後編
『イチコの帰還 ——トウヤ編』
その日は朝のホームルームの時点から教室内がざわついていた。
ニコを始め年長組はなんだかピリピリしていたし、ナナコとハチコの二人はごくごく小さな声で私語を交わしていた。
大きな声を出して黙らせるのは簡単だったが、この雰囲気の正体が気になった。
コココはあいかわらずのローテンションだったので、唯一まともに見えたショコの耳元に口を近づけ聞いてみる。
「お社で何かあったのか?」
「お手紙があったのです」
「誰から?」
「イチコ姉様です」
名前だけは何度も聞いていた、九姉妹の長女だ。
このやりとりを聞いて、たまらずといった体でニコが会話に混ざった。
「先生、多分今日わたしたちの一番上の姉のイチコが帰ってきます。我が家でパーティをしますので、よろしければご一緒しませんか?」
「ああ、そいつは構わないが、今言うことでも無いだろう。どうした、今日は妙にみんな緊張している感じだな」
「……それは、そういう人だから仕方ないのです」
ニコはそう言うと下唇をかみしめている。
わかったような。わからないような、要領を得ないやりとりだった。
「とにかく一時間目だ、みんな自分の教科書とノートを出して——」
いつも通り、各自の自習中心の授業も終わった。
生徒を全員帰して、自分の書類仕事も終わらせる。
その時、校舎の前を横切るように、一台の二輪モーターサイクルが通過していった。
晩秋の色づいた山野を背景に、この里では見かけたことのない大型のモーターサイクルは、縛り付けられたり引っかけられたりした荷物を満載にしている。
そしてそこには猫族用のヘルメットをかぶって大きなゴーグルをかけた、ライダースーツ姿の長髪の若い女性が乗車していた。
あれがイチコだろうか。わずかに見える横顔からだけでも、意志の強さが垣間見える。僕は彼女に興味を持った。確かに個性的な人のようだった。
仕事を終え定時で帰宅し、コートをかける余裕も無く、家のドアホンが鳴らされた。
「トウヤ先生ー」
「お迎えですー」
ナナコとハチコがそろって訪ねてきた。
「やあ、二人でわざわざ呼びに来てくれたのか。他のみんなはどうしてる?」
『てんてこまいです』
二人の声が重なった。
お社のすぐそばの住宅に双子の先導で通された。中ではリッコより年上の姉妹達がバタバタと立ち働いている。
普段の食事はダイニングの大テーブルで取るが、今日は奥の大座敷のふすまを取り払って開放して、大きな卓袱台をいくつも連結し大宴会を張る構えのようだった。
そして大座敷の上座にどっしり腰を落ち着けて、もう杯を傾けている女性がイチコのようだった。格好はライダースーツから妹たちと同じような袴姿になっている。栗毛色のロングヘアは頭の高いところで結ってある。
「あ、トウヤ先生は上座にお座りください」
僕が来たことに気がついたミケコが、食事の用意をしながら言う。
ということは、あのイチコという長女と並んで座ることになる。今日は僕も客人という扱いなのだろう。幾分緊張してイチコまで歩み寄る。
「はじめまして。いま分校で教師をしている証トウヤです」
腰をかがめて右手を差し出し、握手を求める。
イチコは杯を置くと、右手を上に差し出して僕の握手に応えた。
「こちらこそ妹たちが大変お世話になっているようだ。社イチコだ。よろしく頼む」
そう言うとまた杯に手を伸ばし残った酒をあおる。
かつては年齢で一律にアルコール摂取の許可年齢が定められていたと聞くが、今は「成人と認められたら」酒を飲んでもよいという緩やかなルールが一般的だ。
僕も教師としてすでに成人扱いなので、飲酒に対して他からとがめられることは無い。
あぐらをかいて席に座ると、イチコが酒を勧めてくる。
「では挨拶代わりに」
杯を取ると注がれる酒を受け止める。僕の方もイチコの杯に酒を注ぎ、互いに杯をかわす。
本当に酒が好きな人であればこのまま杯を重ねることになるが、僕はまだ自分自身に対してアルコールはできるだけ自重するようにしていたため、この一杯で抑えた。
両親の体質から推測するに、自分は決して酒には弱くないはずだが、酔いはしばしば判断力を鈍らせるということを実体験で何度か経験している。
どこからが深酒になるか自分自身まだわからないので、一度は前後不覚になるまで酔ってみたいものだとは思う。
料理が卓の上にそろい、いよいよイチコの帰還を祝する宴の準備が整った。
まずイチコが立ち上がって口上を述べる。
「久しぶりだな! 我が妹たちよ。一人も健康を損なうこと無く再会できてとても嬉しく思う。まだ父様母様の大祓が終わらず寂しい思いをしていると思うが、それはお社の子の宿命とぐっと堪えよ」
そこでイチコは一息を入れ、続ける。
「私のほうからは土産も土産話も沢山用意した。父様母様に代わって皆を見守ってくれているトウヤ先生も同席してくれた。今宵は語り明かそうぞ」
宴が始まった。イチコの土産話に群がるのはイツコにリッコ、ナナコとハチコの双子だ。イチコは主に東部地方を回ってきたらしく、その土地土地の自然や日常風俗の話に花が咲く。
ニコとミケコ、ショコは主に僕と話しながらイチコの過去の逸話などを披露していた。中には誇張された逸話もあるらしく、聞きとがめてはイチコが自ら修正するような一幕もあった。
まだ五歳だったイチコが幼いニコとミケコを救ったという話もそうだった。ニコ達の話ではそこらにあった棒きれ一本で野犬を退治した、ということだったが、実際には剣術の練習中に木刀を持って駆けつけ、父親が到着するまで妹たちへ野犬を寄せ付けなかった、というのが事実だったらしい。
コココは最初ご馳走に興奮していたが、半分も食べないうちに眠くなってきたのか、飼い猫でコココよりも体長のあるコタにしがみつくようにして寝息を立てていた。
イチコは東部の湿原で捕らえたという、巨大魚チライのナイフのような歯を取り出して見せる。この鋭い歯で水際に近寄った鹿さえも捕らえて喰らうのだという。
普通に釣るのでは竿が持たない為、湖岸まで引き寄せてから銛で突くのだとイチコは語った。
イチコの話を聞いていると本当に旅そのものが好きなのだなということが伝わってくる。普通の人であれば、幾日もうっとうしい雨の続く東部地域の半島地帯を、エネルギー切れのモーターサイクルを押して移動するなど苦行以外の何物でもないだろうが、その経験をイチコは実に楽しそうに話す。
そして東の果ての突端からのぼる朝日を見た感動を話してくれるイチコの表情はとても晴れ晴れとして魅力的だった。
「ところで若先生」
イチコは僕のことを若先生と呼ぶことに決めたようだ。
「武術の心得はあるのかい?」
唐突な質問だった。返答に詰まっているとイチコは続ける。
「若先生、あんたはこの北奥の小さな里に骨を埋めるような生き方をするような男じゃ無い。そのくらいの人を見る目は持ち合わせているつもりだ」
イチコは持っていた杯をクイッと空ける。
「人間、そうしたら時には力で状況を押し開けなくちゃならない時が来るものさ。その準備はできているのかい?」
「……因果法、表裏百式は修めています。その中には無論刀剣に対する対応も」
「ふふ、面白いじゃないか。余興だ、私と勝負しろ!」
唐突な展開に唖然とする僕にミケコがささやく。
「イチコ姉様は父様仕込みの剣術の免許皆伝です。やめさせてください」
しかし僕はここで逃げるわけには行かないと思った。例え酒の席での余興といえど、ここで引いては僕はサクヤの託宣に従ってこの里へ来た意味を失うかもしれないと思った。
「わかった。庭へ出よう」
イチコに言うと僕は立ち上がる。大丈夫。酒にはまったく酔っていない。
「得物は何にする。私は木刀を使わせてもらおう」
「素手で十分だ」
この中ではイツコしか直接は知らないことだが、僕の左腕はカーボンナノチューブで構成された特別製の義手だ。真剣であっても傷一つつかないだろう。
「勝敗はどちらかが参ったの声を発するまで。いざ尋常に勝負!」
イチコの剣は鋭かった。巧みに間合いを操り、遠所からの打撃が目前で伸びると思えば、踏み込みからの素早い連打も襲ってくる。
それに対して僕は左手そのものを盾とできるメリットを生かして、ギリギリまで相手の打撃を引き付けてそれを払っていった。木刀の打撃の通らない僕の左腕にイチコはヒュウと口笛を鳴らす。
しかしそれだけでは勝利をつかむことはできない。空いている右手で印を組み、因果法の式を練る。いまこそ一般には公にされていない表裏の裏の式を使う局面だった。
「……天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、裏二三の式」
イチコも状況の変化を感じたらしい。激しい打ち込みを一時やめ、間合いを取る。
「自在棍!」
僕は右手に具現化した伸縮自在の棍棒を、定石に一捻り加えて打ち込む。
一方、イチコは間合いの概念の通用しない武器の対処に苦慮している。踏み込めばダメージの通らない左手と共に武器を払われ、リーチを取るとどこまでも自在棍は伸びてくる。
このままイチコから木刀をたたき落とす事ができれば僕の勝ちだ。そう思った瞬間、伸縮自在の棍棒をかいくぐり、イチコの木刀が僕の右手をしたたかに打った。痛みで因果法の式が解け、そのまま木刀は僕の首筋に触れる。真剣であればこれで終わりだった。
「参った」
僕の声にギャラリーも含めたこの場の緊張が解ける。
「……私とここまで打ち合った人間は父様以外でははじめてだ。やるじゃないか若先生。あとで話したいこともある。ゆっくりしていかれよ」
どうやら僕はイチコのお眼鏡にはかなったらしい。
◆ ◆ ◆
『大雪山へ ——トウヤ編』
「『古龍族』という存在を知っているか?」
イチコがワッカの里に帰ってきた当日。その晩の祝宴で唐突にイチコは僕にたずねた。
知識としては知っている。ただ、具体的にどのようなものかと聞かれると言葉に詰まる。
「地球病の発生とほぼ同時期に発見された生物、もしくは現象……とだけ」
「そうだな。我々はあれが生物なのかそれ以外の何かなのかすら掴めていない。しかし、若先生。あんたが地球病の真実に近づいていくなら、古龍族は避けては通れない道だ」
自分が地球病と因果力の真の姿を探し求めているという事は、アカムやエガシ氏同様イチコにも伝えてあった。
「どうしてそんなことがわかるのですか?」
「まあ、私も猫族の未来の為に色々嗅ぎまわっていたってことさ。そして古い伝承を集めるほどに古龍族の匂いが強まってくる。若先生、あんたも人類の過去と未来を知りたいなら古龍族に会うのが一番の近道だ」
古龍族に相見えて知恵をさずけられたという伝承は、その数は少ないながら存在する。それはかつてアカムによってもたらされた古い調査記録にも残っていたことだった。
しかしそれ以上に古龍族は生きている災厄、天変地異の類いと同様にその存在を知る人々にはとらえられていた。古龍族の怒りに触れ、丸一日続いた竜巻で壊滅させられた都城の伝承などは有名だ。
「い、イチコ姉様!」
その時、多少震える声ながらも決然とした調子でミケコが会話に割って入る。
「そんな軽々しくトウヤ先生を危険なことに誘わないでください!」
イチコはこれまでの真剣な表情から一転、キョトンとした顔をしている。
「どうしたミケコ。たぶん私とこの若先生の出会いは必然だ。私は地球病と古龍族の関係を示すのが自分の役割だと思ったまでさ」
「そうだとしても! 古龍族に会いに行くなんて死ににいくようなものです……」
泣き出しそうなミケコの表情とは対照的に、ふとイチコの表情が柔らかくなる。
「ミケコ、お前は私たち姉妹の中で一番お社の巫女としての修行を積んでいるからね。ミケコの感じる恐れもまた本当のことだよ」
鼻をすすりながらミケコがうなずく。イチコは自分の方にミケコを抱き寄せると話を続ける。
「でもね、大きな運命の糸に絡め取られてしまった人というのは、好むと好まざると関わらずにそっちに向かって走っていってしまうんだ。そこが断崖絶壁であっても、ぬかるんだ沼を足掻くような道であってもね」
翌朝、連休が続くこともあって、さっそく僕はこの北奥に住まうという古龍族、レタラに面会を求めて向かうことにした。ワッカの里から山へと向かう道をまっすぐ上り、万年雪をいただく大雪山の頂上付近に至ってからは歩行での登山になる。
ちょうど秋の初冠雪前で、オートモービルで上がれる高さは一年中で一番高くなっているはずだ。上手くすれば一日かからずレタラの住まうとされている場所にたどり着けると思われた。
この登山道はミケコ達のお社が管理する「お山」でもあるため、入山許可はお社で受けることができた。わりと詳細な地形図も渡される。
登山道具をオートモービルに積み込み、食料や飲料水なども念のため一週間分用意する。九姉妹に見送られながら、できるだけ気負わない表情で僕は発進した。結局ミケコは終始うつむいたままだった。
四輪駆動のオートモービルは林道を軽快に進む。このあたりはまだ人の手が入っていて整備されている。三時間ほど進むと木材を渡しただけの簡単な交通封鎖がしかれている。外に出て立てられていた看板を見ると、この先は熊族の土地になるため、登山者は正式な入山許可を得るようにと書いてある。
