前編
『旅立ち ——トウヤ編』
「トウヤ、また会いに行くのか」
父の声は忌々しいものを語るかのような響きを帯びていた。
居間から玄関へ出ようとしていた僕はドアノブに手をかけたまま歩みをとめる。
しかし視線は眼前の重厚なドアに向けたままで暖炉の前の父の方は向かない。
「兄が病床の妹を見舞いに行くのになんの理由がいるんですか」
ほんの少しの間。
父は葉巻の煙を吐き出すと、手にしていた吸いかけの葉巻を灰皿においたようだ。
「あれの扱いはいま微妙なことになっていると何度も話しただろう。私が『未来視』を独占しようとしていると批判する動きもある。触らぬ神に祟り無しだ」
ドアノブを握る僕の手に力が入った。
「それが実の娘に向かって言う言葉ですか。僕はこれからサクヤの助けになることだけを考えて行動します。社会的にはもう成人しているのですから文句はないでしょう」
「トウヤ、私はお前の将来に期待をかけている。それも無碍にしようというのか」
「お父さん、僕は政治家になるつもりはありません」
そう言うと僕はドアを開け、乱暴に叩きつけたくなる衝動を押さえて静かにドアを閉めた。
僕の住む証家の邸宅から妹のサクヤのいる大学病院までは地下鉄で六駅だ。
病院のエントランスで顔写真と氏名、管理番号が記されたIDカードをかざすと、一週間前に入れた面会予約がディスプレイに表示されグリーンのチェックがつく。予約が承認された。
病院内の関係者以外立ち入り禁止区域に入るには、武器を帯びた警護の人間がつかなければならない。この人物の持つIDカードがなければ肝心の病室のドアは開かない。
照度の抑えられた廊下を歩いて行く。この棟の一番奥の部屋に妹は入院している。警護の人間がドアの認証装置にカードをかざすと最後の扉が開いた。
床も壁も天井も真っ白な部屋に、妹のサクヤは座り込み指先で点字の本を読んでいた。
ドアの開く気配にサクヤはこちらを向き「トウヤ兄様!」と声を上げる。足下まで伸びた黒髪は艶やかなウェーブを伴ってサクヤが立ち上がるとともにすとんと流れ落ちた。
「サクヤ、三週間も会いに来れなくてごめん。学校の卒業論文で忙しかったんだ」
サクヤは両目を閉じたまま、それでも僕の位置が正確にわかっているように僕の手を取る。
「一週間前から兄様が来るような気はしていました。でも私が不用意に未来のことを話すと叱られるから、ずっと心の中にしまっていましたの」
妹はいま十歳になる。十五歳の僕とは五つ差だ。
サクヤは五歳の頃に因果力が発現し始めた。因果力とはこの時代の人類であればだれもが普遍的に持つ能力だ。念動力や発火能力、治癒能力など、様々な能力が確認されている。因果力の種類はおよそ百種類の系統に分類されており、生まれつき持つ能力や後天的に習得する能力のパターンは、髪や目の色と同様に統治機関に登録されIDカードに記録されている。
サクヤは五歳の頃に因果力が発現し、代わりに両目から光を失った。しかしその因果力が問題だった。「未来視」と名付けられたその能力は、ありとあらゆる現象の因果関係を操作することができた。そしてサクヤはその能力が常に入りっぱなしになっており、自分で制御する事ができなかった。
サクヤの予言は少し先の小規模な出来事であれば必ず当たった。長いタイムスパンで大がかりな出来事になるほど、その予言の言葉は曖昧なものになる。問題となったのは、例えおよそあり得ないことであっても、サクヤの口から予言として発せられた事はその通りに他人をも動かしいつかは必ず実現するということだ。
たとえばテーブルの上の水の入ったコップを倒してあたりを水浸しにしてから、サクヤが「こぼれた水はコップに戻る」と予言すると因果関係を無視してそれは現実となった。気象さえ意のままに操ることが可能で、生物の生死すら言葉で左右することができた。どうしてこんな事が可能なのか。当時から因果力の研究者が調査を続けているがはかばかしい成果は無い。
この力を意のままに使えば、自分の思うがままの未来を実現することができるだろう。それどころか社会に無用の混乱を引き起こしかねない。そしてこの力を最も恐れたのは地球を統治しているただ一つの統治機関、地球維持機構(SEO/セオ)だった。
社会の安定を左右しかねない能力に対して、地球維持機構は過剰ともとれる封じ込めを行った。サクヤの公式な存在は統治機関の政治家たちと僕の家族やごく一部の医療従事者以外には隠匿され、この白い独房のような部屋で妹はもう五年も暮らしている。
「兄様はもう大学を卒業されたのね」
こちらから話を切り出さなくても、サクヤは家族に起きたことをすでに識っている。家族や担当医の様な身近な人物にあったことは、無意識に視えてしまうのだという。
「それじゃあ、僕がこれからサクヤに聞きたいこともわかるかい?」
そう言った時、背後で警護の人間の銃が立てるガチャリという音が聞こえた。サクヤの能力の私有化は認められていないのだ。だからこの聞き方が僕にできるギリギリのラインだった。
「兄様はこれから北奥という地に行って、北の果ての小さな学校で先生になるわ。そこで色々な人やものに交わって『鍵』を見つけるの」
つまり僕がサクヤに聞きたいと思ったこと——未来視の謎を解きサクヤを助け、一緒に暮らせるようにするにはどうすればいいか、という問いに対する答えがこのサクヤの言葉だった。
「わかった。僕はこれから教師になろうと思う。しばらくは会いに来ることは少なくなるかも知れないけど我慢できるかい?」
「兄様、私ももう十歳よ。兄様が学校の寄宿舎に入ったのと同じ歳。一人きりなのは寂しいけど手紙を書くわ」
「本当にごめん。でも待っていてくれ、必ず『鍵』を見つけて帰ってくる」
僕の言葉を信じて、右手をギュッと握ってくるサクヤの華奢な白い手。サクヤを産んですぐ病床についた母親と、政治家として自分の立場の保身に汲々としている父親。そしてこの僕という家族の中で、サクヤの幸せを第一に考えられるのは自分しかいないという確信があった。
そして半月後。
「トウヤさん、バッテリー充電終わりましたよ」
エナジーステーションのまだ若い従業員が窓を開けたままの運転席をのぞき込む。
「やあ、ありがとう」
今回の赴任の為に中古で購入した大型のオートモービルには引っ越し荷物が満載されている。
首都の実家からこのモイ市までカーフェリーと陸路で丸一日半。ここから先は街と言えるほどの規模の人の住む地は無いのだという。
首を回しながら強く瞬きをして眠気を追いやる。軽い休憩を終え、オートモービルには電力が充填され、その分のクレジットの引かれたIDカードが返された。
今の時代サービス業などの人と接する仕事以外はほぼすべて自動化され、人は特に働かなくても地球維持機構の管理する福祉サービスと生活必需品の配給に頼って生活することができる。
そんな時代でも決して無くならない仕事という物もある。これから僕が就こうとしている仕事——教師もそのひとつだ。
赴任先はこの先、北奥と呼ばれる地域の北の果て、ワッカの里だ。港町のモイ市から先は海岸沿いをまっすぐ北進する形になる。沿岸を一直線に進む道にはろくに信号機すら無いという。左手に海、右手に丘陵地帯を眺めながらの単調な運転になった。目的地のワッカの里に近づくほど、丘陵に風力発電の大きく白い風車が立ち並んでいるのを見ることができた。
ワッカの里に着いた時にはもう太陽は斜めになっていた。里の地図を開いて目的地である教職員住宅を探す。学校にほぼ併設されるような形で建てられているようだ。そのすぐ近くには鳥居の形をした地図記号が描かれている。これは神社があるということだろうか。
と、里の入り口の丘に、大きな桜の木が満開の状態で花開いているのが見えた。この北の果てでは桜の開花も遅れるはずだから早咲きの品種なのだろう。
オートモービルを道路脇に停め、徒歩で桜の大木まで近づく。すると桜の根元に人がいるのが見えた。白衣に緋袴。猫族の巫女装束だ。
巫女は僕の方には気がついた様子も無く、無心に舞を踊っている。日が沈む直前の薄明の中で、まるで祭礼の際に行う神事のように見えた。
舞が終わったところで、僕は思わず拍手をしていた。その音に気がついて猫族の巫女はこちらを見た。人に見られていたことなどまるで気がついていなかったらしく、一瞬キョトンとしていたが、僕に気がつくと真っ赤な顔で一礼すると立ち去っていった。
僕もオートモービルに戻り教職員住宅までたどりついた。荷物を運び入れ、オートモービルからキーを抜くと僕は布団袋に倒れ込んだ。フェリーでの一泊と、朝から夕方までのオートモービルの運転に加え、そのあとの引っ越し作業は、まだ若い僕にとってもしんどい作業だった。
どのくらいそのままの状態でうたた寝をしていたのだろうか。来客を告げるドアホンのチャイムに起こされた。時計を確認すると半刻ほど横になっていたらしい。
ドアホンの映像を確認すると、さっき桜の木の下にいた少女が緊張した面持ちで立っている。
「はい、どなたですか」
「……あ、あの、その新しく来た先生の方、ですよね。わたしはお隣のお社の者です」
僕がドアを開けると一人の猫族の少女が立っていた。年の頃は十五、六歳。素直で癖のないライトブラウンのセミロングの髪に同じ色の体毛の生えた耳がぴょこんと突き出ている。
「さっき大きな桜の木の下で会いましたよね。僕は証トウヤといいます」
そう言うと少女は気をつけをすると深々と礼をした。
「こ、こちらこそよろしくお願いします! お社の社ミケコといいます。」
僕は苦笑しながら言う。
「そんなかしこまらなくていいよ。ところでなにかご用がありましたか?」
その言葉が耳に入った途端、少女は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「そ、そうでした。先生は引っ越しでお疲れだろうと思って。で、ひょっとしたら先生がお腹が空いてたらと……。簡単なものですがどうぞ!」
そう言うとミケコは風呂敷包みを目の前に差し出した。突然の差し入れに面食らったものの、僕は風呂敷包みを受け取った。
「開けていいかな」
中には笹の葉でくるまれたおにぎりが四つと、付け合わせの漬け物が添えられている。
「やあ、これは旨そうだ。早速いただくよ」
偽りの無い本心から出た言葉だった。
「お、お口にあえばです。それじゃわたしはこれで!」
