをする。その行動で、厄介事が近付いているのだと、ハルフォールは理解した。そして静かに手首に付けていたヘアゴムを使って髪を纏めると、甘ったるい紅茶を飲み干して席を立った。
前世で母親が使っていた物を模して作った、お気に入りだ。
「次はコーヒーでお願いします。僕はその方が好きなので。あぁ、淹れ方はサイフォンが望ましい。手間暇をかけたあの味わいは、癒されるにはピッタリだ」
「それを妾に振る舞う気はないのかの?」
「面倒だから頼んでいるんでしょう?」
どうせ、お茶やお茶請けを用意するのは召使いなのだ。傍らに立っていた彼女――着物と割烹着に身を包み、髪の毛を纏めると三角巾に包んだ若い女性――に視線を向ければ、困ったように口元に指でバツ印を作っている。
どうやらお茶の心得はあるものの、コーヒーは分野ではないらしい。それなりに長い付き合い、というより幼馴染みの間柄ではあるものの、初めて知った事実であった。
「はぁ。仕事終わりにでも飲みに行くか」
溜息一つの僅かな時間で、身に付けていた浴衣は輝きを放つ銀色の鎧に変化していた。これが彼の制服であり、騎士団長という自身の立場を明確にさせるアイテムなのである。そしてその仕事こそが、彼の果たすべき使命であり、世界を救う行為になり得るのだ。
***
石造りの西洋風な城は、エレクメルハルの趣味だと言える。全くの異世界とは言え、この神は様々な世界の観察を趣味としており、中でも地球、特に日本の文化が大好きであった。
だからだろうか。エレクメルという国は西洋風、和風と様々な文化が混ざり合い、建物には近代的な部分を感じさせないが、生活水準は現代日本をベースとしているという、少し混沌さを醸し出すような装いをしている。
この世界に生まれ落ちて早二十数年、なんの不自由もなく、食べ物も、娯楽にも、目に見える物に違和感を感じないのはその為だろう。日本にあるテーマパークに居住してみる。気分はそんなところか。
それを象徴しているかのような物が、西洋風の城に隣接して建つ瓦屋根が立派な長屋の群れだろう。西洋文化体験ゾーンから日本文化体験ゾーンへ、それは神の居城とを分ける境目でもあるが、感覚として、その光景は様々な国を寄せ集めたテーマパークとしか思えなかった。
その中の一つにある騎士団の詰め所から、一枚の紙を持ったハルフォールと、それに付き添うように歩く一人の騎士が開け放たれた玄関を潜る。
「この手紙が届いたのは、今朝と言うことで間違いないのだな? ラルド」
「はっ、確かに今朝、駐在部より本部へ配達されています」
けして背の高くはないハルフォールより大分高い位置にある頭を見上げ、そして直ぐに手元の紙へと視線を落とす。封筒の中に入っていたという、たった一枚の便箋だ。
騎士団は日頃から、国民の声を聞き届ける受け皿にもなっている。此処本部を始め、街の各所に配置された支部、国内の他の街に配置された地方部署の門前に目安箱が設置されており、毎朝チェックを受けて重要なものと判断されれば、日本における国会にあたる国家運営機関(エレクメルハル命名)へと運ばれる流れだ。
もしも内容や見た目に怪しい部分があった場合、専門の機関――司法など法律関係を司る場所(エレクメルハルが名称を長年思案中)――で調査、精査し、そこで解決の見込みがないと判断された場合には、騎士団長の判断を仰ぐこととなっている。今回は、正にそのケースだったと言えよう。
「たった一行、“私は殺されている”か。よく悪戯と断じなかったな」
「送り主の名前が書いてありましたからね。ちゃんと調べもしますよ。食品加工会社の社員で、この街の外縁部にある住宅街に住んでいたそうです。支部の新人が駆けずり回って色々と調べたようですな」
「……いたそうです?」
「殺されたと言っていますからね。果たして、この手紙を投函したのも本人かどうか。なんて、ミステリーみたいでしょう?」
不謹慎とは思いつつ、二人はそんなジョークで笑い合った。だが、そんなジョークで済ませてしまえる物ならば、わざわざ騎士団長の手にこの手紙が渡ることはなかっただろう。そこには明確に、しかし不確かな謎が含まれていたのだ。
不便なことに、というかおおらかな国民性であることが関係しているのか、手紙を出した人物を特定するような仕組みは、この国にはない。他国であれば監視カメラなり魔力により個人を判別する魔法なりがあるのだが……。“神が見ている”と言うこの国特有の格言にもある安心感が、そうさせてしまっているのだろうか。
まだ国が今の形に整うまでは、エレクメルハルが人の悪事を見抜いていた。その行いはまるで全ての人の行動を見ているようだと、人々は畏敬の念をこめてそう言い伝えてきたのだ。だからこそエレクメルハルは、今回の件を感じて見せたのだが。
「ただ会社に問い合わせところ、行方不明なのは事実のようです。やけに口が重かったそうなのが気になりますがね。おまけにそのご家族、――両親は他界していて後見人が会社の重役なのですが、残った唯一の家族である奥様によると、そのような人物に心当たりがないのだそうで」
ラルドは両手を上げ、お手上げと言ったように首を振った。
「役場に問い合わせたところ、確かに結婚していたのは事実です。しかし奥様は旦那のことを一切知らない。結婚もしていない。この家には一人で住んでいる。――新人には荷が重かった、と今になっては思いますね」
今頃、昼食も喉を通らないほどに頭を悩ませているでしょうな。ラルドは笑うように、けれども不憫さを含ませながらそう言った。
確かに、食事も喉を通らないほどに頭を悩ませるのも当然だろう。存在しているはずの人物が、誰よりも知っているであろう身内にその存在を否定された上に、殺されたとの手紙まであるのだ。自分の対応にも問題があったのではないかと、疑心暗鬼にもなるだろう。
「なら、さっさと解決をしてコーヒーでも買っていってやるか」
手紙をラルドに渡し、辿り着いた駐車場で待ち構えていたもう一人の騎士の前に立つ。
「馬車の準備は出来ております。――おっと、ハルキングもお待ちかねのようで」
今回御者を任せる騎士を押し退けるかのように、一頭の馬がハルフォールへ擦り寄ってきた。頬を、首筋を撫でろと言ったように、それらの部位を頭へと擦り付けようとしてくるその馬に対し、落ち着かせるように角を掴んで望み通りに撫でてやる。
その行動の通り、分かり易く普通の馬ではなかった。サラブレッドの様でいて、頭には立派な一本角を供えている。俗に言う魔物と呼ばれる彼らなのだが、ファンタジーにありがちな設定通りに、この世界でも人々を襲う脅威となっていることも多い。しかしこうして名を与え、懐かれる程度には友好的な種類も多く居るのは、研究が進んだ今で多くの者が知ることだ。
(本当に怖いのは、やはり人間の方なのかもしれないな)
素直に感情を吐き出してくれる魔物と触れ合いながら、ハルフォールは手紙の送り主がそれに込めた感情を、静かに考察し始めていた。
***
女は困惑していた。何故騎士様がこの家にやってきたのだろうかと。何故、聞き覚えのない人の名を問い掛けてきたのかと。女は困惑し、蛇口からコップ一杯の水を注ぎ、一気に飲み干した。