僕は封鎖されていた木材を外し、オートモービルを進めてからまた元のように渡しておいた。
ものの二十分ほどで道を封鎖する二人の人影が見えた。オートモービルを止め、窓を開ける。どうやら熊族のレンジャーがオートモービルの駆動音に降りてきたらしい。
熊族は平均身長が二メートルを超え、上半身の骨格・筋肉が非常に発達している。体つきだけでいえば人間とさほど代わらない猫族や狼族とは違い、異種族としての外見の差異は際だったものがあった。体毛が毛皮のように非常に濃いのも特徴だ。
「入山許可証は間違いないようだな」
レンジャーの一人が許可証をチェックする。
「用件は何だ?」
もう一人、やや大柄な方が低い声で尋ねる。ごく普通のやりとりだがその圧迫感は並大抵の物では無い。
「古龍レタラとの面会を求めに来た。何か気をつけた方が良いことがあったら教えて欲しい」
「……注意できることがあるとすれば、今すぐ引き返した方が良いということぐらいだ」と、やや小柄な方。
「もうすぐオートモービルでは上れなくなる。そこから歩いて五時間ほどだと言われている」大柄な方は見た目とは違ってわりと親切な性格のようだ。
二人と別れの挨拶を交わし、より狭くなっていく林道を上っていくと、やや広く踏み固められた場所に出た。木もほぼなくなり見晴らしは良い。森林限界だ。先ほどの熊族のレンジャーが言うように、この先は万年雪でオートモービルはここに停め、あとは徒歩で行くしかなさそうだった。
ちょうど昼時でもあったので、非常食とは別にミケコが渡してくれた弁当の包みを開ける。中には笹の葉でくるんだおにぎり二つと、玉子焼きと焼き鮭の入った密閉容器。その下にはなにか紙のようなものが挟まれていた。
「無事なお帰りを祈っています」ミケコの字だった。ぼくは服の内ポケットにその紙を大切にしまうとおにぎりにかぶりついた。
山頂近くの天候は非常に安定していた。オートモービルを置いたところで一泊して、明日の朝に古龍のねぐらに向かうという安全策もあったが、この天気の良さを逃さない方がいい気がした。
雪渓を踏み越え、地図に示された古龍レタラの住まう場所までやってきた時にはそろそろ太陽が最後の光を投げかけようという時分になっていた。徒歩で五時間という熊族のレンジャーの見積もりは正しかったようだ。
左右を切り立った崖に挟まれ、上から見るとV字型になるように進路は尽きていた。
「古龍よ! レタラよ! お前に会いに人間が来たぞ!」
大声で呼ばわってみるがまるで変化が無い。半刻ほど待って、ここは持久戦だと悟った。ひょっとすると古龍という存在はねぐらにじっとしているような物ではないのかも知れない。
携帯用の炊事道具で湯を沸かし、インスタントコーヒーをいれる。ここからは重量の軽い携行食になる。干した肉と固く焼きしめたパンをコーヒーと交互に腹に入れる。
ふと上を見ると満天の星空だった。首都からワッカの里に越してきた時も星の多さに驚いた物だが、今晩の星空は比喩ではなく本当に星に手が届きそうだった。
食事を終えると、特にすることもないのでさっさとシュラフに入って体力の温存を図ることにした。夜空はずっと見ていて飽きることがなく、流れ星も意外と頻繁に流れていることを知った。
眠りに落ちたという感覚はなかったが、いつの間にか周囲の雰囲気が一変していた。
慌ててシュラフから這い出て油断無く周囲を見渡す。星空が見えない。
ゴロゴロとなにか大きくて湿った物が転がる音が上から聞こえる。慎重に少しずつ視線を上に向ける。視界を覆い尽くしていたのは、なにものかの広げた巨大な翼だった。そこから伸びる首がちょうど僕の真上にあり。吸い込まれそうなエメラルドグリーンの双眸が僕をねめつけていた。呼気とともに脈動する光が額とおぼしき部位から体全体に行き渡っている。
シュラフで寝場所に定めたV字型の崖をすっぽり覆う大きさの生物がそこにいた。
「……レ、レ……タラ」
つぶやくだけでなかなか言葉にならない。そこに雷のような音が轟いた。
〈汝ハ人間カ〉
「そ、そうだ人間の証トウヤだ。古龍レタラに面会を求めたい」
〈我コソれたらナリ〉
意思の疎通はできるようだった。丹田に力を込めて声を振り絞る。
「教えて欲しい。地球病とは何か」
〈とうやニ問ウ、地球病トハナニカ〉
「なぜ人間は生まれる数が減って、姿形の違う者がいるのか」
〈汝ラハ急速ナ進化ノ途上ナリ。コノ後数千年ハ続ク物ト心得ヨ〉
「それは人間が起こした物なのか」
〈人為デハナイ。全テ地球ノ意思ナリ〉
「猫族はどうだ。あれは人間が作り出した物なのか」
〈否。彼ラハ進化ノ共時性ノ申シ子ナリ〉
「では、因果力とはなにか」
〈龍脈ノ力ヲエテ因果性ヲ意ノママニ操ルスベナリ〉
「なぜ人類にだけそんな力が与えられた!」
〈我ラ古龍ト同ジ魂ノ階梯ニ立ツ為ナリ〉
レタラはそう語ると翼をはためかせることもなく、ふわりと浮上した。
「待ってくれ! あと一つ! 地球の意思とはなんなんだ!」
〈……進化スル力、龍脈ノ結ビツキヲ崇敬セヨ〉
レタラは大きな一対の翼をはためかせ、四本の脚で空を駆けるように上空へ舞い上がっていく。風圧を感じることもなく、まるで天に吸い上げられるようにレタラは夜空の小さな点となり消えた。
腕時計を見るとまだ夜の十時だった。その晩はずっと起きてレタラの再訪を待ったが舞い戻ることはなかった。
翌朝、オートモービルを置いた場所まで戻ると、昨日出会った熊族の二人組が来ていた。
「あんた、無事だったか」やや小柄な方が言う。
「レタラの飛翔が昨晩あったので心配していた」大柄な方がホッとしたような顔で笑う。
二人の顔を見て、僕はようやく人間の世界に帰ってきたと感じた。
昼ごろにワッカの里に戻って来た時の大騒ぎは想像以上のものだった。
ミケコは泣くし、イツコとリッコはしつこくレタラについて聞いてくるし、イチコに事の次第を報告するだけで一時間以上かかった。
「進化の途上ねえ……私ら人間を使っていろいろやってみてるって感じなのかねえ」
イチコのざっくばらんとした理解を僕はむしろ好ましく感じた。
僕は自宅に戻るとさっそくアカムに電話をした。古龍へのインタビューによると、アカムの提唱している亜人種の複数起源説の方が支持されそうだと話した。
激しい進化の波に僕らは洗われているということと、その鍵の一つとして龍脈が浮かび上がった事が今回の収穫だった。なぜなら龍脈の安寧・護持こそがお社の巫女の責務だからだ。妹のサクヤの託宣でこの地に来た事による歯車がいよいよ回り出した気がした。
◆ ◆ ◆
『龍脈の秘密 ——トウヤ編』
大雪山の山頂に初冠雪のあった日の冷気に僕の息も曇る。
水垢離を終え身を清め、神職の赤い袴を身につけたミケコがお社の本殿から出てきた。
「準備が整いました」
「じゃあ実験を始めようか」
僕の服装は普段といたって変わらない、黒いスラックスに生成りのシャツ。それに焦げ茶色のジャケット。
僕らがいるのはお社の本殿の手前の拝殿だ。この向こうには普段は参詣者が詣でに来る境内がある。人払いをしている上、早朝ということもあり周囲に他人の気配はない。
「では、これから祝詞を心の中で唱え精神を集中します」
そう言うとミケコは僕の正面で正座をする。目をつむっているのは精神集中に専心しているからだろう。長いライトブラウンの髪は後ろで紙で留めている。
ピンと張り詰めた時間が過ぎ、ミケコがうっすらと目を開ける。半眼というのだろうか、普段のミケコの柔らかさは消え、透徹としたまなざしになっている。
「龍脈が視えています」
「それはどういうもの?」
「私の心の目はこの拝殿の遙か上にあります。そこからこの地域の龍脈を眺め下ろす感じです。北の海から上がってきた龍脈がこのお社を通り、お山の奥の院を通り、トウヤ先生がレタラと出会った龍穴に流れ込んでいます。龍穴からは、さらに遠方に龍脈が幾本も枝分かれしています」
「じゃあ視点を下げて僕を視ていてくれ」
ミケコにそう言うと、僕は因果法の式を発動させる。
「天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、表二十一の式」
僕とミケコの間の板張りの床の上に置いた、複数の紙人形が一つ、また一つとふわりと浮かび上がる。
表二十一の式はごく初歩の念動力だ。空中を舞う複数の紙人形達は僕らの間に円をなすように舞い上がり回転を続ける。
その間ぼくの両手は、紙人形たちに手のひらから力を与えるように向けられている。その手をパンッと柏手を打つように一拍し式を閉じる。同時に紙人形達も力を失いひらひらと床の上に落ちていく。
一方ミケコは、手を合わせ目をつむり軽く一礼して目を開いた。今度はいつものミケコの表情だ。
「どうだった?」
簡潔に僕は聞き、自分もその場に正座する。
「トウヤ先生の体内の魂が活性化して、床の上の紙人形に気が作用しているのが見えました」
「ここでいう魂とはどんなものなんだ」
「人間に限らず生物全てが持つエネルギーです。もちろん人間のトウヤ先生にも猫族の私にも魂も気もあります」
「うーん、それがなぜ龍脈の視える状態のミケコに視えたのか、ということか」
「……これは猫族のお社以外にはあまり知られていない事ですが、トウヤ先生には特別にお教えします」
もったいをつけてからミケコは話し始める。
「人間には経絡というエネルギーの通り道があります。血管やリンパ管、気管のような目に見える物もありますが、先ほど説明した気という魂に根ざしたエネルギーも経絡を通ります」
「その考えは古い医学書で少し読んだことがある。それで?」
「龍脈とは地球の経絡だということです。山や川、人のたどる道のような目に見えてわかるエネルギーの通り道もありますが、人間の気の経絡のように、普通は目に見えない地球の経絡が龍脈になります」
「ふむ。人間と地球に相似関係があるという考え方か。納得はできる」
僕はここで因果力とは何かを問うた時の、古龍レタラの言葉を思い出していた。
〈龍脈ノ力ヲエテ因果性ヲ意ノママニ操ルスベナリ〉
レタラは因果力は龍脈の力によって操られると言った。その力を生まれながらにして持っているのが現在の人類だ。
「ミケコ、ひょっとしていまミケコが龍脈と僕の経絡を視たように、猫族の中にも因果力に近い力が使える者がいるんじゃないか?」
僕の質問に対してミケコは目を伏せて、少し考える様子をみせた。
「……その通りです。猫族でも特に厳しい修行を積んだ者には神通力が宿ります。それは龍脈の力を自分の中に引き入れて操る力です。過去の、地球病が蔓延する前の猫族などいなかった時代にもそうした力を持つ人は少数ながら存在したと猫族のお社では伝えています」
「やはりそうか」
僕は一つの考えが思考のスープから浮かび上がってきつつあることを感じた。
「おそらく私の父母は、今トウヤ先生の見せてくれたほどの念動力は使えるでしょう。ただ、その力はあくまで地球の龍脈の力を借りておこなうことです。いま父母を始めお社の神職が総出でおこなっている大祓も、巨大な龍脈の力をなだめて安定させることが目的です」
「ミケコ。僕にはだんだんわかってきた。ミケコ達は龍脈の力を操ることができるんだよね。なら、龍脈を僕の体に引き込むこともできるんじゃないかな」
「!」
ミケコは絶句していた。これまで考えてみたこともないのだろう。
「できる……と思います。龍脈を操る力をまとめるのが神薙の役割です」
「じゃあ実験の続きだ」
僕らは境内に出た。僕とミケコは手を繋いで精神を集中した。
「トウヤ先生、これから少しだけ龍脈の力を先生に流します」
ミケコと繋いでいる方の右手がどんどん熱くなってくるのがわかる。
僕は普段より丁寧に因果力を解放する式を詠じた。
「天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、表十一の式」
普段ならマッチを擦った程度の炎を発生させる因果法の式だ。エガシ氏が自分でもこの程度なら、と言って使った式でもある。
僕が目の前三メートルほど先に小さな炎を発生させるイメージを作り出した。その瞬間——立ち上る火炎の柱の熱量に僕らは顔を伏せ後ずさっていた。
「これが因果力の本当の力か!」
思わず僕は叫んでいた。ミケコが握る手にギュッと力を込めているのを感じ、炎からかばうように背中を抱いて式を解いた。
現れた時と同様に、唐突に炎は消えた。
「ミケコ、僕らは凄い発見をしたかもしれないよ!」
まだ呆然としているミケコをそのままに、僕はこの力をどう理論化するか考え始めた。妹のサクヤの特殊な因果力「未来視」についても、これで解明が一気に進むかも知れない。
「今の人類が使っている因果力は、あくまで自分の体内にある気を操って行使するものだから、その力には限界があったんだ。これが地球を流れる巨大な気である龍脈の力も使えるようになれば、因果力は果てしなく大きな力を得ることになるかもしれない」
「それは人間としての分を超えることになるのではないでしょうか」
ミケコは龍脈の巨大さ、恐ろしさを知っているからか慎重論を述べる。