ドアを開けたまま帰る姿を眺めていると、途中でミケコも気がついたのか振り向いて何度もお辞儀をしながら帰って行った。
海苔で真っ黒になるまで包まれたおにぎりの具はおかかと梅干しだった。食べ始めて気がついたが僕は腹が空いていた。おにぎりを全部食べて、水を飲んでようやく人心地がついた。
新しい土地に来て最初の歓待がこれというのは悪くない。首都の活気はあるが殺伐ともしている空気とは、まるで違う空気がここには流れているようだった。
サクヤの因果力、未来視は絶対だ。まずは今日ミケコと名乗る猫族の少女と縁を結んだ。大学を飛び級で早く修了し、たいていの職には就けたところを蹴って、こんな辺鄙な地の分校の教師の道を選んだ。それでも僕の選択は間違っていないと確信している。それを明日から証明していくのが、僕の課題だった。
◆ ◆ ◆
『入学式 ——トウヤ編』
ワッカの里の分校では、六歳から一八歳までの義務教育のすべてをカバーしている。
そんなわけで僕がワッカの里に引っ越してきた翌日、さっそく最初の仕事——入学式があった。すでに引退している前任教師とは、式が始まる前にやっと引き継ぎの打ち合わせをすることができた。前任のエガシ氏はこの里の出身で、引退後も里で隠居するらしい。なにか問題があったらすぐに相談に行けるわけで、その意味では安心だった。
しかしながら、この分校には教師が自分一人しかいないという現実が僕の前に立ちはだかった。一人ということは当然同僚もいないわけで、すべてを僕一人でまかなうしかない。
「なに、大丈夫じゃよ。みんなこの分校のやり方には慣れとるでの」
中肉中背で少し腰の曲がったエガシ氏は、好々爺といった体でのんびりしたものだ。しかしそんな言葉くらいで安心できるわけが無い。今日入学してくる新入生も不安だろうけれど、初仕事で大きな行事を進めなければならない僕も暗中模索するしかなかった。
体育館は天井の高い木造建築で、思っていたよりも大きなものだった。ドッジボールのコートなら二面取れるくらいはある。そこに入学式の関係者が集合しつつあった。
「さあ、みんなは在校生席に並んで座って! コココは新入生だから一番前のここに座ってね」
ろくに打ち合わせもできず、取るものも取りあえず僕とエガシ氏が到着した時には、すでにその場は一人の若い女性によって仕切られていた。演壇に向かって四席三席の二列で在校生が座り、その前に一席だけ新入生席があった。
全員が臙脂色を基調とした膝上丈の袴姿に、上半身の半着は桜色で揃えていた。そこに丈の短い編み上げのブーツとニーソックスがよく似合っている。こうした袴をアレンジした制服は猫族に限らず我が国の女子学生の間ではポピュラーなものだ。
「あ、エガシ先生ご足労ありがとうございます。それと新任の——トウヤ先生ですね?」
僕にそうたずねてきた猫族の女性は自分よりも一つ二つは年上に見えた。黒髪は肩できっぱり揃えたミディアムカットで、その潔い性格を現しているかのようだった。
「遅れてすいません。あの……あなたは?」
「九姉妹の次女のニコです。姉妹のことは私に任せてください」
在校生席にはニコをあわせて七名。それに新入生席にはコココと呼ばれた子供が一人。全員が猫族の姉妹だ。その中には昨晩おにぎりを家まで届けてくれたミケコという少女もいる。
エガシ氏が来賓席に座ると、それで体育館にいる人は全部だった。
「えーと、保護者の方は……」
僕が言いかけるとニコが遮った。
「私たちの両親はいまお社の神事でお山にこもっています。今日の参加者はこれで全部ですので式を進めてください」
ニコが自分も席に着きながら当然のことのように言う。
つまりこの場にいる子供八名が在校生で、なおかつ皆、実の姉妹だと言うことだ。しかしそこで顔ぶれに違和感を感じる。さっきニコという少女は九姉妹と言わなかっただろうか。ところがここにいる子供は八名だ。
「ニコさん、つまらないことを聞くかもしれないけど、もう一人の姉妹がいるんじゃないの?」
「ええ、姉のイチコなら昨年度で義務教育を終えて卒業していきました。あと生徒の私にさん付けは不要です」
軽くたしなめられてしまった。
「えー、ゴホン。それでは本年度のワッカ分校入学式を開会します」
壇上に上がり設置されているマイクに向かう。完全にぶっつけ本番だが仕方ない。エガシ氏に最初に渡された式次第を確認しながら司会をつとめる。
「それでは新入生の方は名前を呼ばれたら大きな声で返事をしてください。社コココさん!」
「はいっ!」
思いのほか元気のいい声が聞こえた。新入生のコココも他の姉妹と同じく臙脂色の膝上丈の袴に編み上げブーツ姿だ。緊張しているのか、肩までのプラチナブロンドの髪の毛の間からのぞく耳がピンと立っている。
「社コココさんの入学を許可します」
緊張した面持ちのコココに向かって入学認定をする。在校生達と来賓席のエガシ氏からパチパチという散発的な拍手。
式次第には次に「学校長式辞」とあるが、ここは僕が言わなくちゃならないのだろうか。黙っていても始まらないのでこの場でしゃべりながら考える。
「コココさん、ご入学おめでとうございます。これから十二年間の義務教育が始まります。その中で色々な出会いがあるでしょう。その一つ一つの体験を糧に立派な大人になってください」
なんとか乗り切った。次は来賓祝辞だ。これはエガシ氏に振ってしまおう。
「来賓祝辞」
僕がエガシ氏の方に視線を送って言うと、当たり前のようにエガシ氏はその場で立ち上がる。
「とにかく元気でやってくれ。姉妹仲良く喧嘩をするんじゃないぞ」
そう言うとエガシ氏は席に着いてしまった。これで祝辞は終わりのようだった。
「……次は在校生の歓迎の挨拶」
すると、昨晩出会った少女のミケコと視線が合った。ミケコは任せてくれと言わんばかりの自信のある表情だ。ミケコに向かってうなずいて挨拶をうながす。
ミケコは席を立つと話し始める。
「新入生のコココさん、入学おめでとうございます。この分校はとても小さいですが、とても楽しいところです。これでコココとも一緒に勉強ができると思うとお姉ちゃんも嬉しいです。歴史と伝統のあるワッカ分校で、充実した学生生活を送ってください」
無難にまとめてくれた。ミケコには感謝の気持ちで一杯だ。次は新入生宣誓……って大丈夫なのか? そう思い視線を最前列のコココに移すとこっくりこっくり船をこぎ出している。退屈な式次第に早くも飽きてしまったようだ。
僕が声をかける前に後列のニコがすっくと立ち上がった。そのままスタスタとコココに近づくと、背後からぺしっとコココの頭をはたく。ニコはコココの大きな耳に口を寄せて小さな声でささやいているようだ。
「昨晩練習したでしょう。新入生宣誓よ!」
それでようやくコココも目の焦点が合ってきたようだ。多少ふらつきながらも立ち上がる。
「新入生宣誓」
すかさず僕も式を進める。
「……今日はあたしのために来ていただいてみなさんありがとうございます。このがっこうで学べる十二年間を楽しみにしています。よろしくおねがいします」
最後にぺこりと礼をしてコココは席に着いた。
「そ、それではこれをもって本年度のワッカ分校入学式を閉会します」
なんとかなった。むしろ司会者が一番一杯一杯だったとも言えよう。
「新入生、在校生退場」
ニコとミケコにうながされて皆が退場していく。ふとエガシ氏の方を見ると、グッジョブとでも言いたいのか右手の親指を上に上げていた。こちらについては正直に言ってぶん殴ってやりたい気持ちで一杯だった。
かつてはこの分校にも賑やかな時期があったのか、結構な数の空の教室がある。正面玄関といま入学式をおこなった体育館をつなぐように教室が続いており、一番玄関に近い部屋が職員室で、その隣が全校生徒が一緒に学ぶ教室になっていた。
教壇を挟んで僕はいま全校生徒と向かい合っている。最年長のニコから今日入学したばかりのコココまで女の子ばかり総勢八名。これが今日から僕の教え子になる。
「入学式と順番が前後してしまったね。今日からきみたちの担任として教鞭を執る証トウヤです。首都の大学を出て最初の教え子がきみたちになります。このワッカの里にもまだ慣れていないので、そこは皆さんから教えてもらおうと思っています。まずはこれからの一年間よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。全員の好奇心に満ちたキラキラした瞳が刺さるようだ。
「では最初に出欠を取ります。名前を呼ばれたら手をあげて返事をしてください」
前列の四人が年少組、後列の四人が年長組の席順になっている。
「では、社ニコさん」
返事とともにすらりとした体型の一番年上の少女が手を上げる。先ほどの式次第をほとんど仕切ってくれた子だ。学年は十二年。今年でこの学校を卒業することになる。肩までの黒髪からのぞく少し切れ長の目は伶俐そうだ。
「社ミケコさん」
こんど手を上げたのは昨晩わざわざ差し入れを持ってきてくれて、今日の入学式でも在校生の歓迎の挨拶で助けてくれた少女だ。学年は十年。十五歳で僕と同じ年だ。髪質が細いのか、薄茶色のセミロングの髪は全体に流れるような軽い印象を与える。
「社ショコさん」
おずおずと手を上げたのは姉妹の仲でも白い肌が際立つ少女だった。学年は九年だが、十四歳にしては小柄に見える。灰色の髪を眉の上で揃えているのが幼い印象を強めていた。
「社イツコさん」
「はいっ!」
大きな声で元気よく返事をし手を上げたのは、よく陽に焼けた肌の白い髪のショートカットの少女だった。八年生ということだが一つ年上のショコよりも大柄でたくましく見える。
ここからは前列の年少組だ。窓側から名前を呼んでいく。
「社リッコさん」
「ぼくですわ」
胸元までのダークブラウンの巻き髪も目鼻立ちも七年生の少女そのものだが、ぼくという一人称。妙な余裕を感じさせる雰囲気から一筋縄ではいかない予感がする。まあいい、次。
「社ナナコさん」
一番僕の方を好奇心に溢れた目で見ていた子だ。学年はぐっと離れて三年生。素直で利発そうな顔立ちをしている。ブルーグレイのショートカットで、精一杯手を上に上げているのが可愛い。僕も微笑みを返す。
「社ハチコさん」
ナナコとそっくりの少女が手を上げる。学年も同じ三年生ということは双子か。髪の色も髪型も同じだが、こちらは少し大人しそうな印象を受ける。
「で、社コココさん……はもう寝てるか」
