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アーツノベル大賞【登竜門】投稿作品

 キネティック計画進歩同盟の進捗状況監査委員会顧問フレイロー・ランデュクレース氏は、内部監査という他部門から疎まれがちな役割を担う立場でありながら、誰からも恨まれることのない好人物として知られていた。私生活は清廉潔白で、それこそ聖人君子の代表格といった風貌の彼が……その生涯を何者かに惨殺されて終えようと、誰が予想したか!

 帰宅途中のフレイロー・ランデュクレース氏は、人気のない住宅街を歩いているところを何者かに刺殺された。背中から急所を一突きである。殺人に慣れた者の犯行が疑われた。

 被害者が社会的に重要な地位にある人物であることから、捜査は内務省特別高等警察の主導で行われることになった。捜査の最高責任者は内務大臣だが、実質的な指揮は補佐官のカルスロッピ・ダッダガーンが執る。カミソリの異名を持つ警察官僚で、これ以上の適任者はいないと思われた。

 カルスロッピ・ダッダガーンは犯行現場に残された遺留品に着目した。歩道の上に仰向けになって倒れていた被害者フレイロー・ランデュクレース氏の胸に、プリントアウトされた原稿がクリップで止められて置いてあったのである。それは被害者の死後に、その胸の上に置かれたと推測された。いうなれば犯人が残したメッセージなのである。

 その原稿から指紋の検出が期待されたが、残念なことに何も残されていなかった。紙もインクも普通に売られているもので、犯人の特定には至らない。そうなると、原稿の内容が重要になる。そこに犯人の手がかりが残されていると捜査陣は考えた。それは捜査を指揮するカルスロッピ・ダッダガーンも同様で、彼は複写された原稿に目を通すことにした。


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 § サンガリア街で発見されたフレイロー・ランデュクレース氏の遺体に残された謎の原稿


 スーパーヒーローに憧れるエムヌ君は、ある晩、恐ろしい夢を見た。怖くて夜中に目が覚め、ブルブル震える。真っ暗な廊下が怖すぎて、トイレに行きたいのに行けなかった。そのせいで、お漏らしをしてしまったのである。

 翌朝、お姉ちゃんに笑われた。エムヌ君は怖い夢のせいでトイレに行けなかったと話した。

「おしっこを漏らしちゃわないように、準備しときなさいよ」

 お姉ちゃんはそう言った。「準備って何? どういう意味?」とエムヌ君は尋ねた。

「怖い夢を見ても大丈夫なように、味方になる玩具とかぬいぐるみを枕元に置いておきなさい」

 なるほど! とエムヌ君は思った。お姉ちゃんにお礼を言って、夜に怖い夢を見た場合に備える。

 そして、夜が来た。恐ろしい夢を見るかもしれないから寝るのは怖い! しかし眠くなる。寝る前にトイレへ行って、寝床に入る。エムヌ君は覚悟を決め、目を瞑った。肩で大きく息をする。

「おやすみなさい」が冒険の合図だ。

 枕元に置いたお友達の皆がいるせいか、安心してすぐに眠ることができた。それでも自分が夢の中にいることに気付くと不安になった。<怖い夢の入り口>と書かれた看板があり、その脇に入り口があった。入り口の横に受付がある。受付の中は見えないが、誰かがいるのは分かった。受付の中の人は言った。

「中に入りますか? 今なら無料だよ……でも、中は怖いよ? さあ、どうする? 戻ってもいいんだよ」

 回れ右をして帰れると知り、エムヌ君は拍子抜けした。てっきり、絶対に夢を見ないといけないものだとばかり思い込んでいたのだ。

「中に入って、もしも怖かったら逃げられるの?」とエムヌ君は聞いた。

「途中でも逃げられますよ。でも……それで、いいのですか?」

 受付の中の人は低い声で続けた。

「逃げ出したら、記念品のお土産が貰えませんよ?」

「記念品のお土産?」

「素敵なプレゼントがあるんです」

「何が貰えるの?」

「素敵なプレゼントです」

 素敵なプレゼントと聞いて逃げるわけにはいかない。エムヌ君は怖い夢の中へ入ることに決めた。

 そのとき空に白い雲が湧き、そこに角が頭に生えた人形の姿が映った。エムヌ君所有の玩具チームのリーダー、お爺ちゃんの宝物だったマグマ大使の人形だった。ボタンを押すと声が出るのだが、それとそっくりな声が聞こえた。

「お爺ちゃんがマグマ大使の姿を借りて助けに来たぞ」

 エムヌ君は首を傾げた。

「あれ、お爺ちゃん、死んじゃったんじゃないっけ?」

「特別に蘇ったんだよ。まあ、ちょっと話を聞きなさい」

 エムヌ君のお爺ちゃんを自称するマグマ大使の人形は話を続けた。

「夢のなかで特別なきっぷをもらって、その入り口を通り抜けたら、怖い夢の始まりだ。もしもピンチになったら、すぐに私たちを呼ぶんだぞ」

「へ……?」とエムヌ君は聞いた。

「私たちが救援に向かうから、安心するんだ」

 そう言われると気が大きくなるから不思議である。受付の前を勢いよく通り抜け、怖い夢の世界へ駈け込む。いきなり闇が広がった。真っ暗で何も見えないところに「ガオー!」「ぎゃあああ」「ぐあああ!」と獣の咆哮や人の悲鳴が聞こえてきたので、超絶ビビったエムヌ君は早速、玩具たちに救援を要請した。

「助けて~!」

 お爺ちゃんの形見のマグマ大使人形の声が聞こえた。

「助けを呼ぶのが早すぎないか?」

 エムヌ君は反論した。

「早くない! だって怖いもの!」

 マグマ大使人形は溜息を吐いた。

「お前はスーパーヒーローだ。特別サービスで、衣装を用意してあげたよ」

 エムヌ君は気が付いたら憧れの姿になっていた!?

 こうなると勇気百倍だ。変な大声を出して闇の中へ突っ込む。奇声を発しつつ両手を振り回していたら、闇がフッと消えた。

「何だ、なんてことないじゃないか!」

 エムヌ君は気が大きくなってガッツポーズした。すると空の向こうに黒雲が湧き、次第に大きくなって近づいてきた。雷がゴロゴロ鳴る。ピカッと稲妻が光る。雨が降り始める。

 雷が怖いエムヌ君は、またも助けを呼んだ。

「雷様だ! おへそがとられちゃう!」

 マグマ大使人形の声が聞こえた。

「いや、それはもしかして、トイレに行きたいんじゃないかな?」

 エムヌ君は危機を感じた。猛烈にヤバい感じがする!

「うわあ、どうしよう!」

「早く起きろ! 急げ!」

 マグマ大使人形に言われ、エムヌ君は目覚めた。トイレに直行する。間に合った。ホッとして寝床へ戻る。床に紙片が落ちていた。

「何だろ?」

 紙片を拾い上げ、電気スタンドの明かりで見てみる。こう書いてある。

<こわいゆめへのきっぷ(入る前にトイレへ行ってね)>

 エムヌ君は本当に怖い夢の中へ行って戻ってきたのだ。

 君も怖い夢の中へ行くかもしれないから、寝る前にはトイレを済ませておこうね。


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 原稿を読み終えた内務大臣補佐官のカルスロッピ・ダッダガーンは首を傾げた。話の意味が分からなかったためだ。他の捜査員も、この原稿を読んで困惑した。残虐な殺人犯が、わざわざ被害者の体の上に置いていったものにしては、ファンシー寄りな内容なのは間違いなかった。

 カルスロッピ・ダッダガーンは、この原稿を複数の心理分析官に調査させるよう命じた。これを書いたものが犯人だとすれば、その性格傾向がつかめるのではないかと考えたからである。

 この原稿以外の遺留品が残されていないか、犯行現場の捜索が行われた。また、犯行の目撃者捜しが事件発生直後から続けられたが、ここから重要な証言が得られた。フレイロー・ランデュクレース氏は事件に遭う直前、近くの商店街にあるペットショップに出入りしたところを目撃されたのだ。ペットショップの主人はフレイロー・ランデュクレース氏のことを覚えていなかった。だが、主人が提出した防犯カメラにはフレイロー・ランデュクレース氏の姿が映っていた。被害者は、ちょっと店に入って、店内を眺め、中にイタチの寝ているケースの前で足を止め、イタチを見つめて突然、顔をしかめた。臭いおならを浴びせられたようで、這う這うの体で店を出て行った姿が映像の最後にあった。

 捜査員たちは被害者が何も持っていないことを確認した。やはり、あの原稿は殺人犯が残していったものである可能性が高いと捜査陣の意見は一致した。

 捜査を指揮するカルスロッピ・ダッダガーンは、この原稿に書かれた内容と似ている作品がないか調べるよう指示した。捜査員がネットで検索すると、興味深い事実が判明した。ネットに投稿された小説の一つに、遺留品の原稿と部分的に似ているものが見つかったのである。

 それは登場人物の氏名の一致だった。遺留品の小説に登場する人物エムヌ氏と同じ名前の人間が出てくる話だったのである。

 それが偶然の一致である可能性は否定できない。しかしカルスロッピ・ダッダガーンは、そのネット小説を読んでみることにした。


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 § 捜査員がネットで発見した小説


 子供の頃から一度も夢を見たことがないと語るエムヌ氏について書く。

 幼い頃から一度たりとも夢を見たことがない、とエムヌ氏は言った。

 夢の話題になると、彼はかなりの確率で、そのことを口にする。

 本当かよ、と思う者は多い。夢を見ても、覚えていないだけなのではないか? と疑問を呈するのだ。

 エムヌ氏は反論する。記憶していないのではない、最初から見ていないのだ、と言うのだ。

 そこまで言い切られると、大抵の人間は引き下がる。あくまでも論破しようとする人間もいるにはいるのだが、人が寝ている間の、それも頭の中の出来事をとやかく言っても仕方がないので、論争が決着することはない……のだが、ある日は事情が違った。脳波の研究者がエムヌ氏の脳波を測定してみようと言い出したのだ。

 脳波を特定して、それで夢を見ているかどうか分かるのか?

 分かる、と研修者は言った。脳波や眼球運動を測定すれば、夢を見ていることが第三者でも分かるのだそうだ。その話を聞いて、エムヌ氏は喜んだ。

「その時に起こせば、夢の途中で目覚めるから、他の人のように自分も夢の記憶が残るに違いない」

 エムヌ氏は脳波を測定してもらった。だが、脳波も眼球運動も夢を示す特徴的なサインが現れない。脳波の研究者は言った。

「ふむう、これは本当にエムヌ氏は夢を見ていないのかもしれない。もっと詳しく調べてみよう」

 新型の検査機械で睡眠中のエムヌ氏を調べてみたが、やはり夢を見ている兆候が示されない。

「これは珍しい例だ。もっと調べよう」

 そんなわけで研究チームが発足し、調査が進められた。その結果、やはりエムヌ氏は寝ている間に一度も夢を見ていないことが判明した。

「貴重なケースなので国際学会で発表しよう」

 夢に関する国際学会の演壇でエムヌ氏が紹介された。研究チーム代表が説明する。

「この人物は寝ている間に夢を見ないことが明らかになりました」

 会場は割れんばかりの拍手に湧いた。まるで地鳴りのようだった。その大音量で私は目覚めた。長い夢だった……って、おい、夢落ちかよ。そんな風に思い苦笑した直後、異変に気付いた。大音量は家がガタガタ揺れている音だった。地鳴りも凄い。スマホを見たら緊急地震速報だ。慌てて窓の外を見る。隣の家がグラグラグラグラ上で左右に揺れ動いている。

 夢の途中なら、早く完全に覚めて欲しいと思った。


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 だからどうした! という内容の小説だった。しかし、この小説にも犯行現場の原稿に登場したエムヌ氏が出てきているのは事実だった。カルスロッピ・ダッダガーンは捜査令状を取得しプロバイダに命じて投稿者の個人情報を開示させた。捜査員たちが、その投稿者の住居に向かうと……そこでは、驚くべき事態が発生していた。

 投稿者が何者かによって殺害されていたのである。これも背後から急所を一突き。フレイロー・ランデュクレース氏の場合と同じだった。まだ投稿者の死体は暖かかった。犯人は、まだ近くにいることが予想された。ただちに非常線が張られる。犯人逮捕の絶好の機会だったが――殺害犯は脱出に成功した。

 犯行現場には、今回も原稿が残されていた。カルスロッピ・ダッダガーンは、その原稿にも目を通した。


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 § 第二の犯行現場に残されていた原稿に書かれていた小説


 サイレンを鳴らしたパトカーが午前二時の貧民街を走り過ぎていく。ロールスクリーンを透かして映る赤ランプが完全に消えるまでの間、私は神に祈りを捧げていた。警察車両が疾走する先には犯罪の犠牲者がいて、神の救いを待ち望んでいる……そう思うと、祈りの言葉が自然と口に出てくるのだ。穢れなき聖職者(クレリック)だったのは遠い昔のことなのに、体に染みついた習慣は消えていないらしい。私は苦い笑みを浮かべ窓から離れた。薄暗い廊下を進み、突き当りの鉄製扉を開ける。下水道の悪臭が鼻腔を貫く。聖なる香水を純白の法衣に振り撒き、穢れから身を守る。裸電球に照らされた短い階段を降り、二つ目の鉄扉を開く。水に濡れた床を大きな鼠が数匹かなり慌てて走る姿が目に映った。先程より明るい照明のおかげだが、鼠を目撃したのは別に喜ばしい話でもない。部屋の隅に身を屈めている数体の食屍鬼(グール)も思いは同じようだ。一様に元気がない。闇の中に棲む奴らには、ここは眩し過ぎるのだ。役目を終えても術者の私の命令が無ければグールらは光の中にとどまり続けるほかになかった。私は手でグールに退去を命じた。奴らは人間よりよっぽど素直に動く働き者だ。命じられるまま、この部屋へ入ってきた穴に戻り、下水道の方へ消えて行った。網の目のように街の地下を走る下水道や地下鉄から、さらに深部にある奴らの巣窟へ帰っていくのだ。死んでもこき使われる奴らに神の恩寵があらんことを。

 私は地下室の中央に置かれたテーブルに近付いた。テーブルの上にはグールに運ばせた大きな袋が置いてある。袋の口は厳重に縛られていた。きつく縛られたロープを解くのに苦戦した私は、呪文で袋を引き裂こうとして、止めた。呪文の詠唱は長い時間と集中力を必要とする。ロープを解くのに精神を集中したうえに貴重な時間を浪費するのは愚かなことだ。真夏の夜と人生は短い。朝が来る前に死体を処理しなければならないとしたら、一刻の猶予もないだろう。

 結局、私はナイフで布を切り裂いて袋を開けた。ナイフの刃を汚れた布で汚したくなかったのだが。袋を開くと裸の子供が出てきた。グールの臭い息を浴びて気を失っているようだ。その股間を見る。なるほど、神のお告げに間違いはなかった。股間には何も無い。男性器も女性器も無いのだ。性別が男女どちらにでも変化可能な生命体が街に現れたので、グールどもを使って捕らえろ! との神託に誤りはなかった。多くのクレリックは神の真実の声を大衆に伝える私を異端者と決めつけているが、あいつらは間違っている。神の声を無視しない人間を狂人と断じる社会に災いがもたらされんことを。

 性別不明の裸ん坊を前にして、私は神の声を待った。普段なら神の命令が聞こえるのだ。いつも神は私に命じる。麻薬密売人、連続殺人鬼、性犯罪常習者、汚職官僚に極悪政治家その他、地上の屑どもを密殺せよ! と。私はグールどもを呪文で操り、神が指名した罪人を捕らえて、この地下室で処刑している。死体は細切れにして、美味しい食事に変え、文字通り骨まで利用するのだ。貧民街にある宗教施設の一番の役割は、貧しい人たちの糧を与えることであり、肉の入った滋養のあるスープは皆に喜ばれている。咎人どもよ、もって瞑すべし……それはともかく、神の言葉である。いつもと違って命令が聞こえてこないのだ。処刑命令はまだか、と私は不遜にも苛立った。早く処理に掛からないと、朝食の時間に間に合わないというのに。子供の骨から濃厚なスープを作るのは手間が掛かるから、急がないと――と焦っていたら性別未確定の子供が目覚めた。テーブルの上で体を起こす。血に飢えた殺人者の私を、汚れなき瞳で真っすぐに見つめる。そして宣告した。

「君の神は僕に屈服した。今は魂の牢獄に囚われている。だから、いつまで待っても神の命令は来ない。そして朝食の心配はしなくていい」

 何を言っているんだ? という目で私は裸ん坊を見ていたに違いない。口をぽかんと開けている私に語りかける。

「そんなに驚かないでくれ。僕は、あの神――君や他のクレリックが信じている、あの神より遥かに強く、そして有能だ。貧民街の皆には毎日三度、大手給食会社から食事が提供される手筈になっている。そこの食事は少なくとも、君が作る食事より肉の量は多いよ」

 私は料理の腕を振るう機会が失われてしまったことを嘆いた、じゃなかった、神の不在を嘆いた。

「私の神が囚われ人になった? そんなことがありえるのか! いや、ありえない。神がいない世の中など、ありえるはずがない! 証拠を示せ、証拠を!」

 次の瞬間、私の耳に何者かの絶叫が轟いた。続いて、悲鳴、鳴き声、啜り泣く声が次々に聞こえてくる。私は周囲を見回した。地下室には裸ん坊と私だけだ。苦しみ、悲しみ、無念、憎悪……ありとあらゆる負の感情を含んだ声が、私の心を苛む。もう耐えられない。

 私は叫んだ。

「分かった、分かったから、もう止めてくれ!」

 声は唐突に聞こえなくなった。裸ん坊は気の毒そうな顔をした。

「君の神は、元々パワーが弱まっていたのだよ。神の声を届けようにも電波が弱くて、地上に届かない。グールを使役する君ぐらいの能力があれば別だけど、普通のクレリックでは受信困難だった。ましてや一般人に神の言葉は響かないよ。それは信仰心の減弱につながる。もっとも、世の中が乱れている原因は、それだけではないだろうけど」