「古龍レタラは言っていたよ、人類に因果力が与えられたのは『我ラ古龍ト同ジ魂ノ階梯ニ立ツ為ナリ』とね。それにはまだ数千年も数万年もかかるかも知れないけど、地上で生きていく以上必ず通る道なのかも知れない」
それを黙って聞いていたミケコはまだ憂い顔のままで何事か考えている。
「人間が古龍と同じ存在になる……いまの私には想像もつかないことですが、進化の道筋というものはそう用意されているのかも知れません」
「これはぜひもう一度レタラと話をしてみたいものだな。人間が古龍と同じ存在になる運命を背負っているなんて、なんて壮大な話だろう!」
僕は単純に浮かれていたが、ミケコはまだ晴れ晴れとした顔にはならない。さすがに僕も心配になってきた。
「ミケコ、さっきから心配顔のままだよ。僕に相談できることなら話を聞くよ」
「……そうですね。トウヤ先生にはもっと早くいまの状況を話しておくべきでした」
妙にもったいをつけてミケコは話す。
「私たち姉妹の両親がお山の奥の院で大祓を行っているのはご存じでしょう」
「もちろん。それでお社の神職のほとんどの人がかり出されているとか」
ミケコは小さくうなずくと話を続ける。
「今おこなっているのは、寿命の尽きかけているレタラの延命の為の臨時の大祓です。あの北奥の龍穴は間もなく主が不在になってしまうんです」
「龍穴の主……か。単にレタラが寿命をまっとうして、ねぐらが空きになってしまうという話なんじゃ無いのか?」
「古龍は伝承にもあるように都一つを一晩で滅ぼすこともできるほどの、巨大な力を持つ存在です。その力を保つには龍脈の結節点でもある龍穴にねぐらを持つことが必須条件です。そして主が不在になってしまった龍穴を狙う存在も地上には存在します」
「具体的にはどんなものなんだ?」
サクヤは口に出すのも厭わしいという表情で言葉を続ける。
「邪龍と呼んでいます。一つの龍穴をねぐらと定めず、世界を流浪しながら龍穴を荒らし回す存在です」
「でも龍穴を持たないなら、強力な力は発揮できないんじゃないの?」
「その通りです。だから邪龍は普段は深い湖底などでエネルギーの温存につとめています。そうした邪悪な存在を封じ込めるのも私たちお社の役目です」
「話が見えてきたよ。その邪龍の中の一つが目を覚ましたということか」
「……そうです。私たちはウェンカという名前で呼んでいます。大雪山中のある湖沼の一つに封じてあったはずなのですが、力を蓄え自力で這い出てきたようなのです。そしてレタラの余命が尽きかけていることに目をつけたようで、熊族のレンジャーなどから龍穴の近くでの目撃報告が相次いでいます」
ミケコが憂えている理由がようやくわかった。しかし僕に何かできることがあるだろうか。
「ミケコ達のお社ではどう対策を立てているの?」
「とにかくレタラの延命を第一に、レタラ自身が近づいたウェンカを滅ぼしてくれる事を期待しています。私たちはその可能性を高めるために龍脈からレタラに力を送っているのです」
「ただ龍脈と言っても単純なものではないんだな」
「だから私はイチコ姉様が古龍の話を持ち出したことに反対したのです。先生がそれに巻き込まれるような気がして……」
ミケコの気持ちは嬉しかった。しかし僕自身はこの運命に立ち向かわなければならない予兆を感じていた。
◆ ◆ ◆
『露天風呂 ——トウヤ編』
お社の奥には熱い鉱泉の湧き出る泉があり、その湯は近くの沢に流れ込んでいる。これをそのままにしておく手はなく、石と丸太で囲いを作って広い露天風呂にしてあった。湧き出す湯量は結構なものがあったので、掛け流し源泉の贅沢な露天風呂だ。
朝から夕方までは里の住人に開放しており、夜はお社の住人のみの自家用の温泉になる。
首都にいる間、僕は温泉につかるという趣味を持ち合わせていなかったが、朝の始業前の世間話でそのことをイチコに明かすとそれはもったいないという話になった。
「私なんてここの湯につかるのが楽しみで、旅から戻ってくるようなもんだ」
それはさすがに言い過ぎだろうと思ったが、ぜひ一度入ってみろとイチコは促す。
それならば、ということで、夜のお社専用の湯になった時点で、時間を区切って男湯、女湯にしようということになった。
「じゃあ六時から八時までが男湯、八時以降は女湯にしよう」
たしかにそうイチコと約束したはずだった。
六時になった早々に漬かった温泉には、水道水を温めて湯にした内風呂とは違い、何とも言えない香気があった。ライトアップされた周囲の木々の紅葉も美しい。
ゆったりとした気分で手足を伸ばして湯に漬かるのもたまには悪くない。そろそろ上がるか。そう思った矢先に、脱衣所の方から戸の引かれるガラガラという音が聞こえた。
「いちばーん!」
「にばーん!」
ナナコとハチコの声だ! イチコは二人にこの時間は男湯になることを伝え忘れていたのだろうか?
脳内に選択肢が閃く。すぐに湯を出て二人に今は男湯であることを告げるのが一つ。とりあえず近場の大きな岩陰に身を隠すのがもう一つ。
もちろん選択肢は一番目だ。ハンドタオルで下を隠し、湯から上がろうとした矢先、どれだけ早く衣服を脱いだのか、磨りガラス越しにナナコとハチコのシルエットが見えた。
これはまずい。場合によってはロリコンのペドファイルの変態性欲者のレッテルが貼られてしまう。脊髄反射で僕は頭まで湯に潜り、不本意ながら一番大きな岩の陰に身を隠した。
湯から鼻から上を出し様子をうかがう。
「湯船に入る前にお湯かぶるんだよー」
「木の桶って木のいい匂いがするねー」
今のところナナコとハチコの二人しか露天風呂には来ていないらしい。三年生の二人ならまだ男女の区別もしっかりついていない年頃だ。
今ならまだ何とか間違いを弁解できる。そう自分を説得し、立ち上がろうとしたした瞬間、またも脱衣所の方から声が聞こえた。
「イツコはいつも藪や野原を駆けているから、そう肌に傷がつくのですわ」
「そうか? でも傷なおるから温泉はいる。ミケコ姉いってた」
——イツコとリッコか! もう言い逃れは不可能になった。
僕はこの岩の陰で全員が湯から上がるまで耐えるしかない運命となった。というかこの場所にいる状態が長引くにつれ、自分の立場もまた風前の灯の状態が続く。いつ灯が切れて断罪が下されるかわからない状態だ。
心拍数が上がっているのは湯に漬かっているせいばかりではあるまい。このままでは年長の娘達も来てしまう。
自分がいま隠れている大岩の後ろには、湯を逃がさないように浴槽の縁になっている背の低い岩しかない。その下は急な斜面となっており、そのまま沢となる。裸の裸足でこの斜面を伝って沢にも落ちずに怪我もせずに逃げおおせることは可能だろうか。
命を賭す覚悟があれば可能だろう。だが自分は今、のぞき魔として見つかるかどうかという非常に低レベルな問題で煩悶している。こんな事に命をかけるなんてバカバカしい選択はできなかった。
イツコとリッコの二人も湯船に入ったのか、会話する声が聞こえる。
「……ところでさ、あの新米教師」
「トウヤ先生?」
「ほかに教師などいないのですわ!」
「イツコはもう。トウヤ先生は新米じゃないと思うぞ」
「そうなのですわ。それが生意気なのですわ」
「イチコもトウヤ、みとめてると思う」
「それにミケコ姉様の態度……」
「誰かわたしのこと呼んだ?」
ミケコの声も聞こえてきた。
「何でもないのですわ!」
「そう? ほら、ショコそこの石、割れかかってるから気をつけて」
「今度石工さんを呼んで直してもらおうよ」
「そうね。昼間に利用してる里の皆さんのこともあることだし」
「お、みんなそろってるなー。ニコ、コココの世話もいいけど早く来いよ」
イチコの声。これで全員そろってしまったようだ。
「いやあ、今朝若先生にここを六時からは男湯にするって言って、皆に伝えるの忘れてたから、ひょっこり出くわすアクシデントでもあるかなと思ったけど、若先生も様子を察してか来ていないようだな!」
やはりお前のうっかりのせいか! 僕は心の中でイチコを呪った。
「コココもはやく一人でお風呂に入れるようにならないとね〜」
いつになく優しげなニコの声だ。分校では学級委員長として気を張っているが、ひょっとするとこっちの方が本来の性格なのかも知れなかった。
「ほら、ナナコの方が大きいよ!」
「ハチコのも次は大きいもん!」
何の話かと思えば、湯に手ぬぐいをつけて間に入った空気をまとめてクラゲのような形を作る遊びをしているようだった。できたクラゲをそのまま湯の中に沈めると細かい泡がのぼってきて、顔の前ではじけるので楽しいものだ。
思えば自分にはこうした子供時代の楽しい経験というのが乏しい。父は地球維持機構の政治家で、職務の為にほとんど家庭を顧みず、母親も「真にイレギュラーな」因果力を持つ妹のサクヤを生んでからは体を壊して伏せりがちになった。
サクヤに至っては、能力を発揮し始めた五歳の時から外界からの情報を徹底的に排除する特別室に拘禁されている状態だ。肉親の僕といえど、月に二、三度の面会が許された程度だった。僕は徹底的に家族の縁というものが薄い運命なのだろう。
むしろ五年生から飛び級で入った全寮制の学校で、はじめて人との付き合いというのはどういうものか学んだような気がする。ひどくませて憎たらしいガキだったと思うが、いくつも年上の同級生達は、手加減なく容赦なくぶつかってきてくれた。あの経験があるから、いまここで人を教え諭す仕事ができているのだ。
その点、両親こそ今は離れて暮らしているが、こうして仲の良い姉妹で一つ屋根の下に暮らしている九人姉妹の境遇はうらやましく思えた。
「どれどれ、久しぶりの姉妹水入らずでの露天風呂だしな〜。お姉さんに発育具合を見せてごらん!」
イチコがおどけた声で手当たり次第に姉妹を襲っているようだ。ひょっとしたら少し酒が入っているのかも知れない。
僕は誰かがまちがってこの岩の裏に来ないように祈るばかりだった。
「ミケコ〜いくら育ち盛りだからといって、この胸まさか私を抜いてないよね!」
「イチコ姉様に勝てるわけないじゃないですか。っていうか揉まないで!」
いくら先生と人から呼ばれている身とはいえ、僕だって健康な十代の若者だ。容赦なく耳に入るこの音声はクルものがある。
しかしここで欲望を全開にするわけにもいかない。それは社会的生命の死を意味する。このひどくアンビバレンツな状況が早く終わってくれと念じ続けた。
「ショコはまだまだこれからかな〜というか全体に痩せすぎよ。もっと食べなくちゃ」
「あ、あの好き嫌いとかじゃないんです。一度に食べられる量が少なくて……」
こんな時でもショコは真面目だ。泣けてくる。
「ニコはわりと背が高いからスリムに見えるけど、着やせするタイプよね。こういう落差は武器になるわよ〜」
「いつなんの武器になるんですか!」
「いやほら、海水浴とか」
この長女と次女はどこまで真面目に話をしているのだろう……。
「こらっ、ナナコ! 湯船で泳がない! ハチコも真似しない!」
ミケコの声が飛ぶ。
「リッコ、その長い髪、洗うの邪魔?」
「ぼくはイツコみたいに女を捨てた格好は耐えられませんの。入浴後も一時間かけて髪の手入れはしてますわ」
「へー」
これには僕も驚いた。七年生でもうそんなに美容に気を遣う子供もいるのか……。
「コココ、シャンプーしながら寝ちゃだめぇー」
ショコが洗ってやっているようだが、こんな状況でも眠れるコココは将来どれだけ大物になるんだろう……。
「でもまあ、今回私が帰ってきて、みんなの表情が明るいままで安心したよ。これもあの若先生——トウヤ君のおかげかな?」
イチコの声に反対意見は上がらない。少しの沈黙の間が問いを肯定してくれていた。
「まあ、まだ危なっかしいところがありますけどね」
ニコはこんな時にもチクリと一刺しするのを忘れない。
「ただ、有能さだけでみれば前任のエガシ先生を遙かに凌駕しています」
「ははは、エガシ氏は勉強を教えるというより、人生を教えてくれるタイプの先生だったからな。その点若先生はニコからコココまでみんなと一緒に人生を送ってくれるタイプだ。こういう経験はなかなかできるものじゃないから、みんなあの若先生をあまり苛めないように頼むよ」
最後の最後でイチコのフォローが入り、入浴時間もようやく終わりを迎えてくれた。
これでもう一安心。あとは全員脱衣所を出るのを見計らって……。
気がついたら上気した顔に柔らかい風が当たっていた。僕の頭はなにか柔らかくて温かくて張りのある物の上に乗せられていた。
パチリと目が覚めるとそこには団扇を持ったイチコのいかにも愉快そうな顔があった。
「露天風呂の陰で一時間の長湯ご苦労様。これは私からのほんのお詫び」
湯のぼせした僕を引き上げて、浴衣まで着せて、脱衣所で膝枕をしてくれていたらしい。
これで僕は一生この人には頭が上がらなくなったなと思った。でもそれでいいような気もするのだった。
◆ ◆ ◆
『イチコの旅立ち ——イチコ編』
初雪の舞う少し前、雪虫という白い雪片にも似た昆虫が群れをなして飛翔する。夏の間はごく小さなめだたない姿でユキヤナギなどの樹液を吸っているが、冬の訪れが迫ると羽が生え白い綿のような物質で包まれた成虫が生まれる。