謂れのない戸惑いに、ただただ喉が渇いて仕方がなかった。
それを何度繰り返しただろうか。昼になっても喉を通らぬ食事を惜しみながらも片付け、何度目かの水を喉に流し込む。しかし一度湧いた疑念はいつまでも晴れず、ただ頭の中に浮かぶのは何故という二文字。
女はただ、困惑するしかできないでいた。何故、かは自分でも解っていなかった。けれど、おかしな部分は嫌でも目に入ってくる。たった一人で暮らしていた家。なのに、何故私はこの家に住んでいたのだろうかと。
別に何か仕事をしていたわけではない。学校を卒業して、暫く集合住宅で暮らして、そしてこの家に引っ越してきた。その間、仕事らしい仕事はしたことがないと記憶している。
ならばどうして、私は生活ができていたのだろうかと頭を悩ませる。親とは疎遠になっていることは解っている。何かがあって断絶し、それ以来会っていないことも。
でも、なんで断絶などしてしまったのだろうか。なんで私は、そのような親不孝な真似をしなければならなかったのか。その部分が、思い出せないのではなく、まったく解らなくなっていた。
シンクの中にコップを置き、トボトボと歩いてダイニングの椅子に座る。テーブルの上には写真立てと小物入れが置かれており、それぞれ身に覚えのないものが収まっている。
この写真の中で笑う、私と肩を抱き合うようにして写る男性は誰なのだろうか。写真の二人が付けているお揃いの指輪は、小物入れに並んで収まっている。片方に、赤黒い何かが付いていた。
騎士様に相談した方が良かったのだろうか。今からでも遅くはないのではないか。そう思っては躊躇する。それを何回繰り返したのだろう。写真を、指輪を見るとどうしても胸に何かが重くのしかかる。けれどどうしてか、捨てることはできないのだ。
――そうだ、花壇の世話をしなくては。咄嗟にそう思えたのは、けして現実逃避のつもりではなかっただろう。
この地区では軒先に花壇を設置し、季節毎に違った花を植えるのを決まり事としている。道行く人が明るい気持ちになれるように。咲き誇る花を想像して、この地での生活が明るくなるように。そんな願いを込めての決まり事だった。
植えるべき花は、騎士様が来る前に地区会長が届けてくれた。そう言えば、地区会長も聞き覚えのない人のことを訊いてきたような……。
彼女は言いようのない不安に駆られ、それを和らげるために、軒先へと向かった。早く地に根を張りたいと待つ花の元へ、自身の心も晴れると願って。
***
馬車は長屋を離れ専用の道路へと入って少し、目的地が東京と大阪までとほぼ同様という距離を、もう半分を超すほどの所まで着ていた。魔物の足はとても速く、御者が駆使する魔法により馬車を保護することで、最速を維持したまま走ることが出来るのだ。所要時間は一時間をきるほど。もっと走りたいと猛る馬を宥めるのも、御者の立派な仕事と言えるだろう。
一般道を使えば幾つもの山や川を越えなくてはならない道程には、様々な名物が存在する。守り神と崇められるドラゴンが住まう山に、絶品の魚が捕れる川。魔力が結晶化して出来た林など、車窓からも楽しめるものは数多い。
しかし哀しいかな、この専用道路から見える景色など全て流されて消えていくだけ。ハルフォールは溜息を吐きつつも、何枚もの資料、報告書と見つめ合う他なかった。
これだけの資料を作りながらも昼食も喉に通らないであろう騎士を不憫に思い、何か甘い物も買っていこうかとの労いの心だけは頭に残しておく。
読み込む度に、疑問しか表れないものをよく纏めてくれたものだと思う。聴取の詳細やその裏取りなどの報告、関連するあれこれを纏めた資料をざっと読んでみれば、確かに事態はあべこべになっていると思わざるを得ない。
手紙の主、ロットは、確かにクシリという女性と二年前に結婚をしている。結婚式には彼の勤める食品加工会社の関係者が多く集まった様だが、クシリ側の関係者は誰一人参加していなかったそうだ。
その理由は、彼女の両親と食品加工会社の関係にあるという。両親は農業を営んでおり、魔法を利用して管理されるその野菜は人気を博し、大手の販売所などでも売られる程だった。
そこに目を付けたのが件の食品加工会社であり、その味を求めて取引を開始したまでは良かったのだが、次第に関係は悪化。その要因は、取り留めのないことであり、ちょっとした人間関係の行き違いというよくあるものだった。――とは、食品加工会社の関係者から聞いた話だが。
クシリの両親は無口なうえ人付き合いも苦手なようで、証言を引き出せるような関係者は少なく、どうにも全体像が見通しにくいとハルフォールは感じていた。
しかし不仲になるだけなら良かったのだけど、問題は食品加工会社の影響力が地元の販売所等で大きかったことだろう。
件の会社、規模は小さいものの漬物からソーセージまで幅広く取り扱っており、食料品店の惣菜から飲食店の材料まで、それらは幅広く様々な店舗で利用されていた。知らず知らずの内に口にしており、後から調べればやっぱり彼処かと。業界関係者のみならず、消費者からの信頼も高いとの評価は新聞にも取り上げられたほどだ。
工場併設の直売所やレストランも地域住民からの支持が厚く、地域広報誌では人気メニューのランキング企画が頻繁に載せられているとも、報告書には熱く書かれていた。余程ファンなのだろう、おすすめのメニューは山菜の天ぷらとのこと。まだ若い新人騎士が推すくらいなのだから、相当な美味なのだろう。
その分、成功をやっかむように悪い噂が流れることもあったが、長いものに巻かれるのは世の常なのかそれも露と消え。会社はその地位を不動のものとしていた。そんな相手と袂を分かったのだ。本人達の思いなどは無視するかのように、問題はどんどんと膨れ上がり、クシリの両親が作り出す野菜の買い手は、数少ない個人の付き合いを頼るほかないほどであった。
証言をしてくれる関係者が少ない理由は、きっとそれも要因として挙げられるだろう。
この点については、我々も悔いを感じるところだろうと、それなりの立場にいるハルフォールは眉間にしわを寄せて舌打ちをした。どう見てもこの会社は怪しい。そんな雰囲気が報告書から滲み出ているというのに、何故今まで何も出来なかったのかと。
……やはり、騎士団は警察とは違うのだ。どうしても仕事の多くは人を襲う魔物との戦いに費やさなくてはならない。それが少し、もどかしくも感じてしまう。
ともあれ、そんな立場に追いやられたのだ。娘がその食品加工会社に勤める男と結婚するなどと言いだしたら、猛反対も辞さないだろう。しかし当のクシリは、自分が間に入ることで、今の関係性は変わるのではないかと思っていた。そこには確かに、善意があったのだ。
その善意が裏目に出る結果にも繋がる今回の件、彼女らの結婚生活は、果たしてどのようなものだったのだろうか。
クシリの学生時代の友人の話では、二人は幼馴染みの間柄だったそうだ。年は離れていたものの仲が良く、学校帰りには待ち合わせをして遊んでいたと証言している。だから、両親への善意だけで結婚をしたわけではないのだろう。
しかし結果的に、両親とロットとを天秤にかけることとなってしまった。