 私の掌中にあるナイフを見て、裸ん坊は言った。

「神の命令に従い、世直しに励み、貧しい人たちにその日の糧を与え続けたのは、本当に立派だ。そんな君を配下にしたい。君なら、僕の有能な部下になってくれると信じている」

 私は耳を疑った。

「私に宗旨替えをしろと言っているのか?」

 宗旨替えを強要されるなんて、古代や中世ならいざ知らず、現在社会にはありえない話だ……まあ、グールを呪文で使役する魔術師の私が言うのも何だが。

 神を虜にしたと称する裸ん坊は真顔で言った。

「違う。僕を崇めろなんて言うつもりはない。虜囚となった君の神を牢獄から出して欲しければ協力しろ、と脅しているだけだ」

 神を囚人にした子供が全裸で大人を脅迫する時代とは、世も末だ。それもこれも神の御心が地表に届いていないからだ……と嘆いたとき、思い至ったことがある。

「主は、主は何と仰せになっているのか?」

 裸ん坊は頷いた。

「早くここから出して欲しい、と言っている」

 さっきの様子では、それ以外の要求はあり得ないだろう。それならば、答えは一つしかない。

「分かった。私の主を救うためなら、致し方あるまい」

 私は恭順の意を示すため、ナイフをテーブルの上に置いた。

「どうすればいいのだ、私は? 協力する、何でもやる、だから命じてくれ。神のために、私は全力で仕事をする」

 感に堪えないといった表情で裸ん坊が語る。

「さすがだ。君ならば、どんな困難も物ともしないだろう」

「お世辞は結構だ。私がやるべきことだけを言え」

 ニヤッと不敵に笑って裸ん坊は言った。

「美姦獣に貪られ恥辱に悶えても決して淫数分解されるな、絶対に」

 反射的に私は大きく頷いて、それから聞き返した。

「びかんじゅうにむさぼられちじょくにもだえてもけっしていんすうぶんかいされるなって、何なの?」


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 冒涜的な内容の物語だった。話は書きかけらしく、そこで終わっていた。その先がどうなるのは不明だが、それが事件と関係するのか分からない。

 カルスロッピ・ダッダガーンは、今までに得た原稿と同様に、この原稿も心理分析官たちに調べさせることにした。

 連続殺人が発生したことは捜査陣に衝撃を与えていた。最初の被害者フレイロー・ランデュクレース氏と二番目の被害者である小説投稿者の間には接点が何もなかった。あるとすれば、遺留品の小説だけである。しかし、これが事件に大きくかかわっているとは考えにくい。それほど深い内容ではないのである。これが殺人という重大事件解決の鍵になるとは思えない――と捜査陣は考えたが、捜査陣が投稿者の元へ到着する直前に犯行が行われたという事実を見過ごすことはできなかった。やはり、これらの作品に謎を解く手がかりが隠されているのである。

 それとは別に、捜査陣を悩ませる問題が生じた事実は否めない。捜査情報の漏洩が考えられたのだ。投稿者の元へ捜査陣が向かうという情報が犯人側に漏れたからこそ、犯人は先回りして殺害した可能性がある……この考えは、捜査関係者内部に疑心暗鬼と不和をもたらした。

 これらの事実を踏まえ、捜査指揮官のカルスロッピ・ダッダガーンは、警察の内部調査課に極秘捜査を依頼した。内部調査課が秘密裏に捜査員全員の素行をチェックする。その結果、明らかな情報漏洩は認められなかった。捜査関係者の中に裏切者はいない。その調査結果がカルスロッピ・ダッダガーンに報告され、その情報が捜査員全員にも噂として流れた頃、謎の怪文書が内部調査課に届けられた。

 怪文書を書いた人物は自らをビジュアルクリエイターと名乗り、警察内部の事情に詳しいことをほのめかしてから、このように綴った。

<殺人事件は二つで終わらない。連続殺人は、まだまだ続く……気を付けろ!>

 この投書は捜査陣に衝撃を与えた。二つの殺人事件に関係性があることを、カルスロッピ・ダッダガーンはマスコミに伏せていた。それなのに、二つの事件に何らかの関係性があることを知っている一般人がいるのだ。それは事件に深く関与した重要参考人であることに間違いなかった。

 その人物は、警察の内部調査課が捜査関係者の中にいる裏切者を極秘調査していることを知っていた。だからこそ、内部調査課宛てに怪文書を郵送したのだ。やはり捜査の情報が漏洩している疑いが高まった。

 カルスロッピ・ダッダガーンは上司である内務大臣に現状を報告した。そして秘密警察による捜査を並行して行うよう進言した。

 秘密警察は政治犯の捜査を専門に行う部門である。それを殺人事件の捜査に投入することは異例だった。内務大臣は補佐官であるカルスロッピ・ダッダガーンの進言に対し、検討すると答えるにとどめた。実際は、進言を取り入れる気がなかった。秘密警察と一般警察は不仲だった。秘密警察が殺人捜査に介入すると、一般警察は反発するのが目に見えている。

 そんなときに第三の殺人事件が起こった。これは当初、連続殺人とは無関係な物取りによる強盗殺人と思われたが、被害者の体の上に残された原稿から関連する可能性が浮かび上がったのである。

 事件の被害者は高齢の女性だった。趣味の短歌&俳句のサークルに行こうと出かけたところを何者かに襲われた。玄関の鍵を閉めようとしていたとき、背中から急所を一突きされ、絶命した。犯人は被害者の家の中へ入り、金品を物色して出て行った。帰り際に、死体の上に原稿を置いた。

 カルスロッピ・ダッダガーンは、その原稿に目を通した。


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 § 第三の犯行現場にて発見された短歌&俳句


情けない

雹に(いかづち)

犬ちびる

容赦ない

雹と(いなづま)

猫欠伸

流星雨

天体観測

風寒く

マフラー共用

鼓動高まる

流れ星

夜空に祈る

君とキス

願い虚しく

年流れ行く


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 原稿に書かれていたのは詩歌だった。今までとは毛色の異なる作品だったので、やはり二件の殺人事件とは無関係ではないかと考える捜査員もいたが、カルスロッピ・ダッダガーンは同一犯の犯行だと考えた。

 それにしても、この老婦人と今までの二件の被害者の間に接点があるのだろうか?

 捜査員たちは、それが分からず困り果てていた。その疑念に対し捜査指揮官のカルスロッピ・ダッダガーンはインターネットの創作系サークルが三人に共通している可能性を示唆した。

 遺留品の原稿に記されている作品がインターネットの創作系に載っていないか調べるよう、カルスロッピ・ダッダガーンは指示を出した。自らも検索して調べた。そして気になる作品を見つけた。犯行現場に残されていた作品との見えない線のようなものを、彼は感じ取ったのだった。

 それは、こんな作品だった。


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 § カルスロッピ・ダッダガーンが気になった小説


 深い眠りに就いていた貴方は強い衝撃を感じて目覚めた。頭だ、頭に衝撃を受けたのだ。寝台から落ちた弾みに頭を床にぶつけたようで、額の辺りがズキズキと痛む。

「うぅぅ、痛いな……ベッドから落ちるなんて何年ぶりかよ……え、何だ、一体?」

 貴方は床が揺れていることに気が付いた。頭を打ったせいで、平衡感覚がおかしくなってしまったのか? 床の上に横たわっていた貴方が、そう思った次の瞬間、下から突き上げるような揺れを感じた。

「うわっ、地震だ!」

 貴方は痛む頭を利き手で抑え立ち上がろうとしたが、揺れが強すぎて立とうにも立ち上がれない。

「チクショー、大地震かよ! 地震警報が鳴らないとか、ありえないっしょ!」

 最新のニュースあるいは正確で分かりやすい地震情報を求めて、情報強者の貴方は咄嗟にスマホを探した。しかし枕元に置いていたはずがない! 暗闇の中、両手を広げ寝台の上や床を掌で探し回るが、どこにもない。貴方は途方に暮れた。揺れはまったく収まらない。あまりにも長く揺れ続けているので、貴方は具合が悪くなってきた。吐き気がする。貴方は床に両手を突いた。

「うぇっぷ!」

 込み上げる吐き気を抑えられず、胃の内容物を戻しかけた、そのときである。両手の甲がキラッと光った。貴方は目を丸くして床に突いた手を見た。輝く手の甲に文字が浮かび上がり、点滅する。

<ステータス異常を自動修正しました>

 貴方は吐き気が奇麗に無くなっていることに気が付いた。さっきまであれほど気分が悪かったのが嘘のように爽快だ。安心した貴方は立ち上がりかけて、転倒する。揺れはまったく収まっていなかったのだ。

「何なんだよ、一体……手の甲が光ってステータス異常とかさ……ゲームの世界じゃあるまいし」

 暗闇の中を手探りで這い回りスマホを探す。そして貴方はここが、自分がいつも寝ている自室ではないことに気が付いた。

「え、この床、手触りが全然いつもと違う。テーブルも無いし。ベッドはあるけど、木製だ。俺のベッドは金属パイプだし」

 パイプベッドではなく壁に備え付けの木製ベッドに寝た覚えはなく貴方は困惑した。その間も部屋は揺れに揺れている。怖くなった貴方は大声で助けを呼んだ。

「誰かーっ!」

 手の甲が、また光った。文字が浮かび上がる。

<ヘルプサービスを起動させます>

 そして柔らかな女性の声が聞こえてきた。

「お困りごとがございましたら、何なりとお尋ねください」

 声は貴方の耳元から聞こえてきた。怪奇現象だと怯える貴方に女性の声が優しく語りかける。

「ビギナーのお方ですね? ご安心ください。ここはバーチャルリアリティーのゲームワールドの中です。初心者の方でも楽しく遊べるバラエティー豊かなシナリオを取り揃えておりますので、どうぞご自由にお楽しみください」

 そんなゲームを始めた覚えはないけれど基本ゲーム脳の貴方は女性の説明に納得した。質問してみる。

「えっと、どんなプレイができるの?」

 女性の説明によると、貴方はチート無双モードでプレイ中なので、どんなプレイもお望みのまま、とのこと。嬉しくなった貴方は、とりあえず視界を明るくして部屋の様子を眺めた。木の板の壁で四方を囲まれた小さな部屋に、粗末なベッドがある。ドアが一つあることも分かった。天井は低い。明かりはない。殺風景な部屋だと貴方は思った。宿屋からゲームスタートとしても、安い部屋から始めるってことか――と結論付ける。その間も床は揺れ続けている。

「何だよ、この宿屋は」

 貴方がそう思った次の瞬間、ドアが弾け飛び、大量の冷たい水が室内に入り込んできた。水が顔面を直撃する。塩辛い。塩水だった。

「ぶはっ! なんだこれ! か、海水? 海水かよっ」

 凍えるほどの冷たい塩水があっという間に肩口の高さまで上がってきた。チート無双モードなのだから、それで何とかしたいところだが、あまりの冷たさとショックで頭はパニックである。何もできずに貴方は悲鳴を上げた。その口の中にまで水が入り込む。ゲボッとむせたら、咳が続けざまに出て、呼吸ができなくなった。肺に水が入ったのだ。冷たい水から出ようと必死にもがくけれど、もがき続けるだけだ。そのままの格好で全身がけいれんし、腕力が尽き果てた。やがて目の前が真っ暗になる。このままではおぼれ死ぬ……と考える間もなく貴方は死んだ。


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 貴女は激しい揺れを感じて目覚めた。地震だと思い、枕元のスマホを探すが見つからない。それならばテレビだ。ベッドから降りてテーブルの上のリモコンを取ろうとして、手が空を切る。空振りした弾みに上半身がベッドから落ちた。続けて下半身もずり落ちる。貴女は呻いた。床に手を突き体を起こそうとしたとき、また揺れを感じた。部屋が横に揺れている。めまいか、と貴女は思った。まるで前転と後転を来る返しているみたいだった。こういう時こそ心を落ち着かせなければならない。各種ハーブを自ら精製して合成したスペシャルなアロマオイルの出番だ……と思い付いたとき、貴女は気付いた。不断使いのアロマの匂いがしない。いつもなら部屋中に漂っているのだが。アロマって、じゃない、あら待って――と混乱しているせいか無意味な駄洒落を一人かましつつ、鼻から深く息を吸う。爽やかなアロマの代わりに生臭い潮の香りがした。不審に思い、再び鼻をヒクヒク動かす。間違いない。やはり、かすかだが、確かに海の臭いが感じられるのだ。

 自分は今、船に乗っているのだろうか――と貴女は思う。自宅で寝ているつもりだったが、旅行中だったのかも、と考えたのだ。

 以前、南の島を旅していたときダイビングのために船に乗って沖に出たことがあった。ダイビングの後で疲れて寝てしまった際、寝ぼけて自宅にいると思い込み目覚めるや否や「地震だァっ!」と叫び揺れる船から海へ飛び込もうとして同行した友人たちに笑われた苦い過去が、貴女にはある。その記憶が蘇った貴女は恥ずかしさのあまり「うぁああぁあ」といつものようにのたうち回った。そして毎度そうなのだが、だんだん落ち着いて冷静になった。すると船を揺らす波の振動が全身で感じられた。

 旅行で船に乗った時も、こんな感じだったと貴女は思う。ただし揺れの激しさは比較にならない。テレビの映像投稿系番組で見かける、大時化の船内の様子の方が今の状態に近いと思うが……どうして自分が、嵐の海上でローリングやピッチングを繰り返す船で寝ていたのか、その理由は思い浮かばない。

 拉致されたのだろうか?

 北朝鮮の工作員によって日本人が拉致された事件が貴女の脳裏をよぎる。まさか自分が、その被害者になろうとは! さすがは、なろう系。いや、そんな意味不明な感心をしている場合ではなかった。本当に自分が拉致被害者になってしまったのか、まったく自信が持てない貴女は、これが夢か現実かを調べようと、まずは頬をつねることにした。

 そのとき脳内に何者かの声が響いた。

【本ゲーム内での自傷行為は禁じられています】

 幻聴か! と貴女は震え上がった。自分が狂気に陥ったと思ったからだ。

【大切なことなので繰り返します。本ゲーム内での自傷行為は禁じられています】

 繰り返し幻聴が聞こえるとは、もう狂気は確定的なものになってしまった……と悲観した貴女は、泣きながら寝台のシーツを剥ぎ取った。寝台から取ったシーツは清潔とは言い難く、それをグルグル捻じって首に巻き付けるのは覚悟が要ったけれど、もう自分は死ぬのだから、潔癖症だろうが何だろうがどうでもいい。ドアノブで捻じってロープにしたシーツを結び付け、そこで首吊りだ。暗闇の中を手探りでドア探しに這い回る。ドアが見つかった。シーツの先をドアノブに結び付けようとしたら、ドアが開いた。同時に大量の海水が一気に入ってきた。凄まじい量の冷水に押し流された貴女は背後の壁に激突して意識を失った。そのまま水の中に沈み、二度と目覚めず、一生を終える。


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 人工知能が演じたテストプレイヤー[貴方]と[貴女]による以上のテストプレイ記録を読んで、ゲーム開発総責任者のエフエヌ氏は極めて強い不安を抱いた。人工知能のテストプレイヤーが第一ステージを突破できないとは、想定していなかったためである。一番イージーな簡単モードですら、最初の部屋から脱出できず、死んでいる。これはもうクソゲー認定で決定! と言いきって構わないだろう。

 それで良いはずがない。エフエヌ氏は対策を講じないといけない立場にある。

 ゲームの設計を見直すべきか? だが、プログラムに大幅な変更をする時間は残されていない。

 テストプレイヤーの役を演じた人工知能に問題がある。そう結論付けた方が話は簡単だ。人間の開発チームで行ったテストプレイでは大きな問題は発生しなかったのだから、そう考えて支障はない。ただし、会社の経営再建を投資家集団に任されている人工知能は違う意見だ。人工知能によるテストプレイでゲームがクリアされなければ販売は許可しないというのである。

 おかしな話だと人間であるエフエヌ氏は感じるのだけれど、人工知能の判断が合理的で正しいというのが世の中の風潮だ。サラリーマンである彼は上の指示に従わねばならない――人間ではなく、人工知能の命令に、絶対服従なのだ。

 エフエヌ氏は神に祈った。人工知能の神よ、チート無双モード勇者様にゲームのテストプレイをやらせてください、と。


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 私は強い揺れを感じて目覚めた。すぐさまヘルプサービスを起動させる。

<ヘルプサービスを起動させました。どのような御用でございますか?>

 網膜に映る文字情報を素早く読み取り、脳波入力つまり自分の頭の中だけで、声には出さずに質問する。

【現在の状況を説明せよ】

 ヘルプサービスの説明によると、私の乗船している木造船は嵐の中で航行不能になっているそうだ。このままでは沈没してしまうので、私にどうにかしてもらいたいらしい。

 やれやれである。チート無双モード勇者である私は、色々な世界に召喚され、大活躍する宿命なのだ。私は溜息を吐いて寝床から起きた。船は前後左右に大きく揺れている。だが、私は動じない。二本の足ですっくと立ち、暗視機能を最大限に引き上げる。私の視力は強化された。完全な暗闇であっても、昼間と同じように見える。私は部屋のドアへ向かった。狭い部屋なので、すぐに辿り着く。ドアノブに手を触れた瞬間、私の掌に仕込まれた危機発見センサーが反応した。このドアを不用意に開けると、私は死ぬ。聴覚レベルを引き上げる。廊下を流れる水が船内の壁にぶつかる音が聞こえた。よく見ると、ドアの隙間から水が漏れ出している。ドアを開けたら水が入ってくるのは確かだが、ドアを閉めていても、いずれは水の圧力でドアが破れ大量の水が室内に流入するだろう。そうなった場合、チート無双モード勇者である私でも溺死する可能性は否定できない。

 どうやら、この部屋からドアを使わずに脱出する方法を見つけ出さなければならないようだ。

 私は幾つかの脱出方法を考え出した。

 一つ、天候制御。嵐のせいで船は遭難寸前なのだから、嵐を鎮めれば良いのだ。

 続いて、二つ目。瞬間移動つまりテレポーテーションによる脱出。これは、やり方が二つある。船ごと穏やかな海にテレポーテーションする方法と、私だけがテレポーテーションする方法だ。私だけテレポーテーションをするにしても、どこに逃れるのか、それを考えねばならない。

 第三の手段は、脱出の手段が、この室内に隠されているので、それを見つけ出すというものだ。ただし、これは仮定の話でしかない。この部屋のどこかに秘密の脱出口があるという保証は、どこにもないのだ。こうしている間にも、ドアをぶち破って大量の海水が入ってくるかもしれないのだ。

 とりあえず私は時間停止の魔法を掛けることにした。呪文の詠唱を終えると、時が止まった。これで、この世界の中で、私だけが自由自在に動けるようになる。私は室内を見渡した。天井、壁、床。隠し扉らしきものは見当たらない。触ってみたが、隠されたスイッチは発見できなかった。残されたのはベッドだけだ。私が寝ていたベッドを調べてみると、細工が見つかった。備え付けのベッドだが、壁側に丁番が付いてのだ。ベッドを壁側に寄せ上げて、畳むことができるようである。

 ここで私は考えた。天候制御か、テレポーテーション系の魔法を使うか、ベッドの下にあるであろう、秘密の脱出ルートを使って部屋の外へ出るか……どれが一番、チート無双モード勇者である私に相応しい振る舞いなのか? ここで大事なことは、私がチート無双モード勇者であると皆に示すこと、それを忘れてはならない。承認欲求の塊である私は、他者から称賛を浴びなければ気が済まない。天候制御にせよ、テレポーテーション系の魔法を使うにしろ、私が船を救ったということを他人が知らなければ無意味だ。自分を褒めてもらいたい、そんな子供じみた要求だけが、私を突き動かしている。天候制御とテレポーテーション系の魔法は、今ここでやってみせたとしても、私がやったという証拠を示さなければ、他人から感謝されない。まずは奇跡を見る観客が必要なのだ。ここから脱出し、嵐のために怯え竦む乗員乗客の目の前に現れて、それから嵐を鎮めるなりテレポーテーションするなり、チート無双モード勇者っぽいところを見せよう。そうだ、ここは、それしかない!