一週間ほどの寿命しか持たない成虫は、空中で交尾をし冬を越える卵を産み付けて死ぬ。
半年ぶりにワッカの里に帰ってきた私も、雪虫のように冬を避けるため、また旅立つ準備をしている。
お社の長女としてお山を鎮める役割が期待された頃もあった。しかし、三女のミケコが数世代に一人出るかどうかという神薙の才能の片鱗を見せ始めた頃から、両親と一族の関心はミケコに集まっていった。
それを不服に思う子供時代も無いでは無かったが、エガシ先生をはじめとした里の大人から神職以外の道のあることを教えられ、今でもそれを探している途中だ。
長女の私がこんなだから、根が優しい次女のニコなどは妹たちの面倒を見る責任感で無理をしてでも大人を演じている。
少しは肩の力を抜いたらどうだ、と言いたいところだが、その責任を放棄した当人の私からそんなことを言われたら、あの子は激高してしまうかもしれない。今のところは禁句だ。
こんな私でも一応北奥のお社の長子だという身分さえ明かせば、各地のお社で雨露をしのぐ場所くらいは貸してくれる。IDカードを持っていれば衣食には困らないので、モーターサイクル関係の維持費くらいしかアルバイトをする必要がない。それ以外の時間は、私は猫族のお社に伝わる古文書について専ら調査している。
分校でも習ったことだが、私たち猫族をはじめとした亜人種は、地球病への対抗手段として人為的に作られた種族だということになっている。だから地球維持機構も私たちを差別せず一律に人類として扱ってくれている。
トウヤはそこに疑問を持っているらしい。本当に亜人種は遺伝子操作で生まれたものなのか。古龍レタラの言葉にも、猫族は人為ではなく地球の意思により自然発生した、と取れる返答をもらったと聞いた。
この証言は重い。特に猫族の中でも龍脈を鎮護するために存在するお社の一族にとっては、一族の秘伝としてきた言葉と古龍の話したという内容が一致したことにもなる。
曰く、猫族は龍脈の神薙として大地に生を受けた者也。
これだけを持って地球病に関する公式見解を塗り替えられるとは思っていないが、今の地球病研究では龍脈が不当に軽視されていると私は感じている。
龍脈を鎮護する一族の末裔として、私は自分のやり方で成果を出してみせる。
そのパートナーとしてトウヤは最適な人材なのかも知れない。ふとそんなことも考えてみる。
「出発は週明けだったんじゃないですか?」
私が来てから習慣になった我が家での一緒の夕食で、トウヤは驚いた表情を見せた。
「いや、そろそろここらにも初雪が降りてきそうだ。ちょっと早めに週末には出ることにするよ」
「ニコ、聞いてたか?」
「いいえ、私も初耳です。まあ、イチコ姉様の気まぐれはいつものことですので慣れっこです」
「いや、そうあっさり返されると、それはそれでちょっと傷つくなあ……」
ツンツンしたニコの台詞に私も苦笑を隠せない。
「今度はどこに向かわれるんです?」
トウヤの質問に少し考えてから答える。
「中央を回り込んで、大雪山の南側の地域を見て回ろうと思う」
「大雪山に至る道は一本では無いということですね」
「まあ、そんなところかな。ニコ、済まないがまた留守中を頼む」
「一族の通いの神職の皆さんがいますからお社は大丈夫ですよ。妹たちは責任を持って私が面倒を見ますから安心していてください」
途中から凄い負のオーラを感じた気もするが気のせいだろう(ということにしておこう)。ともかく、ここは私などいなくても上手く回っているのだ。でも気がかりはミケコとショコのことだ。
「ミケコ、神薙の修行は厳しいか?」
突然名前を呼ばれてミケコは背筋がピンと伸びる。そのせいで、ちょうど箸でつまんでいた里芋の煮物を落としそうになる。
「えっ、さっ、ほい、ふう。……もう子供のころからの習慣なので、厳しいもつらいもないです。でもこれからは水垢離の水が冷たくなるので、少し気を張らなくちゃいけないですね」
そう言いながらにっこりとミケコは微笑む。本当によくできた子だ。ついでに箸の扱いも上手いとくる。
「ショコは喘息の方は良くなってきた?」
「……うん、ううん」
ショコはどちらとも取れる返事を返してくる。まだあまり病状は良くないのだろう。姉妹の中では一番純粋で繊細な子だ。まっすぐ育てないとどこかでポキリと折れてしまいそうな危うさがある。
今のショコはミケコへの依存がとても強い状態なので、ミケコがこのまま神薙として組織の中で頭角を現すにつれ、ショコの居場所はなくなってしまうかも知れない。それを上手く別の場所へ導いてやれるかどうかだが……。ここは姉妹よりもトウヤにがんばってもらったほうがいいのかもしれない。
一方で、イツコより下の姉妹達についてはあまり心配していない。姉たちの背中を見て思い思いに育って欲しい。
そんなことを考えながら箸を進め、まるで自分が母親気取りなのにむしろ自分で驚いた。そんなキャラでは無かったはずだ。自分もそんな歳になったかねえ……などと自虐的に思ってみる。
「ところで若先生」
再度トウヤに話を振る。
「私ら姉妹の両親が今どこにいて何をしているかご存じか?」
「ええ、聞いた限りでは。猫族のお社の奥の院で、山中に籠もって龍脈からレタラに力を送る大祓をしているとか」
「そうなんだ。それでなんだかんだでこの里まではもう一年近く戻って来ていない」
「それは……長いですね」
「知っての通り龍脈の安寧・護持こそが我が猫族のお社の役目。特にこの北奥は北の要とされている地だ。若先生は幸運にも古龍レタラと相見えたわけだが、古龍は龍脈の象徴・精華ともされる存在だ。だから若先生のこの先の人生に龍脈は絶対に関わってくる」
理詰めで考えるとおかしな理屈のように聞こえるかも知れないが、これが龍脈というとらえどころが無いくせに、振るう力は絶大無比な存在に対しての、猫族の、特にお社関係者の常識なのだ。
「僕はこれまで龍脈という存在は、猫族の宗教上の概念だとだけ思っていました。それがあんな超自然的な存在の古龍を見てしまった上に、龍脈の力を借りる事を実際に体験した以上、イチコさんの言うことも信じないといけませんね」
「そこでだ。私も若先生の目的の『地球病と因果力』の関係について、今後知り得た事は報告しよう。代わりに若先生は自分の調査範囲内で、龍脈について今後知り得た事を教えて欲しいんだ」
「わかりました。僕なりに立てている推論もあります。今後は連絡を密にいれましょう」
最後のトウヤとの会話はなんだか食事時にするような内容では無かったかもしれない。しかし、自分には確信があった。ただの人間が生きた龍脈ともいえる古龍と言葉を交わすなど、知る限りほとんど無かった事だ。ここをうまく叩けば絶対に何かが出てくる。
その一方で自分自身が古龍に会いに行くことなど、想像するだに恐ろしいことだった。
猫族のお社の子として、龍脈の怖さ、恐ろしさは身に沁みて叩き込まれている。いま両親のおこなっている大祓では、龍脈に不用意に触れて死人まで出ているのだ。
まあその辺りを承知の上で、トウヤに古龍に会いに行くことを提案した自分の計算高さ、腹黒さにも我ながら辟易とする。あれでもしトウヤが死ぬようなことがあったなら、私は一生ミケコに恨まれるところだった。
翌日。
最後の秋晴れといった風の、日中でも肌寒い日となった。
モーターサイクルには必要最低限の荷物しか積んでいない。まずはモイの街まで出ればどうにでもなる。帰ってくる時は土産やら採集したサンプル、資料やらが満載だったが、出る時はすかすかなくらいが丁度いい。
午前中は授業参観と称してトウヤがどんな先生ぶりなのか教室の後ろから見せてもらった。トウヤ以上にニコやショコが緊張しているのが可笑しかったが、肩肘張らず一緒に考えさせるような授業の進め方は、とても教師生活一年目とは思えなかった。さすがは首都の大学始まって以来の天才と称される人物だけのことはある。
午前中の授業が終わった。全員で教室内でお弁当を食べる。
前列のリッコ、ナナコ、ハチコ、コココが机の向きを逆にして、横に長いテーブルを作る。
いつもはリッコ側にトウヤが席を置くのか、コココ側に置くのかで一悶着あるそうだが、今日はコココとイツコの横に私が席を置いたことで、トウヤはリッコとニコの側に自動的に決まった。
たいした事を話すでも無い昼食時のおしゃべり。こんな退屈な日常は早く終わってしまえと思っていたあの頃。しかし、たった半年前にこの分校を卒業したばかりだというのに、柄にも無くこみ上げてくる物があった。
人は歳を取れば取るほど感傷的になるらしい。どうやら私もその魔法にかかってしまったようだった。
昼休みのうちに出発することにした。分校の生徒と教師総出の豪華なお見送りだ。
「とにかく落ち着き先が決まったら手紙か電話をください」
トウヤはあくまで実務的だ。一方、ナナコとハチコがなにやらコココをせかしている。
「こんな時まで何やってるの?」リッコがのぞき込む。
すると、コココが両手のひらに何かを包み込むようにして手を突き出す。
「三人でつくったお守りです!」
コココが手を開けると、お社で使っているお守り袋だ。
ナナコが言う。
「三人で四つ葉の白詰草を探して」
ハチコが続ける。
「中に入れたお守りです」
コココが最後に言う。
「無事に帰ってきてください!」
「……まったく泣かせるんじゃないよ」
私は目の端の水滴をグローブの端でぬぐった。
◆ ◆ ◆
『邪龍討伐 ——トウヤ編』
災いは不意に空からやってきた。
学校の授業が始まる少し前、僕とニコとミケコは校舎の職員室で雑談をしていた。
窓の外にはショコより下の妹たちが校庭に積もった雪を踏み分けて分校へ登校しようという途中。いつも歩くのが遅いショコが一番後ろを歩いていた。
曇天がその襲いかかる影を薄くしていたのかもしれない。
黒い禍々しい影はショコの背後から音も無く忍び寄り、その節くれ立ったコウモリのような足でショコの体を軽々とさらった。
僕はガラス窓越しにその瞬間を見ていた。見ていたがしかし何もできなかった。
子供たちの叫び声に慌てて窓にとりつき、開け放ち上空を探った。
そこには黒い翼と四肢を持つ何物かが悠然と大雪山の方向へ飛び去って行くのが見えた。
最前まで僕と雑談をしていたニコとミケコもこの光景を目撃した。
そしてミケコが呟いた。
「……ウェンカ!」
その途端ミケコの目の色が変わった。
「ニコ姉様、お社の神職の方に連絡。奥の院まで状況を伝えてください。トウヤ先生は私と一緒にオートモービルでウェンカとショコを追ってください。お願いします!」
ここまで真剣で必死な瞳というものを僕は初めて見た。ウェンカを追いショコを助けることに嫌も応もなかった。
オートモービルにとりあえずの登山道具と医薬品などを積み込み、防寒着を着て僕とミケコはワッカの里を出る。
その寸前にニコが奥の院から返ってきた電話の内容を伝えてくれる。
「今のところ龍脈に変化は無いのでウェンカは潜伏中の可能性が大。そしてミケコ、あなたは龍脈の神薙としてレタラを補佐し、熊族の戦士とともに加勢せよと大宮司の指示」
「わかったわ」
決然としたミケコの表情に事の重大さが身を切るように感じられる。
「よし、レタラの龍穴までは僕が間違いなく送る。ニコは下の姉妹と一緒に安全な場所で連絡があるのを待っていて」
がくがくとうなずくニコの手を取って安心させる。
出発すると車内は沈黙に包まれる。雪はすでに降っているが、山道は走行できないというほどの積雪ではなかった。
「ミケコ、この前の龍脈と因果力の実験。あれを使ってみようと僕は思う。通常では人間の因果力が邪龍に通用するとは思えないが、龍脈の力を借りれば話は別だ」
「……」
ミケコは正面を見つめたまま何事か考えている。
「私はまずレタラに龍脈の力を注ぎ込む役割に徹します。レタラがウェンカに苦しめられるようなことがあればお願いします」
「わかった。しかしなぜウェンカはショコをさらったんだろう」
ミケコを苦しめる質問であることは重々承知の上で僕は問うた。返答には最悪の事態も想定される。
「おそらく龍脈の力をショコを媒介にして取り込もうと考えているのでしょう。私がトウヤ先生に龍脈の力を送り込んだのと理屈は一緒です」
「そんなことがショコにも可能なのか!」
「あの子は体が弱いので神薙としての修行があまりできていませんが、元々の素質は私と変わらないくらい優れているんです。ウェンカはそこまで見抜いてさらっていったのでしょう」
雪道をオートモービルで駆け上がり、正午前には前回レタラに面会した時にオートモービルを置いた地点まで上がることができた。
そこには巨大な戦斧で武装した熊族の戦士が十人すでに待機している。
先日出会ったレンジャーの二人組よりもさらに大きく無骨な体躯のものばかりだ。
「熊族の古強者の皆さん参集ありがとうございます。私が龍脈の神薙としてレタラに力を注ぎます。皆さんは私がウェンカに襲われないよう盾となってください。それと私の妹がウェンカにとらわれています。妹の保護もお願いします」
熊族の戦士の中から頭目と思われる一人が前に出る。
「それがわしら熊族の役目だ礼なぞいらん。そしてそこの人間は何をするんだ」
