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ボクサー

作者: 西山鷹志

 見た目は体育系の逞しい体をしているが、狭いアパートの部屋はまるでゴミ箱の中のような感じだ。

 髭はボーボー頭はボサボサで眼の視線も何処を見ているのか定まらない辛うじて冷蔵庫の中だけはゴミが入ってないが、缶ビールだけは買いだめしたのか、ぎっしりと入っていた。

 また今朝も食事代わりのビールにハムソーセージだ。


 そんな男、長内勇治おさないゆうじにも輝いた日があったのだ。

 長内は後楽園ホールのリングの上で、高々と手を突き上げて勝利の雄叫びを挙げていた。

 全日本ウイルター級チャンピョンに輝いた瞬間だった。

 その夜は恋人の千秋と祝杯を挙げた。

 それが長内勇治のもっとも輝いた時だった。

 しかしチャンピョンとなり後援会の付き合いも断れずに、連夜の飲み会が続いたある日のこと。

 つい酒が抜け切れぬまま、飲酒運転をしてガードレールに衝突して警察に逮捕されてしまった。


 その日を境に、まるで潮が引くように周りの人は離れていった。

 もちろん日本王者は剥奪されて一年間の謹慎処分を受けた。

 恋人、千秋は泣きじゃくった。(しっかりして!)と慰めたが長内は酒に溺れ、だらしない男に成り下がってしまった。

 千秋はそんな長内を見て自分まで落ち込んでしまった。

 それからと云うもの、長内は踏み外した道を歩き始めてしまった。

 今ではヤクザの用心棒までなり下がってしまった。

 一度踏み外した道は、そう簡単に修復出来るものじゃない。

 千秋は(そんな貴方は見たくい立直るまで会わない)と消えてしまった。


 最後の支えを無くした長内は流石に堪えたのか用心棒は止めたが、酒に溺れた毎日が続く。 それでもボクサー時代の習慣だけは残っているのか毎日、湘南海岸の砂浜を走ることだけは止めなかった。

 長内は謹慎が解けて1年が過ぎても、ボクシング界に戻る気力は残っていなかった。

 もう30歳ボクシング界で、もう一花咲かせるには年齢的に無理と感じたのだろう。


 しかし一般社会では、いくらでもやり直せる年齢なのだが一度頂点に立った男は荒んでいた。

 砂浜を走って、またゴミ箱のような部屋に入りビールを煽りテレビを見るか寝るかの毎日が続いていた。

 そんなある日のこと、以前所属していたボクシングジムの会長である田辺が長内を訪ねて来た。

 「よう長内、随分と荒んだ生活をしてるな」

 「会長……」

 「長内、誰にでも失敗や挫折はあるものだ。まだお前は30だ。まだなんだって出来るボクシングだって遅くはないぞ」

 「会長……気持ちは嬉しいのですが、今の俺には無理っすよ」

 その時だった。会長の後ろに居た女性が、いきなりバケツに入っていた水を長内に頭から浴びせた。


 「なっなにをするんだ! 誰だお前は! ち……あき?」

 「久し振りね、勇治さん。いい加減に目を覚ましてよ!」

 突然現れた千秋に、長内は気まずさを覚えた。

 「ああ娘がな、お前が立直るのをずっと待ってたんだ。だがお前は一向に立直る気配を見せないお前に活を入れると言ってな」

 千秋は生まれた時から、父の経営するジムを見て育った為、少し気が荒い所があった。


 「俺はな長内。娘の婿に相応しいと思っていたが、今のお前なら娘はやれん。娘が好きなら認められる男になったらどうなんだ」

 長内は分かっていた。自分に負けたのだ。たかが日本チャンピョンになっただけで有頂天になっていたことに。謹慎を受けただけで挫折してしまった。

 確かにボクシングでの一年間のブランクは大きすぎる。

 「そうよ、勇治さん。ボクジングだけが人生じゃないじゃない」

 「でも俺からボクシングを取ったら何も残らない……」

 

 「だったらぁボクシングをやればいいでしょ!」

 煮え切らない長内に千秋は投げやりな言葉を浴びせた。

 「無理だよ。間もなく31だ。そんなに甘い世界じゃ無いことは分かっている」

 「ならトレーナーだってコーチだって出来るんじゃないのよ。もう! じれったい」

 「コーチだって?」

 長内は田辺会長を見て、何かヒントを与えられたような表情を浮かべた。

 「あら? わたし悪い事を言ったかしら…」

 「そうだ勇治。お前はボクシングも一流だったが教えるのも旨かったな。現役が無理ならコーチをやってみたらどうだ」


 勇治はコーチと云う言葉に閃きを感じた。確かにコーチなら出来るかも知れない。

 ボクシングを始めて10年、それだけの力量は備えていた。

 どうせボクシングだって年令に限界がある。コーチなら何年でも出来る。

 もしかしたら世界チャンピョンを育てられるかも知れない。

 「会長! お願いします。千秋の言葉に閃きました。コーチをやらして下さい。もちろん教える為の体力も付けますから」

 田辺と千秋は無言で頷いた。


 ジムは鎌倉の海岸添えにある。その砂浜を走る集団があった。

 先頭を走っているのは長内だ。その後ろに続くのは練習生達だが田辺ジムの有望株の選手達だ。一人は新人王を狙う本宮も居る。

 他の4人は四回戦ボーイだが、いずれは世界ランカーになれる素質を持っている。

 この5人は長内がスカウトして連れて来たものだ。長内は素質を見抜く能力にも長けていたようだ。

 それから三年、その内の一人、本宮は今日、世界タイトルマッチを迎えていた。

 この試合が終わったら、長内と千秋は結婚することを決めていた。


 だが結果は本宮の7回KO負けだった。

 本宮は落込んで愚痴をこぼした。

 「コーチ、俺はやっぱり世界チャンポンは無理ですかね」

 本宮は今日のKO負けで自信を無くしていた。

 「バカヤロー! 落込むじゃない! 人生に挫折がつきものだ」

 そんな二人の姿を見ていた会長と千秋は笑っていた。

 散々挫折を味わってきた長内は、昔の自分を思い出して苦笑いをした。

 挫折があるから強くなれる、今度こそ世界チャンピョンを育ててやる。



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