 今後の方向性を決めた私がベッドを畳んだ、そのときである。ベッドの下に隠れていた何者かが私に襲い掛かり、私は即死した。


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 コロナ禍の影響でオンラインでの開催を余儀なくされているチート無双モード勇者ランキング審査委員会だが、リモート環境であっても活発な討議がなされ極めて盛況、逆境を跳ね返そうという気合に満ち満ちて充実した審議が行われていた。そんな中で、情報部長の委員から、無個性の量産型チート無双モード勇者が一人、嵐の海で沈没寸前の船内で何者かに殺害されたことが報告された。

 委員の一人が誰にともなく尋ねた。

「誰だ、そいつは?」

 別の委員が答える。

「普通の勇者だ。チート無双モードの、ありふれた」

 他の誰かが言った。

「名前を覚えるまでもない人間だ。代わりは幾らでもいる」

 他の委員が言う。

「幾らでもいるが、誰でも良いわけではない。そうだろう?」

 技術本部の役員が頷いた。

「勇者は、どこにでもいます。ですがチート無双モード勇者に相応しい心技体を維持し続ける達人は、極めて稀です。いついかなるときも勇者であることは、本当に大変です。いや、これは委員会の皆さまにお話しすることではございませんですが」

 委員会の出席者は皆、苦笑した。勇者になることが難しいのではない、死ぬ瞬間まで勇者であり続けることが大切なのだと、そこにいる全員が理解している。それができなかった者は、勇者の称号を取り上げられ、ただの屑として死ぬ。屑として、単なる塵人間として、無残な最期を迎えるのだ。

 技術本部の役員は手元の書類を示して言った。

「勇者の欠員が一名出ましたので補充したいと思います。候補者を何名かピックアップ致しました。この書類をご覧ください。ここに書かれたメンバーから補充の勇者をえらびたいと思うのですが、いかがでしょうか?」

 異論はなかったので委員たちは沈黙をもって答えた。技術本部の役員は「どうもありがとうございます」と言ってから、書類に書かれた候補者たちについて説明した。

「それでは、この中から一名、新規のチート無双モード勇者を選出したいと思いますが、よろしいでしょうか?」

 そう言って技術本部の役員は勇者の選出審議を始めたが、議論は低調だった。どいつもこいつも大差がないのである。決め手がないので論点が定まらず、議決に向けて雰囲気が盛り上がらない。審議を尽くしてから選出の投票というのが会議録的にはベストなのだが、こうなっては仕方がない。技術本部の役員と委員たちは投票を始めようとした。そのとき、出席者の一人が言った。

「さっき話題になった、死んだ勇者の話なのですが、よろしいですか?」

 司会進行役と務める技術本部の役員が「どうぞ」と発言を許可した。

「えっと彼は、何をしていたときに亡くなったのでしたっけ?」

 出席者の一人が尋ね、情報部長の委員が答えた。

「開発中のゲーム世界に召喚されて、船室の中で何者かに襲われたようです」

「正確な状況は分かりますか」

「船室内に閉じ込められたため、脱出しようとベッドを動かしたら、その陰に潜んでいた殺人者に襲撃され、不意を打たれて抵抗する間もなく、あっという間に殺されたと監視していたスタッフから報告を受けました。それ以上のことは判明していません」

 質問者は言った。

「勇者の候補者たちに、その調査を任せてみては? 正直、誰が新たな勇者になっても変わらないように思うのです。それなら、投票して決める意味がないと、私は考えます。それより実地試験で実力を見る方が良いです。本番で力を見せてもらい、真の勇者を選定すべきです」

 その提案に対し難色を示す委員が現れた。

「それは委員会による投票の方式を否定することだ。それなら我々が集まる意味がなくなる。違うかね? 私は現行のモデル即ち、話し合い後の投票システムを覆すことに反対だ」

 新規勇者の候補者を選ぶ話し合いは不活発だったが、実際の実力を前任者が死んだ試練に立ち向かわせて測るという試験方法が正しいか否かの討議は時間オーバーになるほど白熱した。話し合いで結果が出なかったので、その方法を採用するかを、議決で定めることとなった。

 結果は、前任の勇者が惨死したトラップをクリアできるかという実地試験の採用決定である。ただし、未来永劫ではなく、今回に限るという条件付きだ。一時的に実地試験を試してみて、その結果が満足のいくものであれば、今後も継続するということである。

「それでは候補者の一人を、死んだ勇者の亡くなった場所へ送り込みます」

 スタッフから転移の準備が終了したとの報告を受けた技術本部の役員は居並ぶ委員たちに言った。


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 チート無双モード勇者様と呼ばれるにふさわしい俺は、どんなゲーム世界に入っているときにも、ヘルプとかチュートリアルの力は借りない。説明書なんて、絶対に読まない。それこそが真の勇者様だと、固く信じているからだ。

 揺れ動く暗闇の中で目覚めた俺は、全身の知覚をフル活動させた。ここは船の中。その船は嵐に巻き込まれ、浸水している。船内にまで入り込んだ冷たい水は、短時間で命を奪う。ドアを開けたら、大量の水で溺れ死ぬか、心臓麻痺で死ぬかの、どちらかだろう。極めて危険な状況の中に、俺はいた。

 その事実を知ったとき、俺は「くくく」と笑った。笑える、実に笑える! 俺にふさわしい! この危機的な状況こそ、俺が輝く最大最高の瞬間だ!

 俺は全身を発光させた。溢れ出るオーラパワーで室内を探る。探査の結果、ベッドが動くことが分かった。そして、ベッドの下に隠された穴の中に何者かが潜んでいることも判明した。

 これは罠なのだ。悪質なトラップを仕掛けた邪悪な者に呪いを掛けてから、俺は体を二つに分裂させた。半身になった体が欠けている部分を勝手に再生し、元通りの姿になる。俺は二人になった。一方の俺は発光を止め、光を吸収するダーク・ブラックホールのマジックを使って暗闇に紛れ込む。ネオン・オーラの明かりが暗黒を追い払うとしても、その光すらダーク・ブラックホールは吸い込んでしまうから、俺は誰に眼にも入らない。

 もう一人の俺はネオンの輝きのまま、ベッドを持ち上げて動かす。

 その体に何者かが襲い掛かった。

 一瞬の出来事で何が何だか分からないうちに、もう一人の俺は襲われて死に、襲われなかったはずの俺も瞬殺された。


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チート無双モード勇者ランキング審査委員会はチート無双モード勇者の候補者の一人が何かをするでもなく亡くなったことを一様に驚きをもって受け止めた。こんなにあっさり負けるとは想像してなかったのだ。彼らは手元の書類に目を落とした。今、死んだばかりの男について記された項目を読む。

 チート無双モード勇者の候補者、ネオン魔人のジョーこと、ジョー・ズブカッカリー・ジョーダン。漲るオーラパワーで全身をくまなく発光させ、超能力を発動させる。不可視系の魔法であるダーク・ブラックホールのマジックを習得しており、敵に気付かれずに接近、攻撃が可能。近年、分身の術をマスターした。

 どうして、こんな奴がチート無双モード勇者の候補者に選ばれたのだろう? そんな疑問を抱く委員が少なからずいた。候補者をリストアップしたのは技術本部の面々であり、その代表の役員が委員会に出席している。技術本部の役員は、特に感情を表に出さず、淡々と言った。

「それでは次の候補者を転移させます」


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 異能の戦士フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズは揺れるベッドで目を覚ますとライターで煙草に火を点けた。彼にとって、これぐらいの揺れは何の問題もなかった。生まれ育った惑星である異世界の木星、新・新しい・シン木製の木星は爆発する大気と固形化したとはいえ元はガスの塊である地面がブヨブヨ揺れに揺れ動く不安定な場所だった。そんな住みにくい大地で木製のアンドロイドとして半生を送ったのだ。どこに転移したとしても、目覚めの一服を満喫する権利はある。どんな地獄に落ちたとて、そこを楽しんではならぬ道理はないのだ。

 実際、フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズが転移した先は、どこもろくな場所ではなかった。硫酸の雨が降り注ぐ異星、寿命の尽きた太陽の周囲を回る氷の世界、過密人口のために共食いが一般の常識となった野生の大都会、近親相姦によって王家の血を存続させる古い帝国と、それを非常識ととらえ革命によって滅亡させようとする知性化された海生哺乳類が戦う海洋惑星、ウイルス型生命体に脳を乗っ取られた反科学団体が支配すると、この組織を陰で操るワクチン型ケイ素生物の両方と敵対する正義のゾンビ軍団その他と、異能の戦士は争ってきた。正直に言って、もううんざりだった。戦う日々とは永遠におさらばしたい。さりとて死にたくない。せめて、こうやって煙草を吸えば寿命が縮まるかと思うけれども、彼の木製の肺は健康に良くない物質を大部分カットするので、健康診断の結果は毎回良好である。

 煙草を吸い終えたフリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズは、ベッドの下に隠れた敵に話しかけた。

「吸殻を捨てたいんだが、どうすればいい? 船の中で火事を起こしたくない。海に捨てたいところだが、外は大時化ときている。ドアを開けたら海水が押し寄せてきそうだ。このベッドを動かして、お前さんの口に放り込めばいいかな? と思ったんだけど、どうすればいいんだい」

 答えはなかった。

「ベッドを退かさないと、話ができないってことか?」

 フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズはベッドから体を起こすと床に飛び降りた。寝ていたベッドを蹴り上げる。その下に潜んでいた敵が襲い掛かる。敵に向かって彼は銜えたままの煙草の吸殻を勢いよく吹き出す。弾みで後ろに倒れたが、それが功を奏した。敵の鉤爪による瞬間的な攻撃を避けられたのだ。口から発射された吸殻は高加速して襲撃者に命中した。大きな爆発が起こる。爆風で船室の壁が壊れた。大量の海水が流入する。

 木の体のおかげでフリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズは水に沈まないで済んだ。しかし船の壊れた舷側から海に落ちてしまった。外は嵐である。さすがの異能の戦士も、荒れ狂う海には勝てない。その体は波間に浮かんだり沈んだりを繰り返し、やがて船から離れていった。


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 情報部長の委員は監視員のスタッフに、異能の戦士フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズの消息を明らかにするよう命じた。スタッフたちは遭難現場を異空間スキャナーや異世界ドローンで徹底的に捜索した。しかし、木製のアンドロイドは発見できなかった。

「死亡したと判断します。それでよろしいですか?」

 チート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表が全員に問うた。全員が異議なしと答えた。

「それでは、この続きをどうします?」

 実地試験による選挙をどうするか、という質問だった。皆に質問したチート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表に対し、技術本部の役員は答えた。

「チート無双モード勇者の前任者というわけではありませんが、亡くなった異能の戦士フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズは、チート無双モード勇者だった前任者が斃せなかった怪物を斃したわけですから、実質的にはチート無双モード勇者と同等あるいは、それ以上の活躍をしたと思います。能力的にはチート無双モード勇者に認定しても構わなかったのですが、不幸な結果となりました。従って欠員は埋まっておりません。フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズをチート無双モード勇者の見なし認定資格者として扱い、彼を前任者とすることで実地試験を継続したら良いと思いますが」

 別の委員が言った。

「行けるところまで行けばいいんじゃないかな。このクエストは続くわけだろうから」

 技術本部の役員は皆に尋ねた。

「それで構いませんか?」

 皆が頷く。それを見て、チート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表は総意と見なした。

「試験を再開しましょう」

 委員たちは書類を見直した。次の挑戦者は何者なのか、気になったのである。


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 一万年以上前から続く由緒正しき宇宙飛行士の家系に生まれて後悔したことはない。宇宙開発の初期から多数の宇宙飛行士を輩出し名家と呼ばれるホーレンツォレルン・ホーエンツォルレン・ホーツェンレルッツレエンの嫡男として生を享けたジャフランケンシュタイナーミラは当然のように宇宙飛行士という職業に就き、そして今、遭難死する寸前だった。

 しかし、それでもジャフランケンシュタイナーミラの表情に悔やみの色はない。冒険的な宇宙飛行士の最期は、概ねこういうものだからだ。

 厳しい訓練に耐え抜いただけでなく、過酷な環境においても生き延びられるよう生体改造されたジャフランケンシュタイナーミラの強靭な肉体も、遂に動きを止めようとしている。水の入ったペットボトル一つさえない状態で、灼熱の惑星に不時着して、早三か月。カラカラのミイラと等しい姿になっても生きているのだから、それだけでも十分に大したものだが、死んでしまっては元も子もない……と考えるのは凡人。超人は死を恐れない。自分だけは特別だと思い込んでいるからだ(それは凡人にも当てはまる)。

 宇宙船の残骸に身を潜め、そこで強烈な日差しを避けていたジャフランケンシュタイナーミラは、小さな物音を聞いて「いよいよお迎えが来たか」と思った。聴覚に異常が出現したと考えたのだ。だが、確かに音が聞こえる。残骸の外を何者かがうろつく足音だった。壊れた宇宙船の周囲は草一本生えていない荒れ果てた大地だ。この惑星に生物はいない。そして救助船が来ることも期待できない。惑星に不時着する直前、救難信号を発信したが、それが届く範囲に宇宙船は航行していなかった。死は不可避なのだ。

 それでもやはり何かが歩いているので、ジャフランケンシュタイナーミラは這うようにして残骸の外に向かった。救助隊か、そうでなくて危険な存在か、どちらかは分からない。それでも、それでも……ここで死ぬことと、何者かに危害を加えられて死ぬことに、大きな違いはない。だから、前に進む。残された力の限り。そして声を出す。声帯は動かなかったけれど、できる限りの息を吐いて。

 ただ、その努力は実りそうもなかった。外へ向かう途中の廊下で、ジャフランケンシュタイナーミラは動けなくなってしまった。とうとう、その時が来た……と思ったとき、既に機能を停止した重力発生リノリウムの床に人影が見えた。

 頭上から声が聞こえた。

「やあ、僕はチート無双モード勇者ギルドのスカウトだ。君を僕たちのギルドに誘うために、ここへやって来たんだ」

 やけに明るい声だな、とジャフランケンシュタイナーミラは思った。少なくとも、緊迫感はない。瀕死の人間を前にしているという認識があるのかないのか、判断はできかねた。

「こんなときになんだけど、チート無双モード勇者ギルドに入ってよ。良いとこだよ。最初は下位のランキングから始まるけどね、ランキング審査委員会に評価されたら、上位にランクアップしてもらえるんだ」

 ジャフランケンシュタイナーミラにとって、その話には何の興味もない。だが、助けてもらえるのなら話は別だ。死ななくて済むなら、ギルドだろうが何だろうが、今すぐ入る。

 残された力を振り絞り、ジャフランケンシュタイナーミラはコクリと頷いた。頷きを同意とみなしたようで、チート無双モード勇者ギルドのスカウトは事務手続きを開始した。背中に背負った通信機から受話器を外し、どこかへ連絡したり、手元の電子機器に何かを入力して「サインと判子は今は無理そうですから、後でお願いします」と瀕死の宇宙飛行士に言い、それから受話器に向かって話した。

「えええっ、今からそんな試練があるのですか。それは無茶だと思いますよ。確かにね、おっしゃる通りだとは思いますけど。真の勇者なら、いかなる試練にも耐えられる。それはね、それはそうでしょうけども、ですよ。今すぐは違います。現在の健康状態を考えて下さいよ。えー、駄目ですか。やはり、実地試験を受験してもらう、と。そして真の実力を量る、と。どうでしょう……ま、本人次第でしょうかねえ」

 それからスカウトはジャフランケンシュタイナーミラに尋ねた。

「冷たい水がいっぱいあるところへ行かなきゃならないみたいなんだけど、どうします? 行くの、止める? 行かないと駄目らしいんだけど、でも、こういう状態じゃあないですか? 無理しない方が良いと思うんです、僕はね。病院とかに連れて行ってあげたいとこですよ、正直に言いますとね。だけど僕、決定権はないんで。申し訳ないですけど、試験会場へ行くか行かないか、今すぐに決めて下さい」