今回の件、いや事件はクシリがロットを殺したことで始まっている。そうハルフォールは見ていた。それは文字通り、見ることが出来たために分かり得ることだった。
ハルフォールはエレクメルハルの子供である。故にある能力を受け継いでいた。それは世界に揺蕩う神々が見聞きしたものを共有出来る力だった。“神は見ている”とは、その能力が所以となったのだろう。けれどその能力には欠点があり、神はそれぞれ、一人にしか視線を向けていなかったのだ。
ハルフォールの捜査はそれらを繋ぎ合わせて一つの形とするものなのだが、今回は登場人物の少なさもあり、早々に全体像が見えていた。
怒った表情で家を出て行くロットを、クシリが鍬で殴り殺す。彼は最後に『何処かへ埋めてくれ』との言葉を残し、クシリがそれを受けて軒下の花壇へと埋めたのだ。手紙を出したのは、異常を感じた両親だった。
そんな分かり易い事件の構図を、まったく分からない物としている要因が二つ。クシリの状態と、両親が何故手紙を出したのかと言う点だ。
クシリの状態はラルドからの言葉からも、報告書からも窺えるが、それに輪をかけ両親が手紙を出すことになった切欠が解らない。娘の身を案じるような会話をしながら、両親は手紙を書いていた。縁を切った娘の身を案じたのだ、何らかの切欠があったのは間違いない。
そもそも両親は本当に農業にしか興味がなく、娘の世話をするのは食事の面倒くらいであった。ロットとクシリの関係が深いのも、そのあたりが要因であろう。
農地で仕事をして、家に帰って食事をして寝る。流石に、疾うに成人を迎えた娘をもつ人達の人生全てを見ることは難しい。けれど関係者の証言を裏付けるような光景はいくらでも見て取れた。
だとしたら、何故――。
「ラルド、クシリの家がある地区には噴水広場があったな?」
「ええ。しかしこんな街外れの、遠く離れた地区のことをよくご存じですね。広場のことは資料には書かれていないのでは」
「馴染みのカフェがあるんだ。遠征帰りによく寄るところでな、サイフォンで淹れてくれるのも、もう彼処くらいか」
街の外に出るような仕事には別の騎士が行動を共にすることもあり、ラルドはその事を知らなかったのだろう。だからコーヒーだったのですねと、出立前の言葉を理解できたようだった。
最近この国では空前のドリップブームが起きており、挽いた豆に湯を落とす瞬間が堪らないのだと。カフェや喫茶店を営むもの以外にも、趣味の領域にも裾野を広げ、サイフォンは残念なことに風前の灯火であった。余談である。
「それで、その広場がなんです?」
「少し前に、人が燃える事件があっただろう? 全て燃え尽きてしまった所為で捜査は難航しているらしいが、僕はそれ自体が禁呪なのではないかと思っている」
ラルドが息を呑むのを感じ、その視線に応えるように説明を続けた。
「禁呪と魔法の違いは知っているな? 魔法は世界を漂う不可視の存在、神と魔力を同調させて発動させる現象のことだ」
大雑把に言えば、炎を起こし水を生み出し、風を起こして大地を揺るわす。そのような自然現象を、いとも容易く人の手で起こせてしまうものだ。
しかし容易くはあるが簡単ではなく、そもそも神が同調してくれるかは神のみぞ知ると言ったことが多く、確実に狙った現象を発生させられるようになるためには、不可視の存在である神とコミュニケーションが取れることが絶対的な条件となる。
その言葉を介さないコミュニケーションの大変さを、ハルフォールはエレクメルハルとの会話の中から――通じているはずの言葉を持ってしても――感じ取っていた。大事なのは、自分を空っぽにして受け入れること。けれども自分の考えはしっかりと伝えること。簡単なようでやっぱり難しいと思えるのは、人間関係に通ずるものもあるからであろうか。
エレクメルハルに仕える、ハルフォールの幼馴染みでもある着物の似合うユリハも、彼の悩みの種であった。主の日本好きに影響を受けて和服が好きになってしまって、メイド服が好きな自分の思いは何処に向ければ良いのだろうか。誰にも言えない悩みである。
「対して禁呪とは、人が老いを経ずに死した際に放たれる膨大な魔力に接し、混乱した神に対し強引に命令し願いを叶えさせる行為である。でしょ? 学園で嫌というほど習いましたよ」
うんざり、と言ったように肩をすくめるラルドを見て、自身も学園で講義をしたことのある経験を思い起こして苦笑を零してしまう。
老いることで減っていく筈の魔力が、と付け加えれば満点だったな。そう指摘すればどんな顔をするだろうか。
エレクメルの首都、名をそのままにエレクメルには、巨大な一つの学園がある。現代日本で言う小学生から高校生まで、この世界での成人するまでを過ごすマンモス校だ。
日本に影響を受けた神が居る国なのだから、教育においても日本の様式を踏襲しているため、他の街では個々に別れているのが普通である。しかしこの街に関して言えば、マンモス校って憧れだよね、という一声によってそのような形に落ち着いたのだ。
半径が東京大阪間にも等しい大きさの街の学校なのだから、当然気合いの入った寮がある。その寮の居心地が良すぎた所為か、自然と全寮制となり、日本の教育から逸脱し始めているのもまた、国民性なのだろう。通学なんて面倒だよね、快適な寮があるならそれで良いじゃん、と。
クシリの両親にもみえるとおり、その国民性によるこの国特有の文化は、仕事に熱中するには打ってつけであった。
因みに大学といったものはなく、代わりに職業訓練学校(エレクメルハル命名)という、好きな分野を自由に選んで学べる施設がある。
誰でも無料で学べる上、衣食住が無償で提供されるため人気があるのだが、卒業までに上手く就職できなければ学校への就職が確定してしまうため、必死になって勉学実習に励んでいるのをハルフォールもよく目にしていた。
幼い子供達は直ぐに興味を失い、ある程度の年齢になると真剣聞いてくれる。それを過ぎれば此方が気まずくなるばかりだ。教師というものにはつくづく向いていないなと、彼にとってそう実感できる時間であった。
先に出た付け足しを実際にし、何人の生徒を萎縮させたものか。そっとラルドの表情を覗った。
「嫌だったのか?」
「当時は。でもこうして騎士団に身を置いて、あれの恐ろしさを実感しました。あれは、言われても解らない。何度も言われて鬱陶しくなるくらいが丁度良い」
彼もそれなりの時間を騎士団で過ごしてきた。それ故に、禁呪と触れ合う時間も長く、教えられる以上に身に付いた感覚であった。
禁呪の恐ろしいところは、その身に降り注ぐ呪いだけではない。神を混乱した状態に固定してしまうところにもある。神を介して現象を発生させられるように、神は一人でそれを行うことが出来るのだ。つまり、自然現象を司っているとも言える。
それが混乱したままになったらどうなってしまうのか、訳も分からず力を使うことも当然ある。突然の竜巻、大雨、地震。人の行為が直接自然環境に悪影響を起こし、人々の暮らしを脅かす事態となってしまうのだ。
だからこそ禁呪を防ぎ、起こってしまった時には能力により神と繋がることが出来るハルフォールが事の次第を説明し、その混乱を解かねばならない。それが、彼の使命なのだ。