机の上に横向きで顔をのせて、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「コココはだいたいいつも寝てるんだよなー」
イツコが身も蓋もないことをいう。
「トウヤ先生、コココはこれまでずっと家にいたので、昼間に起きているという習慣がまだ無いんです」
ミケコが妙な論理でコココを擁護する。
「わかった、わかった。まずは起きて学校にちゃんと来るところから始めようか」
とりあえずそう言って解散する初日のホームルームだった。
◆ ◆ ◆
『授業中 ——トウヤ編』
分校の授業は全員が一つの教室に机を並べておこなう。生徒がたったの八名ということもあるが、なにより肝心の教師が僕一人しかいない。
六年生くらいまでの教科であれば一人で全教科を受け持つのもたやすいことだが、七年生を超えてくると少しずつ専門的な内容が入ってくる。十年生から十二年生の、かつては高等教育と呼ばれた分野ともなると、一教科ごとに専門の教師が授業をおこなうのが普通だ。
だから——というわけなのでもないが、この少人数の教室での授業は基本的に自習となる。生徒が自分で教科書を読み、問題集を解き、解答合わせをする。それでもわからないことがあった時が教師である僕の出番となる。
自分でいうのも口幅ったいが、僕は首都の大学を飛び級の上、首席で卒業している。十二年生までの義務教育の範囲など子供のころに修了していた。教えることにかけては不安は無い。
男の子のようなロックショートにした白い髪が印象的なイツコが、手を上げて僕を呼ぶ。
「せんせー。ミドリムシとクマムシって、どっちが強い?」
「クマムシだ」
「どうしてー?」
「大きさでは圧倒的にミドリムシが大きいが、どちらかというと植物の仲間だ。クマムシは小さいが非常に強い外的環境への耐久性を持つ動物だ。って八年生じゃまだクマムシはやらないだろ。何読んでるんだ」
『最強生物列伝』という読み物をめくっていたイツコとの、漫才のような掛け合いが終わるのを見計らってか、ミケコが手を上げる。
「トウヤ先生。第一宇宙速度では地球の重力圏を脱出できるのですか?」
「惜しいな。脱出速度には第二宇宙速度が必要だから答えはバツだ。それにそのまえに第一宇宙速度で地球の衛星になった時点で、ルナ・フォースの攻撃対象になって衛星軌道上のゴミになる」
「月世界人はどうしてそんなに攻撃的なんですか……」
悲しそうな表情でミケコはつぶやく。
「それを説明するには『月戦争』の歴史を学ぶ必要がある。ミケコはそろそろ歴史で習う頃だな。疑問点は疑問点として、残しておくとあとで習う時に理解が深まるぞ。今すぐ知りたいなら『月戦争』の項目を読むといい」
そこにブルーグレイの髪が心なしぺたりと頭に張り付いているナナコが心細そうな声で聞いてくる。
「せんせい。三の段の九九をおしえてください……」
「ハチコにもおしえてください……」
二人とももう三年生だが、まだかけ算の九九が苦手なようだ。
ぼくはまだ他の生徒の様子を見て回りたかったので、仕事をニコに振ることにした。
「ごめん、ニコ、ちょっとみてやって」
「あ、はい」
年少組の指導にはこの中で最年長のニコに頼ることも多い。ニコの方も慣れたもので、テキパキと教えている。ばっさり切りそろえられた髪型が才女っぽく見えなくもない。
「だから三が一つで三でしょう。三が二つになったらいくつ?」
ナナコとハチコは声を揃えて答える。
「三十三」
「いや、そういう意味での二つになるじゃなくて——えーとそうだ、リンゴで例えようリンゴ。ここに三つのリンゴがあるとするでしょう。そこにもう三つリンゴを持ってきたら全部でいくつ?」
同じく声を揃えて返事をする。
「六つ」
「ここまではいいのよねー。じゃあ、また三つリンゴを持ってきたら……」
「ニコ姉、リンゴは元の場所にいくつあるの?」
ナナコが妙な方向へ関心を向けたようだ。
「元の場所は八百屋さんだからリンゴはたくさんあるの!」
「むー」
ナナコとハチコは二人で納得のいかない表情。
単純な疑問ほど納得させるのは難しい。僕もこの分校に来てその事実を痛いほど教え込まされた。僕も幼い頃はそうした疑問を持ったはずだが、それほどこだわらない性格の故か記憶にはあまり残っていない。
「トウヤ、ぼくの国語のテストの採点をするのだわ」
リッコの言葉に斜め前のミケコが注意する。
「リッコ、先生を呼び捨てにしちゃ駄目でしょ。『トウヤ先生』よ」
「こんな新米教師はまだトウヤでいいのだわ。さあ、早く採点なさい」
「まあまあ、ミケコ。僕はトウヤでもいいよ。で、リッコは国語の問題か。まず漢字の読み書きは一つ間違ってるだけだな。左右は『さゆう』でいいけど右左は『うさ』じゃなくて『みぎひだり』だよ。」
「なぜ左右は音読みなのに右左は訓読みなのか納得できないのですわ」
「それは慣習で決まっている読み方というもので、理屈じゃないんだよなあ……申し訳ないがそのまま覚えて欲しい」
「まったく日本語は不条理の塊なのですわ」
「で、その次は文章問題だな。傍線箇所の主人公の気持ちを書け、か」
「登場人物に感情移入するのは得意中の得意なのですわ」
僕は読み上げる。
「なになに『吾郎は憤怒していた。父の手仕事は確かに国宝級の腕前だった。おまえなら父を超えることもできる。そう吾郎にささやいたのはほかならぬ敏夫ではないか。自分の作品を人々に見せる前に期待感を煽るだけあおって、いざ公開となると手のひらを返したように知らぬ顔で通す。作品の造形は工房の手練れが多く参加しただけあって一級品の風格を備えていた。しかし、肝心の魂が入っておらぬ。無節操な批評家どもはよくさえずる雀のように勝手なことを言う。それもこれも元はと言えば敏夫の甘言にのった己の甘さにあった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。吾郎は自分自身に憤怒していた』」
長い。
「あーリッコ。狭い解答欄にこれだけ書いた努力は認める。文章力もたいしたものだ。でも問題の答えとしては一番最後の一文だけでいいな。一応マルっと」
リッコは他の問題もおおむね正解していた。コミュニケーションに癖のある生徒だが、学力的にはレベルが高い。これは少し飛び級をすることも考えてもいいかもしれない。
「じゃ、リッコはこの時間はもう自由に自習してていいよ。次の時間は数学をやろう」
「わかったのですわ」
自由に自習するというのも少しおかしい言葉だが、この教室にも一応時間割がある。その時間割に合わせて各自一つの教科の自習をするのだ。だから、国語の自習を終えて自由自習になったリッコは好きな科目を選んでいい。
リッコはどうやら読書に時間をあてるつもりらしく、図書室で借りてきた本を読み出した。どうやらサスペンス物らしい。血とか夜といった文字が表紙に躍っている。まあ、読む本の内容にまでは干渉しないでおくか。
リッコの相手を終えて、全体を見渡す。ニコはまだナナコとハチコに九九を教えている。コココは……寝ている。
この猫族の子供達を相手するにあたって、僕は猫族の特徴を調べた。ある調査によると猫族の子供に必要な睡眠時間は六歳までの時点では二十時間とあった。これでは日中に起きて活動できる時間はたったの四時間だ。これでは登校してきても、まともに勉強ができる時間を確保することは難しい。
人間用の教育カリキュラムをそのまま猫族の様な亜人種に当てはめるのは無理があるようだ。今度首都の学会に報告を上げる機会があったら、このことはぜひ盛り込んでおこうと思った。
それにしても、すーすーと寝息を立てて窓際の席で眠るコココは天使もかくやという可愛らしさだった。肩までのプラチナブロンドのミディアムヘアは毛先がピンとはねており、春の陽光を浴びて艶やかに光り輝いている。いつもは周囲の音を聞き漏らすまいと立てている尖った耳は力なく伏せられており、袴から飛び出しているしっぽはだらりと垂れながらも、先端はぱたぱたと小さく振っている。
これは完全に眠りについているのではなく、周囲の物音に一応気を払ってますよ、というサインなのだそうだ。だからこの状態のコココは名前を呼べば一応目を覚ます。しかしそれで睡眠不足になってはかわいそうだから、僕はそのままにしておくことにした。
それなりに賑わいを見せながら和気藹々と学習を進める中で、一人ショコだけが壁を作っていた。
取り組んでいるのは理科の情報工学の単元だ。ショコはまだ九年生だから基本中の基本のところをやっているはずだ。
「どうだ、ショコ。よくわからないところはあるか?」
自分から意思表示をすることの少ないショコに関しては、いつも僕の方から話しかけてやる必要がある。ショコが自分から自発的に声をかけるのは、そのほとんどが一つ年上のミケコだけだった。
「あの、先生。一バイトはどうして八ビットなんですか……」
ほとんど泣きそうな声でショコは訴える。灰色がかった髪の毛が眉の上で切りそろえられていることもあり、その愁いに満ちた眉毛の表現力たるやたいしたものだった。
「そうだよな。別に八ビットである決定的な必然性はないんだ。単に二進数の八桁の八ビットを一バイトにしようと大昔の人が取り決めをしただけのことなんだ」
「どうして昔の人は八ビットにしたんですか」
「黎明期のコンピュータの中には六ビットで一バイトにしていたものもあったそうだよ。六ビットは二の六乗だから六十四種類の文字を扱うことができる。でもそれじゃあ足りなくなってきたんだ」
「六十四文字もあればアルファベットの二十六文字とゼロから九までの十文字も表せるからそれで十分だったんですね」
僕は大きくうなずく。
ショコは一つのことを考え始めると、あらゆる可能性に考えが向かってしまう。そして自分でまとめきれなくなって悲しくなってしまうらしい。こういうところは単純明快に暗記するものはそういうものだと割り切る一つ年下のイツコとは正反対だ。
「ところがアルファベットには大文字と小文字があるだろう? これだけで五十二文字だ。それにプラス記号やマイナス記号みたいな特殊記号もひとまとめにやりとりできるように余裕を持って、二の八乗の二百五十六文字を一バイトというひとまとめにして一回でやりとりできるようにしたんだ」
「先生! わかりました」
パッと花が開いたようにショコが笑顔を見せた。これが見たくていま僕は教師をしている。
◆ ◆ ◆