 意識が途切れかけているジャフランケンシュタイナーミラは、深く考えるだけのゆとりが頭の中にまったくなく、小さく体を動かして答えた。

 その意味はスカウトには分からない。だが、肯定にせよ否定にせよ、ここにいるよりは実地試験の試験会場へ行った方が、生き残る確率が多少は高いような気がしたので、受話器のダイヤルを回してチート無双モード勇者ギルドの転移転送課を呼び出し、異世界転移のゴーサインを出すよう要請した。

 要請を受けた転移転送課の課員は、用意されている書類に必要事項を書き込み、転移転送課課長と課長代理のサインと判子を貰ってからジャフランケンシュタイナーミラの体を実地試験の試験会場のあるゲーム空間へ転送した。

 転送中にジャフランケンシュタイナーミラは死んだ。その死体は、前任者である異能の戦士フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズによって破壊された船室へ出現したが、すぐにチート無双モード勇者ランキング審査委員会の医療チームによって死亡を確認され、死体回収班によって死体安置所へ収容された。


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 宇宙飛行士ジャフランケンシュタイナーミラ・ホーレンツォレルン・ホーエンツォルレン・ホーツェンレルッツレエン死亡の報告を聞いた委員の一人が言った。

「いくら勇者であっても、死の縁にいたところから別の死の縁へ転送されるのは辛いんじゃないだろうか」

 別の委員が同意した。

「万全な状態で試験をさせてあげないのはフェアじゃない。あんなやり方は好ましくない」

 それに反対する委員が発言した。

「体調管理も実力のうちだと聞く。そもそも、だ。ヒーローたるもの、ここが痛い、あそこが痒いとは言っていられないだろう」

「それはそうだ。一番の得意技が言い訳の勇者は不必要だよ」

「いや、それは違う。試験の条件が異なっているだけでも問題なのに、その前の段階で差があるのは不公平だ」

「運も実力のうち、とある。それに、スポーツによっては順番が大切な要因となりえる。競技の順序によって条件が変わり、結果に影響を与える、なんてよくあることだよ」

「いいや、それとこれとは話が別だ」

「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待ってよ」

「何だね」

「ええと、実地試験について何ですけど」

 その委員は疑問を口にした。

「この試験会場は、開発中のゲーム世界、でしたよね。それなら、あ、えっと、名前、何でしたっけ? さっきの人」

「宇宙飛行士のジャフランケンシュタイナーミラ・ホーレンツォレルン・ホーエンツォルレン・ホーツェンレルッツレエン?」

「いや、その前」

「ネオン魔人のジョーこと、ジョー・ズブカッカリー・ジョーダン」

「それじゃなくて、その次の候補者だった人」

「異能の戦士フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズ」

「そう、その人」

「いや、ネブラスカ州立大学の戦隊ヒーローの補欠、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世じゃなかったっけ?」

「それは後、これからの候補者」

「分かりにくいな」

「ですから、異能の戦士フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズが敵と一緒に船室を壊してしまったわけですよね。その後、船室を壊した状態からゲームを再開するのではなく、最初のスタート地点からやり直すのが筋じゃないかと思うんですよ」

 立派な髭を生やした委員が、自分の頬の髭を撫でながら言った。

「フリーマーケット・ジェイ・ロブソギンズをチート無双モード勇者の見なし認定資格者として扱い、彼を前任者とすることで実地試験を継続したら良いと思う、と誰か言って、そう決まった」

 チート無双モード勇者ランキング審査委員会の書記が議事録を確認した。

「技術本部の役員のご発言ですね」

 皆の視線が技術本部の役員に集まった。技術本部の役員は、チート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表を見た。チート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表は、書記に言った。

「最終的な許可を出したのは私だ。皆の同意を得た上でね」

「責任の所在を明らかにするなんてナンセンスもいいとこです。そんなことは、どうでもいいんです」

 先程「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待ってよ」と言った委員が、そう言ってから話し出した。

「寝床で目覚めるのと、冷たい水の中で目覚めるのでは、話が全然違うってことです。最低限、そこを何とかしましょうよ」

 委員たちは、その提案を了承した。技術本部の役員が、次の候補者の実地試験を開始すると告げた。


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 ネブラスカ州立大学の異世界校に通学する学生の有志によって結成された戦隊ヒーロー、異世界校戦隊ネブラスカレンジャーは解散の危機を迎えていた。リーダーのネブラヒモヴィッチが、テキサスで開催された戦隊ヒーローのフェスティバル会場で酔っ払い、オレゴン州立大学異世界校の戦隊ヒーローである異世界校戦隊オレゴンレンジャーのメンバーに喧嘩を吹っかけるというトラブルを起こし、会場の警備に当たっていた本物のテキサスレンジャー隊員に逮捕されてしまったのだ。幸いなことに相手の怪我は軽症で、一泊だけ入院して翌日の昼には退院することができたが、だからといって罪が消えるわけじゃない。今後、アマチュアの戦隊ヒーロー業界では今までと同じようにやっていくのは難しく、ネブラヒモヴィッチは引退を決意した。仲間を引っ張っていくタイプだったネブラヒモヴィッチが戦隊ヒーローから足を洗うとなると、自分たちだけで活動を維持していくのは難しいと思った他のメンバーも引退を口にし始めた。

 そうなってガッカリしたのがネブラスカ州立大学の戦隊ヒーローの補欠、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世だった。ネブラヒモヴィッチが戦隊ヒーローを辞めるとなれば、これは自分の出番だと思い込んでいたのである。

 彼は他のメンバーたちに引退を辞めるよう懇願した。だが、皆の気持ちは変わらない。

「どうしてだよ、やろうよ。続けようよ、戦隊ヒーローをさあ。ここで辞めるなんて、無しだって!」

「そうは言っても、なあ」

「ああ、ネブラヒモヴィッチが辞めるのなら、続けていく自信がないよ」

「皆で力を合わせれば何とかなるって。引退とか解散とか、自信が無いとか、無しで!」

「つーか、そろそろ潮時だと思うんだよね」

「し・お・ど・き?」

「うん。そろそろ就職活動、しないとね」

 戦隊ヒーローのメンバーの一人は、肩まで伸びた髪を指先でクルクル丸めた。

「この髪も、そろそろ切らないとな」

 他のメンバーが笑った。

「お、断髪式、やるか!」

「やだよ、彼女に切って貰うつもりだ」

「あ、例の美容師の卵って彼女?」

「そう」

「いいなあ、俺も美容師の彼女に切って貰いたいや」

「そう言うけどさ、この前は髪と一緒に耳の先も切られたぜ」

「それでも羨ましい」

「いや、俺ならプロに切って貰う」

「どのくらいの長さに切るの?」

「丸坊主」

「マジ?」

「俺はオヤジの会社を継ぐ予定なんだ。オヤジは頑固者で、男は坊主! って決めてんのよ。坊主頭なんてダサいけど。髪型で揉めるのもなあ、と思って」

「坊主にする前にモヒカンにしてみたら」

「そうだねえ、青春の終わりにモヒカン頭というのも、悪くないかな」

「社会人になったら、髪型の制限、あるよね」

「それが大人になるってことじゃね」

 大人の会話――なのかどうか、ちょっと筆者には分からない部分があるけれど――に付いて行けず、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は黙り込んだ。この雰囲気だと、異世界校戦隊ネブラスカレンジャーは終焉の時を迎えそうである。リーダーの不祥事とメンバーの就活が重なって、彼が青春の日々を捧げたアマチュア戦隊ヒーローは終わる。彼が舞台に立つ機会のないままに。

 フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は部室を出て廊下を歩いた。窓の外には自然がいっぱいだ。ネブラスカ州立大学異世界校のキャンパスは原始の森の一角に間借りして建っているようなものだった。魔法建築学の第一人者が設計した校舎は大自然に溶け合い、観光地にもなっている。遠くから来た観光客たちが闊歩する大学の敷地の中を彼はトボトボと歩いた。今日は客が多いな、と思う。

 付近を縄張りとする竜の巣が時計台の最上部にあって、これは州の自然遺産に指定されているから、竜のカップルが営巣するシーズンは特に観光客が多い。だが、今は時期外れだ。何かあったかな、と思ったら、あった。〈映画の撮影中です、お静かに!〉と太字で書かれた看板を持った友人が、道路の横の芝生の縁に置かれた〈映画の撮影中です、お静かに!〉と赤字で書かれた立て看板の横に突っ立っている。

 友人はフレッツ・ブレッキン・ターナー三世を見つけると看板の脇で手を振った。

 相手が笑顔だったので、こっちも笑顔を返さないといけない……と考え、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は笑顔で手を振った。向こうは疲れた声を出した。

「朝からさ、ずっとここで立っているのよ。代わってくれない?」

「てか、何やってんの?」

「バイト」

 キャンパスの一部を借り切って映画を撮影中で、あまり騒がしいと撮影に支障が出るから、こうやって立て看板を持って注意を喚起する仕事なのだと友人は説明した。

「そういうわけで、少し代わって」

「少しって、どれくらい?」

「一休みしたいのよ」

 一休みの時間が何分なのか、それが大事だった。その辺を問い質すと、曖昧な答えが返ってきた。怪しい、とフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は思った。

「悪いけど、用があるから」

「撮影を見学する気なら、止めとけ」

 その気はなかったけれど、理由を尋ねる。

「どうして? 見学すると何か酷い目に遭うの?」

「そうじゃないけど、向こうはかなり混雑しているのよ。警備員も大勢いる。見学者にはボディーチェックまでやってる」

「大がかりだな」

「有名な俳優が来ている。それで警備に神経を使っているらしい」

 名前を聞いたがフレッツ・ブレッキン・ターナー三世の知らない名だった。お前、誰? というレベルの俳優だが、それは彼が知らないだけらしい。

「へー、意外。知らないんだ」

「なんでよ、なんで意外に思うわけ? 有名人を知らないのって、恥なの?」

「突っ掛かんなよ。変身ヒーロー出身の俳優だから、お前は詳しいかなって思っただけさ」

 変身ヒーローと戦隊ヒーローは同じだと一般人には思われるかもしれないが、細部は違う。実際は似て非なるものだ――みたいな説明をしようとしたら、バイトの元締めらしき恰幅の良い男性が近付いてきて、片手を上に挙げ「五分休憩」と伝えたので、友人はすぐに姿を消した。

 後に残ったフレッツ・ブレッキン・ターナー三世が、戦隊ヒーローの悲哀を漂わせつつ、その場を立ち去ろうとしたときである。バイトの元締めっぽい、ふくよかな体格の男性が、友人が置いていった手持ち看板を拾い上げた。

「なあ、ちょっと、君。このプラカードなんだけど、少し持って構えてくれないかな」

 その場にいるのが自分一人だけだと気付いたフレッツ・ブレッキン・ターナー三世が振り返る。

「僕のことですかあ?」

「そう、君」

「急ぐんだけど」

「ちょっとだけさ。ほんの、少しだけ」

「急ぐんです」

「悪い話じゃない。君にとって、大きな意味のあることだ」

「僕は、い・そ・ぐ・ん・で」

「戦隊ヒーローの補欠は引退する頃合いだ。戦隊ヒーローのリーダーになるんだよ、今このとき」

 何を言っているのか、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は理解できなかった。だが、この太っちょは僕の事情に異常なほど詳しいということが分かり、とにかく驚く、とにかく!

 デブデブしい男はフレッツ・ブレッキン・ターナー三世の手にプラカードを預けた。

「それを胸の前で、こうやって見せて」

「それから頭の上に掲げて」

「最後は、顔の横で」

 男に言われるがままフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は手持ち看板を持ってポーズを決めた。何をやっているのか、さっぱり分からない。だが、やらねばならない気がした。どんなに変だと思っても!

 男は頷き、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世の手からプラカードを受け取った。

「実に良い。いや、最高だ」

「あの、何なんですか?」

「これは失礼」

 男は名刺を差し出した。映画プロデューサー兼チート無双モード勇者ギルドの臨時スカウトという肩書が目に入る。

 詐欺だと直感で分かったフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は貰った名刺を返そうとした。

「こういうの、詐欺だって、僕だって分かります」

「違う、私は詐欺師じゃないさ」

「宗教の勧誘もお断りです」

「宗教ではないけれど勧誘なのは間違いない。君はスターになれる。その素質は確かにある。手持ちの看板を持ったスタイルが、他の若者とはまったく違う。輝きがある」

 ないです、とフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は言った。スターになるにはハンサムとか美男子とかイケメンとか、そういうハッシュタグが付いていなければならないはずだが、自分にはない。モテた経験はない。そんなんでスターになれるはずがない! と正直に語る。

 映画プロデューサー兼チート無双モード勇者ギルドの臨時スカウトだと自称する男性は言った。

「見かけはね、後からどうにもなるものさ。まずはチート無双モード勇者になることだよ。スター性は、その後で自然についてくる」

「それじゃプラカードを持ってポーズを決めた意味が無いでしょう」

「手持無沙汰だと寂しいもんさ」

 もしも話に興味があるのなら、ここに電話をしてくれ。男はそう言ってメモを渡した。電話番号らしき数字が書いてある。フレッツ・ブレッキン・ターナー三世がメモ用紙から顔を上げたら、映画プロデューサー兼チート無双モード勇者ギルドの臨時スカウトの男性は姿を消していた。一瞬の出来事だった。

 下宿に帰ったフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は、メモ用紙を机の上に置き、テレビの電源を付けて、リモコンでチャンネルを次々と変え、面白そうな番組がなかったのでテレビを消して、少年週刊漫画雑誌を持ってベッドに横になり、パラパラ捲って溜息を吐いて、床に足を下ろしてベッドの縁に腰かけた。それから立ち上がり、反対側の壁際に置かれた机へ向かった。電話番号が掛かれたメモ用紙を手に取り、部屋の隅に置いてある固定電話を取り上げる。ジーコジーコとダイヤルを回す。相手が出た。

「あ、お母さん。体の具合はどう? そう、良かった。うん、こっちは何ともないよ。大丈夫、ちゃんと食べてるから、心配しないで。うん、それじゃ、またね」

 母親と電話してから、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世はメモに記載された電話番号のダイヤルを回した。男の声がした。

「もしもし、さきほどメモ用紙を貰った者ですが。はい、立て看板の横で、プラカードを持った。はい、興味が出て来ましたので、詳しいお話を伺いたいと思いまして。ええ、それで、お電話を」

 電話の男は、担当者から詳細な説明をしてもらう、と言った。こちらからかけ直すから、電話番号を教えてくれ、とのことである。フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は自分の電話番号を伝えた。折り返し電話があると男が告げた通り、電話を切って間もなくベルが鳴った。受話器を持ち上げる。

「もしもし」

「あ、すみません! 間違いました」

 聞き慣れた声だった。週に三回は、同じ相手から間違い電話が来る。嫌がらせかと疑ったけれど、本当にうっかりさんなのかもしれないから、我慢している。フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は忍耐強い性格なのだ。

 またベルが鳴った。受話器を取る。

「もしもし」

「こちらはチート無双モード勇者ギルドの新規加入予定者向けインフォメーションセンターです。新規加入予定の皆様に様々な情報をお知らせします」

 女の声で説明を受けたフレッツ・ブレッキン・ターナー三世だったが、良く分からなかった。

「えっと、どういうことなんでしたっけ?」

「フレッツ・ブレッキン・ターナー三世様は、戦隊ヒーローのリーダーをご希望でございますね。現時点では、戦隊ヒーローのリーダーの空きはございません。ですので、希望者リストに名前をお書きいただいて、空きが出るのを待っていただくことになります」

 どうやら、ここでも補欠の扱いらしい。話が違う! と怒り出しても良い場面なのかもしれない。しかしフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は温和な人間であり、これぐらいのことでは目くじらを立てない。

「それは構いませんけど、料金はどうなっているのですか?」

「チート無双モード勇者ギルドは無料です」

「このサービスは無料?」

「はい」

「広告収入で元を取っているの?」

「いいえ、ご加入いただきました勇者の皆様の活躍で収入を得ているのです」

 勇者がダンジョンからかき集めた財宝の何割かを聴取するのかな、とフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は考えた。

「でも僕、ダンジョンに入って怪物と戦って宝を奪うことに興味はありませんよ。戦隊ヒーローになりたいんです。できれば戦隊ヒーローのリーダーに」

「それは伺っております。希望者リストに、もう既に当方でお名前を入力させていただきました」

「ちなみに、その順番ですけど、僕の番が来るのはいつ頃になりますかねえ」

 チート無双モード勇者ギルドの新規加入予定者向けインフォメーションセンターの女性が告げた数字は、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世にとって受け入れ難いものだった。

「もっと早くなりませんか?」

「すぐには……あ、ですけれども、方法はございます。確かな手段というわけではございませんが」

 オペレーターの女性は、チート無双モード勇者ランキング審査委員会による審査でランキング上位に認定されたら希望者リストの飛び越しがありえます、と言った。

「それは、どうやるの?」

「担当者と代わります」

 別の女性オペレーターが電話に出るまで時間が掛かった。フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は繰り返される音楽を聴きながらスナック菓子を食べて待った。

「お待たせしました。担当の○×と申します」

 担当の○×が言うには、チート無双モード勇者ランキング上位に認定されるためには、ランキング審査委員会による審査会議での了承が必要で、これには技術本部のスタッフによる事前の予備審査にてリストアップされることが前提となり、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世様は高い資質があるとのことで、これは既にリストアップ済み、従ってランキング審査委員会による高い評価決定が下されたら、ランキング上位に一挙にステップアップされることになる、とのことだった。

 自分のどこにどんな資質が隠されているのか、まったくもって理解不能なフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は、担当者の○×に尋ねた。