具体的な方法としたら、混乱した神に何故禁呪が発動したのかを説明し、その理由を知って貰うとしかいえないだろう。しかし適当に説明してしまったら最後、神が人の感情を間違って学んでしまい、魔法を使う際の同調に不具合が及ぶ可能性がある。
混乱した神はハルフォールには黒い靄として映るため、禁呪が発生しているかどうかは直ぐに解る。そこで解決に導くためのものが、二人に備わった能力なのである。
今回の事件は、おそらくその禁呪が関係しているのだろう。件の人が燃えさかるという事件は、当初から異常な燃え上がり方により、禁呪により何者かが燃やされたのではないか、という線で捜査されていた。
しかし今回の事件と照らし合わせてみると、ハルフォールにはそれ自体が禁呪を発動させるための行為ではなかったのか、との考えが頭に浮かんだ。
自らの命を捧げ、他者に呪いをかける。古臭いと言ってしまえばそれまでだが、しかし確かに、強い何かが心に燃えさかっていたのだろう。なにせ、彼女が夫を殺した犯人ならば、その事を忘れてしまっていたとしたらどう思うだろうか。
勿論、彼女がロットを殺した際に溢れた魔力により禁呪を使った、との可能性もある。記憶をなくしてしまえば、自分が罪に問われる可能性がなくなるのではないか、と考えてもおかしくないからだ。
けれどその可能性は、禁呪の前にしては簡単に消えてしまうものであろう。
見ず知らずの人を殺した嫌疑をかけられ、両親からは理由も解らず縁を切られている。なにか思いがあって犯したことも、いずれ救われるかもしれない判決も、全て無かったことにされ苦しみだけが残るのだ。
それは、正しく呪いでしかないものだった。忘れさせて得る幸せなど、どこにもないものだった。そう、禁呪は文字通り禁じられたもの。それが及ぼすのは不幸でしかない。その不幸を、果たして人は自ら得ようとするのだろうか。
そう考えれば、自然と第三者の影を追わなくてはならない。
果たして、そうまでして彼女を恨んでいた人物はいたのだろうか。同じ地区の住民からは、悪い噂を聞かなかったとされているのに。
彼女は地区の家々の軒先を花で彩るという活動にも、――花の管理は全てその家の人が行うという、人によっては面倒に思える趣旨にも嫌な顔一つせずに参加してくれていると。地区会長は笑みを浮かべて話していたという。
夫であるロットとの関係も良好であり、会社が催したイベントにも参加し、仲の良さを周りに見せることもあった。勿論、他の社員、上司に嫌がらせを受けていたという事実は一切ない。
騎士団員は例外なく、嘘偽りない証言を引き出せる魔法を扱えるよう、訓練を受けている。よって、この報告書に書かれていることに嘘偽りは存在し得ない。
――魔法は人にも作用する。その事実を知ったとき、ハルフォールは人も自然の一部とされているのかと、エレクメルハルに問い掛けたことがある。
魔法は現象を起こす。とは言ってもその影響は自然現象に寄るところが大きいのだ。発電する。レンガを作る。それらも自然現象を組み合わせれば出来るのだろう。物理現象、と言ってもいいのかもしれない。神のルールを理解できるとも限らないが。
その括りに何故、人が含まれているのか。その答えを、エレクメルハルは朗らかにこう答えた。「生きているってそういうことじゃろ」と。だからこそ、神は人の不自然な死というものにも戸惑ってしまうのだと。
その考え方を、僕は理解できているのだろうか。ハルフォールは再び資料に目を通しながら、それがなによりも大事なことだと再び心に刻むように頭を振った。
「しかし、自分を燃やしてまでも晴らしたい恨みがあったんですかね。クシリの家と食品加工会社、二つが仲直りをして困る人だった、とか?」
「それではそいつがクシリとロットを殺した方が早い。仮にそうだとしたら、クシリだけが生きている意味がない」
そう、クシリを呪い苦しませるのが目的だと考えるのなら、ロットを第三者が殺す理由が薄いのだ。
なぜならその段階で、クシリはただの禁呪による被害者にしかならないのだから。そして夫を亡くしたという哀しみを忘れさせる、等という優しさで使用出来るほど、やはり禁呪は甘くはない。
どうやったって禁呪は文字通り、呪いなのだ。誰かを呪う必要がないのなら、それが起きる理由もないほどに。
だとすれば誰かが、確実にクシリを恨んだ誰かがいたはずなのだ。そしてその恨みが膨れ上がり、禁呪という方法へと至ったのは――。
「やはり、全てはクシリがロットを殺したことが発端となる。そう考えた方が自然ではないかと思うんだ。というか、そう見えるんだから仕方がないだろう」
「はぁ、分かっているからこそ難しいものもあるもんですな。てことは、ですよ? クシリがロットを殺すことで損をする奴が、禁呪を使ったと言うことになるんですかね。クシリがロットを殺したことを隠すのが目的、とか」
そんなラルドの推理に、ハルフォールは少し笑いたくなってしまった。それは禁呪を理解しきっていないことに対するものではなく、その様な考え方が出来ることに対してだ。
少し気負っていたのかもしれないと、ハルフォールは再び頭を振った。違いましたかね、と問い掛けるラルドに、そうだなと軽く返事をする。しかし、お陰で見えてきた部分もある。
クシリがロットを殺すことで、損をする人は確かに居るのだろう。筆頭なのが両親か。会社との縁を取り持って貰えたのなら、今の苦境から逃れることが出来るのだから。
しかし当然ながら、聴取、そして捜査をした騎士も両親の関与を睨んだ。広場の件は抜きにしても、やはり状況的に禁呪の使用を疑ったからだ。騎士の推察も報告書の中に記されていた。両親がロットを殺し、彼の死をもって禁呪を使い、クシリに彼のことを忘れさせたと考えたことを。
けれど両親にそんな暇はなく、ロットが行方不明になった後も、今までと変わらず家と農地を往き来するだけの生活を続けていたのは報告書にもあるとおりだ。娘であるクシリとは連絡を取った形跡もない。結婚してから、ずっと。
――そこでハルフォールはハッとし、パラパラと再び報告書に目を通し始めた。クシリは、どのようにして仲を取り持とうとしていたのだろうか、と。
会社側との関係は、夫の存在もあって順調であった。けれども肝心の両親とは? 結婚以来連絡を取り合っていない両親と、どうやって会社との縁を結びつけようと言うのだろう。
サプライズ的な方法で家に押し掛けるか? その様な一方的な行為は、悪感情をもたれるだけであろう。だとすると、必ず。クシリと両親の間に入っていた人物がいたはずだと、ハルフォールは考える。その人物こそが、禁呪を発動させた人物なのではないかと。
クシリに近く、両親にも近い存在。それを考えたときに気になってしまうのは、両親の生活環境だろう。報告書によると、両親についての話を聞かせてくれたのは、収穫した作物を運搬する業者だった。
何か一つ、そこに足りないものを感じるのは当然のことだろう。
「なぁ、両親の営む農業というのは、会社かなにかではなかったのか?」
「は? ……いえ、報告書には農業を営むとしか」
「それではおかしいだろう。家と農地を往き来するだけで、農業は出来るのか? 種や苗は、自分達で育てることもあるだろうけど、肥料は、農機具のメンテナンスは。二人だけで全てを熟す余力はあるのか」