『訪問 ——トウヤ編』
前任の分校教師、辺エガシ氏を訪ねたのは土曜日の午前十時だった。数日前に電話で約束を取り付けたはずだったが、当のエガシ氏は裏庭で栽培しているアスパラガスの収穫で取り込み中だった。
僕は彼の収穫を待つのみならず、収穫作業自体も手伝う羽目になった。
「まさか午前と午後の十時を勘違いしたとは言いませんよね」
アスパラガスのどっさり詰まった段ボール箱を持ちながら、自然と僕の台詞も皮肉めいた調子を帯びる。
「いやなに、隠居生活に慣れてしまうと曜日感覚がつかめなくてな」
特に定職に就かなくても、地球維持機構からの配給で、最低限の人間的な生活が保障されているこの時代。定年まで仕事をやり遂げるなど、エガシ氏は社会人の鑑であると言えよう。
もっともそれは社会の歯車の一つとして立派だというだけのことで、当人の性格や品性までを保証する物ではないようだ。
その最たる例が、僕の赴任日当日に電話で翌日が分校の入学式であると伝えてくるあたりの適当さであるが、その最悪な入学式を乗り切った今となっては、エガシ氏との仕事面での縁が切れたこともあり、僕の中では懐かしいセピア色の思い出となり果てている。
裏口から入ったエガシ氏の住宅は、古びてはいるがかつて普及したモジュールをつないだ機能的な家屋だった。
「それでエガシさんの係累はみなこの地方の中央の方へ転居されてしまったと」
アスパラガスの入った段ボール箱をダイニングテーブルに置くと、僕は世間話から少しずつ本筋へ方向性の修正を試みる。もちろん今日の訪問は分校の運営などに関するものではない。
「ああ、わしの母親が亡くなったのがもう十年前か。それまで母と一緒に暮らしておった妹夫婦が中央に引っ越して以来、この里生まれの純粋な人類はわし一人になってしまったなあ」
この世界唯一の統治機関、地球維持機構では、純粋な人類も猫族のようないわゆる亜人種も分け隔てなく扱っている。しかし特にこの数十年、純粋な人類は中央と呼ばれる地域の拠点都市に寄り集まって生活する傾向が指摘されている。
「私的なことをお聞きしますが、エガシさんはご家庭を持たなかったのですか?」
僕の直截な問いに、エガシ氏は首を振って答えた。
「妻はおったよ。子もなさずに早くに亡くなってしまったが」
「それは差し出がましいことを申しました」
「まあこんなご時世だ。ただの人間が同類同士で集まって暮らすのも無理のないことだろうて」
エガシ氏の言葉を理解するには、まず「地球病」について知らなければならない。
全地球規模の原因不明の不妊症と遺伝子異常を伴った子供の出生。この業病に人類が冒されて、もう数世紀がたとうとしている。
地上の人類は減少し続け一時期の出生率は一を割った。人口爆発で資源の枯渇が心配されていた時代のことなど忘れ去られ、人類は文明の火を消さない為に地球維持機構と現在呼ばれている統一政府にはじめて統合された。
一方で、この不妊と遺伝子異常の現象が見られない人々もいた。すでに地球外に進出していた、月や火星で暮らす人々だ。よって、ついた名前が「地球病」。そのため地球人と地球圏外に暮らす「圏外人類」との間には決定的な溝が生まれた。
圧倒的な業病に、圏外人類との相容れない対立。こうした外圧が無いと人類統一は果たせなかったのかもしれない。
エガシ氏は大鍋に湯を沸かし始めた。さっそく茹でて食べようという腹だ。一方で大量に残っている残りのアスパラガスはピクルスにするのだという。
雪の無い季節でこそ週に二度ほどは往来しているこの地方の拠点都市との定期バスだが、雪に閉ざされる季節になると定期的な交流は途絶える。当然配給物資も止まる。冬の間、この里の人々はそれまでに蓄えた物資で命を繋ぐしか無いのだ。
「しかし、失礼ですがその歳での一人暮らしは大変なのではないですか」
食器棚から勝手に白い陶器の皿を出し、フォークを添える。
「なに、男やもめも板についておるわ」
言いながらエガシ氏は塩とマヨネーズを出す。どうでもいい話だが僕はこのマヨネーズという調味料が少し苦手だ。ちょっと酸味があるのが嫌なのかもしれない。
「で、何を聞きたい」
ダイニングテーブルに向かい合わせに座って、山盛りの茹で立てアスパラガスと対峙する。エガシ氏の方は冷蔵庫から出した缶ビールをもう開けている。僕にも勧められたが固辞した。
「地球病と因果力。そしてと亜人種の関係です」
僕の追い求めている究極の答えは妹の「未来視」の謎を解くことだが、そのためには外堀から埋めていく必要がある。そのためには、もう二つばかり重要な事項を知らなければならない。
地球病の蔓延とともに、それでもなお生まれてきた子供たちの中に不思議な力を発揮する者が出始めた。彼らは手を触れずに物を移動させたり宙に浮かせる事ができた。
炎を操ることのできる能力や、気象を左右するような大がかりな能力から、他人との精神状態を共有することや、物質の組成を変化させるような一見地味な能力を発揮する者もいた。
それまでの科学の常識は覆され、地球病という業を背負って生み出されたこの特異な力は、それゆえに「因果力」と呼ばれた。
そして地球病が発症してから一世紀がたち、ほぼすべての地球上の人類に因果力が備わったころ、因果力と遺伝子工学の融合のユニークな成果として、他の動物の遺伝子を組み込んで地球病に影響されない生殖能力を持った亜人種を作り出すことに成功した。そしてここが重要なのだが、亜人種は生まれつき因果力を持たなかった。
これが一般的に知られている地球病と因果力の関係、そして亜人種の誕生の経緯である。
「われわれ純粋な人類のみが因果力を使える。しかし、いまやその人口の上ではすでに亜人種が地球の主だ。違うかね」
エガシ氏の言うことはもっともだ。因果力を使えるからといって、人類と亜人種の間に極端な力関係の不均衡は生まれなかった。最初の頃こそ亜人種は奇異の目で見られたと古い文献にはあるが、地球病を発症しない彼らは、その繁殖力でこれまで人類が占有していた生態的地位をすみやかに埋めていった。
このワッカの里のように猫族が大半を占めているところもあれば、狼族や熊族が優位を占める土地もある。
そして彼らの始原の種族であり、因果力を持つ人類は一種独特の崇敬の念を亜人種から受けることになった。現在、単純な人口比では人類は亜人種の六パーセントほどの人口しか持たないが、地球維持機構での議席数はいまだに過半数を人類が占めている。
「僕は亜人種が地球病と無縁であることと、因果力を持たないことになんらかの意図が隠されていると思っています」
僕はストレートに持論をエガシ氏にぶつけてみた。
エガシ氏はアスパラガスを食す手を休めてじっと僕の目を見る。
「『意図』ととるか……あんたはなにかの思想に凝り固まったような輩では無いようだがな」
マヨネーズを豪快にディップしたアスパラガスにかぶりついてエガシ氏は問う。
「そんなことを知ってどうする」
「『未来視』の妹を救います」
そう言うとエガシ氏は驚きの表情を浮かべた。
「『未来視』の少女、か。噂では聞いている。首都の権力者の間で取り合いになっているとか」
「その噂は正確ではありませんがおおむね合っています。いまや唯一の肉親と言ってもいい妹を、これ以上、大人の都合で不幸せにすることは僕が許しません」
「で、なぜこの里に来た」
「妹の言葉によれば、僕は未来をつかむためにこの北奥の地で人々と交わり『鍵』を見つけ出す必要があるということです」
「まあ、なんとも抽象的なご託宣だな」
「小規模な予言であれば『未来視』はほぼ間違いなく事実を明らかにします。僕に与えられた言葉が曖昧なのは、それだけ広範囲に影響を与える行動だからだと思っています。教師としてここに赴任してきたことにもきっと意味があるのでしょう」
「まずはあのお社の九姉妹。それにわしのような偏屈者の人間と関わるということだな。ほかにも変わった連中は里には多いし、ヒト以外にも出会うべきモノはあるだろうな」
なにか含むところのあるような物言いだ。
「エガシさん、あなたの地球病についての見解をおうかがいしてもいいですか?」
そう切り込むとエガシ氏は卓上のシガレットケースから紙巻き煙草を一本取りだし口にくわえると、なにも持っていない右手で指を鳴らして火をつけた。
「まあ、わし程度でもこのくらいであれば因果力の式を練ることができる。しかしこんな力がなくともマッチやライターを使えば済むことだ。因果力などと大仰な名前がついているが、その後数世紀にわたって人類文明は衰退するばかりだ。地上は亜人種が主人公となり、空の上の連中は最近では自分たちこそ人類の正当な後継者だと名乗っているそうじゃないか」
長い台詞を言い終えると、エガシ氏は紫煙をゆっくりと吸い、旨そうにはき出した。
「ずいぶん悲観的なんですね」
竹で編んだザルに盛られたまま熱を失っていくアスパラガスを眺めながら、僕は静かな声で言った。
「そうでもない。これは第二の創世記なんだとわしは思っておるよ。ノアの箱舟にはヒトとあらゆる種類の動物のつがいが乗せられたが、今度はヒトと動物が最初から一体の状態になっている。これこそが失敗作だったヒトを滅ぼして、より神の意図に沿った存在を地上に栄えさせようとする計画なのではないのかね」
よくあるブラックジョークの一つだったが、僕にはエガシ氏がわりと本気でそう思っているのではないかと思われた。
「よくわかりました。またあなたにお話をうかがいに来るかもしれません。その時もなにかの収穫があったら手伝いますよ」
「ところでどうだ。あの姉妹とはうまくやれているのか」
「ええ、まだ一人一人の個性をつかむので精一杯ですが」
「なら今はそれでいい。不在のイチコに会うのを楽しみにしておくんだな」
エガシ氏はなにか含むところのあるような口調でそう言った。
「イチコさんはいま東部地域を遊学中だそうですね」
「そうそう。飛び出していったら帰ってこない鉄砲玉みたいな子だよ。ところでトウヤ君、君はこれまで猫族の人間と親しく交わったことはあるかね」
エガシ氏は話の矛先を変えてきた。
「……学生時代の級友にはもちろん猫族の者も大勢いました。ただ、彼らの生活習慣などはまだまだです」
「この里はほとんどの住人が猫族の、しかもその信仰を集めるお社のある里だ。お社では何を奉っているのか調べてみるといい。きっと何かの手がかりになる」