「このトウヤ氏はレタラにも謁見を許された方です。因果力を使ってウェンカの討伐に協力してくれます」
それを聞いてこの熊族の荒くれどもの僕を見る目も少し僕を認める色になった。
正直大変なことになった。少し雲の出てきた大雪山を僕らは徒歩で進んでいった
大雪山の龍穴にたどり着いた頃にはそろそろ日は落ちようとしていた、雪こそ舞っていなかったが曇り空の冷たい風が身を切るようだ。
古龍レタラのねぐらにはその主が横たわっていた。巨大な翼を折りたたみ、伏臥している。
〈龍脈ノ神薙カ。久シイナ〉
「お初にお目にかかります。先代の母から話は聞いております。ミケコと申します」
〈ハハ、人ノ一生ハ短イモノダ。ココニ来タノハうぇんかノ件デアルナ〉
「さっそくですが龍脈の力を御身に注がせていただきます。ウェンカを滅してくださることを伏してお願い申し上げます」
〈儂モ歳ヲ取リスギタ。ココラガ引キ際カモシレヌ。タダうぇんかハ倒サネバナラヌ〉
「おそらく落日とともにウェンカはここにやってくるかと。我々も加勢します」
そう言うとミケコはレタラの巨大な前足の先に触れた。僕の時と同様に龍脈の力を注ぎ込んでいるのだろう。
その周囲を熊族の戦士達が取り囲み僕もその輪の中に入る。雲の切れ間から見えていた、落日の最後の光芒が西の空から消え失せた。ウェンカの体の発する白い燐光以外にあたりを照らすものは無くなった。気温が下がりついに小雪がちらつき出す。
「来ます!」
ミケコの声とともに、V字型の崖を乗り越えて奇怪な唸り声が聞こえる。レタラの発する燐光に照らされて、ウェンカが姿を現した。
大きさはレタラの三分の一ほど。それでも一対の翼と両手両足を持つという古龍族に特徴的な体の構造は一緒だった。鋼のような鱗がびっしり並んだ黒い体表には、これまで数々の修羅場を踏んできたことを思わせる古傷が何条も刻まれていた。
そしてウェンカの右手にはぐったりとしたショコが物のように握られていた。狡猾さを裡に秘めた双眸がレタラを超え僕らにも向けられる。
背後を取られたレタラはまるで人間達を庇うように首を背後に向け、黒い体躯に赤々とした双眸が目立つウェンカの腹に噛みついた。だがウェンカの漆黒の鋼をつなぎ止めたような表皮にはあまりダメージが届いているようには見えない。
それを証明するかのように、ウェンカはするりとレタラの顎門から逃れた。ショコをつかんだまま崖の下に着地し、ショコの体を大地に寝かせその上から右手を重ねた。
「ショコの体を媒介に龍脈の力を吸い取っている……」
ミケコの呟きに熊族の戦士たちがウェンカに挑む。しかしウェンカのはき出す炎のような熱い呼気が古強者どもを近づかせない。
〈下等種族ガ!〉
ウェンカがどす黒い感情をそのまま音にしたような歪んだ声でしゃべる。
レタラもショコの姿を認めたようで、攻めあぐねている。
「ミケコ!」
僕の意思は口に出さずとも通じた。ミケコと手を繋ぐと、龍脈のパワーが全身にみなぎる。即座に僕は因果法の式を練った。
「天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、裏二十の式」
「禁呪・斬鉄光!」
僕の胸元に一度凝縮された龍脈のエネルギーは、太陽よりもまばゆく輝き、そこから糸のように細いレーザー光線が紡ぎ出されてウェンカの右肩を薙ぐ。
次の瞬間、ウェンカの右腕が支えを失った様に倒れる。右腕を失った痛みが応えるのか、ウェンカは虚空に向けて音になる以前の震えの様な咆吼を放つ。
〈ヨクモ俺ノ腕ヲ!〉
これを好機と周囲を取り囲んでいた熊族の戦士たちがウェンカの体に戦斧を叩き込む。その隙に戦士の一人が、もう動かないウェンカの右腕の下敷きになっていたショコを救い出す。その様子に僕は胸をなで下ろした。
熊族の戦士の巨大な戦斧を周囲から喰らってさすがにたじろいだか、ウェンカはその両翼をはためかせて空中へと逃げ去る。右腕のあった場所からはどす黒い血が流れる。人間たちの相手をしていても仕方ないと悟ったウェンカは、その標的をレタラに再度定める。
思いがけない俊敏さでレタラの真上まで至ると、今度ははっきりと目でわかる紅蓮の炎をはきかけた。レタラは翼の薄い皮膜を焦がされ苦悶の鳴き声を上げる。
これを好機とウェンカはレタラの体の上に降り立ち、その鋭い牙をレタラの首の根元に突き立てる。レタラは前肢でウェンカを払いのけようとするがその牙は深くレタラの体に食い込んでいるようだ。
「トウヤ、もう一度!」
ミケコが僕の手へ再度龍脈の力を注ぎ、ウェンカの右腕をなぎ払った因果力の発動を求める。
一度、二度、レーザー光線は空を切るがウェンカにはかすりもしない。
「駄目だ、この状態ではどうやってもレタラに当たる!」
僕も絶叫する。
〈ナラバコウダ〉
レタラは前のめりに倒れて自分の首ごとウェンカを大地に叩きつけた。
思いがけない打撃にウェンカもその顎門を外す。
そこに勝機があった。棒立ちになったウェンカに僕は再度因果力の禁呪を叩き込んだ。
「天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、裏三十の式」
「禁呪・大裁ち鋏!」
ウェンカの頭上にギロチンをハサミのように合わせた二枚の巨大な刃が具現化された。
「せいっ!」
僕のかけ声とともに刃はぐるりと互いに回転し、ウェンカの首と胴を二つに分割していた。
ウェンカの体がドウと地に伏し、刈り取られた頭部は、落下しながらもまだ瞋恚の炎を赤く双眸に湛えている。いかなる方法を取ったものか、頭部だけでウェンカの首は叩きつけられた地面から跳ね飛び、レタラの首にかぶりついた。苦悶の咆吼を上げ、傷口から血を流すレタラ。
その時、心に響く声でレタラから呼びかけがあった。
〈既ニうぇんかノ命脈モ尽キタ。シカシ私ノ寿命モココマデノ様ダ〉
周囲の様子を見ると、その場にいる全員にも聞こえているようだ。
ウェンカは目をカッと見開いたまま事切れている。
とにかく邪龍討伐はなったのだ。
◆ ◆ ◆
『胎果 ——ミケコ編』
「すでにウェンカは滅びました。レタラ様のお命だけは我が命に代えてでも!」
わたしは決死の思いでレタラに訴えかける。
〈モウ良イ、猫族ノ神薙ヨ。コウナル事ヲ我ハ予知シテイタ〉
レタラの心の声を聞いているうちに、わたしの体から力が抜けていきそうになる。それを感じたか、トウヤ先生がわたしの左手を強く握る。
〈私ハコノママ龍樹トナロウ。ソシテソノ際ニハ、コノうぇんかノ体モ取リ込モウ〉
「なぜですか! それではレタラ様にも邪悪な血が混ざります!」
〈コノヨウナモノデモ我ガ同胞ナノダ。哀レト思ウ気持チヲ次世代ヘノ業トシテ背負ウツモリダ〉
そう言い終えるとレタラの体の輪郭がぼやけ始めた。なめらかな流動質が全身を解かし、ウェンカのすでに事切れた頭部も体内へ取り込んでいく。
〈コノ龍穴ヲ守護スベク龍樹トナッタ我ニハ『胎果』ガ実ヲツケヨウ〉
「胎果、ですか」
わたしははじめて聞く言葉だった。
〈我ハうぇんかノ憎悪ヲモ取リ込ンデ幼生ヘト転生スル〉
「なるほど胎果か聞いたことがある」
わたしの横でトウヤ先生が一人言のように言う。
「トウヤ……先生。胎果とはなんなのですか?」
「古龍族に特有の生殖……と言っていいのか。彼らには雄雌の区別がないんだ。ただ、一つの個体が寿命を迎えると樹木のような形態となり、まさに実が成るように幼生の入った胎果をつけると文献にはある」
「自分自分を産み直すのですか!」
「簡単に言うとそういうことだな。一度に複数の胎果をつけて増えることもあるらしい。そして古龍族の幼生は他種族の社会の中で長い年月をかけて成長するそうだ」
話している間にもレタラは樹木のような形に変化していく。後ろ足で立ち上がり、両腕と両翼を伸ばし、それ以外の場所からも枝葉が次々に生えてくる。
〈……我ノれたらトシテノ意識ハ、間モナク混沌ノ淵ヘト沈ム〉
私とトウヤ先生は一言も聞き逃すまいと口をつぐむ。
〈間モナク生マレ落チル胎果ハ、うぇんかトシテノ影ノ差ス心モ持チ合ワセテイヨウ〉
龍樹はほぼ完成に近づいていた。元が翼ある古龍だったとは思えぬほど、巨大な針葉樹に似たフォルムに変化している。
大雪山の岩盤にしっかりと根を張り、なめらかな体液を含んだ半透明の枝は、徐々に植物の質感を得ようとしている。
〈みけこ、ソシテとうや。ソナタラニ我ガ胎果トソノ幼生ヲ託ソウ〉
わたしはまだトウヤと手を繋いだままだったことに気がついた。わたしが少し力を入れると、トウヤ先生もまた握り返してくれた。
「わかりました」
わたしは龍樹の梢に向かって話しかける。
「しっかり面倒を見させてもらいます」
トウヤ先生もそう言ってくれた。
〈……コレデ最後ダ。龍脈ノ流レノ果テニ再ビ相見エン事ヲ〉
わたしたちが見ていた龍樹の真正面。その奥にレタラの目の色にも似たエメラルドグリーンにほのかに光る何かが見える。
「これでしょうか」
「きっとそうだ」
トウヤ先生も請け合う。
人の手が触れるには少し高い場所に、空豆型の果実のようなものが成っている。大きさは人間の大人で一抱えほどだろうか。
見ているうちに胎果はその色を濃くしながら、少しずつ重さを増している。
トウヤ先生が胎果の下に手を触れた途端、ヘタのところが千切れ、胎果は腕の中に転がり込んできた。
「さて、これはどのくらいで雛に孵るのか」
トウヤ先生の一人言は小さかったが聞き逃しはしなかった。たしかにこれは果実というより卵に近いものなのかも知れない。
もうすっかり夜になっていた。多少雪も付いていたことから、今晩は龍樹のふもとで野営ということになった。
熊族の戦士に保護されていたショコは気を失っていただけで特に外傷はなかった。わたしはショコに活を入れる。
「あれ……ミケコ姉様。わたし悪い夢を見ていて……」
ミケコの思いの外しっかりした言葉に、わたしはついに緊張の糸が切れた。ショコをしっかり抱くと、その体温を全身で受け止めた。そんなわたしに、ショコのほうがむしろあやすように頭を撫でていた。
熊族だけであれば、夜のこの時間この雪でも下山は可能ということで、わたしとトウヤ先生、それにショコの護衛に二人残った以外の熊族の者は山里へ帰って行った。
胎果は外に吹きさらしにしておくことも躊躇われたので、わたしとショコのテントの中にひとまず入れておくことにした。胎果からは人肌よりも少し高い体温が伝わってきて、わたしたちは意図せず快適な睡眠を取ることができた。
翌朝、空は晴れ渡った。大雪山連邦の峰峰がくっきりと見える。
そして、すでに完全に樹の形態を取っているレタラに拝した。ここは次の古龍がねぐらにするまでこの龍樹が守護することになる。
わたしとショコとトウヤ先生、護衛の熊族二人の計五名は、無事オートモービルを置いた場所まで胎果を持って帰り着いた。そこで熊族の護衛とは別れ、昼過ぎにはワッカの里へ帰り着いていた。
昨夜、先に帰路についた熊族によって、事の次第は里のお社にもすでに伝わっていたらしい。わたしたちの無事の帰還にも皆が泣き崩れると言った愁嘆場はなく、ニコにただご苦労さんとねぎらいの言葉をかけられ、座敷には食事の用意がしてあった。
わたしとショコとトウヤ先生は、それぞれの家で風呂につかり着替えをして、姉妹の集まるお社の家の座敷に座らされた。
背後の床の間にはまるで分捕り品のように、緑色に仄かに光る胎果が置かれてある。
「まずはさらわれたショコも含め、無事なご帰還でなによりでした。そしてお社の使命を果たしたお役目ご苦労様でした」
ニコが全員の代表のような口調で言う。
「みんな、私たちを信じて待っていてくれてありがとう」
わたしの言葉は素直に心から出てきた。
自分一人じゃない。九人の姉妹全員とトウヤ先生とお社の神職の皆さんと父様母様と……数え上げていけばきりが無いが、とても多くの人に支えられて今回の邪龍討伐と次代の龍穴の守護者たる古龍の胎果を得られたのだ。
次、とトウヤ先生に視線を送る。
「この二日間でとても色々あったし、言いたいことも沢山あるけど、とにかくみんなの顔を見られて本当に嬉しいよ」
最後にショコが挨拶した。
「さらわれた……といってもその最中は覚えていません。助け出してくれて感謝しています」
拍手が起きて、ささやかな祝いの席が始まった。
好奇心旺盛な姉妹達には同じ事を何度も言わされた。この話が多少誇張されて。明日のうちには里中に広まっていることだろう。
いつも食事に飽きたら飼い猫のコタのところで一緒にうたた寝をしているコココが、今日ばかりは私たちの後ろの胎果に抱きついて熱心にその中から聞こえる音を聞いている。
「何が聞こえるの?」
「くーくー?」
わたしが問いかけてもコココは微妙な擬音語付きで首を捻るばかりで、はっきりとした言葉にならないようだ。
「いま丁度丸一日経ったくらいか。胎果はどのくらいで孵るんだろうな」
「ミケコ姉、トウヤせんせい」
その時コココがわたしたちを呼んだ。
「中からもう外にでたいって」
どうやって意思疎通を図ったのかは不明だが、たしかに大きな空豆に似た胎果の中心部分が黄色く変色しており、中からコツコツと固い物で叩く音が聞こえる。
「外からわらなくて、いいのかな」
興味を示したイツコが腕まくりをしている。それをやめさせ、じっと見守る。