「あっ! そうか、農業で生計を立てているとなれば、それなりに必要な物が出て来るのは当然。しかし少なくとも、捜査に当たった騎士に寄れば、彼らにそれらを入手しうる機会はなかったことになる。あぁ、よく考えれば生活必需品をどうしていたんだって話ですよ」
「会社ではないにしても、それらを担っていた人物が居たとするなら――。ちっ、本部に異動させてしごいてやろうか? 直ぐに連絡を取れ。再調査だとな!」
などと強い言葉を使いつつも、コーヒーと共になにか甘いものでも差し入れしようと、内心ではそう考えるハルフォールであった。
まぁ、神から得た光景からして、報告書の不備に気が付けなかった自分の間抜けさを鑑みてのことでもある。クシリの両親は、広場などにもよく出掛けていたのだから。
倍速は頭痛の呼び水にもなってしまうものなのだが、仕事を頑張る新人の見本にならねばと、魔法を利用した通信装置を起動するラルドを横目に、気合いを入れるように軽く頬を叩いた。
***
二人の結婚生活は、幸せなものだった。
学園を卒業したばかりのクシリは、ロットが住む集合住宅の部屋に身を寄せ、彼の生活をサポートしていた。そのお陰もあってかロットは仕事に集中できたため、社内での評価も上がり、着実に出世コースを進みつつあった。
結婚し、一軒家へ引っ越したのは、ロットなりのお礼でもあった。彼女は花が好きだったから、会社からは少し距離かあるものの、地区全体で花を育てていた場所を選んだ。自分が家に居ない間も、好きな物に囲まれて過ごせるように。
クシリはその気持ちがとても嬉しかった。けれども同時に、胸を締め付けられるような思いに駆られていた。花を見ていると、土を触っていると。どうしても両親のことを思い出してしまうから。
季節が変わる度に植え替えられ、また違った姿を見せてくる花々に癒されながらも、その心は追い立てられるように逸っていくばかりであった。
両親は今も苦しんでいる。なのに自分は、こんなにも幸せで良いのだろうか、と。育ててもらった恩も、溢れんばかりの愛情も、受けた記憶はない。けれど、彼らの野菜に対する情熱は、魔法を使うまでに至った想いは、子供ながらに尊敬を持って眼差しを向けていた。そんな彼らの幸せが、自分以上のものであってほしいと願ってしまうのだ。
ロットもその感情に気が付いていたものの、何も言わずとも、何も触れずとも、ただ、優しかった。それが彼女のためなのだと思っていた。思うようにしていた。彼女の視線の先には、自分だけがいてほしい。しかしその想いを向けてしまえば、彼女は耐えられないだろうと感じていた。
切欠は、ほんの少しの心の機微だったのかもしれない。けれどもその機微が罅に変わり、次第に割広げていく存在は確かに、存在していたのだ。
***
クシリの両親と共に農業を営んでいた男、グロンは二人の結婚に希望を見出していた。
クシリの父は土いじりが好きで、祖父から受け継いだ農地での仕事は天職と言えるものだった。妻もその姿が好きで、寄り添うことに喜びを感じていたくらいだ。しかし作った後のことについては、どうにも無頓着であり、子供が生まれたばかりの二人はとても厳しい生活を送らざるをを得なかった。
そんな二人を救ったのが、グロンである。彼は学園での生活の中で商才を見出され、将来を嘱望されていた。大手企業からのスカウトも多々あり、例え学園を中退したとしても、将来に困ることはなかっただろう。
そんな彼はある日、食堂のあるメニューを食べて目を見開いた。普段は肉が多くあるガッツリとした丼物しか食べない彼が、何を思ったのか野菜をメインにしたカレーを食べてみたのだ。
その切欠は些細なもので、当時好きだった女の子が食べていたと言うだけであった。時が経てば忘れてしまいそうな理由だったにも関わらず、彼にとってそのカレーは、その野菜は一生の思い出になるのだった。
美味しかった。野菜などただの付け合わせ。肉を引き立たせるための脇役以下の存在、以前の彼はそう思っていた。
この野菜は、そんな悪感情を持っていた自分が恥ずかしくなるほどの、豊かな味わいをもって心を満たしてくれたのだ。
彼は直ぐに、その野菜のことを食堂の責任者に問い掛けた。偶々親交のあった小さな農家から仕入れた物であり、数が少ないから限定品のだと。勿体ないと言いたげに教えてくれたのも、心を動かず切欠だったのかもしれない。
グロンは学園を中退し、この野菜を人々に知らしめるのを自らの使命としたのだ。
結果を言えば、それは成功だった。彼の情熱に絆された二人からの信頼も厚く、二人が作業に集中出来るよう、苗や肥料の仕入れにはじまり、農機具のメンテナンス等まで、雑用の類いは全て引き受け、販路拡大にも努めた。
地元に強く根ざす食品加工会社と契約できたときは、将来は確約されたものだと感じ、学園時代から続く友人達と祝杯を上げるほどに喜びを爆発させたほどだ。
自分は成功させたのだと、この選択肢に間違いはなかったのだと、当時中退を引き留めようと、勿体ないと一様に言う彼らを見返してやったとアピールしたい気持ちも、そこにはあった。
けれどこの大きな成功が、彼を狂わせてしまったのかもしれない。いや、もしかしたらそれは決まっていた運命、だったのではないか。そう思ってしまうような展開が、彼に壁として立ち塞がったのだ。
グロンは野菜の価値を正確に理解していた。少量流通による希少性。それ故に味は抜群。それが旨味であると理解していた。
この生産者が作るものならば、間違いない。そう思わせることこそが更に価値を高めていくことに繋がるだろうと。
しかしその考えを、食品加工会社と上手く共有できていなかったのだ。求められたのは、味を維持したままでの大量生産。農地や従業員の確保は自分達で行うからと、ノウハウだけを教えてくれと要請されたのだ。断れば契約を打ち切るとまで言われてしまったのだ。
彼は憤慨した。それでは乗っ取りと変わらないではないかと。自分達で生産できるようになれば、いずれ自分たちは捨てられるだけだと。
クシリの両親はただ不安を感じ、グロンに頼るしかなかった。
社会経験のないグロンは、その様な行動に出る会社の思惑など経験したこともなかった。予想すらしていなかった。もしもあの時学園を中退していなければ、もしももっと社会経験を積んでから、取引を見極める目を養っていれば。
こんな結果にはならなかったのではないか。
地元に根ざした企業との仲違いは、厳しいものであった。そのレッテルは、グロンにとってプライドをズタズタに切り裂く凶器であった。
次第に酒に溺れ、けれども共に飲む者もこのレッテルの前には存在しない。もしも自分が、彼らの野菜を広めようとしなければ。もしもあの時、あの野菜と出会わなければ。
クシリとロットの結婚は、彼にとってすがるしかない希望であった。
***
あれはどのくらい前だっただろうか。地区会長から今季の花は生育が遅く、植え替え時期がずれるかもしれないと聞かされたのは。
それでは今植わっている、萎れ始めてしまった花はどうしようか。花が届く頃まで保つわけがないのは、一目見れば解る状態であった。