「その査定、僕の評価なんですけど、それって僕自身が見ることはできますか? 一体全体、僕の何が凄いのか、自分の目で確認したいんですけど」

「担当の者と代わります」

「待って、待って、それって時間が掛かるの?」

「少々お時間をいただくことになります」

「いいから、それじゃいいから」

 今は、戦隊ヒーローのリーダーになることだけを考えよう、とフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は考えた。そのためにはチート無双モード勇者ランキング審査委員会に認めてもらうことが大切だ。でも、どうやったら高評価が得られるのだろう? その疑問を担当者の○×にぶつける。

「審査委員会の会議で高く評価してもらえるには、どうしたらいいんでしょう? 僕は、ただここで黙って待っていれば良いのでしょうか? それとも、何かボランティアをして社会に貢献するとか、お布施を払うとか修行するとか、そんなことをした方が良いのでしょうか? 教えて下さい」

 社会奉仕は好印象とのこと。そうだとすれば、どんなボランティア活動をすべきなのか、続けて質問する。

「それはもう、困っている方をお助けするようなことなら、何でも」

「横断歩道を渡れずに困っているお年寄りの手を引いて、一緒にわたってあげたり、とか」

「そうですね。そういったことは大切です。それ以外には、チート無双モード勇者ギルドへご依頼いただいた案件を処理していただくとか、色々とございます」

「勇者のための仕事、というわけですね……それはもしかして、危険な任務ですか?」

「危険な仕事だけとは限りませんけれども、命がけのものもございます。ですが、それは相対的なものです。ビギナーな冒険者にとっては恐るべき探索であっても、ランキング上位のチート無双モード勇者ならば、容易くクリアできるクエストでしょうから」

 命を捨ててまで、自分は戦隊ヒーローのリーダーになりたいのかと自問自答すると、答えはノーだった。そこまでの価値はない。しかし外の世界は命の危険があるからといって安全な自室に引きこもっているのは違うとフレッツ・ブレッキン・ターナー三世は考える。

 それでは自分は、どうしたら良いのか? 受話器を握り締めたまま、フレッツ・ブレッキン・ターナー三世は悩んだ。


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 ゲーム開発総責任者のエフエヌ氏は、人工知能によるテストプレイを一時中断した。人工知能が作成したテストプレイ用のプレイヤーが、どいつもこいつも無能で、いつまで経ってもゲームを進められないのだ。エフエヌ氏らのチームが開発した新作アドヴェンチャー・ロールプレイングゲームは、簡単なイージーモードから最も難しくデンジャラスなハードモードまで難易度を設定できるが、一番簡単なはずのイージーモードでさえ、最初の試練を失敗しまくっているのだ。人間のテストプレイヤーがプレイしたときは、ここまで酷くなかった。プレイヤーを攻撃する敵キャラクターのパラメーターを改変してみたらどうかと思うが、敵キャラが弱すぎて面白味は半減してしまう。ただし、それは人間の場合は、の話だ。人工知能がゲームを楽しくプレイしているとは思えない。それなら、何のためにやっているのかというと、このゲーム会社の経営再建を行っている投資家集団が人工知能に命じたからだ。つまり、仕事である。仕事でゲームをするのが楽しいのかというと、エフエヌ氏は楽しい。だから、ゲーム開発者を職業として選択したのだ。人工知能がどうかというと、それは分からない。他にも分からないことがある。人工知能は面白さを感じることがあるのか、といった疑問も湧いてくるのだ。

 それはともかく、人工知能によるテストプレイを成功させねばならない。投資家集団がテストプレイのために指定した人工知能に手を加えることは許可されていないので、エフエヌ氏はゲーム側を再調整した。一度に一回のテストプレイしかできなかったものを改変し、同時に複数のテストプレイを可能としたのだ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというわけだ。幸いなことにテストプレイを行う人工知能には、性能的な余裕がある(その性能をゲームクリアに生かせないのは解せないが)。ないのは開発チームに与えられた時間だ。早くテストプレイを終わらせ発売にこぎつけないと会社が危ないのは勿論、社員であるエフエヌ氏ら開発チームの面々の首も危うくなる。

 総責任者であるエフエヌ氏は、開発チームのメンバーと、その家族のために祈った。

 テストプレイが成功しますように、と。


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 技術本部のスタッフが、実施試験の同時開催が可能になったと伝えてきた。試験を受ける順番によって公平性が保てなくなるとの意見があり、スタッフが試験の環境を調整していたのだ。

 この改変によって、順序のために受験者間に生じる不公平が是正されることが期待された。懸案となっていた問題が一つ片付き、チート無双モード勇者ランキング審査委員会に出席したメンバーの顔に少しホッとした表情が浮かんだ。

 ただ、これで何もかもが終わったわけではない。この改変によって改善したのは、順序のために生じる不公平性だけだ。欠員となったチート無双モード勇者の補充は、達成されていない。これは試験を課す側の努力だけでは足りない。受験者の努力、実力、運があってこそ達成できるのだ。

 委員の一人が言った。

「さて、同時接続による並列プレイが可能となったとして、それで何がどうなるというのか。次の問題は、ここだろうに」

 別の委員が言う。

「時間の節約になりますよ」

 技術本部の役員が書類を片手に話し始めた。

「実地試験を受験していただく予定で準備しておりましたフレッツ・ブレッキン・ターナー三世の御都合で、試験が開始しておりませんので、次に試験を受けていただく予定だった人物に先に受験をお願いします」

 チート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表は書類を指差した。

「フレッツ・ブレッキン・ターナー三世の下?」

 技術本部の役員が答える

「そうです」

 大きな髪飾りを付けた委員が言った。

「フフフ、今度の奴は手強そうじゃないか」

 他の委員は特に何の感想もなかった。そんなに違うとは思えなかったためである。


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 ナイフの名手アールグレイ・フィロスバルキュレイは眠りに就いた場所と目覚めたところが違っていることに気が付いたとき「またか」と思った。彼は転移だとか転生といった現象には心の底から飽き飽きしていた。気が付くと見知らぬ世界にいて、そこで命がけの死闘をしている。ことが終わればチート無双モード勇者ランキング審査委員会の使者と称する人物が現れて、こう言うのだ。

「おめでとうございます! アールグレイ・フィロスバルキュレイ様はランキングが上がりました」

 そういうの、マジで興味ないから……と言うだけの元気もない。あったら大変だ。アールグレイ・フィロスバルキュレイのナイフは尋常ではない切れ味を持つ。その刃が煌めいた次の瞬間、チート無双モード勇者ランキング審査委員会の使者は首筋から大量の血を吹き出して斃れる。

 転移した経験が多いので、アールグレイ・フィロスバルキュレイは何が起きているのか、おおよそのことは察している。ここには危険がいっぱいだ。いつもそうだ。最初から、そうだった。

 アールグレイ・フィロスバルキュレイが初めてチート無双モード勇者ギルドのスカウトと接触したときは、最初に異世界へ転生した、当日の朝だった。まだ赤ん坊だった彼に産科医の格好で「ギルドに入会しましょう」と話しかけてきた。生まれた直後でも前世の記憶があったとはいえ、転生したのはそれが最初である。ギルドとやらが何のギルドなのかも分からない。結局、何だかわけが分からないうちに入会することになった。そして赤ん坊の頃から戦った。どうやって戦うのか? 産科医に扮したチート無双モード勇者ギルドのスカウトから貰ったメスを使い、自分と、自分を出産した際に産褥死した母親を食べようと襲い掛かって来たゾンビ化したナースやお化けネズミと戦うのだ。赤ん坊の時分から、そんな具合なので、その後の生涯は、もう決まったようなものだった。それから転生や転移を繰り返しているが、いつも似たような人生を送っている。

 さて、と――アールグレイ・フィロスバルキュレイは寝台から体を起こした。夜目が利く彼にとっては、この程度の暗闇は問題ない。揺れる寝床で耳を澄ませて、ここが嵐の中を航行する船の船室だと悟っている。既に浸水が始まっており、浸水を食い止めるか何かしないと沈没することも分かっていた。船室の扉の向こうは冷たい海水で充満していることも理解している。そして、寝台の下に隠された穴があり、そこを守る怪物が息を潜めていることも。

 ブーツに差したナイフを抜き取り、アールグレイ・フィロスバルキュレイは片手で寝台を引き上げた。次の瞬間、真っ黒な外皮で強靭な筋肉を覆った鋭い鉤爪を持つ襲撃者の眉間にナイフを突き刺す。攻撃を仕掛ける前に攻撃されると考えていなかった襲撃者は、一撃で絶命した。ナイフを抜き、シーツで血を拭って、ブーツに戻す。それから彼は死骸を調べた。皮は黒く分厚くなっているが、元は人間のようである。その変化をもたらしたのが自然発生的なものか、科学の力によるものか、魔法を含む超常現象のためなのか、判断はできなかった。


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 テストプレイの一つをモニター画面で眺めていたエフエヌ氏は、思わず歓声を上げた。やっと最初の奇襲攻撃を回避して襲撃者を斃す猛者が現れたのだ。このテストプレイヤーは期待できるかもしれない、と思わざるを得ない。しかし、一人だけでは心もとない。もっと多くのプレイヤーが最初の罠を突破しない限り、このゲームは駄目駄目なクソゲー扱いで間違いなしなのだ。

 モニタリングしている他のテストプレイのデータを見るエフエヌ氏の目は、真剣そのものだった。


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 真夏のカーニバルを迎えた街は、ドキドキわくわくの観光客で朝から晩まで大賑わいだ。誰もが皆めっちゃ浮かれている。そんな状態なので掏摸・置き引き・掻っ払い・引ったくり・ノックアウト強盗といった連中には格好の稼ぎ時だが、空き巣も負けちゃいられない。警察のパトロールが繁華街に集中する隙を突いて、いつもより巡回が手薄な高級住宅地で一仕事だ。あらかじめ下調べを済ませておいた富豪の邸宅を数軒はしごしてから、最後の屋敷に向かう。世界的に有名な考古学者を持ち家だ。忘れられた遺跡を次々に発見し、そこから驚くべき財宝を発掘しては売りさばいている。要するに墓泥棒だから、空き巣とそれほど変わらないのに、学者先生だけ名声を博しているのは不公平というものだ! と怒っても始まらないね。あっちは仕事熱心で、こっちはたまにしか泥棒しないのが悪いのだろう。大先生は今も外国に出向いて働いているようで、ご苦労さんとしか言いようがない。さて、防犯カメラの死角から敷地内に侵入し、厳重な電子錠を難なく解除して邸内に入ると、あるわあるわ、金目の物だらけだ。あまりにも興奮したせいで動悸が激しくなり、耳元でガンガン喧しい。胸が痛くなり、呼吸も苦しくなってきた。こりゃいかん、と思った。これは実に危険な状態だ。昔、死にかけたときと同じ症状ってやつだった。

 実は前に一度、俺は心臓発作をやっている。場所は空き巣に入った先だ。誰もいないはずの別荘で、そこの御夫人と間男が密会している現場に遭遇、あまりにも生々しい痴態を見せつけられて、そこで心臓はもうドキドキだったのに、御亭主が散弾銃を片手に乱入してきたから大いに困った。銃口の向かう先は不倫カップル、こっち、奥様が可愛がっているペットのニシキヘビの間をウロウロした挙句、暴発。幸い誰も怪我はしなかったが、こっちは驚き過ぎて心臓麻痺だ。でも、体に染みついた習慣というのは大したものだね。銃口を聞きつけた近所の暇人が警察に通報したものだから、サイレンの音が聞こえてくると、止まった心臓が動き出したよ。まあ、逃げるのは大変だった。こっちを餌と誤解したのか、ニシキヘビにグルグル巻きにされた格好で走るのは、本当に辛いと断言する。疑うなら、やってみな。走るのだって一苦労だからよ。だけども、辛い目に遭っても一時のこと、今ではニシキヘビはペット、いや仲間、あるいは家族の一員だ。冷血動物のひんやりした体は、暑い夜には抱き枕の代わりに丁度良い。俺がいないと寂しがるから、絶対に死ねないね。

 それはともかくかさ張らず、それでいて値打ちにある物を念入りに選んで袋に詰めていると、何だかネットリとした視線を感じた。気になる方を見て、またもギョッとした。女の生首が壁に掛かっている。鹿の剥製みたいだ。本物だろうか? 調べてみる気になれない。しかし生首の口の中には、歯の代わりに高価な宝石が埋め込まれていることに気付くと、話は別だ。口から宝石を外そうとしたが、頑張っても取れない。壁の生首は簡単に取れた。悩んだ末に首を持ち帰ることにする。別の袋に生首を入れて口を閉じたら、中から人の呻き声みたいな音が聞こえたときは、こっちも悲鳴を上げそうになった。こわごわ袋を開けると、生首が襲い掛かってきた! なんてことはなくて拍子抜けした。まあ、空耳で良かった。

 遠くからカーニバルの陽気な音楽が聞こえてきた。海からの風に乗って流れてきたのだ。海風は時折、強い雨を運んでくる。ずぶぬれになるのは御免なので、そろそろ引き上げた方が良さそうだった。金にはならないが、ちょっとした思い出になりそうな小物を二つポケットに入れて学者宅を後にする。繁華街へ自然と足が向いた。激しいリズムに合わせて人々が踊っている。懐かしきパラパラを踊る老若男女の群れの中にいると、雨降りなんて気にならない。それは俺だけに限らない。パラパラと降り出した雨を気にする者は、踊っている奴らの中には誰もいなかった。夜が深まるにつれ熱狂のボルテージが上がっていく。こっちもつられてスキップしてしまった。腰から吊るした生首入りの袋がユサユサ揺れる。キンキラキンの照明が眩い。山車の上で金粉まみれの全身をくねらせるビキニ姿の踊り子は、もう若くない身には眩し過ぎて頭がいかれそうになる。祭りの狂騒に疲れ、ニシキヘビ以外は誰も待っていない部屋に戻る。お宝の仕分けは明日にしよう。そう思いつつ、ポケットから金にならない戦利品を二つ取り出す。焼き固めた土の欠片だ。食べ物の煮炊きに使った物だったはず。何処の遺跡で発掘された品なのだろう、どういった人間がこれを作り、どんな家族がこれで作った料理を食べていたのだろうか? と考えると、ちょっとロマンと郷愁を感じる。でも、ドキドキするってほどじゃないかな。土器の欠片が二つで、ドキドキなのに、ね。

 そんな駄洒落を誰にともなく言って、寝酒の入ったグラスを開け、ベッドへ向かったら異変が起きた。生首の入った袋が、置いていたテーブルからドサッと落ちたのだ。俺は震え上がった。触れていないのにテーブルから物が落ちるなんて、普通、ある? ないよ、絶対にない。あるとすればテーブルが傾いているとか、床が傾いているとか、地震とか。でも、俺が暮らすこの街は地震に縁のないところだ。俺の住むアパートは安普請だけれど、部屋が傾くほど老朽化はしていない(はずだ)。それじゃ……と思ったら、生首の入った袋の口が開き、中から生首が転がり出てきた。女の生首を目と目が合った。その口が開く。ニイィと笑っているように見えたけど、こっちは笑えない。びっくりして引っ繰り返る。そのまま後頭部をぶつけた。意識が無くなる。

 目覚めたら、この船室にいた。酷い波の音がしたから、嵐に巻き込まれていると思ったよ。浸水が始まっていると、ドアに耳を当てて聞いたから分かったね。どうやら逃げ場がなさそうだ。いや、待てよ。ベッドの下に救命胴衣が備え付けてあるかもしれない。そう考えてベッドを探ったら、上に跳ね上げることが出来そうだ。おお、これは救命胴衣があるぞ、そうに違いない! と思って喜んだら、出てきたのはなんとまあ、お前さんだ。

 一体さ、何者よ。俺を殺そうとしたお前をよ、生かしてあげているのはさ、色々とききたいことがあるからなのよ。そこんとこ、よろしく。つーか、自分の立場、お分かり? それか、俺の正拳突きをもう一度喰らいたいのかしら? 喰らわせてやってもよお、良いのよ。だけどね、俺はそういうの、嫌いなの。暴力反対なの。だから、教えて。ここはどこ? そして、お前は誰? 教えてくれたら、外した関節を一つ、どこか一つだけ戻してやるよ。教えてくれないのなら、正拳突きを眉間に喰らわせてやる。今度は手加減しない。そうなったら、死ぬよ、お前さん、今度こそ、死ぬよ。


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 ボシュレット・ゴツフォルーバーのトレーニングは東京都目黒区にある急峻な坂を一気に駆け上がることだった。同じ名の坂が転移先の異世界にも存在していると知ったとき、彼は大いに喜んだ。そういう例は他にもある。府中市は広島県と東京都にあるし、パースという名の都市は英語圏の国に幾つか見られる。それと同じパターンが別世界、転移した先の異世界にもあったということだ。彼が転移した異世界で暮らした街は港町だった。目黒区の権之助坂から海は見れなかったが、ここのゴンノスケ坂からは水平線の向こうまでずっと広がる海が臨める。今度の生活拠点も悪くない、と彼は思う。

 ある日ボシュレット・ゴツフォルーバーはゴンノスケ坂で坂道ダッシュを十数本やってから某所へロケに出かけた。書き忘れていたが、彼は元いた世界プロスポーツの選手で、引退後はタレントをやっていた。現在もタレントの仕事をしている。大物タレントいうほどではない。中堅クラスである。それでも、それなりの収入はある。高級自家用車でロケに出かけた彼は、ロケの準備が整うまで、車内で音楽を聴いていた。曲はビートきよしの『雨の権之助坂』だった。新しい世界へ転移するにあたり、元の世界で気に入っていた楽曲を耳の中で飼っている特殊な寄生虫に覚えさせ、変な魔法の力で再現できるよう調教したのだ。心の和む音楽を聴いて、撮影を待つ。その間、ボシュレット・ゴツフォルーバーは感慨に耽っていた。音楽はビートきよしの『雨の権之助坂』で、元の世界でスポーツ選手だった現役時代だった当時から引退後まで練習していたのが権之助坂、そして今、ゴンノスケ坂がお気に入りの散歩コースだ。不思議な縁だと思うし、大切にしたい縁だとも思う。芸能人になったのもゴンノスケ坂のおかげだと言っても誰も信じないだろうが、実際はそうなのだ。