それで話は終わりだった。僕はエガシ氏から生のアスパラガスを押しつけられるように持たされ帰路についた。隣のお社にお裾分けしないと処分しきれない量だった。
◆ ◆ ◆
『淵のぬし ——コココ編』
『淵の方には行ってはいけないよ』
なんどもそう言われたことをあたしはちゃんと覚えてる。
イチコお姉ちゃんも、ニコお姉ちゃんも、ミケコお姉ちゃんも、いっしょに川まで遊びにきたら必ずそう言っていた。
どうして、ときくとイチコお姉ちゃんはおっかない淵のぬしが出るからだとあたしをおどかした。
ニコお姉ちゃんは、淵はとても急に深くなって、水の流れも吸い込まれるようになるから、泳ぎが達者になるまでぜったいに近寄ったらだめだよって言っていた。
ミケコお姉ちゃんは、あそこの淵では昔からおぼれ死ぬこどもが何人も出たので、その魂をしずめるために「ふちしずめのまつり」を毎年やっているんだって言っていた。
あたしは淵に行っちゃだめだって知っていた。
あたしが川べりまで来たのは、お社で飼っている猫のコタばあちゃんがよろこぶマタタビが欲しかったから。マタタビの生えているばしょはイツコお姉ちゃんと何度も来たからよく知っている。
そう思ってた。
あたしの思っていたところにマタタビの木はなくて、あたしはあるくのが遅いから、もう少し先にあるんだろうと思った。
だから川べりをくだって行った。
そのあたりでは、まだ川のすぐそばまで田んぼがあったし、その向こうには人の住む家が見えていた。
だからまだだいじょうぶ、だいじょうぶって自分で自分に言いきかせてた。
あたしの両耳はピンとそばだって和毛の先までちりちりと立ち上がっていた。
袴の穴から外に出ているしっぽも山形に持ち上がっていた。
自分で自分にだいじょうぶって言うたびに、耳もしっぽも危険を感じて警告を伝えていたのに、ばかなあたしはそれに気がつかなかった。
空は晴れていたけど淵のちかくの木々はうっそうとしていて、昼間だというのに空気がよどんでいる感じがした。
きのうの晩に少し小雨が降ったから、日陰になっているところの下草は、まだ少し濡れていた。
そこで足を滑らせたんだと気がついた時には、体の下半分が川に漬かっていた。
水は冷たくて濡れた袴は両足にからみついた。
手で陸地に生えている草をつかもうとしたけれど、あたしの小さな手でつかめる草はほんの少しで、つかんだ先からちぎれていった。
胸のあたりまで水に漬かって、あたしは川の流れにさからえず、ゆっくりと岸から離れていった。
あたしはまだ泳ぐのが得意じゃない。だから仰向けに水に流されるまま川の上を覆う木の梢を見ていた。
木の合間から見える空はキラキラと輝いていて、まるで別の世界へつながっているみたいに見えた。
水は首のあたりまで濡らしていたけど、着込んでいた着物に空気が溜まって、からだ全体が沈むことはなかった。
あとから聞いた話では、そうしてじっとしていたのが、かえってよかったらしい。
あたしは川を流されて淵の上までくると、ゆっくりと体が回転しはじめた。
なんとなくここが淵の一番ふかい場所なんだって思った。
川のうえを流れる木の葉がくるくるまわりながら流されていって沈んでいく。
そんなふうに自分も沈んでしまうのかなって思うととても怖くなった。
これまで川に落ちたことにびっくりして、自分だけ止まっていた時間が急に動き出した気がした。
あたしは声を出そうとした。でものどがひりついたように息は声にならず、言葉を紡ぐことはできなかった。
その時だった。
ふかい淵のそこから大きななにかのかたまりが水を押しわけて上がってきた。
「それ」があたしのちいさなからだを押しあげ、そのままあたしを乗せて岸まですごいスピードで運んでいった。
岸の濡れた下草の上に、あたしはころんと転がされた。
大きな何かは岸のそばでぐるんと水の中に沈みこみ、もう一度淵の一番深くまで達すると、ゆっくりと水面に顔をだした。
平たい顔には無数の傷痕がある。その傷痕に紛れ込みそうなちいさな両目がはなれてついていた。
これが淵のぬしだ。
あたしは直観した。
そのままどれだけの時間見つめあっていたのだろう。遠くからあたしの名前を呼ぶいくつかの声が聞こえた。
淵のぬしはその声にも動ずることなくじっとしていた。
「コココ!」
トウヤせんせいの声が近くで聞こえた。
その途端、淵のぬしは大きな顔を水上に上げて、これまた大きな口をひらいて空気を一飲みすると、ざばりと頭から淵の深くへと沈んでいった。
「コココ、大丈夫か!」
すぐ近くでトウヤせんせいの声が聞こえる。
あたしは振り向くこともできずに淵のぬしが沈んでいったところから上がる、小さな泡のはじけるのをじっと見ていた。
トウヤせんせいがあたしの肩をつかんで横に振り向かせた。
「ずぶ濡れじゃないか。それにいま沈んでいったのは……」
トウヤせんせいの声に、お姉ちゃんたちや里の他の人たちの声も集まってくる。
「コココ! よかった!」
川べりの坂を転んでくるような勢いでミケコお姉ちゃんがおりてきた。お姉ちゃんはあたしをきつく抱きしめると、よかった、よかったと何度もつぶやいた。
お姉ちゃんの懐かしい匂いをかいで、ずっとびっくりしっぱなしだったあたしの心が急に動きはじめた。
じわりと目頭に涙があふれ、我慢しているとつうとほおを伝ってあごまで涙のすじが流れた。そのあとあたしはわんわんと泣き出してしまった。
「コココ、淵の方には行っちゃだめだって何度も聞いていただろう」
帰り道、あたしはトウヤせんせいに背負われて野辺を歩いて行った。その後ろにはミケコお姉ちゃんと里の大人がもう一人。
もう涙は止まっていたけれど、鼻に流れて行った分をすするのは止まらない。
まだ乾ききっていない両耳はぺたりと頭に張り付いていた。
トウヤせんせいの質問にあたしは「うん」と答える。
淵の方に行ってはいけないと本当に何度も聞かされていたからだ。
「でも自分で川岸まであがるなんて偉かったな」
そうじゃない。そう言いたかったがうまく言葉が出てこなかった。
「……淵のぬしがいたの」
やっと小さくな声でつぶやくことができた。
「ああ、僕も見たよ。あれはキタオオサンショウウオの中でも特に大きな個体だったな。ぬしと言われるのも合点がいったよ」
淵のぬしが助けてくれたの。そう言いたかったが、このことは秘密にしておかないといけない気がした。秘密にすることを条件に、あの淵のぬしはあたしの命を救ってくれたのではないか。そんな気がした。
お社に帰ると家族が総出で出迎えてくれた。あたしはすぐに風呂にいれられ、あたらしい乾いた服を着せられた。
おおかたのことはミケコお姉ちゃんがやってくれたけど、あたしを探すためにやってきた里の人たちにはニコお姉ちゃんとトウヤせんせいが頭を下げていた。
そのあいだミケコお姉ちゃんはずっとあたしの手をつないでいてくれた。
騒動もほぼ落ち着いて、ミケコお姉ちゃんと居間で大人しくしていたあたしのそばにニコお姉ちゃんがやってきた。
「まったく、あんたが姿を消したと聞いた時には肝を冷やしたわよ。結局、里の人にも大勢手伝ってもらうことになったけど」
そういうとニコお姉ちゃんはあたしの頭を手でつかんで耳も髪の毛も一緒くたにしてかきまぜた。
あたしはそのまま、なされるがままにされていた。とても気持ちのいい叱られ方だった。
「やっと落ち着いたようだ」
最後まで里の大人たちと話をしていたトウヤせんせいが居間に入ってきた。その後ろには飼い猫のコタもついてくる。
コタはあたしにすりよると、「コタ、した心配、よかった」と慣れない日本語を話した。
「しかしコココ、どうして一人で川の淵まで行ったんだ?」
トウヤせんせいの言葉は叱るような厳しさはなく、むしろ温かかった。
「あのね、コタにマタタビを取ってあげたかったの」
あたしはコタの大きな首回りに抱きつきながら言う。なされるがままにノドをごろごろ鳴らすコタ。
「そうか。それでマタタビは見つかったのか?」
「ううん。あたしの覚えていたところにはマタタビがなくて、それでずっと行ったら川の淵だったの」
「そうか。それは残念だったな」
トウヤせんせいはそこでいったん話を区切った。コタもあたしから離れてミケコお姉ちゃんの横に寝そべった。
この場にいる全員の視線があたしに集まる。
「……あの、今日は心配かけて、ごめんなさい」
トウヤせんせいは「えらいぞ」と言いながら、ニコお姉ちゃんのようにあたしの耳と髪の毛をわしわしとかき混ぜるように撫でた。
それを待っていたのか、居間の外の廊下に集まっていた他の姉妹たちがいっせいに入ってくる。
ショコお姉ちゃんはあたしの手を取りながら泣いているし、イツコお姉ちゃんは今度マタタビを取りに行く時はわたしも呼べよな、とこっそりささやいた。
嬉しいはずなのにあたしはまた鼻の奥がツンとする感じがした。
◆ ◆ ◆
『化石掘り ——トウヤ編』
真夏の日差しが強烈に照りつけ、川の水面からの乱反射もまぶしいほどだった。
ワッカの里を縦走するコマ川の河原まで来て今日は理科の屋外授業だった。
「化石は黒っぽい石の中だぞー」
「はーい!」
僕のかけ声に、全員そろっていい返事が返ってくる。
普段見慣れている穏やかなコマ川も、このくらい上流まで分け入ると大小の岩や石ばかりの河原になる。
「先生〜石が硬くて割れません〜」
ハンマーを片手に、もう片方に石を持ったショコが早速泣きついてきた。
「ああ、こういう白っぽい石は火成岩といって溶岩が冷えて固まった物なんだ。この中には化石は無いよ。古代の海の底で静かに積み重なった泥からできた岩の中に生き物の死骸が紛れ込んで出来るのが化石だからね」
「うーん……。じゃあこれは?」
そう言ってショコが指さすのは、いかにも化石が入っていそうな黒ずんだ堆積岩だ。
「そうそう。そんな感じのを狙って割ってみるんだ」
「わかりました!」
屈託のない笑顔でショコは石を割る作業に戻る。石がぐらつかないように平らなところへ置き直してから、慎重にハンマーを当てている。最初の飲み込みは遅いが、素直なのがショコの取り柄だ。
皆が河原の思い思いの場所で手頃な大きさの石を相手にしている。
「どりゃー」
背後で誰かの大声。案の定イツコだった。短くした白い髪がどうかすると男の子に見える。
軍手をつけて、目を石の破片から守る透明なプロテクターをかけているのはいいが、力任せに適当な石を持ち上げると大きな岩にむけて投げつけている。
「先生! この方が効率がいいよ!」