作物に害をもたらす虫を、寄せ付けないようにする花もあるから。そう花の栽培にも心得のあった父から、花のことはある程度の教えれていた。その楽しかった頃を思い出すと、萎れた花をそのままにしておくのは、どこか心に影を落とすばかりに思えてしまった。
だからクシリは、数日前に植わっている花を全て抜き去り、届いた花を直ぐに植えられるように耕しておいたのだ。
「なんなの、これ」
今朝届いた花を植えるため、もう一度耕しておこうと、気晴らしも兼ねて花壇を埋め尽くす土に鍬を入れていたときだった。土の中で、何かが砕ける音がした。
「あ、……あぁ、なんなのこれは!?」
前に耕し時に、何かを落としていたのだろうか。土を退かして露わになったものを見て、クシリはその場にしゃがみ込み、後退りするように花壇を降りると、口元を押さえわなわなと震えることしか出来ない。
砕かれ、いびつな形となった人の足が、土から顔を出していた。
「あなたが埋めた死体、ですよ」
尻餅をついた彼女にかかる影が、その無情なる答えを注いだ。硬い表情を浮かべて彼女を見下ろす人物、ハルフォールは、一瞬同情するような顔を彼女に向けたあと、花壇に視線を移すと少し驚いたような表情を見せた。
「どういうことですか、……解らない、私は何も解らない!」
「解らなくてもいいんです。今は、解らなくてもいい。だから、少しの間、僕の話を聞いて下さい」
ハルフォールは目線を合わせるようにしゃがみ込み、彼女を覆う黒い靄のようなものを払うように、肩に手を置き視線を向けさせる。
「先ず、グロンという男を知っていますね?」
「グロン、兄さん?」
やはり、彼女とグロンは親しい間柄であったか。その一言で、ハルフォールは今回の事件のあらましを心の中で確定させた。
「畑仕事で忙しい両親に代わって、君の面倒を見ていたのは、グロンですね?」
「そう、兄さんはいつも私に優しかった。学校に入る前はよく遊んでくれていたし、学校の行事には親の代わりに参加してくれた。色んな話をしたの。テストで悪い点数を取ったときのことも、駆けっこで転んでしまったときのことも。兄さんは優しく励ましてくれた。……あれ、なにか、足りない気が?」
思い出すように、あの頃を懐かしむように。彼女はぽつりぽつりと楽しかった思い出を語り、違和感にぶつかる。けれど彼女は知らない。仲が良かった幼馴染みは、もう一人いたのだ。その人はもう、頭の中のどこにも居ない。
「――最近だって、悩む私に優しく声をかけてくれたのよ。これは両親のためだって、優しく励ましてくれて。……あれ、私は、何を悩んでいたの?」
「禁呪、と言うものは、当然ご存じですね?」
「え?」
「グロンはその身を捧げ、あなたに禁呪を使ったんです。ロットのことを、あなたの愛した人のことを忘れさせるために」
「噓よ、そんなの噓よ! 兄さんが、あんなに優しかった兄さんが私にそんなことするはずない!」
「その優しさが、仇となったのです」
「あなたに何が解るのよ!」
「解るんです。解って、しまうんです」
見えるのは一人だけの光景だと言うこともあり、個人を狙って見るには顔と名前を知っていなければならない。クシリの幼少期に映る、もう一人の影に気付き、その違和感を感じ取っていれば。
新人騎士とハルフォール自身のミスがあり、今回は足踏みをしてしまった形だが、登場人物が出揃ってしまえば直ぐに見通せる全体像であった。
「あなたがロットを殺害するに至った経緯は、彼があなたとグロンとの関係を疑ったからです。そこにどんな思惑があったにせよ、貴女達は親しく見えすぎてしまった。彼はあなたがもともと、自分ではなくグロンに想いを寄せていたのではないかと疑い、あなたと両親の仲を引き裂いてしまった罪悪感がそこに重なり、あろうことかあなたにキツくあたってしまった。その事がきっけとなって、あなたが保っていた緊張の糸が、ぷつりと切れてしまったのでしょう」
本当に、突発的な殺人だった。グロンの元へ行くと言うロットを追い外へ出たクシリは、花壇を耕すために置いていた鍬を使って後頭部を殴打した。
――あるいは、我を忘れ激情に駆られて動くロットと、追い詰められ藁にすがるしかなかったグロンの邂逅が脳裏を過ったか。大好きな二人の争いは、想像するのも忍びなかっただろう。
彼女はもう、耐えかね、投げ出してしまいたかったのかもしれない。それが咄嗟の行動へと表れてしまったのだ。
傷口を押さえ、苦悶の表情で彼女を見つめる彼の顔を、夜も更け人通りのない寝静まった住宅街において、憶えているのはもう、神だけなのだろう。
「その時の光景を、いつも通り、その優しさから、それでいて両親のことを忘れさすまいという感情を持って、野菜を届けに来ていたグロンは目撃してしまった。彼の目には、それはどう映ったでしょう。彼にとって、あなたは妹のようで、娘に等しい大切な存在だった筈です。それだけ長い時を共に過ごしたのですから。けれども同時に、いえ、それ以上に大切に思う人達がいた。あなたはその人達を護るための、アイテムにもなってしまっていたのです」
彼の感情には、ハルフォールにもまだ充分に理解し得ないものがあった。それほどまでに複雑なものなのだ。けれど一つだけ、解っていることがある。彼の頭の中に、彼女の気持ちを推し量る余裕などなかったことだ。
才気からくるプライド。若さからくる過ち。自身に夢を与えてくれた人達を巻き添えにした不幸。彼らの代わりに面倒を見ることで宿った情。その結婚により生まれるチャンス。
若くして夢のためだけに走ってきた彼の心では、いくら年月が経ってもそれらを昇華することは出来なかったのだろう。
だから彼は、彼女に両親が育てた野菜を届けていた。彼女が食べる物に困らないようにという優しさと共に、両親との関係を忘れさせず、会社との関係修復に邁進することを呪うかのように。
農業にのめり込む彼らの足りないところを埋めなければならないと、必死になっていたのが窺える。そこまで身を粉にして働いてきた心に、救いを齎すのは結果しかなかったのだ。
その結果、彼女がロットを殺害するという光景を目の当たりにして、そのバランスが大きく崩れてしまったのだろう。
このままではまた、あの人達が苦境に立たされてしまう。野菜を育てるという行為に、ただ幸せを感じていた人達が、第三者によって、また侵されてしまう。
そんなことは、あってはあらない。彼らが苦しむ必要もない。苦しまなければならないのは、我々だけなのだ、と。そんな考えに、彼は陥ってしまったのだ。全ての元凶は居なくなり、苦しませる存在は未来永劫苦しめば良いと。
彼はもう、考えることが出来なかったのだろう。前向きに考えることが出来れば、彼の商才をまだまだ活かせれば、誰かが彼の心に触れることが出来たのなら、こんな結末にはならなかったはずだ。
(だからこそ、神は人間を理解できない)
ハルフォールの話を、クシリはどこか他人事のように静かに聞いていた。聞いてはいるものの、ポカンと口の開けた表情を見るに、何も理解はしていないのだろう。
かといって、理解できるとも思えない。彼女の不幸の元凶であるロットは、愛していたはずのロットは、彼女の中にはもういないのだから。