コツコツという音は次第に頻繁になり、パリンと中心部にひびが入った。あとは早いもので内側にどんどん殻が落剥していき、主の正体が明らかになった。
大きさとしてはちょっと立派なニワトリくらいだ。
後ろ足で立ち羽根のまばらに生えたしっぽでバランスを取っているのも、鳥っぽさを醸し出している。全身は柔らかそうな白い毛で覆われている。
ただし大きく異なるのが両腕がついていることだ。ちゃんと親指が他の指と向き合った形になっているので、器用にものを掴めそうだ。
そして他の脊椎動物と一線を画している部分。前足があるのに肩甲骨のあたりには翼とおぼしき出っぱりと、まだ未成熟な羽根が生えていた。
顔が一番形容が難しい。元のレタラは龍らしいトカゲのような顔つきをしていたが、この幼生はどちらかというと齧歯類の様な可愛らしい印象を受ける。目が大きいことも子リスを思わせた。
ただし、というかやはりというか他にもやはり特徴があって、トナカイのような立派な角を一対持っていた。さっきから殻をコツコツ叩いていたのはこの角だったらしい。
「くぅるるる?」
何かを尋ねるかのようなイントネーションで幼生は鳴いた。殻の残骸の上に立って、大きく瞬きをしながらエメラルドグリーンの目で興味深そうにこちらを見ている。
コココが手を差し出すと幼生も自分の右手を差し出して握手をする。ファーストコンタクト成功だった。
「さて、と。とりあえず名前をつけましょうか」
ニコが提案する。
「……レタラの子供だからコレタラかな?」
わたしの案に、うーん、と全員の唸り声。
「ま、ミケコがお母さんみたいなもんだからそれでいいじゃない」
ニコの一言で安易にも古龍の末裔の名前は決定された。
◆ ◆ ◆
『猛吹雪 ——トウヤ編』
しんしんと雪が降り始めた。
ワッカの里の住人は雪が降り始めるとスノーダンプとスノーショベルを手に、黙々と雪かきを始める。合成樹脂と軽金属でできたそれは冬の生活の為には絶対に必要な物で、秋口の配給では破損した場合の代替として複数用意する家も多い。
戸口から道路まで、そして隣の家まで。生活道路を死守しなければ、文字通りその家は陸の孤島として外界から隔絶されてしまう。
この作業に休み時間はない。夜中でも降る勢いが強ければ除雪をするし、まだ夜明け前であっても降雪量が十センチを超えているのを確認したら防寒着に着替えて街灯の明かりを頼りに雪をどかすのだ。
雪は自宅の庭先まではスノーショベルで庭にはねのけて、そこから先は近所の公園や空き地などに雪捨て場を作りスノーダンプでそこまで持って行く。
少しの雪であれば通行人が足で踏み固めればいいが、一晩で数十センチの降雪量に達するような時はとにかくひたすら雪を移動させるしかない。
「トウヤ先生、朝から精が出ますね!」
お社の鳥居付近で雪かきをしていたニコが僕に声をかけてくる。
「そっちは参道も境内も雪かきしないといけないから大変だろう!」
「そこはコココも含めて神職全員総出です」
苦笑いをかみ殺しながらミケコはこたえる。分校の冬休みは長いが、それは雪の積もるシーズンには雪かきがあるので子供の手も借りたいから。そんな妄想が浮かぶほどワッカの里では雪が降る。
僕の場合、因果力の一つである念動力で、雪程度の重さの物であれば吹き飛ばすことは簡単だ。しかし、とりあえず最初の冬は、この里のほとんどをしめる猫族の人々と同じようにやってみようと思ったのだ。
厳冬期のいまは雪もさらさらで軽い。降り始めの頃の湿った牡丹雪の重さには辟易したので、今の時期の素顔をぴりぴりと刺激する寒さもまた一長一短だ。
それでも長く雪かきをやっていると、汗をかいてくる。僕は防寒着のファスナーを開けて、体内に少し外気を入れる。一通り雪かきをして、暖かい家に戻り衣服を着替えてから飲む水がまた旨いのだ。
ワッカの里に来る前に立ち寄ったモイの街や、この地域の中央都市のホロ市などでもワッカの里と変わらないほど雪は降る。
こうした地域では人の行き来以上に、オートモービルの運行の為に道路を除雪しなければならない。除雪車や雪を運ぶダンプトラックが大活躍するものの、その労苦たるや筆舌に尽くしがたいものがあるのだという。
そんな冬休みのある日。平日なので僕は一人出勤して職員室で教材資料の作成をしていた。
冬休みや夏休みの間は、教師も一緒に休みが取れると思っている人も多いのだが、実際には通常通り平日は出勤して普段は後回しにしていた業務などをこなす。この時期に教員同士の研修を行ったり、生徒のために夏期・冬期講習を行ったりするのも通例だが、残念ながらワッカの里の分校に関してはそれらはほぼ不可能だったり、意味のない事だった。
書類に集中しすぎた目を休めようと、窓から見える外の景色に目をやると、視界が白一色になるほどの大雪になっていた。
これは早めに上がって雪かきか、と思ったところで職員室に来客があった。しっかりと防寒着を着込んだミケコが「失礼します」と杓子定規に挨拶をしてから入ってくる。
ネコミミ型に編まれているニット帽は、玄関で雪を払い落としきらなかったらしくへりのところに雪がついている。
「ミケコ、帽子に雪がついてるぞ。こんな雪の中なにか用事か?」
ミケコは帽子を脱ぐと柔らかそうなにこ毛に包まれた両耳が姿を現す。帽子の雪を石炭ストーブの前で払いながらミケコは僕に言う。
「先生、この天気はこのあと台風並みの風がついて暴風雪になるそうですよ」
「天気予報か」
「ええ。ニコ姉が電話の天気予報で聞いたそうです。わたしも様子を見がてらここまで歩いてきましたが、もう今朝除雪してつけた道が埋まりそうな勢いです」
「そりゃまずいな。早速雪かきしないと」
「いえ、暴風雪の時の外での雪かきはかえって危険です。屋根から落ちる雪に巻き込まれて死ぬ人も出るんですよ。こういう時は近所の大きな家に集まって夜を越すのが習わしなんです」
「それははじめて聞いたよ」
「そんなわけでお社の家ではトウヤ先生をお待ちしてますので、お仕事が終わったら来てください」
そう言ってミケコがまたニット帽をかぶり直し出て行こうとしたので声をかけた。
「そういうことなら今すぐ行くよ。仕事の方も急ぎじゃないからそのままで問題ない。それよりこの雪の中、ミケコを一人で返す方が心配だ」
僕は石炭ストーブの火を落とすと、防寒着を着込んで帽子をかぶり手袋をつける。念のため校舎の通用口の鍵も閉めておく。
「じゃあ行くぞ」
僕はミケコの前を少し小さい歩幅で歩く。こうすれば後ろを歩くミケコは僕の足跡を踏んで歩けるので雪に埋まることがない。
まだ風はそこまでひどくないが、それでも視界は悪い。鳥居の向こうのお社の本殿が雪で霞んで輪郭がよく見えなくなっている。分校から姉妹達の家まで普段であればものの五分程度なのだが、今回は十分以上かかった。
お社の家の灯りのついている玄関にたどり着いた時は正直ホッとした。ミケコもちゃんと後ろをついてきた。
「確かにこれから暗くなるのに雪かきは危ないかもな」
そう言った途端にゴウッと雪をのせた暴風が駆け抜けた。そろそろ外に出るのもまずい状態になるというのが理解できた。
広い玄関で防寒ブーツを脱いでいると、戸の開く音を聞きつけたかナナコとハチコの双子が廊下に出てきた。
「あ、先生だ!」
「トウヤ先生だ!」
まだ防寒服も靴も脱ぎ終わってないのに双子は服の裾をつかんで引っ張ろうとする。
「おい、こら、やめろ」
二人のじゃれついてくるのを一応叱る。
自分にも経験がある。台風の来た時などに、徐々に外の様子が大変なことになるという予感が日常から非日常へのスイッチを入れ、ワクワクする気持ちを抑えられないのだ。
防寒着を脱ぎ雪をよく払ってナナコとハチコに連れられるままに奥の大座敷の方へ向かう。ミケコはそのまま厨房に向かったようだ。
戸を開けると中は石炭ストーブが赤々と燃え、少し熱いくらいの室温になっていた。雪のほとんど降らない首都育ちの僕などには、過剰な防寒対策なのではないかとも思える。しかし、雪と寒さと言葉通りの意味で命を賭けた戦いを繰り広げてきたこの地域の人々にとっては、このくらいしないと安心できないという事があるのだろう。
部屋の中にはショコを筆頭にコココとコレタラに猫のコタまで含めて六人と二匹。何をしているのかと思えばトランプの大富豪だった。コココはコタを抱き枕にして寝ているため、実際のプレイ人数は五人。コレタラは皆が集まっている様子が珍しいのか、外の暴風雪を感じ取っているのか、少し落ち着きが無い様子で相変わらず意味の通らない鳴き声を上げていた。
「トウヤ先生も」
「一緒にやるのです」
ナナコとハチコが自分のいた席の脇を詰めて僕を座らせる。
「みんなちょっとずつ間を詰めて」
珍しくショコがリーダー格でゲームを仕切っているようだ。ショコたちは特に厚着をしている風でもなく、学校へ来ている時とさほど変わらない着物に丈の短い袴姿だ。
「トウヤ先生は大富豪のルールはわかりますか?」
ショコが僕にたずねる。
「学生時代によくやったよ。『革命』は同じ数字のカードを四枚以上でいいんだよね」
「はい、そのルールです」
「ふふふ、新米教師は大貧民以下のドサンピンに突き落としてやりますわ」
なんだか涙目になっているリッコはどうもなかなか勝てない状態でいたようだ。
その後もショコとハチコが意外な強さを見せ、主にリッコが六番目の階級としてその場で作ったドサンピンに陥るのだった。
数ゲーム続けて少し飽きてきたところで夕食の準備もできた様子だった。ミケコに食堂に呼ばれると今日は寄せ鍋だった。
「いつもご馳走になってばかりで悪いな」
「こういうことはお互い様ですわ」
ニコがすました顔で言う。
大人数でつつく鍋は学生時代の寮生活を思い出させ楽しいひとときだった。
夕食後は双子とコココの年少組はすぐ寝かせ、リッコより上のメンバーで炬燵を囲んで四方山話となった。ここでもショコが意外と自分から話すのに少し驚いた。学校で見せている引っ込み思案なショコは本当の姿なのではないのかも知れない。
夜も更けて一人減り二人減りして、最後はニコとミケコの三人となった。
暴風雪はまだやまず、窓や戸をガタガタ揺らす。
「さっき玄関を見てきたけど、ガラス戸ごしの積雪は目分量で五十センチはいくかもです」
ニコが溜息交じりに僕らに言う。
「最新の天気予報だと、暴風雪自体は朝には北奥を抜けるようだね」
「なんにせよ朝夜が明けてからですね」
ミケコの言葉で僕らも休むことにした。客間に布団を用意してもらって僕も睡眠を取った。
翌朝、空には雲の切れ間も見える程度に天候は回復していた。そして目の前にはたっぷりと積もった雪が残された。
「ミケコ、今日は少しズルをしようか」
そう言うと僕の意を汲んで、ミケコも微笑みながら僕の右手を握る。ミケコが龍脈の力を送り、僕が因果法の式を練る。家の目の前十メートル四方ほどの雪を地面から一気に引きはがし上空に留め置く。そのままお社の鳥居に向かい参道から境内まで雪を全て上空に持ち上げた。
「さあ、後始末だ」
僕は持ち上げた雪を眼前に見下ろすことのできる分校の校庭まで移動させ、雪山を作った。そして雪山には階段と頂上から裾野まで念動力で押し固めた滑り台を作った。
「さあ、あとは手作業でやろうか」
まだお社の家から僕の住む教職員住宅までとそこから学校までの雪かきが残っていた。もっとも、年少組の子供たちが大はしゃぎで校庭の巨大滑り台に駆けていったのは言うまでもない。
◆ ◆ ◆
『スキー学習 ——イツコ編』 昨夜の吹雪が嘘のように晴れ渡った。お社の境内も、昨日までの踏み固められた雪の上に新雪が降り積もって雪化粧をしている。 「ニコ。山までスキーで、今日いっていい?」 今日は一時間目からスキー授業だ。普段は一度分校に寄ってから、スキーを担いで山まで行くが、こんな日は特別に直接山まで行くことが許されている。 「イツコ、池の上は気をつけるのよ」 ニコは玄関前に掛けてある寒暖計がマイナス十度を下回っているのを確認してから言う。今朝の厳しい冷え込みなら氷がゆるむ事も無いと考えているのだろう。 わたしは喜々として普段の編み上げブーツから、ゴム底のスキー長靴に履き替える。 「ナナコも!」「ハチコも!」 軒先で雪玉をぶつけ合っていたナナコとハチコもわたしの後に続く。 「このまっさらな新雪にはじめて足跡を残すのは私なのだわ!」 わたしにひそかな対抗意識を燃やしている(らしい)リッコも、自分のスキー板を持ち出してきた。 「外は冷えてるから大きく息を吸い込んじゃだめよ」 コココの手を引いたミケコが何遍も繰り返した注意を四人に告げる。 ここまで冷え込むと大きく息を吸い込むのも危ない。空気が気道で十分に温められず肺に届いて凍傷を起こしてしまう。 まだ上りきっていない朝日はワッカの里をまぶしく照らし、周囲にぼんやりと暈をかぶっている。 冷え込みのあまり空気中の水蒸気が細かい氷の結晶となるダイヤモンドダストができているのだ。吐く息が白く煙るのと原理は同じ。それが大気中で大規模に発生し太陽光に光の輪をかけていた。 「いくよー」 「イツコ。ま、待つのだわ」 リッコはミトンの手袋をはめた手で、苦労しながら靴にスキーを皮締め具で装着する。