こっちはこっちで満面の笑顔。というかドヤ顔。
「このバカ!」
近寄ってゲンコツをお見舞いする。こいつだけは悪いことをしたらすぐに罰が鉄則だ。なんというか子猫のしつけに近い。
「うぐぅ〜」
イツコは頭を押さえて大げさに痛がってみせる。まあ、人の子も猫の子も猫族の子もしつけが必要だという意味では同じだと実感する。
「石を放り投げて誰かに当たったら大怪我だぞ!」
「……誰もいないところに投げたもん」
「大きな破片が後ろに飛ぶことだってあるんだぞ!」
「……はぃ」
下を向いて拗ねている姿がいじらしいが、こいつの場合気持ちの切り替えが早すぎるのが問題だ。
「おーい、ニコ!」
「えっ、はーい」
この中では最年長のニコが振り返る。ニコも僕同様自分では石を割らないで、他の姉妹の様子を見て回っていたようだ。
「悪い。ちょっとイツコのヤツを見ていてくれないか」
やれやれと言った表情で苦笑いを浮かべながら、ニコが石を踏んでやってくる。
一方でイツコの目を見てもう一度諭す。
「いいか、イツコ。人類は最初石で道具を作っていた。それが進歩して石を割るためのハンマーが出来たんだ。ハンマーの鉄は石よりも硬いから、より効率的に石を割ることができる。持ち手の先にヘッドが付いているから遠心力で力も増す。お前も人類の一員なら、力任せじゃ無くて道具の使い方を覚えような」
「うん」
すっかりしょげているイツコの耳はぺたんと垂れて髪の毛にはり付いてしまっている。ニコはイツコの手を引いて、どの石が割るのに適しているか教えている。僕は引き続き他の教え子たちの様子を見て回る。
川の上を吹き抜ける風が、わずかばかりの涼を運んでくれる。河原の石からの反射する光も強い。できればもう少し曇ってくれるといいのだが。
僕の手が空いたと見るや、ナナコとハチコがトコトコ駆け寄ってくる。
「これ化石?」
「こっちも化石?」
両手で掬うようにして大事そうに何かを持ってくる。
「あー、残念。これはまだ化石じゃないなあ」
二人が持ってきたのはこのあたりで採れる淡水シジミの貝殻だった。
「でも惜しいよ。こういう生き物の死骸が土の中に埋まってながーい時間がたつと化石になるんだ」
『ふーん。わかった!』
二人とも綺麗にハモって返事をする。
わかったのかわかってないのか、化石というものの実物を見せてやれれば話が早いのだが、残念ながら、分校の資料室には化石は無かったのだ。
自分も何か植物化石の一つでも見つけなければ教師としての面目が立たない。どこかに化石の含まれていそうな石が転がっていないかあたりを見渡す。
「あははははは。だーい発見なのだわ!」
よく通るこの声は間違いなくリッコだ。
声の源を探ると少し川上の切り立った崖のようになっているあたりに人影があった。
人の背丈の倍くらいは高さのある崖のふもとに、腰に手を当てて高笑いするリッコの姿。胸元までの巻き髪が妙に似合っている。傍らにはコココと手を繋いでいるミケコもいた。
「どうしたんだ?」ミケコに問う。
「先生、あれは化石なんでしょうか……」
小首をかしげて崖を見るミケコ。コココも真似をしているのか首を斜めにして眠そうな瞳を向けている。
「来たわね、新米教師! ぼくの手にかかれば世紀の発見もあっという間のインスタントなのだわ!」
頬を紅潮させ両耳としっぽをピンと立てているリッコは得意満面といった表情だ。
高らかに宣言するリッコの背後に目を向ける。確かになにかゴツゴツとしたモノが、崖が増水時の水や風雨に浸食されるのに伴って露出している。
二つの円形の部位には中心に向けて放射状のラインが刻まれている。それらを繋ぐ胴体とでもいうべき部位の有機的なフォルムは躍動感すら感じさせる。
「ねえ、古代の巨大魚かしら? それとも双子のクラゲ?」
リッコの興奮した声は期待に満ちている。
「……これは逆さまになった一人乗り用の自転車だな。古代人は大量生産大量消費といって、モノを作っては捨てていたそうだから、その一つが川の泥に埋まったんだろう」
「あー、言われてみれば!」
ミケコが遅すぎるリアクションを返す。
「ぼ、ぼくも自転車の可能性は考慮していたのだわ!」
こっちはあくまで引く構えは無いようだ。
「崖のそばは危ないから気をつけろよー」
リッコたちにそう言うと、僕はまた川下の方に向かって生徒たちの様子を見て回る。
ショコはあれからずっと熱心に堆積岩を割っている。この分だとなにかの化石を見つけるのも時間の問題だろう。
ナナコとハチコの双子はもう化石掘りには飽きてきたらしい。ハンマーを置いて河原の小石を積み上げる作業に熱中してる。
「二人とも楽しいかい?」
声をかけると二人ともまじめな顔でぶんぶんとうなずく。
ナナコとハチコの周囲には、まるで石の植物がにょきにょき生えているように石が積まれている。絶妙なバランスだ。
猫族は生まれつき体のバランス感覚に優れていると言われているから、こうした手先を使った作業にも才能を発揮するのかもしれない。
「トウヤ先生—、そろそろお昼にしませんか?」
ニコから声がかかる。
見ると河原にたき火で即席のかまどをつくってケトルで湯を沸かしている。これで熱い紅茶が楽しめそうだ。
「ニコ、イツコはあの後どうした?」
すっかり拗ねてしまったイツコを任せた手前、どうなったか気になった。
僕がそうたずねると、ニコは微笑みを浮かべたまま川の方を見る。つられて僕も川の浅瀬に目をやると、手足で水を跳ね上げながらイツコが着物が濡れるのにもかまわずダンスを踊っていた。
「やあ、水遊びか」
「いいえ違いますよ」そう言うとニコが否定した。
「ああやってイワナを掬っているんです」
近寄ってみると、大きな岩の上のバケツには捕らえた大ぶりのイワナが何匹も入っている。
「これは凄い!」
僕が感嘆の声を上げると、いつの間に戻ってきたのか、ミケコもバケツをのぞき込む。
「ここはわたしの出番のようですね!」
そう言うと肩から提げていたトートバッグの中から、ペティナイフとステンレスの串、それに塩の瓶を取り出した。
ニコの作ったおにぎりと漬け物、それに焼きたてのイワナが今日の昼飯となった。
「さあ、魚も焼けたしお昼にするぞー!」
僕の昼休みの号令に一番遅れて戻ってきたのはショコだった。
「先生、これはなんの化石ですか?」
ショコの手にしている化石はきらきらと虹色の光を放っている。
「これは……アンモナイトだな。それもオパール化しているアンモライトだ」
アンモナイト独特の渦を描いた外郭が、そのままアンモライトに置換され乳白色の母体に虹が流されたような光の干渉の輝きが見えている。このあたりでアンモライトの産出するという記録は記憶に無いから、これは大発見になるかもしれない。
「やったな、ショコ! これは大切に学校に飾っておこうな!」
そういうとショコはやっとはにかんだように笑った。
◆ ◆ ◆
『喫茶店 ——リッコ編』
ワッカの里の分校にも夏休みがある。といっても真夏日など年に数日あれば良い方の北奥の地では、慣習的に夏休みが存在しているだけと言っていいくらいその日数は短い。そのかわり厳冬期の冬休みが夏休みの倍以上長いのだが。
その貴重な夏休みの一日を費やしてぼくは里の図書館に来ていた。
今日のぼくの格好は白いフリルのワンピースに耳だけを出した麦わら帽子。外観だけでも夏っぽさを演出したい気分だった。
「リッコさん、IDカードをお返しします」
「ありがとうなのだわ」
すっかり顔なじみの司書の小母さんに礼を言い、ぼくは図書館で借りた本と一緒に自分のIDカードも返してもらう。
今日借りた本は誉シンタの『息子の告白』だ。重厚な人物描写と非常に重たいテーマを描くことで定評のある作家だ。
雪の降らない間は北奥にも週に二回ほど定期バスが物資を満載にしてやってくるから、新刊の書籍もわりとすぐに図書館に入荷する。
そのうちの三分の一ほどがぼくの購入図書リクエストによるものだ。
リクエストで入荷した新刊の何がいいって、最初にその本を借りることのできる権利が自動的に付随することだ。だから昨夕図書館からの入荷の電話を受けて、開館の九時に合わせてさっそくやってきたのだ。
外出するならとニコにお使いも頼まれている。
ぼくはいま本を入れたトートバッグを肩からかけ、もう一つ籐で編んだバスケットを手で持っている。その中にはニコの焼いたチーズケーキが入っている。
里のメインストリートを少し外れたところにある、この里で唯一のカフェにこれを納品するのだ。
ここはコーヒーと紅茶にはこだわりがあると聞くが、食事や甘いものについては外注で済ませている。そのうちのチーズケーキ担当がニコだったというわけだ。
我が家の姉はニコもミケコも料理が上手いが、ミケコが毎日の食卓に並ぶものにレパートリーが広いのに対して、ニコはこうした甘いものや保存食の調理に長けている。
ぼくも七年生になったことだしそろそろ料理を手伝わなければならないのだが、面倒見の良いミケコについ頼ってしまってなかなか腕前は上がらない。代わりに洗い物はやっているのだから問題ないとぼくは思うが、女子に生まれた以上、料理は必須スキルなのだとニコには諭される。
カフェは古い木材を使った味のある建物で、ふとすると見逃してしまうくらい間口が狭い。でもそれは入り口だけのことで、入った中は意外と広く、ことに奥行きがあることをぼくは知っている。
「こんにちはですわ」
カランコロンとドアに付いたチャイムが鳴り、ぼくの来訪を知らせる。
「なんだリッコじゃないか」
いきなり名前を呼ばれた。
「その声は新米教師!」
カフェのカウンター席にはトウヤ先生が腰をかけていた。
「教師のくせにこんなところで何をしているのですか! ですわ」
「おいおい、それは僕の台詞だよ。しかもそんなめかし込んで……ははあ、デートだな?」
「そ、そそそそそそんなことあるわけないのですわ! ただのお使いできただけですわ! だいたい年頃の猫族の男子なんてこの里にはいないのですわ!」
まくしたてるぼくに、トウヤ先生はまあまあと両手のひらを広げてなだめる。
入り口近くでそんな舌戦を繰り広げていたら、奥からこのカフェの猫族のマスターがやっと出てきた。四十過ぎと聞いているが、仕立てのよいシャツと腰からの黒いギャルソンエプロンを着こなした姿は三十前と言っても通りそうだ。
「やあ、リッコさんご苦労様。今日はトウヤ先生とデートかな?」