死体と共に埋められなかった指輪も、捨てられなかった写真も、確かに彼女がロットを愛していた証なのに、彼はもう、彼女の中の何処にもいない。
「禁呪は、関わる人全てを不幸にしてしまう。けれど禁呪に行き着いてしまった以上、この結末を防ぐ手段はきっと、我々にしかなかった。……あの会社には、調査に入ります。あのような脅しをかけた以上、騎士団の介入を嫌がる素振りを見せた以上。叩けばいくらでも埃が出るでしょう」
それで誰かが救われるとは思えない。クシリは犯した憶えない罪に苛まれ、その両親は大切なものを次々に失うことになってしまった。
けれどそこには、誰かを思う優しさも隠されていた。それはロットの死体を見れば解る。彼の足は、所々腐敗しているように思う。けれどもこの場に、嫌な臭いは一切漂っていない。死体が埋まっているなどとは、さほどにも思わないほどに。
そこに禁呪の反応は見れない。ならば何故臭わないのか。ハルフォールの頭の中に、ロットの最後の姿が映し出される。彼はただ一言、『何処かに埋めてくれ』と、そう言った。その視線の先に居たのは誰であろう、グロンであったのだ。
彼の優しさは強い思いとなって、死の間際の強い魔力の放出と共に、禁呪ではなく魔法へと昇華された。死の間際に未知なる力に目覚める、それを漫画か何かのご都合主義だとは思いたくはない。
何故なら、もしもグロンが彼の視線を受け止め、思いを受け取れていたのなら。クシリが咄嗟に花壇に埋めてしまうよりも早く駆けつけ、もっと別の場所に埋めてさえいれば。彼は誰にも気付かれることなく、静かに朽ちていっただろう。
罪の重さに苛まれることもあるだろうが、黙っていれば行方不明の捜査で騎士団が介入しところで、矛先は怪しい食品加工会社の方へと向かっていくだろう。そうなればクシリも、グロンも、クシリの両親も。とりあえずの平穏を迎えることが出来たはずだった。
……騎士を率いるもの考えとしては、それは否定されなければならないものだろう。だからこそ、ハルフォールはその最後の優しさに報いたくなったのだ。
嫉妬に駆られ、クシリに罵声を浴びせたのは褒められた行為ではない。けれど最後の瞬間に禁呪に頼らなかった想いは、尊重したいと思えてしまった。
「みんな、優しかったんだ。ただ、その優しさを向ける方向を揃えられたなら、共に痛みを分かち合うことができたなら、少しは違う結果に行き着いたんじゃないかな。――これが、禁呪の原因だ」
その言葉を放った直後。クシリに纏わり付くように存在していた黒い靄が、溶けるようにして風景の中に消えていった。
肩から手を離し立ち上がって後ろを振り返るハルフォールを見て、それで全てが終わったと判断したラルドは彼女に駆け寄り、その肩を抱いて立つように促している。
「一応、逮捕といった形を取らせてもらいますよ。ただ、肝心な部分の記憶がない以上、それを証明出来てしまう以上、罪に問われるかどうかは分かりません」
そう声をかけるラルドに対しても、クシリは震えるばかりでなにも応えようとしない。応えたところで、彼女はやはり、何も知らないのだ。これからどうすれば良いかも、何も。
禁呪を払えばなにもかもが元通り、とはならないのが、それに纏わる事件の虚しさを助長させているのだろう。
禁呪というものは、紙に鉛筆でもって強力な筆圧により書いた文字の様なものだ。黒く残った文字、いわば靄の部分は消すことが出来る。けれど強力に残ってしまった筆跡だけは、刻まれた者が生を終えるまで、どうしたって消えることはない。
こんな彼女を見て、この国の法律はどう微笑むのだろうか。確かに法律はある。エレクメルハルが齎した日本のものを、この世界の人達が自分達に合うように改良を重ねてきたものが。
なのにも関わらず、結局最後の最後にはエレクメルハルに頼ってしまうのだ。こう思うのだけど如何ですか、と。どれだけ議論を重ねようと、その行為を誉めてもらいたい子供のように。そして彼女は、事実をもってして答えてしまう。
では今回の場合はどうなるのか。殺したのは事実だ。しかし肝心の記憶がないのもまた事実。本人からしたら、人を殺した事実などないのだ。ならば、――エレクメルハルは、全てを受け入れる。(趣味を曲げる器量はないが……)どちらも事実であるのなら、どちらかを選ぶことはしないだろう。
結局のところ、彼女は解らないとしか答えない。そしてかつてなら疑わしきは罰せず、その考え方をもって無罪となるのが慣例だ。けれど今、エレクメルハルは新たな選択肢を得た。バトンはハルフォールへと回ってくるのだ。今回とは別の件だが、日本生まれなんだからわかるでしょ? と、試すように問い掛けてくることがあった。そして法律に携わる人達も期待する。ハルフォールは最初、荷の重さに頭を悩ませて三日三晩寝られずに考えていたことを憶えている。
元一般的な高校生に何を言っているんだと、そう言いたい気持ちは当然あった。けれど、よく考えてみれば話はとてもシンプルなものだった。エレクメルハルが答えられない。ならば罰せられない。それで良かったのだ。
それなのに自身に回答を求められるのなら、解らないことはいつか解るようになればいい、と答えれば良い。ここは日本ではなく、エレクメルなのだ。今はまだ判断できない事柄も、繰り返せばきっと、新しい道が見えてくるはずだ。エレクメルハルは事実を受け入れるのなら、感情によって間違った判断が下されることはない。だから日々増えるであろうこの様な事例を、忘れないようにしなければならないのだ。
「もしも判断に困るようなら、城に連れてくるようにしてくれ。召使いは常に足りていないからな」
これは全てが解ったときから決めていたことであり、ロットの遺体に後押しを受けてそうするべきだと感じていたことだ。
それは広場で目撃したグロンの死に絶望し、初めて見る禁呪の恐ろしさを感じ。もう自分達のことは放っておいて欲しいという薄情な拒絶と共に、最初で最後の優しさを持った両親の心を感じ取れことが切欠であった。
そう、状況的にグロンが禁呪を使ったのは明らかであった。しかし何故広場で禁呪を使ったのか。それは広場に両親が仕事を頼んでいた旧知の運搬会社の事務所があり、近所である喫茶店が、夜遅くまで働く両親との打ち合わせの場になっていたからなのだ。
グロンはそこで、両親の見える前で禁呪を使うことで、全ての終わりを伝えようとした。彼らはそれを思惑通りに目撃し、後に人伝にロットの行方不明を知ることとなる。
だから手紙を書いたのだ。何も知らないで今を生きているかもしれない娘に、騎士団を通じて報せるために。
両親も詳しい事情は知らなかった筈だ。それにも拘わらず手紙を書いた理由を、もう彼らは話すことはないだろう。しかし、ハルフォールだけは知っている。縁を切ってしまった手前もう会うことは出来ないと、それでも身を案じながら手紙を書く二人の姿を。
誰かが死ななければ、人は新たな道を進めないのか。とは、神には思って欲しくはないから誰にも言えないことだけれど。
だからこそ、クシリには不自由なく過ごしてもらいたいと願ってしまうのだ。
二人にどんな考えがあったにせよ、自分が対象ではなかったにせよ。結果的には必要とされてこうしてやって来たのだから、ハルフォールはそれに、全力で応えるだけなのだ。