ナナコとハチコも普段の冬服の上にポンチョコートを羽織って準備万端だ。手編みの帽子は尖った耳の部分も収まるように二つの出っぱり付きだ。「寄り道しないで行くのよー」 ミケコの声に全員で手を振ってこたえる。 各々の手には背丈ほどもある竹竿が一本握られている。これで滑走中のバランスを取ったり、登りに体を支えたりするのだ。 わたしたちの生活するお社からスキーゲレンデのある山までは、子供の足で三十分ほど。田畑や池を避けて目的地までは大回りになっている。 一方、スキーで雪の上を行くと、道の無い田畑や凍り付いた池の上もまっすぐに進むことができる。歩くよりもスキーの方が早い事もあって、目的地まで十五分ほどで到着することも可能だ。 もっとも、わたしを先頭にコココを除いた姉妹の年少組は、まっすぐゲレンデまで進んだりはしない。普段よりも早く家を出た分、登校途中も遊ぶ気満々だ。 「あ、赤い実!」 「ナナカマド!」 ナナコとハチコが雑木林の中に赤い彩りを添えているナナカマドの実を見つけて指をさす。 普段は見上げなくてはならない木の梢も、深く雪の積もった今では目と鼻の先だ。 二人がじっと赤い実を眺めていると、近くの木から数羽のヒヨドリがエサを求めて飛んでくる。ヒヨドリの重みで枝がしなり、昨夜積もった新雪を下に落とす。 『キャー!』 二人は悲鳴とも歓声とも取れる声を上げてふりかかった雪を払う。一方のヒヨドリたちはナナカマドの甘い実をついばむのに夢中なのか、逃げる素振りも見せない。 「とり、いっぱい来たね」 「とり、おなか空いてたね」 少し離れた私たちの方へ向かいながら、双子は互いに確認するかのように言葉を交わす。突然の出来事に、上気した二人の頬は真っ赤になっている。 全員そろうのを待って、わたしたち四人は氷の張った池の上をそろそろと滑り出す。 厳冬期のこの時期に氷が割れる心配はまず無いが、みんな幼い頃から池の氷には気をつけるように言い含められている。 池のほぼ中央部に何か白く背の高いものが見える。顔立ちも判然としないがこちらに気がついているようだ。 「おはようございまーす!」 四人そろってあいさつする。 白っぽい何者かは右手を上げてこたえる。 「なに、してるのかな?」 わたしの疑問にリッコがこたえる。 「きっと釣りですわ」 「つれるのかな?」 「行ってみればわかるのですわ」 わたしは振り返って双子の顔を見る。ナナコとハチコも好奇心で目を輝かせている。 わたしが進路を変更すると三人もそれに続いた。 「ノルデンさん、ごきげんようなのですわ」 近くまで寄ってリッコが声をかける。 池の中央にいたのはこの里に住む熊族のノルデンだった。白く長い冬毛に身を包み灰色のオーバーオールを着たノルデンは、間近で見て体の前と後ろが判別するのがやっとという状態だ。 「これから学校かい?」 ノルデンがしゃべると、目の下の口があるとおぼしき箇所がもぞもぞと動く。 「うん。ノルデンはつり?」 わたしの問いに小さくうなずくノルデン。 「ああ、やっと氷に穴が開いたのでこれから釣り糸をたれるところだよ」 わたしがのぞき込むと、池に張った氷には五十センチ近い深さの穴が開いている。 「みてていい?」 わたしの言葉に「すぐにはかからんかも知れんぞ」とつぶやき釣り糸の仕掛けを用意するノルデン。 二メートルを超える大きな体ながら、細かい作業も得意なようだ。 会話が途切れるのを待ちかねたように、今度は双子がノルデンに話しかける。 「ねえ、寒くない?」 「長い毛にさわっていい?」 ナナコとハチコのキラキラした瞳にノルデンも相好を崩す。 「ははは。お嬢さんたちは釣りよりもわたしの方が珍しいようだ」 熊族はその名の通り熊のような長い毛に覆われた亜人種の一つだ。その数はあまり多くはなく、このワッカの里にはノルデン一人が住んでいる。 冬の間は麓の里まで下りてきて生活をする熊族だが、雪の溶ける季節になると大雪山連峰の山深いところに帰って行く。 そこには万年雪に守られた熊族の里があるのだという。 冬の間しか里にはいないノルデンの事を、年少のナナコとハチコの双子が珍しがるのも無理からぬ話だった。 「ふわふわ~」 「まっしろ~」 承諾を得た二人が折りたたみ椅子に腰を下ろしたノルデンの両腕に抱きつく。 「あんたらの防寒着よりもこれは暖かいぞ」 ノルデンもまんざらでもない様子。 「さて、釣りを始めるとするか」 そうつぶやくと、ノルデンはその大きな手にはオモチャのように見えるリールを回して、釣り糸を氷の穴にたれる。 数分も待つこと無く、魚が食いついた。小さなアタリにタイミングを合わせてノルデンがリールを巻き戻す。 「かかったのだわ!」 終始無言のノルデンに対し、わたしたちは興奮を抑えきれない。 「ほら、釣れたぞ」 ノルデンは仕掛けにかかったワカサギを見せる。長い毛に隠されて表情は見えないが、その口調は少し得意げだ。 「さかな、うまそう」 わたしはすかさずそう口を滑らす。 「どれ」 そう言うとノルデンは仕掛けから外したワカサギをナナコの手に乗せてやる。まだ息絶えていないワカサギは、手のひらの上でプルプルと震えている。 『おー!』 朝日を浴びてキラキラと輝くワカサギに双子は声を合わせて歓声を上げる。 「すぐ凍っちまうから、その前にバケツに入れといてくれ」 「うん」 ノルデンの言葉にナナコはワカサギを放す。未練がましくわたしはワカサギを見ていた。 その時、遠くから声がする。 全員が耳をひくつかせ声のあった方を探る。 「イツコー、リッコー、みんなー」 声の主は池の側の雪で踏み固められた道を、徒歩で山へと向かうニコたちだった。互いに手をふりあう。 「寄り道してないで山まで行きなさーい!」 少し怒ったような口調でミケコの声が飛んでくる。 「ほら、行きなさい」 ミケコの声に、ノルデンもそう促す。 「ありがとうございましたー!」 四人全員で声を合わせる。 手を振るノルデンを尻目に湖岸のゲレンデまでまっすぐ向かう。 「氷のした、さかな、うまそうだった」 わたしはまだ未練が残っている。 「先生に釣ってもらえばいいのだわ」 リッコの言葉にわたしはうんうんとうなずく。 すっかりスキー登校の目的を見失っていたわたしたちだった。
◆ ◆ ◆
『コレタラとコココ ——トウヤ編』
最近、三度の食事はお社の九姉妹にお世話になりっぱなしだ。
古龍の幼生、コレタラはお社の家に預けてあるが、その成長過程の記録を取りに足繁く通っている。
どうせそれなら、というわけで一緒に食卓を囲むことになる。せっかくミケコから料理のいろはを教えてもらっていたのに、このままではまた頼りっきりになりそうだ。
ダイニングテーブルには、いわゆる上座から年齢順に座っていくルールが自然にできた。だから、一番端の席はコココになる。この横にコレタラの席が増えた。この古龍族の幼生は、しっぽを後ろに突き出してちゃんと椅子に座るのだ。
古龍族の幼生が何を食べるのかなんて、どんな文献にも載っていない。だから最初は食材をそのまま目の前にちらつかせてみた。
「ニンジンは?」
とミケコ。
くんくんとコレタラは匂いを嗅ぐが、そっぽを向く。
「キャベツはどうだろう」
と僕。
コレタラは外側の葉をちょっとだけ囓ってみるが、ペッとはき出してしまう。
「龍だし、やっぱり。生肉」
とイツコ。
噛みつきはしたがまだ生えそろっていない歯ではかみ切れないらしい。両手で肉を持って器用に噛みつくがすぐにあきらめたようだ。
「あなたたち何を考えているの? 赤ちゃんなんだからこれでしょう!」
自信満々でニコが持ってきたのは瓶に入った牛乳。丸い紙のふたをピンで開けて、そのまま瓶をコレタラに持たせる。
匂いを嗅いだあと、口先から舌をだして中身をぺろりと舐める。
「くるるるるっ!」
興奮したような鳴き声を上げて、両手に持った瓶を器用に口にあて飲み始めた。
「おー」
その場にいた全員が感嘆の溜息を漏らす。
得意満面のニコはさらにもう一つ隠し持っていたものを取り出す。
「そして牛乳のお供といえばこれよね!」
コレタラの目の前につり下げられたのは、まだ包装されたままのあんパン。
いま与えられた牛乳でニコを信用したのか、明らかに期待感のこもった目であんパンを見つめるコレタラ。
果たして、ニコが包装を破って渡したあんパンは、コレタラの大好物となった。両手で器用にあんパンをつかんで大きな口で勢いよく食べる。
その後色々与えてみて、どうも人間の食べるような料理されて味付けされたものなら大抵のものは食べるらしいということがわかった。動物のエサといえば材料そのままのイメージがあるが、古龍族は意外とグルメなのだ。
そんなわけで、今では三食ともにコレタラは姉妹と僕と一緒に食事をする。お昼ご飯はすぐそばの分校の教室まで、お弁当を食べに来る。
最初は両手を使って食べ物を直接つかみ食事を取っていたコレタラだが、いまでは先割れスプーンを器用に使いこなしている。
刺して食べる、掬って食べるができるのだからたいしたものだ。
一方、その横ではコココが箸を使って上手に食事をとっている。
ちらりと横のコレタラを見る視線には優越感がありありと浮かんでいる。これはどうも同じレベルの戦いの火ぶたが切って落とされたようだった。
コレタラ自身もたまに箸を使ってみようと手に持って挑戦するのだが、握りしめて刺す使い方だけしかできない。古龍の幼生は人間の赤ん坊に比べるとずいぶん発達が早いが、無理なものはまだ無理なようだ。
「ぐるるきゅうう……」
悔しそうな声で鳴くコレタラ。しかしこの分だとかつてのレタラのように言葉を話すのも案外早いのかも知れない。
夕食後のコココは飼い猫のコタに抱きついてうつらうつらしているのが大好きだ。
コタはいわゆる知性化された動物で、喉の構造と言語野の遺伝子が操作されていて簡単な言葉を話す。体の大きさも寿命も普通の猫の倍以上ある。
「コココ、もうお腹いっぱい?」
「……うん」
いつもそんな感じで居間の片隅でうとうとしているのだが、そこにコレタラというニューカマーが現れた。
「きゅういっ! るるるるる!」
他の姉妹はコレタラを適当にしか相手しないが、コココとコタは全力で相手になる。
「だめー! コタはコココのなの!」
とコココ。
「るららららっ! くぅくぅぐー!」
コレタラの叫び声も勇ましい。
「コココ、コレタラ。駄目。けんか」
一番温和なのは猫のコタだ。
コレタラにはまだ鋭い牙も尖った爪も生えていないため、一人と二匹の喧嘩はしたいようにさせている。
〇歳の古龍族と六歳の猫族と十二歳の知性化猫というのも、知能の発達の度合いとしては、なかなかいい取り合わせなのかも知れない。
最近コココは字の練習をしている。いまはひらがなと数字が終わって、カタカナと簡単な漢字に入ったところだ。
コココが紙に向かっているとコレタラも気になるらしく、背後からのぞき込む。ここでも対抗意識が働くのか、コレタラも紙を取って鉛筆をグーで握りしめてなにやら書き付ける。
とうてい文字とはいえないものだが、何かの形を平面に写し取ろうという思考が働いている様に見える。
始終こんなコレタラの姿を見ていると、万物の霊長が人類だ、などとという言葉は慢心に思えてくる。
そんな中、雪解けも近づいてきた。近頃は大雪が降ることもめっきり減り、地球維持機構の手により幹線道路の除雪が始まった。
まだ山野には積雪が残っているが、ついに北端のワッカの里まで中央からの道路が開通した。そして運行を再開した定期バスが荷物を満載して里までやってくる。
里では基本的に食料は自給自足できている。しかしこの地では育たないコーヒーや茶葉や南国の果物のような物、またここでは既製品しか手に入れようのないチョコレートや煙草やワインのような嗜好品も冬の間は買い置きをしておくしかない。
里の広場ではバスから運び出される物品に人が群がっている。里で小売業をしている商店主がほとんどだが、個人宛の荷物も沢山積みこまれている。
僕はと言えば自分宛の手紙や小包をどっさり抱えて持って帰るはめになった。荷物は自分で注文していたのだからともかくとして、手紙も多い。
電話で済ませられる用件であればいいが、通信網が電話線しか無いこの里では、首都のようなコンピュータ通信もままならない。一応電話線でも通信はできるのだが、数文字送って数秒、返事が返ってくるのにまた数秒といった具合では、いっそ手紙や封書で、ということになる。
かつてはコンピュータネットワーク網が地球全体を覆い宇宙まで到達する高速通信を可能としてしていたと聞くが、今となってはおとぎ話のような話だ。
アカムからは因果力研究の最新情報が載っている学会誌や、論文のコピーが沢山送られてきた。そこには僕がアカムに伝えた古龍レタラから聞き取った言葉の内容も報じられている。
人類より遙かに長命で、地球病以前の知識すら蓄えている古龍族の発言は、今の人類世界のアカデミックな場でも貴重な物だ。古龍族とのコミュニケーションは難しいが、研究は進められている。その中の一つの論文が僕の目にとまった。龍脈と、龍脈を奉り世界中でお社を建立している猫族の関係についての社会人類学的見地からのレポートだ。