「……わかっててやってる親父ギャグにはもうつきあえないのですわ」
むくれたぼくはバスケットを前に突き出す。
マスターはハハハと人好きのする笑いのあと、ぼくの手からチーズケーキの入ったバスケットを受け取った。
「ニコさんのチーズケーキはいつも人気があるんだよ。店に出してもすぐに売り切れてしまうから今度からはもう少し多く頼もうかな」
「それは商売のお話ですね! そういうことならぼくも興味があるのですわ」
マスターはまた小さく笑う。
「商談はニコさんと直接やらせてもらうよ。それよりリッコさんもなにか得意なお菓子でもあったら仕入れさせてもらうよ」
こんどはぼくが歯がみをする番だった。でも、ただニコに言われて料理の練習をするよりも、自分で作ったお菓子をカフェに卸してお金儲けというビジョンにはなかなか心くすぐられるものがあった。
「か、考えておくのですわ!」
精一杯の虚勢を笑わないでくれたのも、マスターの大人の余裕だったのかもしれないとあとになって気がついた。
「ところでリッコ、暑い中せっかくカフェまで来たんだから、何か飲んでいったらどうだ。今日は僕がおごるよ」
トウヤ先生が珍しく気前のよいところを見せる。
そんな話に乗らないわけがない。ぼくはカウンターのトウヤ先生の隣の席に座る。
カウンターの上を見ると、トウヤ先生はアイスコーヒーを飲んでいるようだった。
メニューを見てメロンクリームソーダ、という単語が口から出かかったが、ちっぽけなプライドが邪魔をした。
「ぼ、ぼくもアイスコーヒーで」
トウヤ先生はちょっと驚いた表情を見せた。
マスターは「承りました」とだけ言ってカウンターの奥へ向かう。
「リッコ、コーヒー大丈夫なんだな。そういえば僕も最初にコーヒーを飲み始めたのはリッコと同じくらいの歳だったかもしれないなあ」
「新米教師にも若いころがあったのですわね」
「いや、僕は今でも十分若いはずなんだけどね……」
考えてみればトウヤ先生と二人きりで話すなんてはじめてかもしれない。そう考えるとちょっと調子が狂う。
「今日はこのお使いだけなのか?」
「今日は図書館に行ってきた帰りなのですわ」
「お、本はいいぞ。知識だけじゃなくて著者の生き方を学ぶことにもなるからな。で、何を借りてきたんだ?」
ぼくはバッグから、借りてきた誉シンタの新作を取り出す。
「やあ、これはいま売れてるらしいね。僕も読んでみたいと思っていたよ」
「今なら図書館で順番待ちに登録しておけばさほど待たずに読めるはずですわ」
「ふむ、今日は帰りに図書館に寄ってみるか。ここの図書館はこの里の大きさにしては蔵書がそろっているのには驚いたよ」
「きっと冬が長いからですわ」
「なるほど、家の中での生活が中心になるから読書家が増えるというわけか。その点首都は雪はほとんど降らないし、読書以外の娯楽が充実しているからね」
「首都……新米教師は首都の生まれなのですわよね」
「そうだね。ここに赴任するまで首都生まれの首都育ちだ」
ぼくはまだ首都に行ったことは無い。
漠然としたイメージはあるけれど、そこで自分が生活している姿を想像することができない。今目の前にいるトウヤ先生はそうした世界から来たのだと思うと少し不思議な感じがした。
「……お待たせしました」
マスターがアイスコーヒーを運んできた。大きめのグラスに氷とコーヒーがたっぷり入っている。それにミルクとシロップがついてきた。
「いただきます……なのですわ」
一応おごってもらっているという立場な訳で、ちらりとトウヤ先生の方を見て言う。
トウヤ先生はニコニコとした笑顔でぼくの方を見ている。
まずはミルクもシロップも何も入れないでストローで飲んでみる。
——に、苦い!
味は確かにこれまで食べたことのあるコーヒー味の飴やガムとも似たような感じなのだが、その濃さが違う。まさにエキスを抽出したという印象だ。
こんな苦いものを大人は平気な顔で飲んでいたのか……。
ぼくは改めてトウヤ先生との差を悟り、漠然とした敗北感を感じていた。
僕の表情から察したのか、トウヤ先生もフォローを入れてくれる。
「リッコ、苦かったら無理してそのまま飲まなくてもいいんだぞ。ミルクもシロップも使いたいだけ使えばいい」
子供扱いされたという反抗心が脊髄反射的に一瞬芽生えたが、まあ待て、ここで自分の未熟さを知り受け入れることこそ真の大人への道、という考えも同時に生まれる。
脳内での反骨心と鷹揚さのバトルは、鷹揚さの勝利で決着した。
「そ、そうですわね。ぼくはミルクとシロップを入れた方が好みですわ……」
小さな容器で提供されたミルクとシロップを全部アイスコーヒーに注ぐ。ストローで三回転半ほど混ぜたあと一口飲んでみる。
ぐっと飲みやすくなった。いわゆるコーヒー牛乳ほどの甘さではないにせよ、これならおいしく飲めなくもない。
「ところで夏休みの課題の方はすすんでるか?」
夏休みの期間が短いだけに、さほど大量の宿題は出されていない。そして学年がバラバラの分校の生徒全員に課せられた課題が「将来の夢」という漠然としたものだった。
「課題をどうまとめるかはまだ考えているところですけど、将来の夢自体ははっきり決まっているのですわ」
「それは初耳だな。教えてくれるかい?」
普段であれば他の姉妹の耳も気にして決して言うことはなかっただろう。そしてこの長い時を経たカフェの中の特別な空間だということが、ぼくの気持ちを少し後押しした。ひょっとしたらコーヒーの作用もあったのかもしれない。
「作家……本を書く人になりたいです、わ」
「そうか。やりがいのありそうな目標だな」
トウヤ先生はぼくの夢がいいとも悪いとも言わなかった。
ただ、認めてくれたのが嬉しかった。
◆ ◆ ◆
『海水浴 ——トウヤ編』
北奥の夏は短い。ことに海水浴ができるシーズンは二週間に満たない。
そんなわけで、今日は海岸のゴミ拾いも兼ねた野外実習という名の海水浴だ。
昨夜のような嵐の後には色々な物が海岸に流れ着く。それは遠い土地から流れ着いた何かの実だったり、このあたりの深海から湧昇流に乗って押し上げられてきた深海生物だったりする。
週に二度ほどの貨物バスの行き来くらいしか、外界との接触の機会が無い分校の子供たちには、こうした外の世界の漂着物はいい勉強の材料になる。
ワッカの里の小さな港の周囲は広く乾いた砂浜になっており、海水浴にも漂着物の観察にも最適だ。
みんなスクール水着姿で思い思いに楽しんでいる。泳ぎが一番達者なのは、予想通りイツコのようだ。沖のブイまで早速たどりついてはこちらに手を振っている。
僕は監視員役ということで、パラソルを立てた簡易的な救護所で待機している。
僕の横ではさっそく熱中病気味になってしまったショコをミケコが介抱している。ショコの体力作りも頭の痛い問題だ。無理をさせない範囲で何をさせればいいだろう。
そんなことを考えていたらナナコとハチコの双子が両手で何かを包み込むようにしてミケコのところまでやってくる。
「ミケ姉、あげる」
「こっちもあげる」
二人は、砂浜に漂着していたツノの付いた巻き貝の貝殻を大事そうに手渡す。
「ふたりともありがとう」
花のような笑顔で受け取るミケコ。目を閉じて貝殻を耳に当てる。じっとその様子を見つめる双子。ブルーグレイの長めのショートカットがぴったりと額にはり付いている。
「ほら、こうすると海の音が聞こえるよ」
そう言ってミケコは貝殻をまた二人に返す。ナナコとハチコも見よう見まねで貝殻を耳にあててみる。
『おー!』
双子の声がきれいにハモった。
「先生、貝殻を耳にあてるとどうして潮騒の音がするんですか?」
双子が貝殻をかざしながら、他の姉妹の方に走り去るのを眺めながら、ミケコが僕に問う。
少し首を捻って昔に読んだ本の内容などを思いだす。
「定常波と言って、まわりの音の中から貝殻の中の空間に合う音波だけが、固有振動数として共鳴するんだ。それがちょうど波の音の成分を含むから——」
僕は滔々と説明するが、一方でミケコが笑顔のままで表情が固まっているのに気がついた。またやってしまった。
「あー。ごめん、ミケコ。説明すると長くなるけど、要するに貝殻は偶然潮騒の音だけを切り取る大きさだってこと」
僕の焦りを察してミケコは微笑んでうなずく。
「不思議ですね。海で生まれた貝が、死んで貝殻になって浜辺に流れ着いても海の音を忘れないなんて」
たまにミケコはそんなセンチメンタルな事を言う。この子には文学の才能があるのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は子供たちを連れてきた海岸を見渡す。
少し離れた場所でニコがナナコとハチコの双子とコココを引率している。さきほど聞いた話では、浜辺で採れる食べられる植物について教えているのだという。
たしかにこの辺りに分布するハマナスの果実は食用になるし、ハマボウフウと呼ばれる植物は新芽を収穫して衣をつけて揚げると独特の香りがあって旨い物だ。
首都の都会育ちの僕は、そうした土地に根ざした知識には疎い。
「ねえ、ミケコ、ここの植物についてもっと教えて欲しいんだ」
「え、いえ、あの。そんなことで良ければいつでも……」
そんな空気をイツコが破った。
「せんせー! これナニ?」
イツコの大きな声に視線を向けると、人の背丈ほどもある何かが波打ち際で洗われている。ゴツゴツとしたフォルムは自然物とはかけ離れているようだ。
「新米教師、これは何か答えるのだわ!」
なぜか第一発見者然として漂着物の前に仁王立ちのリッコ。足下は遠浅の海岸のさざ波に洗われている。屋外実習ではこのパターンが多い。
歩み寄るトウヤとミケコに、フードパーカーを着込んで着いてきたショコが寄り添う。
「ミケコ姉さま、なんだか怖いです」
怯えるショコとしっかりと手を繋ぐミケコ。
人の背丈よりも大きな漂着物は縦に長い立方体に見える。表面にはフジツボに海藻、いろいろ付着して元の素材は判然としない。ただ、この整った形状は明らかに人間の作った物だ。
「これ、機械?」
イツコが付着物でデコボコした表面を軽く蹴りつけながら尋ねる。
僕は首都で見た事のある何かに似ているような気がした。日常生活でありふれた何か。特に大人二人が立ってちょうど収まるくらいのサイズ感に既視感があった。
ただここまで海水に浸食され、付着物だらけの状態になると何物か判然としない。
「とりあえず無闇に手を触れないで……」
ガコン!