「は? 良いんですか?」
「建前が欲しいか? 記憶をなくしたという状態をエレクメルハルに理解して貰う。あの人が人のあれこれをもっと知れば、国の政策にも、法律にもいい影響が出るかもしれないからな。罪に問えなければ社会貢献をして貰うまでだ」
そんな気持ちを隠す建前をこうして用意できたのも、此処がエレクメルだからなのだ。
「へぇ。……本音は?」
「是非メイド服を着て貰いたい」
「ははっ! そこは逆にして貰えませんかね!」
ついうっかり、裏の本音が飛び出してしまった。欲望が混じっているのも、一応人間なのだからきっと仕方ないことだ。そこにちょっとした、意趣返しのようなものが含まれていたとしても。
暗い雰囲気を振り払うように戯ける二人の姿は、滑稽に映るだろうか。少なくとも同行する、調査を担当した新人騎士は二人の関係性に不思議な部分を感じていた。
――本部詰めの騎士は、こんなにも団長とフレンドリーなのかと。目立たない地区の支部にいる自分にとっては、畏れ多い存在なのに。
あぁ、憧れの本部詰め。それは事態の解決に乗り出すハルフォール様に同行することを許された者が集まる、いわば精鋭部隊。無論、禁呪事件の最前線である所為か、時には激しい戦闘が予想されるために、実力がなければ担うことの出来ないポジションでもある。
あぁ、憧れの本部詰め。いつか自分も、団長の隣に立ってみたい。
そんな一介の騎士にしか過ぎない者の視線に気が付いたのだろうか、ハルフォールはその騎士に向かい、こう声をかけた。
「おい! 彼女を移送したらカフェへ行くぞ! お薦めの場所があるんだ!」
「ちょっ!? そう言うのは移送した後で言うべきことでは!?」
思わず突っ込みをいる騎士に向かい、ハルフォールは笑みを浮かべる。気を遣うような言葉でも、言うべきタイミングに相応しい時と相応しくない時は当然ある。
そう言ったときに正し合える関係性を、お互いの主張を話し合える関係性を築けたなら、きっと禁呪に頼ることはなくなるだろう。それを感じて貰えるように、ハルフォールは彼女の前で精一杯戯けてみせる。
何も分からずに全てをなくしてしまったに等しい彼女の、いつかの救いになれればいいと願って。
***
噴水のある広場に面したカフェにて、新人騎士は一介の騎士にとっては信じられないものを目撃していた。
「あれはなかったと思いますよ? 容疑者の前でカフェへ行こうなんて。複雑な心境に陥っている彼女の気持ちも考えてあげてください」
「面目ない」
「そんなんだから、団長ちゃん、なんて子供扱いを受けるんですよ? フレンドリーで人気があるということに甘えてはいけないと思いますね。もう少し団長らしく、神の子らしく威厳を持って貰いませんと」
「いや、キリッとはしていると思うが?」
「目だけでしょうよ。それもほんのり」
上司と部下とは思えない会話。本部ではいつもこうなのかと、入店から席に座るまでの間、縮こまって固まるばかりであった。
「お前もそう思うよな?」
「え、は、えぇっ!?」
腰を下ろし、気分も落ち着くかと言ったときにかけられた本部詰めからの言葉。殺意ってこう芽生えるのかと、一つ学んだ彼であった。
そしてこうも言っておきたい。お前も大概であったぞ、と。
「まぁ、僕の素性も、役割も全国民が知るところだから畏まるのも仕方がない。まさかその為にテレビを電波ジャックして、全国民どころか全世界に伝えるとは思わなかったけど。あれと同類と思われるのは癪だから、もっとさ、フレンドリーにハルちゃんとでも」
騎士団長、と言う役職に収まってはいるものの、世間一般におけるハルフォールに対する認識は、現存する唯一の神――人々は明確に居ると解るエレクメルハルを、現存すると言い表す――の愛し子であり、神と人を繋ぐ巫女であるのだ。男であるのに。
では何故、男であるのに女性のような見た目にならなければならなかったのか。それについて、エレクメルハルは秘していることがある。
それは、禁呪は肉体を通して魂に刻まれることで作用するという、ということ。
それが不偏なるルールであるために、直接魂へ影響を及ぼさないよう、肉体と魂の性質をずらしているのだ。魂とは無関係、関連のない肉体を用意し、魂と肉体との間に出来るズレを防御壁とすることで禁呪の影響を受けないようにする。ある種の裏技であろう。
しかしこれは非常に不自然な命の在り方であるため、神がもっとも嫌う行為であった。何故ならこのルール、禁呪により利用することが可能であるのだから。他人の体を乗っ取る、新たな肉体を造り乗り移る。不自然な死を利用し、不自然な生を得る。神にとってそれは絶対に理解しがたい行為であり、それによって瞬く間にこの星の環境を変えうる災いなのだ。
人がその術を得ることのないように、エレクメルハルは自身の子ではあってもその事実を教えることはない。もしも人が自らそこへ辿り着いてしまったのなら、きっと、天の裁きが下るだろう。――その為の存在が、エレクメルハルなのである。
つまるところ、自らの趣味を押し付けたというカモフラージュのために必要なことだった、と言う訳だ。性別に関しては、せめてもの情けである。
しかしその結果表れた神秘性故か、エレクメルハル以上に、彼は対面したときに萎縮されることが多い。しかしそれでは役目は果たせないと、人の感情を向けてくれなければ神に伝えようがないと。そう思い、敢えて戯けることが多いのだ。
……本人はそう主張するが、幼馴染みに言わせれば、ただそれが素なだけである。
ただ、ハルフォールからしてみればどちらでもいい話なのだ。彼としては、人間らしい感情に触れ、それを神に教え、いつの日か神が人間を理解してくれることを。人の思いも寄らぬ死に混乱することもなく、失礼な言い方をすれば、当たり前なこととスルーして貰えるようになれば。
エレクメルハルが自分に願う、場当たり的な対処ではなく、根本的にこの世界を襲う危機を払い除けられるのではないかと。そう夢見てならないのだ。
「は、はぁ。では――」
キラキラとした、けしてキリッとはしていない可愛らしい目に圧され、騎士は名を呼ぶことから始めようとする。だがその時だった。
「ハルフォール様、お待たせ致しました。特製コーヒー砂糖マシマシのマシ、ミルクオーバーフローおまけのホイップクリームマウンテンになります」
三人の元に現れた店員が、殆ど白いだろと突っ込んでしまいたくなるような、ジョッキに入ったそれを持ってきたのだ。
「ハルちゃんそれはない絶対にない」
「なー! お前もそう思うだろう? これもうサイフォンとか関係ないよな!」
少なくとも二人が解り合えた瞬間に、喜んで良いものか趣味を理解して貰えずに悲しむべきか。
少なくとも同じ人間同士でも、解り合えないことは多いのだ。夢は遠いかもなぁと、ハルフォールはクリームを口に運び、甘い夢に酔いしれて頬を緩ませるのだった。
「マスターもよくこんなの作りますよね。折角のサイフォンですよ?」
「必要とされれば全力で応えるのが男だからね」
――ハルフォールの目が見開かれ、首の動きと共に纏めた髪が揺れ動く。視界の隅に消えていく店員の頭に、同じヘアゴムが見えた。