 この世界へ転移した当初、年を取って昔より体のキレが無くなっていたボシュレット・ゴツフォルーバーはゴンノスケ坂をダッシュで駆け上がることができずにいた。せいぜい、散歩で上がるくらいだったのだ。その日も散歩していたら、チート無双モード勇者ギルドの特別臨時スカウトと名乗る若者に話しかけられた。チート無双モード勇者ギルドの新規加入キャンペーン中だから入りませんか? というのである。

 ベテランの転移者であるボシュレット・ゴツフォルーバーは、以前にもチート無双モード勇者ギルドのスカウトや構成員から加入を勧められていた。ギルドとか同友会は付き合いが面倒なので一切断っていた彼だったが、今回は加入を決めた。若返る特典付きだと聞いたからだ。

 元いた世界では笑いが取れる外国人の元プロアスリートとして芸能界の一角で生活していたボシュレット・ゴツフォルーバーである。目立つのが基本、大好きなのだ。チャンスがあったら、こっちの芸能界でもう一花咲かせたいという気分もあった。若さを取り戻したら、というのは良い切っ掛けだった。

 転移したけれど見込み違いだったと失望を味わっていたためでもあった。新しい世界で人生をやり直したくなって転移したのはいいけれど、転生したわけではなく、年を取ったままだった。子供に生まれ変わったわけではないので、元と特に変わらず、異世界へ来た意味がなかったと思っていたところである。チート無双モード勇者ギルドの特別臨時スカウトと名乗る若者が話しかけた来たのは、グッドタイミングだったといえよう。ボシュレット・ゴツフォルーバーは若さについて年寄りじみた考えを抱いていたときに、そういう提案があり、サクッと話に乗ったわけだ。

 体力と気力が蘇ったからには、芸能界デビューだとボシュレット・ゴツフォルーバーは考えた。そう簡単に行くわけないだろうッ! と普通は思う。それでも変な外国人タレントは需要があって、この異世界においても、そこそこ売れっ子になった。本日は、どっきりカメラのロケである。

 ボシュレット・ゴツフォルーバーは自前の派手な高級スーツとゴツい高級車でロケ現場に現れた。撮影の準備が整うまでの間は、ビートきよしの『雨の権之助坂』を耳に中の棲む寄生虫に再生させてリラックスだ。やがてロケを担当するディレクターが運転席に近づいてきた。最終的な打ち合わせが始まる。

 台本が変更されていた。ボシュレット・ゴツフォルーバーはディレクターに確認する。

「この車から急に出てきて通りかかった人間を驚かすんだと思っていたけど、変わったのね」

「はい。運送業者が置いた箱から急に飛び出して、通行人をワッと驚かせるというのに変わりました」

「突然なのね」

 高級車の車内から、如何にも暴力団といった格好で現れて、通行人にイチャモンをつけ、実はドッキリでした! という筋書きだと思い込んでいたら変わってしまったのだ。まあ、箱の中から外国人風のヤクザが出てくるのも悪くないだろう、とボシュレット・ゴツフォルーバーは思った。自分の愛車をテレビで見せびらかしたい気持ちはあったが、騙された相手がキレて車を蹴るかもしれない。やるなら自分の車でない方が無難である。

 スタッフが用意された箱を運んできてボシュレット・ゴツフォルーバーに見せた。運送業者が台車に載せて運搬する大きめの箱である。

「ここに入るのね」

「ええ、えっとですね、中に入った状態で運送業者に扮したスタッフが運びます。合図があったら出てきてください」

「ワッと脅かすのね」

「そうです」

 さて、ボシュレット・ゴツフォルーバーが箱に入るとスタッフが声を掛けてきた。仕掛けの現場に移動します、とのこと。場所は地下駐車場の入り口付近だった。真っ暗な箱に入れられたまま運ばれ、下に降ろされる。「雨が降りそうですから、早く始めますね」と言われ「分かった」と答えて撮影開始だ。箱の中でしゃがんだ姿勢でスタッフからの合図を待つ。

 ドッキリを仕掛ける相手は一般人ということになっているが、仕込みも用意されている。それほど世間に知られていないタレントが一般人の振りをするわけだ。一般人が期待されるような反応を示すとは限らない。シナリオ通りの、演出された芝居で確実に笑いを取る。箱から外国人のヤクザ――異世界からの転移者でもある――が急に飛び出る、というヘンテコな設定でも、笑いさえ取れれば文句無し。今回も一般人だけでなく、仕込みの売れない芸能人にドッキリを仕掛け、撮影は順調に進んでいた。だが、空模様が悪くなってきた。ドッキリを仕掛けている場所は屋根があるし、箱は濡れても大丈夫な材質だが、次第に空が真っ暗になってきて、自然光での撮影が難しくなりそうだった。それでも何本か撮影を済ませる。

 もう一本だけ撮影して終わろう、という話になって、ボシュレット・ゴツフォルーバーが真っ暗な箱に入った、その時である。急に雨音が聞こえてきた。箱は屋根が掛かっている場所に置かれているはずなのに、雨が箱の上面を叩く激しい音がする。横殴りの雨なのだ。これは想定外の事態だった。

 水に濡れても大丈夫な素材で出来ているはずなのに、雨の侵入は防げないようで、やがて箱の底に水が溜まってきた。自前の一張羅のスーツが汚れては大変と、ボシュレット・ゴツフォルーバーは箱から出ようとしたが、箱の蓋が開かない。さっきまでは簡単に開いていたのに。

 渾身の力を込めても開かないので、ボシュレット・ゴツフォルーバーはスタッフの助けを呼んだ。だが、滝のような雨音のせいなのか、助けを求める声が聞こえないようで、誰もやってこない。そのうち靴だけでなく、ズボンまでびしょぬれになった。そのうち、それどころではなくなってきた。箱の中に溜まる水の量が急激に増加し始めたのである。水は腰の高さに達していたが、そこからさらに上昇し、胸まで浸かるようになった。

 ボシュレット・ゴツフォルーバーはだんだん怖くなってきた。川の水位が上がって危険というのは聞くが、箱の中の水位が上がってしまったらどうなるのか? このまま溺死するのでは? いいや、そんなのはありえない、箱の中で死ぬなんて、単なる妄想だ! と思い込もうとしたら、誰かの声が聞こえた。

「死ぬよ」

 そのときボシュレット・ゴツフォルーバーは自分の入った箱が動いていることに気付いた。箱が流されているのだ! ゲリラ豪雨で自宅の地下に水が溜まり大変な目に遭ったという先輩転移者の悲劇を思い出す。自分の場合、このままだともっと悲惨なことになりかねない!

 渾身の力を振り絞ったと先程は思ったが、命の危機となるとその三倍くらいの力が出るようで、箱の蓋がガバッと外れた。外に出ると、危険に気付いたスタッフ数名が駆け寄ってくるところだった。皆、腰まで水に浸かっている。箱から出たボシュレット・ゴツフォルーバーはスタッフの手を借りて泥水から助け出された。全員で冠水した地下駐車場を脱出する。かくしてボシュレット・ゴツフォルーバーは溺れずに済んだ。

 あのとき誰かが危険を知らせてくれたからだと、ボシュレット・ゴツフォルーバーは思っている――だけれども、どうせなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに、と恨めしく思わなくもない。あの日、ロケに行かなければ、お気に入りの高級スーツと高級車は台無しにならなかったはず、と嘆かずにはいられないのだ。

 そんなわけで今、揺れるベッドで目覚めたボシュレット・ゴツフォルーバーは、彼の耳の中で暮らす賢い寄生虫から嵐で沈没寸前の船の船室にいるという報告を受けて、真っ先に来ている衣服を確認した。粗末で薄汚れた格好であることを知り、ほっと胸をなで下ろす。

 どうして自分が、難破船になりそうな船に乗船しているのか、寄生虫に尋ねる。チート無双モード勇者ギルドが、ランキングを上げるための試練に、と送り込んだとの説明を聞き、ボシュレット・ゴツフォルーバーは心底ガッカリした。そういうおせっかいをされるのが嫌で、ギルドには入らず生きてきたのだ。

 だが、今ここで退会手続きをするのは難しそうである。ベッドの下に潜んでいる殺人鬼が、襲い掛かるタイミングを窺っていると寄生虫が教えてくれた。

 さあて、それでは、どうするか? ボシュレット・ゴツフォルーバーはベッドに寝転びながら考えた。


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 英雄ヘラクレスも怪力無双のサムソンも筋骨隆々の蛮族王コナンも、何も食べなきゃ力は出ないし命も尽きようというもの。城塞に忍び込んで罠に引っ掛かった盗賊は、それらのマッチョマンとは比べ物にならないくらい痩せこけていたので二日も持たないと思われたが、あにはからんや五日経っても平気の平左である。水も食べ物も与えられず落とし穴の底で放って置かれているのに泰然自若とした侵入者を、無学な兵卒の中に数多くいる迷信深い輩が「魔術師だ」とか「死霊に違いない」とか言い出しただけならまだしも「神の使いとしか考えられない」「世紀末救世主伝説の始まりだ」等と噂するようになったので城塞の女主人ピコレーウェ・ブラッサアダーム将軍は放置しておくわけにいかなくなった。警備当番の士官に拷問の準備を命じる。

 命令を受けた士官が質問した。

「その後は、いかが致しましょうか?」

 死骸の始末をどうするか、と聞いているのである。

 ピコレーウェ・ブラッサアダームは尋ね返した。

「前回を忘れてしまった。前はどのようにしたのだ?」

 士官は胸ポケットから手帳を取り出しページをペラペラとめくった。

「槍で串刺しにして十五日間と八時間四十五分、堡塁の外壁から吊り下げ天日に干してから不死鳥の神ノイエ・フェニックスに奉納しております」

「鳥葬か、あれをやると鳥の糞で壁が汚れるのがなあ。その前はどうだった?」

 当番の士官は再び手帳のページを再びめくった。

「ミイラにしています。太陽と誇りの神ペベーアニュエイスの供物として。乾燥させるのに日数が掛かりました。三か月弱です」

 せっかちな性格のピコレーウェ・ブラッサアダームは掛かった日数を聞いて美しい顔をしかめた。

「気の長い神様だな。私が神だったら、パッと出来る生贄が好みだがなあ」

 士官は訳知り顔で言った。

「神々と我々では時間の感覚が異なっているのでしょう。こちらの一日が、あちらでは一分なのかもしれません」

「まあ一分なら待てるな。だが、ミイラは駄目だった。思い出したよ。カビが生えて酷かった」

 士官は頷いた。

「あのカビは人体に有害のようで、ミイラの処理に関わった兵士から肺炎の患者が多く出ました」

「吸っちゃ駄目だったんだな、あれは。で、その前は何だった?」

「ゾンビパウダーで生きる屍にしました。処理は簡単だったと思います。比較的に、ですが」

「そうだった、そうだった。それで、あの後はどうなったんだっけ?」

「暗黒神ソルファ・ジャデイロアネイロが祭られた地下迷宮を彷徨っています。生き物がいないので餌にありつけていませんが、今のところ、あれ以上は腐らずにやっているようです」

「腐っても鯛ならぬ、腐ってもゾンビというところか。まあ、下でも腐らずに頑張ってもらいたいものだ」

 そう言ってピコレーウェ・ブラッサアダームは笑ったが、心の中の彼女は少しも笑っていない。腐らずに頑張れ、というセリフは常日頃から自分に言い聞かせている言葉だったからだ。色々な原因が積み重なり、彼女は辺境の城塞へ左遷された。美少女将軍閣下! などともてはやされた時代は遠い昔のように思われてならない。栄光の日々に戻れるのか、さっぱり分からないのが現状だ。そんな悲惨な現実を忘れるため、危険な任務や重大な仕事に打ち込もうとしても、辺境の城塞に大事件は起こらない。暇で暇で仕方がないのだ。外へ狩猟に出かけても誰も文句を言わないし、兵士たちを率いて軍事演習するのは楽しいが、だんだん飽きてくる。休暇願を出しても握り潰されてしまう。華やかな都に戻りたい、と心底から思う……だが、城塞を管理し守備隊の面々を監督する役割を放棄するわけにはいかない。そんなことをしたら、彼女を軍隊の主流から追い出した連中が、待っていましたとばかりに任務放棄の責任を追及するだろう。それだけは避けねばならない。

 それでも、陸の孤島に島流しは辛すぎる。ピコレーウェ・ブラッサアダームは、まだ若いのだ。夢も希望も、少なくとも数年前まではあった。それも次第に無くなりつつある。毎日に楽しみもない……いや、少しはある。今の楽しみは、城塞に入ってくるコソ泥を捕らえ、生殺しにすることだ。泥棒が毎日やってくるわけではないので、虐待を毎日やっているわけではないが、刺激のない生活の中にあって、ちょっとした生きがいになりつつある。

 そう書くと、ピコレーウェ・ブラッサアダームが真正のサディストのように思われるかもしれないが、彼女が生きる異世界は盗人に厳しいのが一般的なのである(我々の世界でも犯罪者を問答無用に処刑する場合が多々ある)。そして彼女が生きる国家の宗教には、神々に罪人の命を捧げることで、神々からありがたい恩寵を得るという教理があった。軍人である彼女は、生贄を捧げて国家の安泰を祈ると共に、自分が陥った逆境からの脱出を願っていた――公私混同というほかないが、そうでもしなければ精神の均衡が保てなかったのである。

 さて、ピコレーウェ・ブラッサアダームの国は多神教で、数え上げるのが面倒なほど神様がいる。主だった神々に盗賊の命を捧げているが、現在までにご利益があったかというと、何一つない。それでも次こそは! という宝くじ感覚で生贄を捧げ続けている。だが、そのやり方が正しくないのでは、と思わないでもない。落とし穴に嵌まって餓死した遺体や、逃げようとして弓矢で射抜かれ、剣や槍で刺殺された死体あるいは負傷者を供物に捧げても、何の効果もないのだから。

 もっと効き目のある方法はないものか? とピコレーウェ・ブラッサアダームは考えた。

 そんな中で現れたのが水分も食料も無しで生きている侵入者だった。

 本日の警備当番の士官が再び問うた。

「盗賊の遺体は、どの神様に捧げましょう?」

 ピコレーウェ・ブラッサアダームは言った。

「その人物を見てから決めよう。それからでも遅くはあるまいて」

 高い城壁を乗り越え迷路のような回廊を通り城塞内部へ通じる渡り廊下の途中にある魔法の網に引っ掛からなかったまでは大成功だったが、狭い階段の真ん中に作られた落とし穴は予想できなかったようで、まんまと罠に嵌まった盗人をピコレーウェ・ブラッサアダームは十分に観察した。彼女が見たところでは、至って普通の人間、という印象を受けた。衰弱している様子はない。それでも一応、聞いてみる。

「水も食料も与えられないでいるのに、お前は元気そうだな?」

 侵入者は答えた。

「私が元気に見えるのは、将軍閣下にお会いできたからです。お目にかかるのを楽しみにしておりましたので」

 落下防止のための鉄格子で覆われた落とし穴の縁に腰を下ろし、ピコレーウェ・ブラッサアダームは干し肉とチーズと野菜と卵のサンドイッチを齧った。ピリッと辛いハーブの入った果実酒を瓶から直接飲む。

「辺境の城塞はグルメに縁のない場所だ。それでも食べ物に不自由することはない。この土地に慣れてくると食事は美味しいし、酒も美味いと感じるようになる。都会と違って水と空気が美味しいからかな。要するに、胃袋に関しては幸せなところだ。どうだ、腹が空いたろ?」

 足元からの返事はない。ピコレーウェ・ブラッサアダームは自分の顔より大きなサンドイッチを食べ終わった。従者が用意したナプキンで唇を拭き、それから果実酒を飲む。口元から琥珀色の果実酒が零れ落ちる。その様は妖艶で美しい。彼女の部下たちは美の女神を見ているかのように上気して瞳を潤ませた。当人は、そんな視線を意識せずに言った。

「五日間、飲まず食わずでいるにしては元気だ。その理由を聞いている」

 落とし穴の下にいる男が言った。

「ですから、閣下にお会いしたからでございます」

 ピコレーウェ・ブラッサアダームは立ち上がり、従者に果実酒の瓶とナプキンを預けた。そして傍らの護衛から槍を受け取る。その穂先を鉄格子の隙間に差し入れた。足下の男に狙いを付ける。

「理由を言わないと、殺すぞ」

 狙われた男は唾を飲み込んだ。自分に向けられた槍の穂先と、その槍を握る人物の間で視線が彷徨っていたが、どうにかこうにか落ち着いたようで、冷静な口調で語り出す。

「ピコレーウェ・ブラッサアダーム将軍閣下、謹んで申し上げます。閣下にお会いできて元気になった、というのには理由があるのです。私は、ある人物からの密使です。その人物は私に特殊な呪いの魔法を掛けました。私の魂を分割し、悪魔銀行の貸金庫に預ける呪術です。私が任務を達成すれば、魂が戻ってきます。若干のプラス付きで。閣下に面会を果たすまで、魂はほぼゼロでございまして、その間は飲み食いしようという気力が起きず、実際のところ、死んでいるも同然の状況でございまして、はい」

 槍の先の金属は鍛えられた鋼鉄より硬いオリハルコンと魔界の鉱石を霊的なパワーで一体化させた神秘の力を秘める合金である。その珍しい金属は、槍を扱う者の激情によって色彩が変化することで知られていた。今、槍の先端はピコレーウェ・ブラッサアダームの心の内を反映し、真っ赤に煌めいている。

