ペンのたどる道
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふむふむ、吸血鬼は鏡に映らないのか……。
ああ、こーちゃんも調べもの? 僕もぼちぼちホラーを書いてみようと思ってさ。いまは取材中なのさ。
もっとも、こーちゃんのように文章一本でイメージが湧かない人間なんでね、僕は。ひとまずへたっぴな挿絵を描いて、そっから想像を膨らませていく。到着点は見えていてほしいタチなんでね。
で、ひとまずこれはサブキャラがのぞき込んだ手鏡に、すぐ横にいるはずの人物が映らず、困惑しているシーンのラフ。どうしてこーちゃんは吸血鬼が鏡に映らないとされるか、知ってる?
――鏡は魂を映すもの。吸血鬼の場合、魂はすでに地獄へ落ちて、肉体だけは母なる大地に受けいられず、さまよっているから?
さすがにホラー好きだなあ、こーちゃんは。
宗教などを背景に、魂と身体のあり方が身近な道具に反映される……というのは、よく聞くケースだ。
たとえ幽霊でなくても、得体のしれない生活の近くにある。その正体をあばくのが、僕たちの意図したものか、偶然であるかの違いはあるけどね。
ひとつ、僕の体験した昔話なんだけど、聞いてみないかい?
それはとある午後の授業だった。
その日は朝から天気がぐずついていた。雨こそ断続的な降りだったものの、雲はいっときも空から消えず。どんよりと空を覆って、明かりをつけた教室内と外では、温度差なら明度差がはっきりと見て取れるほどだった。
授業のしょっぱなは、教科書内容の小テスト。抜き打ちだったから、みんなからはぶうぶう文句が出たもんさ。それでもきっちりテストは受けるあたり、うちのクラスのみんなは素直だったのかもしれない。
やがて答えが配られ、隣の人と交換採点をする段になり。
空からじんわりと、陽の光が差した。10時間以上、空に居座っていた雲の図体に、ようやくほころびが生まれたんだ。
じんわりと広がる青空から、にわかに差し込む陽が校舎の裏庭を照らす。見る間にその版図は広がっていき、ついにベランダを乗り越えて、教室の一角にも入り込み始めた。
その時だ。僕の隣に座る子が悲鳴をあげたのは。
一番窓際の席に、彼女は座っていた。丸付けのために、紙を交換してほどなく。それはちょうど教室へ陽の光が差すのと同じタイミングだったんだ。
彼女の方へ向くより先に、視界を横切るものがある。
ボールペン。四つの色をその身に含み、学び舎のみならず多くの場で目にするだろう物品。それが宙をぴゅんと飛んだ。
ただ弾き飛ばされただけじゃなかった。
僕の視線を横切る刹那、ペンのグリップ部分が外れて落ちたんだ。
直後の光景も、また映画のワンシーンのようだ。内蔵される4つの替え芯のうち、2つが外れる。1つは赤、1つは青。
本体から逃げ、宙へ飛び出したその芯の中身は、遠慮なく飛び散った。
熱で中身が温まり、緩まっていたのだろうか。それらは教室の大半の床や机、椅子たちを汚したけれど、生徒の何人かにも被害が出てしまう。
肩にかかった子もいた。頭にかかった子もいた。指にも、制服のすそなどにもかかった子がいた。
一同、わずかの間だけ固まり、直後に短い悲鳴と騒ぎ声。
答え合わせどころじゃなかった。おしゃれに気をつかう子なんか、どこから出しているのかという甲高い声をあげ、教室を飛び出していったよ。
そこまでいかなくても、インクがくっついたところは、はっきり色が浮かんでいる。めいめいハンカチなどでその部分を必死に拭っていた。
身近な席の僕も、ただちに被害を確かめる。だが、奇跡的な角度だったのか、長袖長ズボンの制服のいずこにも、赤や青のインクの姿はない。ほっと、胸をなでおろす。
ペンを飛ばした彼女を見る。
この騒ぎが巻き起こるまでほんの数秒ほどだったけど、彼女は空になった手を見下ろしながら、細かく震えている。声をかけても反応せず、軽く肩へ手を置いて、ようやくびくりとこちらを見やった。
「ペンが指に見えたの」
ぽつりとつぶやいた彼女だけど、その場じゃこれ以上を聞けなかった。
彼女は被害に遭った者にたちまち絡まれ、それもまた先生の制止によっておさまるも、授業がすぐ再開されてしまったからだ。
みんなが戻る間も、授業が始まってからも、僕はそれとなく視線を落として、あのボールペンを探してみる。
ほんの少しの間とはいえ、視界にとらえたんだ。透明なカバーを身に着けたその姿は、彼女のいう指にはとても思えなかった。
落ちたのは、僕と隣に座る別の子との机の間あたり。さほど遠くには行っていないと思うのに、その姿はちらりとも見えない。グリップも外れているし、今回の騒ぎの犯人だったら、誰かしら見つけて拾い上げそうなものなのに。
先生が声を張り上げだしてから、少しして。あの外へ飛び出していった彼女が戻ってくる。
前髪が異様に濡れているうえに、不自然に短くなっている。インクを落としにかかって落としきれず、カットしたんだろう。
そのことがあっての翌朝。
僕は通学カバンを手に取って、首を傾げてしまう。カバンの側面に、親指がすっかり入ってしまうほどの大きさの穴が空いている。
昨日まではなかったはずだ。よくよく穴のフチを見ると、青を基調とした生地にうっすらと赤色がにじんでいた。あの、ボールペンのインクのように思う色合いだった。
その日の学校は、大小の騒ぎがあった。
小さいものは制服に穴、手や足の皮が少し剥けたなど。大きいものだと洗面所の一部が、大胆にえぐれているというものまで。
その水道場こそ使用が制限されるも、他はさして問題にならずに済んだ一日だった。
それから一年ほど経って。僕は新しいボールペンを買い求める。
通っている予備校で必要になるものだ。行きがけに買い、その日の授業でさっそくお披露目となった。
夏期講習ということもあり、昼間から授業がある。朝からのぐずついた天気の下、いくつものコマが過ぎていく。
そして午後最初のコマのことだ。窓越しに青空が、陽の光がのぞいたのが分かると、そうと意識していない右手が、ぶるりと震えた。
見下ろし、目を見張った時には、もうペンを飛ばしていたよ。
買ったときの、クリアなグリップをたたえるペンの姿はそこになかった。
雑多な生地、髪の毛、人肌……あらゆる生の香りをたたえた、指のごとき物体がそこにあったんだ。
宙を飛び、おのずと分解されたそれは、中から深紅の血をまき散らす。
僕は悟った。あの日の彼女もまた、同じような景色が見えていたんだと。
騒ぎもまた、あの日に似たようなものが起こり、先生の声で空気がまた戻ってくる。ただひとつ、あのペンは戻ってこないまま。
あいつはやがて、本当に「指」たる姿をもつのだろうか?