猫族のお社と龍脈信仰はここ日本が源流だという。それが世界中の猫族に伝播するのに数十年とかからなかったらしい。そして龍脈と龍穴、さらに古龍族の分布にも関係があるのではないかということが示唆されていた。
レタラは存在を龍樹へと変え、その転生した姿であるコレタラはまだ幼生の状態だ。それでも僕は自分の探し求めている地球病と因果力の関係について知識と経験を深め、そしてそれが龍脈という存在につながっているという確信は強まってきている。僕の究極の目的の、妹サクヤの「未来視」の謎を解く日も近い。
当のサクヤからの手紙も届いていた。五歳の頃からほぼ面会謝絶で他者との関わりを極端に制限されているサクヤだが、外界への影響を最小限にとどめた範囲内で限られた人々に手紙を送ることは許されていた。その名簿の中には実兄の僕も当然含まれる。
サクヤの因果力「未来視」は、周囲の状況を彼女の思い通りに改変し実現する。それが本来そうあるべき未来なのか、サクヤの能力によって歪められてしまった未来なのかは誰にもわからない。
ただ、サクヤが願えば超自然現象としか言いようのない事象ですら現実に発生する。そしてこの能力の最大の問題は、サクヤ自身が能力のオンオフができない、スイッチが入りっぱなしの状態になっていることにあった。
だからサクヤは視覚を失った状態で、継ぎ目のない真っ白な部屋で許された点字の本を読んだり、音楽を聴いたりといった生活を送っている。
サクヤからの手紙の内容は簡潔だった。検閲されているので具体的な事を書けないという事情もあった。
「いま手に入れている縁を大事にしていけば大丈夫」
妹の顔を思い浮かべながら、幼い頃に家族全員で撮ったフォトフレームにいれた古い写真をながめる。家族はいまバラバラになってしまったが、自分が必ず家族を一つにまとめる。その思いを新たにした。
いま僕は自分の生徒の姉妹達に全力で向かっている。一見遠回りに見えるが、ほぼあり得ないような幸運の連続で、僕はこの里で地球病と因果力、そして龍脈についてたしかな手がかりを得ることができたのだ。
妹の未来視についてもすでに手がかりを得ていると信じている。
それに、ここで出会うべき人や見つけるべき物はきっと他にもある。
窓辺で手紙を読んでいた僕に、通りがかったミケコが声をかけてきた。
「トウヤ先生! さっきの定期便で来た新鮮なイチゴがありますよ。ご一緒しませんか」
「いま行くよ」ミケコの声に自室の窓から手を上げて応える。
僕は家のドアを開け、早春の風の薫る中へ歩き出した。
◆ ◆ ◆
『再会 ——サクヤ編』
わたしは今日、自分の運命を大きく変える人と出会う。そのことはずいぶん前から未来視の能力が教えてくれていた。
トウヤ兄様からの手紙によれば、その人は社ミケコさんという猫族の女性らしい。意識を今日出会うであろう時点に向けて、わたしは彼女に対してどのような印象を持つか未来視でのぞき込むと、優しいけれど清冽な滝の様な強い心を持つ人だということが感じられる。
わたしはいつもの習慣で、自分の部屋のキッチンでお湯を沸かし紅茶をいれる。
未来視の能力に目覚めて以来、わたしは光を失った。診察をした医師によると目の機能そのものに問題は無く、まぶたを開けば光をきちんととらえているはずだと言うことだった。
わたしはこの失明の原因は未来視の能力が発揮され続けている事による副作用だととらえている。なぜなら自分がいまどのような状態にあるか、リアルタイムの状況は未来視の能力によって目で見るよりも正確に把握できるからだ。
だからわたしは迷うこと無くキッチンへ向かい、ケトルで湯を沸かしていた電磁調理器のスイッチを切り、そして食器棚からティーカップを用意して、茶葉をいれたポットに正確に熱湯を注ぐことができる。
印刷された文字を読んだり、映像を見たりすることができないのが難点だが、点字や文字の読み上げソフト、ラジオなどでそこそこはフォローできている。
一番の悩みはなんといっても自由な外出ができないことだった。五歳の頃から一人で住んでいる病室は特別に広く作られていて、自分一人が住むには正直もてあますほどだ。幼い頃は一人で眠ることが心細くて何度も泣いた。そうした心細さを慰めてくれるのがラジオの音声だった。ラジオに親しんだわたしは、ラジオでいま首都や地方の各地でこういうことが起きているといったニュースを聞くたびに、そこに行ってみたいなと思うようになった。
二番目の悩みは話し相手がいないことだ。ハウスキーピングに毎日来てくれるまだ若い女性職員が事務的な会話の相手にはなってくれるが、けっして私的な話題には触れてこない。わたしと話すことで彼女の未来を予言してしまうと、それは本来の彼女の運命をねじ曲げることになるかも知れないからだった。
それでもわたしは、彼女がわたしの境遇を心から不憫に思っていることを知っている。昨夜は地震があって椅子の位置がずれた、といった事務的な会話の端々からでも、彼女の人間性を知ることができるからだった。
わたしがこの病室に入れられることになってから、もっとも頻繁に面会に来てくれたのはトウヤ兄様だ。兄様が十五歳で大学を卒業するまでの五年間、ほぼ毎週のように面会に来てくれた。そこでは多少の私的な会話も黙認されており、わたしは家族が自分のせいでバラバラになってしまったことを知った。
母様はわたしを産んだことで体を壊し、寝たきりになっていること。父様はわたしの存在が政治家のお仕事の足かせになっていると思っていること。トウヤ兄様は面と向かって不満を口に出すことはないけれども、言葉の端々からその疎遠ぶりはうかがわれた。
トウヤ兄様からは、わたしの未来視を治してバラバラになった家族をまた一つに回復させようという意思が痛いほど伝わった。そのための飛び級を繰り返しての一刻も早い大学の卒業だったし、因果力という物を知るための因果法百式を修めるための厳しい修行だった。
そうした兄様の努力が実を結び、北奥へ「鍵」を探しに行くという未来の選択肢がわたしの口から紡ぎ出されたのだ。
周囲の人々は未来視を万能の能力だと取っているようだけど、わたしは決してそうは思わない。一見、不可逆的な現象が巻き戻って起こっているように見えたとしても、そこには必ず因果力の関与がある。どうもわたしは周囲の因果力の流れを操ることができるらしい。これがいま現在のわたしのわたし自身による未来視の分析結果だった。
約束の時間になった。
たった一つの出入り口のセキュリティがカチリと音を立て解除され、トウヤ兄様と一緒に同じくらいの年齢の女性が入ってきた気配を感じる。いつも通り警備の方の気配もある。今日は銃のセイフティを外さなくて良さそうだとの未来視が働いた。
「トウヤ兄様とミケコさんですね。初めまして証サクヤです」
わたしは二人がいる方向に向かってお辞儀をした。
「サクヤ、長いこと見舞いに来られなくて本当に済まなかった。やっと『鍵』になる方を連れてこれたよ」
そう言いながら兄様はわたしの手を取る。一年ほどの北奥暮らしで、兄様の手はずいぶんがっしりとした男らしいものになっていた。
兄様が手を放すと替わりになめらかで不思議なあたたかさを感じる手がわたしの手を取った。
「社ミケコです。トウヤ先生には北奥の分校で大変お世話になっています。わたしが本当に『鍵』なのかまだわかりませんが、今日は龍脈の神薙としての力でお役にたてるかもしれません」
ミケコさんは未来視で予感を感じていた印象通りの人だった。一見たおやかに見えて、その実しっかりとした芯を感じさせた。
「サクヤにしてあげたいこの一年の話が山ほどあるけど、全部しゃべっていたら一晩あっても足りなそうだ。まずは第一の目的通り、ミケコにサクヤがどう見えるのか聞いてみよう」
その言葉のあとわたしはリビングのカーペットの上に座らされ、ミケコさんがその対面に座った。正座をしているようだった。
「ミケコ、相談したとおりの手はずで」
「はい。サクヤさん、わたしは地球の目に見えないエネルギーの龍脈を視ることができます。人間の体にも因果力を行使する際に用いる気というものが流れる経絡というものがあります。これからそれを視させてくださいね」
ミケコさんはトウヤ兄様の言葉に従い、精神統一を始めたようだ。わたしに対する指示は特になかったが、できるだけ何も考えないようにつとめた。こうした未知の経験の場合、自分の事となると、未来視でどうなるかのぞき込むのは抵抗があった。
「では、これから祝詞を心の中で唱え精神を集中します」
そう言うとミケコさんの存在感が薄くなる感覚があった。周囲をとりまく因果力の流れに同調しているような感じだ。
間もなく、そのミケコさんの存在感がまた目の前で正座している体に戻ってきた。
ミケコさんが口をひらいた。
「……サクヤさんは周囲の気と龍脈の流れを、自然に自分のものとして操っているように見えます」
「どういうことだ?」
「トウヤさんのような普通の人間は、自分の体に宿る魂の気の力のみで因果力を行使します」
「そうだ。だから龍脈の力を流し込まれると爆発的に因果力がパワーアップする」
「それがサクヤさんの場合は、自身の経絡に本人の気の力以外に周囲の人やこの地を流れる龍脈の力も自然に通している感じです。ちょうど龍穴にいる古龍が龍脈の力を自在に使いこなすことができるように、サクヤさんは自身をいわば龍穴にしてしまっています」
「まだ難しいな」
博学な兄様がこんな事を言うのははじめて聞いたかも知れない。たしかにわたしにもちんぷんかんぷんだ。
「わたしが先ほど神薙として精神集中をして周囲の気と龍脈の流れを視ましたよね。サクヤさんは生まれつきそれができるうえに、気や龍脈の行き先までも視ることができて、やろうと思えばそれを操作することができるということです」
「うーん、少しずつわかってきた。龍穴は龍脈のエネルギーが流れ込み、また流れ出していく結節点のことだよな。サクヤは生まれつき、地球レベルでいえば龍脈の果たしている役割を人間の体で行っているということか」
「そうです。わたしも猫族のお社の龍脈についての文献は精読しましたが、こんな人間にして龍穴でもある存在などという話は聞いたことがありません」
わたしはとりあえずここまで黙っていたけど、そろそろと口を出した。
「ミケコさんの言うことはわたしにはわかります。わたしに視えているのは未来そのものではないんです。人同士や大地を流れるエネルギーの流れやもつれが視えています。そして気になるところに意識を向けると、何がどうなるのかということが直観的にわかります。そこからどうすればいいか考えて、予言や助言をすることができるんです」
それを聞くとトウヤ兄様は納得の声をあげた。
「だからサクヤは目を閉じていても誰がどこにいるとか、近くにある物にぶつからないで歩くことができていたのか」
「だからといってこの状態のままでは普通の生活は無理でしょう」
ミケコさんがトウヤ兄様に反論してくれる。
「これから魂鎮めの儀式を行ってみます。これで一時的に暴走中の未来視は収まるかも知れません」
そういうとミケコさんはまた精神集中を始めたようだ。儀式が進むにつれて、わたしはミケコさんから圧迫感のようなものを感じてはじめた。これまで自分の体の実体から、遠く外まで広がっていた、曖昧だった自分の自我が呼び戻されている感覚があった。
「エイッ!」
ミケコさんが裂帛の気合いを込めてかけ声をかけると、わたしはわたしの体の中へすっぽりと収まっていた。自分の体に押し込められたわたしは、もう何も見ることができないでいた。外を見るにはどうすればいいか。五年ぶりにその感覚を取り戻そうとする。そうだ、そのために目があったのだ。——わたしは目を開けた。
最初に見えたのはトウヤ兄様の懐かしい顔だった。五年ぶりに見るその顔は往事のよすがを残しながら男らしくなっている。もう一人がミケコさんだろうか。トウヤ兄様の後ろから立ち膝でわたしをのぞき込んでいる。薄茶色のセミロングの軽さを感じさせる髪には、同じ毛色の耳が見えていることから猫族だと確認できた。
「……サクヤ、見えるか?」
トウヤ兄様の真剣な声に思わず吹き出しそうになる。
「五年ぶりに目を使って兄様を見ました。想像していたとおりです」
そういうと兄様は泣きそうな顔で笑った。
「良かった……本当に良かった……」
つぶやきながら兄様は床に当てた拳を強く握っていた。
それからの展開は早かった。兄様はわたしの未来視が制御可能であることを証明し、父様を動かして議会からの移動許可を勝ち取った。
わたしはより本格的な魂鎮めの儀式を行うことと、それを自分で行えるようにする神薙の修行のため北奥の地に向かっていた。
「ねえ、ミケコ。北奥って春になっても桜が咲かないって本当?」
「一本だけ早くに咲く特別な桜がありますよ。いまがちょうど見頃でしょう」
「じゃあ一緒にお花見しようね! それとミケコの姉妹も紹介してもらわなくちゃ」
わたしは初めての遠くまでの旅行に終始うきうきしていた。その道中ももうすぐ終わる。
「さあ、ついたぞ」
兄様が開けたオートモービルのドアから、わたしはワッカの里への第一歩を歩み出した。
了