「そんな話を、誰が信じるというのだ?」

 激情を押し殺したがゆえの、冷たい口調だった。落とし穴の男はまたも唾をごくんと飲み込んだ。

「嘘ではございません。その証拠に、私を密使として送り出した人物の名前をお話しします」

「言ってみろ」

「お人払いをお願いします」

「言え、早く言わないと」

 ピコレーウェ・ブラッサアダームの瞳がギラギラ輝く。密使を名乗る男の眼が白黒する。やがて男の口が動いた。声は出さず、唇だけが大きく開閉する。

 男を密使として送り出した人物の名を、ピコレーウェ・ブラッサアダームは理解した。密使の男が人払いを願い出た理由も分かった。その人物の名は誰にも知られてはいけなかったからだ。

 槍を護衛の手に戻したピコレーウェ・ブラッサアダームは、警備当番の士官に対し、侵入者を落とし穴から出して客室へ通せと命じた。命令を受けた士官は耳を疑った。罠に嵌まった侵入者を客室に案内することなど、この女城主が赴任してきて以来、初めてだったからだ。

 ピコレーウェ・ブラッサアダームの言葉を信じられなかった士官は、命令を聞き返そうとしたが、その前に彼女はその場を立ち去っていた。落とし穴の中から男が言った。

「命令が聞こえただろう? ここから早く出してくれ。それから酒と料理の用意を忘れるな。この城塞で最上の酒、そして最高な食事を出すんだ。量は多くなくて構わない。魂が完全に戻ってきたわけじゃないからな。そんなには食べられないんだ。ただし、早くしてくれよ。だんだん腹が減ってきた。そして、さっさと飯を食って休みたいのさ」

 男が食べた酒と食事は、ピコレーウェ・ブラッサアダームの言葉通りだった。饗応に満足した男が与えられた客室で休んでいると、礼装の軍服に身を包んだ城塞の女主人が姿を現した。その表情は暗い。声色も暗く沈んでいた。

「あの人間が密使を派遣したということは、あまり良くない知らせだと思う。覚悟はある。話を聞かせてくれ」

 密使の男は煙草に火を付けた。城塞は禁煙だったが、ピコレーウェ・ブラッサアダームは注意しなかった。密使を派遣した人物は、彼女が属する国家の超重要人物であり、その代理人たる密使の男が喫煙しても、目を瞑るしかないのだ。

 男は良識のある人間のようで、携帯式の灰皿を持参しており、そこに灰を落とした。くすっと笑う。

「恩賜の煙草というものを初めて吸ったんだが、なかなか旨いな」

「あの方が渡したのか?」

「そうだ」

 そう言って煙草を吹かした次の瞬間、男は白目を剥いて意識を失った。その口から煙が出てきて、人の顔になった。ピコレーウェ・ブラッサアダームにとって懐かしい女性の顔だった。彼女は言った。

「博士、お久しぶりです」

 博士と呼ばれた煙の顔が話し始めた。

「途中で敵に殺られる不安はあったが、密使が到着して何よりだった。ピコレーウェ・ブラッサアダームよ、体の調子はどうだ?」

「問題ありません」

「消化器官のメンテナンスが出来ないのが心配だ」

「こちらの食事で、十分に活動が出来ています。博士に作って下さった、この見事な消化器官のおかげです」

 煙の顔が頷いた。

「私だけの働きではない。人造人間製造部門の全員が頑張ってくれたからだ」

「私を作って下さった皆様への御恩を忘れたことはございません」

 人造人間ピコレーウェ・ブラッサアダームを製造した部局が最も苦心したのはエネルギー源の問題だった。人造人間は魔法の力で動く、と言うのは簡単だ。その魔法の力をどうやって生み出すのか、それが難問だったのである。結局は普通の人間と同じく、食事で栄養を摂って体を動かすという方式になったが、それに難癖をつける政治家グループがいた。人間が神に代わって別の新しい人間を作るのは神を冒涜する振る舞いだというのである。多神教なのだから人が神となっても構わないだろうと普通なら思いそうなものだが、一柱すら増やせないとは不寛容にも限度がある……と女城主にして女人造人間は苛立たしくて腹立たしかった。

 これが普通の食事ではなくて、化石燃料や原子力で動くのなら、人間ではなく機械だという認識だが、人と同じものを飲み食いしてしまうと、それは人と変わらないからダメ――という理屈は、人造人間を製造する部門の人間にとっては不合理でしかない。そんなの、いちゃもんだ! との反発は当然あったが多神教の国家において神への冒涜がナンチャラカンチャラというイチャモンは実にややこしい事態を引き起こしかねない。やむなく人造人間製造の秘密プロジェクトは中止となり、ピコレーウェ・ブラッサアダームは人造人間という正体を隠して辺境の城塞へ左遷された。

 その情勢に変化があった模様である。それは不遇な人造人間が待ち望んだ正規の手続きに沿った形ではなく、謎の密使が伝えるという胡散臭くて危なっかしいやり方にならざるを得なかった。

 ピコレーウェ・ブラッサアダームの耳に、博士の言葉が蘇った――途中で敵に殺られる不安はあった、ということは要するに、そういうことだ。

「我が愛する娘、ピコレーウェ・ブラッサアダームよ。戻って来て欲しい。だが、それはお前を危険にさらすことになる。だから娘よ、どうするかはお前自身で決めるが良い。その選択が何であれ、我々は尊重するよ」

 悩むまでもなかった。

「戻ります」

 彼女の言葉は、血はつながっていないけれど、その母であり父である博士を喜ばせた。

「贈り物がある。その密使の男の頭を開けるが良い」

 言われるがまま、ピコレーウェ・ブラッサアダームは男の頭をつかんで持ち上げた。髪の毛が付いた頭蓋骨がカパッと外れ、その中に真っ赤な果物の詰まった器が出てきた。煙の博士が言った。

「お前の好物のフルーツだよ。スイカやイチゴやメロンが、とても好きだったろう? 新鮮な物を冷たくして入れておいたからね」

 ピコレーウェ・ブラッサアダームは目を輝かせた。煙の博士の顔が綻ぶ。

「他にも、その男の全身に色々な料理を入れておいたから、食べると良いよ」

 男の耳の穴からポンッ! と出てきた爪楊枝を、食べやすい大きさにカットされたフルーツに突き刺し、ピコレーウェ・ブラッサアダームは次々に口へ運んだ。

「良く冷えていて美味しい!」

「そうだろう、その男の体に、冷蔵庫になる魔法を掛けておいたから」

「便利な魔法ね!」

「戻ってきたら教えてあげるよ」

「この男を解体して分析したら、私にも出来るようになると思うわ」

「せっかく魔法を掛けて生けるクーラーボックスにしたのだから、分解するのはこちらへ帰って来てからにしなさい」

 フルーツを食べながらピコレーウェ・ブラッサアダームは考えた。博士の意見はもっともだ。願いがかなったお礼に、この密使をバラバラにして神々へのささやかな捧げものにしようと思ったが、それは都へ帰還を果たしてからでも遅くはない。

 彼女は思った――今は、博士からの愛情がこもった贈り物を心行くまで味わおう。

 美味しい贈り物に満足して床に就いたピコレーウェ・ブラッサアダームは、目覚めた自分が鉤爪のある全身が真っ黒な殺人鬼と相対していることに酷いショックを受けると同時に、運命の皮肉を感じている。

 運命が好転するかと思ったら、これだ。今こいつを殺さねば、こっちが八つ裂きにされるとは、どういう罰ゲームだと嘆かずにはいられない。


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 晴天の下、校舎の屋上にある空中庭園でスクールカースト上位の者たちが、余興のいじめ付きの楽しい茶会(ティーパーティー)を満喫していた、あの気怠い放課後に――あの男が突然、庭園の芝生の上に現れた。僕を含めた多くの人間が、あいつの登場する瞬間を目の当たりしたというのに、今もって信じられずにいる。正気を疑われるのが怖いから、そのことについて誰も触れようとしないけれど、僕だけでも記録を残しておきたい。それが僕の義務であると思うからだ。

 男が現れる直前、いじめの対象となっている全裸の男子中学生が衆人環視に耐えかねて自分の股間を両手で隠そうとしたので、僕は危ないと感じた。そんなこと四K(しけい)の誰も許していないからだ。案の定、四Kの一人ルイ・ド・ポーシャンコ長良川(ながらがわ)が噛み付いた。

「おいおいおいおい、そこの中坊。誰が前を隠していいって言ったんだよ、ええっ! 答えろよ、早く言えよって。聞こえてんだろう、それともよぉ……この俺様にシカトぶっこいてんじゃねえだろうな!」

 怒鳴られた全裸の男子中学生は全身をビクビクッと震わせた。元々半泣きだった眼から大粒の涙がポタポタと流れ落ちる。それがルイ・ド・ポーシャンコの怒りを増幅させた。

「男のくせに泣くな! 〇◎●×付いてんのかよっ!」

 男性器を意味する言葉を聞いて、公開私刑(リンチ)を見物していた中高等部の女子生徒たちがゲラゲラ笑った。それに気を良くしたのか、ルイ・ド・ポーシャンコはもっと卑猥で刺激的な命令を下す。

「おい、お前。いますぐ、あれをやれ。◎●×〇だよ、毎日やってんだろ? 欲求不満のメスどもを喜ばせてやれよ、早くしろ」

 残虐な命令に従い全裸中学生は頑張ったが、上手くいかなかった。ギャラリーの女子たちが罵声を浴びせる。緑の芝生が風に揺れ、そこに立つ少年の顎から滴る汗も風に流され斜めに落ちたように、僕には見えた。ルイ・ド・ポーシャンコは左右に侍る手下の学生らに無言で頷いた。命令を受けた十数名の手下どもが手に手に武器を持って全裸中学生に近付いていく。

 ルイ・ド・ポーシャンコが笑いながら言った。

「全然出ないようだから、手伝ってやる。縮こまっているのを思いっきり叩けばよ、出るぜぇ」

 四Kからの無理な要求を「いいえお構いなく私は結構です」と拒める生徒は、この学園の何処を探してもいないだろう。いや、世界中を探しても、それほど多くはないかもしれない。ルイ・ド・ポーシャンコは世界的な大財閥の御曹司だ。殺人を含め、好き放題やっても許される、との荒唐無稽な噂を皆が信じている。そんなこと、普通なら絶対にありえない、けれど……もしかしたらルイ・ド・ポーシャンコはアメリカ合衆国大統領よりも強い権力の持ち主なのかも、と信仰心にも似た崇敬の念を抱き子分になりたがる人間が大勢いて、それが彼の力を更に増強させていた。実際、子分にならないと身の危険があるから止むを得なくはある。例えば今、私刑(リンチ)の被害に遭っている男子中学生がそうだ。苦学生の彼は、ルイ・ド・ポーシャンコの子分への上納金を払えなかったため四Kへの反逆者と見なされ、子分どもによって授業中の教室から連れ出された。教師は勿論、何も言わない。教師だってサラリーマンにすぎないわけで、彼らも彼らの生活があるし、何より命が惜しいのだ。

 さて、怯え竦む丸裸の少年は、◎●×〇するどころではなく、かといって逃げることもできず、自分に迫る釘バット・オートバイのチェーン・鉄パイプ・メリケンサック等で武装したチンピラ学生ら虚ろな目で見つめ続けている。目が離せないのだ。その手が極めてゆっくりとではあるものの律儀に動き続けているのが悲惨で、かつ滑稽でもあった。ルイ・ド・ポーシャンコの言いつけを守れば許してもらえると本気で信じているのだろうか? そうだとしたら(なお)のこと、悲惨で滑稽で、愚かだ。

 そんな愚か者を熱心にスケッチしていたルイ・ド・ポーシャンコの異母妹(いぼまい)である順子(じゅんこ)が、兄貴の手下の無頼漢どもを怒鳴りつけた。

「顔のスケッチは仕上げまで終わってないから、殴って傷を付けられるとヤバいのよ。やんならボディーにしな、ボディーに!」

 順子は恐怖で歪んだ人間の表情が好きだ。噂では、虐殺された人間の死に顔を写生し、その素描を自室の壁一面に張り付けているそうだが、確かめた者はいない。その真偽はともかく、だ。彼女の声を聴いて、ならず者どもは一瞬、足を止めた。ボスの異母妹に対しても忠義心みたいなものを表そうと頭を下げる。撲殺される寸前の男子中学生も彼女を見た。彼女の尻の下で四つん這いの人間椅子となっている僕の姿は、彼の視野に映っていたのかどうか、それは分からない。はっきり分かっていることは、彼女を見た瞬間、少年の股間から白い物体が大量に放出された、という点だ。凄い量だった。火山の噴火で噴出する煙も()くやと思わせる放出量、と書くと大袈裟に感じる向きがいるかもしれないから記しておくが、白い煙みたいな何かが多すぎて、それに包まれた少年の体は見えなくなったし、煙の向こうの反対側なんて視界不良もいいとこだった。

 だから、あの男は煙に(まぎ)れて何処かから入って来て、入れ替わりに少年が姿をくらましたのだ、と唱える者が沢山いるけど、僕は同意しない。あの男は煙の中から現れ、少年は、その逆に、煙に吸い込まれるようにして消えたのだ。そう、もうもうとした白い煙のような何かが薄らぎ、その残滓も屋上庭園に吹く爽やかな風に流されたとき、芝生の上に全裸の少年の姿は見えなかった。代わりに白いタキシードを着た中年男が突っ立っている。日焼けした逞しい体をしていた。タキシードの内ポケットから煙草とライターを出して、火を付けた。深々と煙草を吸い、紫煙を吐き出す。そして白い歯を見せ爽やかに笑った。

「お招きにより参上仕った。はて、パーティーに招かれたと思ったのだが、それで合っているよな?」

 武装した悪漢どもは、突然現れた中年男に驚いていた。それは僕も同じだ。髭も生えていない少年が、頬髭に白いものが混ざる壮年に一瞬のうちに変わったのだから。

 唖然とする僕らに対し、ごま塩髭の男は何処吹く風だだった。辺りを見回し誰にともなく言う。

「喉が渇いた。酒をくれ」

 誰も男に酒を与えようとしなかった。法律なんてお構い無し、自由気ままな人生を送るルイ・ド・ポーシャンコだが下戸なので、このパーティーにはアルコールが持ち込み禁止なのだ。いや……たとえ酒類があったとしても、この男に酒の入ったグラスを渡す人間がいるとは考えにくいが。

 誰も酒を持って来ないので、男は再び言った。

「聞こえなかったのか? 酒を持ってこいと言っているんだ」

 そして武器を手にしたチンピラ学生集団をチラッと見て煙草を吹かす。

「気の利かない木偶の坊だな、棒切れの代わりに酒瓶でも持ってこいよ。駆け足でな」

 まるで魔法が溶けたかように、ルイ・ド・ポーシャンコが動いた。椅子から立ち上がって叫ぶ。

「舐めんな、ぶち殺せぇ!」

 ボスの命令に絶対服従の私兵学生たちが男に殺到した。殺人ショーを楽しみにしていたギャラリーから歓声が上がる。次の瞬間、ギャラリーに向かってチンピラの体が凄い勢いで飛んできた。一人二人じゃない。中年男は自分に襲い掛かる連中をサッカーボールのように蹴り飛ばし、ギャラリー目掛けて連続ゴールを決めている。ゴールネットは無く、人間ボールがギャラリーにぶつかる競技だった。これではサッカーというより人間がピンになったボウリングだ。いや、列車への飛び込み事故みたいなものだろうか。蹴られた学生たちの体はバラバラになってはいないものの、手足は勿論のこと、首まで異常な角度で曲がっていた者が多かったから、かなりの重傷だと思う。そして蹴り飛ばされた奴にぶつかったギャラリーからも怪我人が出ていた。逃げようとして将棋倒しになり踏み潰された生徒もいた。大惨劇だと言って構わないだろう。

 そんな中でも絵筆を握り続ける順子は流石と言おうか、どうかしていると呆れるのが正常か……僕には分からなかった。ただ、はっきり言えることがある。彼女の尻に敷かれている僕の背中はすっかり濡れてしまった。それが僕の汗なのか、順子に由来する液体なのか、その二つが混ざり合ったものなのか、それは分からない。

 半分以上の仲間が蹴り飛ばされてから、残りのチンピラ学生どもは戦意を失い、中年男に近付こうとしなかった。それがルイ・ド・ポーシャンコを苛立たせる。

「戦えよ、お前ら! 俺の命令が聞けないのかよ!」

 銜え煙草で男が言った。

「おいおいおいおい、その馬鹿ガキ。お前が出て来ても良いんだぞ。ただし酒を持って来い。この学校で一番の酒だぞ」

 あれほど力いっぱい蹴り飛ばしていたにも関わらず、呼吸は乱れておらず、その声は前と変わらなかった。そして男はくすっと笑って言った。

「大財閥の御曹司は、自分の手を汚さないってのか。長良川コンツェルンの跡取り息子がタイマン勝負から逃げるってのか。こんなんじゃ、世界の長良川家はお前の代で終わりだな」

 ルイ・ド・ポーシャンコの顔色が変わった。前のテーブルを引っ繰り返す。

「うるせえ、死にたいのか!」

 男はゲラゲラ笑った。

「お前みたいな弱虫が死んで、兄貴の方が生き残ってりゃ良かったのにな。死んだ兄貴なら、家名を汚すこともなかっただろうに」

 ルイ・ド・ポーシャンコが弱虫呼ばわりされるの初耳だった。そしてルイ・ド・ポーシャンコに兄がいたことも初めて聞いた。

 すっくと立ち上がるルイ・ド・ポーシャンコの影で目の前の芝生が暗くなった。身長190センチを超える大男で体格の良いルイ・ド・ポーシャンコは、ひ弱なお坊ちゃんではない。スポーツ万能で、長良川家に生まれていなければ運動部の特待生として入学できただろうと噂されている。当然、喧嘩も強い。だが……キックだけで武器を持った屈強な男十数名の半分近くを半殺しにした化け物を相手に、勝ち目はあるのか? いや、何十秒、持ちこたえることができるのか?

 男は煙草を芝生に捨て、靴底で踏み消した。ぐすりと笑う。

「兄貴の後を追って、往生せいや」

 そのときルイ・ド・ポーシャンコの横にいた順子が立ち上がった。その尻に敷かれていた僕の背中がスッと涼しくなる。彼女は兄を見上げて言った。

「あの男の無礼な振る舞いは許されません。ですが、お兄様が自ら手を下すまでもないでしょう。ここは私の犬に戦わせて下さいますよう、お願い申し上げます」

 私の犬と言っても、それはイヌ科の動物を意味しない。僕のことだ。順子が僕に命じる。

「立ち上がりなさい。そして、あの男を叩きのめすのです」

 僕は命令に従った。芝生の上から体を起こし、男に近づく。

 男の顔から薄ら笑いが消えた。

「そうか、お前は転移者だな。どこの異世界から来たんだ?」

 僕は答えなかった。それを見て男は、再びぐすりと笑った。

「別の世界から来て、女の尻に敷かれているってかあ。お笑いだな」

 挑発には乗らない。僕は間合いを測った。奴が足技を得意としているのは間違いない。不要に近寄れば、足が飛んでくる。その蹴りを避けられたら、勝ち目はある。だが、キックが直撃したら、僕は終わりだ。

「来いよ」

 そう言って男は手招きした。誘いに乗ってはいけない。十分に時間を掛けて、間合いを測るんだ。

 だが、そんな僕の姿を怖気づいているとルイ・ド・ポーシャンコは感じたらしい。僕を背後から怒鳴る。

「そいつのことが、そんなに怖いのか! 死ね、死ねよ、てめえ!」

 ピーピーうるさいガキ大将だと僕は思った。男も同意見だったみたいで、ルイ・ド・ポーシャンコに「うるせえ、黙れ」と言った。

 男の注意が一瞬ルイ・ド・ポーシャンコに向かった、と僕は思った。順子も同意見だったようで、僕に「今よ!」と叫んだ。

 正直なところ、余計なアドバイスだった。順子の叫び声で、男は僕の突進に気付いた。凄まじい蹴りが僕の左側頭部に命中する。僕の頭の中は真っ白になった。そして目覚めたときは、嵐に揺れる船室のベッドの上だった。

 僕は独り言を呟いた。

「戻れるのかな、元の世界へ」

 自分が戻りたい世界が、転生前の実世界なのか、順子の尻の下の世界なのか、自分でも分からない。僕に分かっているのは、自分が気絶すると別の世界へ転送されてしまうということだけなのだ。そして、転送された世界はどこも、正気が支配している場所でなかった。常に狂気がある。この部屋にも、狂気がみなぎっている。その狂気の半分は、自分が源だと当然、僕は知っていた。


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 現地へ行ってみたら聞いていたのと全然違ったよ! なんてことはしばしばある。ガッカリ観光地に限った話ではない。太陽系の諸惑星に到着した探検隊は自分たちが目にしている景色を信じられなかった。科学に基づいた予想がことごとく外れていたためである。紫色の原生植物が密生する火星のジャングルは生きた銃剣の如き鋭い棘で侵入者を拒み、金星の沼地人は高度な文明を持つ太陽系最古の知的生命体で宇宙に遅れて進出した地球人の良き相棒となり、木星の固い大地はアンモニアの氷塵(ひょうじん)の嵐とナトリウムの爆発で大破した数多くの大気圏降下着陸船が眠る墓場と化し、永遠に昼の続く水星の灼熱面は命知らずの冒険家どもが遭難して木乃伊(ミイラ)となる地獄として思考生物に恐れられるようになるとは、昔の人間には想像も出来なかったことだろう。

 これが並行世界(パラレルワールド)の実例である。今風にいうと異世界トリップだ。その旅が楽しい思い出いっぱいの物見遊山で終わるかどうかは、多分に運次第である。我々が暮らす、この世界を支配する物理法則の通用しない土地へ旅立つのだ。何が起こるか分かったものではない。

 それは勿論、別世界からの異邦人にも言える。遠い宇宙の彼方の、そのまた裏の世界から超ひも理論に基づくラムダ及びケイ電子管を利用したタウ空間転送で飛来したルブイエイス・カローンは、故郷では見ることのなかった光景を幾つも目撃し大いに驚いた。

 どういうものを見て驚愕したのかというと、魔法や超能力といった非科学的事象である。念力による物体移動、目から発射される破壊熱光線、高速周回運動で発生した残像を利用した分身の術、幽体離脱そしてエクトプラズムといった奇怪な超常現象はカローンの理解の範疇を越えていた。

 時間跳躍もしくは時間旅行という概念も謎だった。時間は過去から未来への方向にしか流れないものだ。これは、ありとあらゆる多次元世界に共通の法則である。だがカローンが訪れた太陽系第三惑星つまり、この地球には時間の流れを逆行する流離人(さすらいびと)や未来へ飛翔した――そして現在に帰還した――と称する者が大勢いた。

 それらの人間が詐欺師ではないかとカローンは疑い、検証のため時間旅行を体験したと称する何人かにインタビューを試みている。イタリア人ジョヴァンニ・ドローゴは、そのインタビューを受けた一人だった。ただしドローゴは、自分は時間跳躍者あるいは時間旅行者というより永遠の転生者に属するのかもしれない、と語っている。彼は、自分は転生を繰り返している、と真顔で言い切った。今回は時間を過去へ遡りオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に置かれていた十九世紀のトリエステに転生したのだという。

 時間遡行者にして輪廻転生者ジョヴァンニ・ドローゴはトリエステ在住のイタリア系オーストリア・ハンガリー帝国市民で、今回の転生前と同姓同名のジョヴァンニ・ドローゴとしての自我に突如として目覚めた。転生前の記憶は残っており、今ここにいる自分が未来から過去へ旅しているのだと理解できた、とのこと。特筆すべきは、このとき彼が恐慌に陥ることなく運命を受け入れたことだろう。

「生前の私は、英雄になろうと思って結局、何者にもなれず人生を終えました。転生したのは夢をかなえるため。目覚めた瞬間、そう確信したのです」

 そう語る彼は生前、似たような思い込みに囚われてしまったために一生を棒に振ってしまったらしい。人は生まれ変わっても、同じ過ちを繰り返すものなのだろうか? そうさ、それがループものの定番! と断言されたら、それまでだが、ともかく――ジョヴァンニ・ドローゴは新しい人生を英雄となるための冒険に費やそうと決めた。

 まずは身辺整理である。このときジョヴァンニ・ドローゴは数名の女性と同時に交際していた。彼女たち全員が自らの冒険生活に同伴してくれるのなら、危険な旅路とてさぞや華やかなものになるだろう……と夢想するも、全員が仲良く過ごせるとは限らない。むしろ、その逆となる危険性の方が高い、と考えるのが妥当だろう。そこで彼は、自分が冒険的新生活を求めていると彼女たちに匂わせ、それに付いてきてくれるものかと観測気球を上げてみた。

「波乱万丈な人生に憧れる……そんな気分になることが、君にはあるかい?」

 彼女たちの答えは概ね下記のようになった。

「全然。ところで結婚の日取りなんだけど、私は早い方が良いと思うの。それで構わないでしょ?」

 ないのかあるのか、あるのかないのか、どっちなのか分かりにくい質問文が悪かったのか? とジョヴァンニ・ドローゴは考えたそうだが、ここまで明確に否定しているのだから、彼女たちは波乱万丈な人生にはなから興味が無かったと断定して差し支えない。交際している女性たちの性格を把握していれば、あらためて聞くまでもない質問だったと思われる。ところで――不誠実な恋人に対し唯一人、結婚を迫らない女がいた。マリアという名だった。フランスやオランダを数か月旅行するのだと彼女は言った。家族や友人たちと一緒に名所巡りをするのだ、と楽しげである。

 ジョヴァンニ・ドローゴの喉元に嫉妬や羨望といった苦いものが込み上げた。

巴里(パリ)の空の下で食べるオムレツは、きっととても美味しいのだろうね」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。マリアと偽りの笑顔で別れ、トリエステの坂道を上るジョヴァンニ・ドローゴの胸中は空っぽで、その足取りは木星に降り立ったかのように重い。自分は、この転生でも、英雄に慣れず仕舞いで終わるに違いない。モブは何処まで行ってもモブなのだ……そんな思いが去来し鬱々となっていたとき、男に声を掛けられた。

「ジョヴァンニ・ドローゴだな」

「いかにもたこにも」

 男は手袋をジョヴァンニ・ドローゴの足元に投げ捨てた。

「お前に決闘を申し込む」

 人の恨みを買う覚えがないので人違いではないかと問い質せば、男はとある女の名を挙げて答えた。

「聞き覚えがあるだろう。知らないとは言わせないぞ。お前が捨てた女の名だ」

 捨てたのではなく、それぞれが別の道を進むことにしたのだと訂正しても、相手は聞き入れない。

「お前は彼女のヒモで、彼女の有り金が尽きると、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに捨てた。そうだろうが!」

 ヒモではなく、彼女が勝手に金をくれただけだ、と説明しても無駄だった。

「彼女の名誉を守るため、お前を殺すと俺は神に誓った。いざ尋常に勝負しろ!」

 短気な男だった。決闘のしきたりに従い証人や介添え人を立ち会わせず、この場で決着を付けようというのだから、単なる殺人である。ジョヴァンニ・ドローゴにしてみれば相手にするだけ馬鹿らしい。呆れ顔で立ち去ろうとすると男は冷たく言った。

「逃げるな。こちらを向け」

 ジョヴァンニ・ドローゴは、うんざりした顔で男の方を向いた。そこを撃たれた。胸と腹にそれぞれ一発ずつ。仰向けに倒れたところを、顔面に一発撃ち込まれ、とどめを刺された。どうしても好きになれない顔だったが、撃たれると名残惜しかった、と彼は言った。

「私は死んで現代に戻ってきました。英雄にも冒険の主役にもなれずに。ですが私は、脇役として、誰かの物語の引き立て役として、その役目を果たしたのです」

 過去の時代で何が何だか訳が分からないまま射殺されたジョヴァンニ・ドローゴは今、過去の自分に向き直ろうか否か、悩んでいる。自分を射殺した男が、その後どうなったのか、気がかりなのだ。

「あの男が口した名前の女は、私の知る限りでは性悪な糞ビッチで▽▼×、とにかくろくでもない女でした。そんな女に、あれほど入れ上げる愚か者が、あれからどんな人生を歩んだのか、とても気になるのです」

 転生を繰り返すジョヴァンニ・ドローゴだが、自らの意思で輪廻しているわけでなく、気が付いたら別の人生を歩んでいる、というのが毎度のパターンらしい。そんな彼にとって、過去の探求は簡単なことではないとのこと。

 インタビューが行われているホテルの一室はルブイエイス・カローンが借りたものである。その部屋は海に面していた。ジョヴァンニ・ドローゴは窓際の椅子に腰を下ろし、時おり白波に眼をやりながらカローンの質問に答えていたが、このときは自ら話を切り出した。

「ですが、ルブイエイス・カローンさん。あなたと知り合うことで、私は自分の新しい可能性に気が付きました。超ひも理論に基づくラムダ及びケイ電子管を利用したタウ空間転送を使えば、過去へ自由自在に戻れるのではないかと思うのです」

 ヒモが超ひも理論の有用性に目覚め、それで時間旅行しようというのである。

 妙な話だが、タイムトラベルの謎を追究する好機だった。ルブイエイス・カローンは、その提案を受け入れた。自らが使用している長距離移動を可能とする転送装置の予備を被検者ジョヴァンニ・ドローゴの首に掛ける。

「この装置は通信機にもなっている。これがあれば、こちらの世界と連絡が取れるから、何かあったら使うといい」

 ルブイエイス・カローンの厚意に、ジョヴァンニ・ドローゴは感謝の意を示した。

「それで、どうすれば機械が作動するですか?」

「首に巻いた部分を指で二度押せば作動する。一気に締まるから」

 注意しろ、とルブイエイス・カローンが言う前にジョヴァンニ・ドローゴは言われるままの動作を行った。その首に巻かれた紐が瞬時に締まる。倒れながらもドローゴは首の紐を取ろうとして必死にもがく。そのすべての努力を無視して、締まり続けること約三分。白目を剥き舌をダラリと出したまま意識を無くした男の体を見下ろし、異邦人は不安になった。

 ジョヴァンニ・ドローゴは過去にタイムスリップしたのではなく、あの世へ旅立ってしまったのではあるまいか?

 ルブイエイス・カローンは、首に紐を巻き付けたまま倒れているヒモを心配そうに眺めた。異世界への小旅行という、ほんのささやかな体験で、事故に巻き込まれてしまったときは、どうすれば良いのか? 旅行代理店に連絡を取ろう、と思っていたら部屋にホテルの従業員と警官数名が入ってきた。騒ぎを聞きつけた隣室の宿泊客がフロントに苦情を伝えたらしい。

 首に紐が巻き付けられた状態で物言わぬ姿のジョヴァンニ・ドローゴと一緒にいたルブイエイス・カローンは現行犯逮捕され、警察署に拘留中である。紐タイを模した転送装置は自殺防止のため取り上げられた。それが通信機になっているので旅行代理店と連絡も取れない。取り調べを受けた際に、自分は異世界からの旅行者だと伝えたら、起訴を逃れようと詐病していると誤解された。別世界からの異邦人はありふれた存在になっていると思っていたが、それは一般的ではないようだ。このままでは起訴は免れない、と国選弁護人は言った。殺意は無かったと供述して、死刑を回避すべきというのが弁護士側の考えだった。

「死刑を回避して、どういう刑罰になるんです?」

「無期懲役だね」

「無期懲役?」

「仮出所は無しね」

 何たる不合理! だがルブイエイス・カローンは絶望していない。どうしたら良いのか? それが全然、分からないだけだ。とりあえず、ぐっすり眠れば良いアイデアが浮かぶかも……と思って寝て目覚めたら、見知らぬ場所だった。

 グラグラ、ユラユラ揺れるベッドの上でルブイエイス・カローンは吐き気と戦った。しかし敗北する。ウェ~と口から吐き出した嘔吐物が床に散らばった。すると、その嘔吐物が突然、何事かを語り出した。

「ああ、良かった! 私です、ジョヴァンニ・ドローゴですよ! お会いできてよかった!」

 吐いたら落ち着いたためだろうか、ルブイエイス・カローンは落ち着いた声で言った。

「ずいぶんと見た目が変わりましたね」

「ええ、苦労しましたので……でも、それだけではないのです! あなたに危険を知らせるため、タイムトラベルの途中で立ち寄ったのですが、なかなかうまく実体化できなくて。異形の怪物とか、透明な姿とか、そうなったら面倒じゃないですか、色々と。そこで、良い方法を模索していたら、こういうのがベストだと思いまして」

「大変でしたね。いや、大変なのはこっちもそうです。どうなっているんです? こっちも困っているんですよ!」

 超ひも理論に基づくラムダ及びケイ電子管を利用したタウ空間転送を使ったタイムトラベルは、様々な時空の融合をもたらしているようです、とジョヴァンニ・ドローゴは言った。

「あの世に行ったり来たりもしました。ゲームの世界にも入り込みましたよ」

「ほうほう、それは凄いですね。ところで、こっちの話なのですけど」

 殺人犯だと誤解され、死刑か仮出所の無い無期懲役のどちらかを選ぶ羽目になった、とルブイエイス・カローンは訴えた。ジョヴァンニ・ドローゴは同情してくれた。

「それはお困りでしょう。大丈夫です。私が生き返れば良いのですから。えいっ、いきますよ!」

 嘔吐物はジュルジュルと床を動き、ベッドの下に入り込んだ。ルブイエイス・カローンはベッドの下を覗き込む。

「どうなりましたか……うわっ!」

 ベッドを持ち上げて現れたのは全身が黒ずくめの大柄な人物だった。両手の鉤爪が恐ろしく、ルブイエイス・カローンは震え上がった。

「あの……あなたは、何なのですか?」

 黒ずくめの人物は言った。

「まず、私がジョヴァンニ・ドローゴであることをお知らせいたします。それから、私が体を借りているこの存在が、私とルブイエイス・カローンさんが出会った世界に属するものではないこともお伝えします」

 別世界からの異邦人ルブイエイス・カローンは、キツネにつままれたような表情を見せた。

「驚くのは、まだ早いです。この存在は、あなたに危害を加えようとしていたようです」

 ジョヴァンニ・ドローゴは、自分が体を借りている存在の心――それが心なのか、実は分からないそうだが――を読み取り、殺害の意思を察知したという。

「これは困りましたよ。私がこの体から離れたら、この存在はルブイエイス・カローンさんを殺そうとするでしょう」

 その存在の発生メカニズムを勝手に借りてジョヴァンニ・ドローゴは話している。それは分かっているけれど殺人予告をされたルブイエイス・カローンは殺人鬼が話しているように思え、怖くて目が回った。

「あ、気をしっかり持って! ちゃんと立ってください! 深呼吸して!」

 気が遠くなる……と自覚しつつ、ルブイエイス・カローンは気絶した。


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 チート無双モード勇者ランキング審査委員会の出席者の多くは、実地試験の結果に満足しなかった。受験者たちは、実質的には、何もやっていないという意見が大半だったのだ。それでも、優れた候補者はいた、とチート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表は言った。

「私はナイフの名手、アールグレイ・フィロスバルキュレイが良かったと思う。彼を補充する勇者に認定してみたらどうか?」

 眼鏡をかけた委員が言った。

「結論を出すのは、まだ早いですよ。試験と受けていない人間は、まだいます」

 技術本部の役員は言った。

「追加の候補者の名前も挙がってきました」

 今日中に結論を出すのは難しいという意見が出され、出席者たちの多数決で、本日のチート無双モード勇者ランキング審査委員会は閉会が決まった。

 チート無双モード勇者ランキング審査委員会の代表は委員たちに「次回の予定はメールでお知らせする」と伝え、それから散会を宣言した。


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 この作品はアーツノベル大賞 【登竜門】という小説コンテストに投稿されたものだった。カルスロッピ・ダッダガーンは捜査令状を取りコンテストの主催者に命じて応募者の氏名と住所を開示させようとしたが、裁判所側は証拠不十分として捜査令状を出さなかった。

 そして第四の殺人事件が発生した。

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