言い終わらないうちにイツコの斜め右上からのチョップが鋭角に入る。
「えーっと、イツコ君……」
「機械、これで、動く」
イツコが言い終わるのと同時に、漂着物の中でカタンと何かが落ちて噛み合うような軽い音がする。
ブウウンと低い唸りが響き本当に機械が生き返った。海藻の絡みついている筐体のあちこちから淡い光が走るのが見え隠れする。
「動いたな」
「動きましたね」
僕の声にミケコがこたえる。得意そうなイツコの顔。
『ご注文をどうぞ』
突然落ち着いたバリトンボイスが響く。
「なになに? 誰」
うろたえるリッコ。
「これ、話す、機械?」
「そう……みたいだな」
イツコの質問に僕はこたえる。
僕は首都の大図書館にある希少な司書ロボットを想起した。この機械よりは小ぶりだが、有史以来の図書データを蓄えている貴重なAIだ。
「じゃあ、注文をするのだわ」
リッコも事情が飲み込めてきたようだ。
「注文って何があるの?」
ミケコがつぶやく。
『清涼飲料水からコーヒー、紅茶に緑茶。お好みの物をどうぞ』
またも響く奇妙に歪んだバリトンボイス。
一方で目をキラキラさせるリッコ。
「じゃあアールグレイティーラテにホイップクリーム追加で一番大きいサイズ!」
どこで知識を仕入れた物やら、呪文のような注文を海藻まみれの機械に告げるリッコ。
『——かしこまりました』
大丈夫なのかよ!
リッコ以外のその場の全員が心の中で突っ込んだ様にトウヤには思えた。
カタカタという音とともに湯が沸くホイッスルのような音。受け取り口とおぼしきへこみに奇跡のようにプラスチック製のコップがカタンと設置される。
が、残念な事に本体が傾いているためにコップも斜めに傾いでいる。そこに注がれるなにやら緑色の液体。ツンと鼻をつくヨード臭。
『お待たせしました』
機械から響く音声は落ち着き払っている。しかし提供された飲み物は見るからに剣呑だ。ホイップクリームを模していると思われる泡には、七色に輝く魚のウロコのような物体がトッピングされている。
「あ……ありがとう、なのだわ」
リッコも受け取りはしたものの、流石に口にする勇気は無いようだ。
微妙な空気を破るべく、僕は機械に質問をした。
「ところで、君はなんなんだ?」
『私は——』
言いかけて機械はしばらく沈黙する。固唾を呑んで見守る五人。
『客船ムネモシュネ号、給仕サーバントの一つです。しかし当船AIとの接続が絶たれている事をただいま確認しました』
おそらく船はもう残ってはいないのだろう。ずっと昔に廃船になりこの機械だけが海に不法投棄されたのか、船もろとも嵐か何かで難破してしまったのか。どちらにせよ、この機械が生きてる状態で浜辺に流れ着いたのは奇跡に等しい。
「先生、この機械の人はどうなるんですか……」
心配そうにミケコが尋ねる。ショコも僕を上目遣いに見つめる。
このままにしておけば次の大潮の日にでもまた海に流されてしまうだろう。
「よし、ミケコ、ショコ、残りのみんなを呼んできて。リッコとイツコは僕を手伝って」
皆で力を合わせて、ものの半刻ほどで給仕機械を浜辺から少し内陸まで移動させる事ができた。ここなら嵐の日でも波にさらわれる心配はまず無い。
「機械、バイバイ」
名残惜しそうにイツコが給仕機械に声をかけている。人間よりも動物と話している事が多い彼女だが、この人工知能にも通じるものがあったのだろうか。
——翌日。僕は機械の様子が気になってまた浜辺に来ていた。
すると、防風林を背に海を眺めている給仕機械の傍らにイツコの姿があった。座りながら寄り添うように上半身を預けている。
「おまえ、お腹、すく?」
『いいえ、お嬢様。私どもはエネルギーが供給されている限り稼働が可能です。ちなみに現在はソーラーパネルが稼働しています』
「ふーん」
二人はどうも馬が合うようだった。
◆ ◆ ◆
『二人の違い ——ナナコ編/ハチコ編』
今日の体育の授業は鉄棒だった。
あたしは鉄棒が好きだ。くるっと回転する時のクラクラする感じが好きだ。
「ハチコ、コココ、こっちだよ」
あたしと一緒にハチコとコココも一緒の授業だったので鉄棒まで呼んだ。
リッコ姉以上の姉様たちはグランドで縄跳びをやっていた。
だからトウヤ先生はあたしたちのところでずっと教えてくれていた。
コココは飛び上がって鉄棒をお腹に当てて手を放す「飛び上がり」をやっていた。
コココの飛び上がりはきれいに止まっていた。自分の妹だけにたいした物だと思った。
でも、あたしも一年生の時にすぐ飛び上がりはできた。できて当然なのだ。
「ナナコとハチコは今日こそ逆上がりができるようになってみようか」
「ナナコは逆上がり絶対できるようになる!」
「ハチコはまだむりです……」
それでも二人とも逆上がりの練習をはじめた。
「ナナコ、ちょっと手伝ってあげるから、逆上がりのコツをつかんでみよう」
トウヤ先生はあたしが地面を蹴る時に背中を少し押し上げてくれた。そうするとするっと逆上がりができていた。
「ナナコ逆上がりできた!」
「今の感覚でおへそを鉄棒に近づけてみる感じでやってみるんだ」
そうしたら、その次からは一人でも逆上がりができるようになった。
コツをつかめば簡単なことだった。
「よし、ナナコは逆上がりのコツをつかんだみたいだな」
その言葉を証明するように、もう一度一人で逆上がりをやってみた。また大丈夫だった。
あたしはとても得意に思ったし、鉄棒がさらに好きになった。
「トウヤ先生、逆上がりの次はナナコは何をするの?」
「よし、次はちょっと難しいけど懸垂逆上がりをやってみようか。いいかナナコ。これまでは足で地面を蹴ってその勢いで鉄棒に体を押しつけていたけど、こんどは腕とお腹の腹筋の力だけで鉄棒に体を持ち上げていくんだ」
最初に足で地面を蹴らないで、胴体を持ち上げて胸を鉄棒につけるなんて無理だと思った。
あたしの腕の力だけじゃ、鉄棒にぶら下がるだけで精一杯だ。
思った通り、あたしの腕の力が足りないのか腹筋の力が足りないのか、足で蹴らないと胴体はなかなか上に持ち上がらない。
あたしはまだこれは無理だと思った。
横のハチコを見ていると、まだ普通の逆上がりの練習をしている。
足で一生懸命地面を蹴っているけれど、胴体を持ち上げる力になっていない感じだった。
「ハチコ、足で蹴る時におへそを鉄棒に近づける感じで行くときっとできるよ」
「さっきトウヤ先生がナナコにそう言ってたけど、ハチコにはまだ無理みたい」
そうするとそれまでコココの方を見ていたトウヤ先生がハチコの方に来た。
「よし、次はハチコも逆上がりができるようになってみようか」
そう言うとトウヤ先生はハチコの横に立った。
「はい、ハチコも頑張ります」
「ハチコもまずは逆上がりの感覚をつかんでみようか」
トウヤ先生はハチコが地面を蹴る時に背中を少し押し上げたようだった。そうするとハチコもするっと逆上がりができていた。
「トウヤ先生! ハチコもできました!」
ハチコは感激しているみたいだった。
「よし、今の感覚を忘れないうちに一人でもできるようにやってみようか」
ハチコはその次の一回目は途中までできたけど、あと一歩だった。
「おへそを鉄棒に近づける感じだよ」
あたしはハチコへアドバイスしてあげた。双子なんだから一緒にできないわけがない。
「うん」
ハチコはそう言うと、もう一度足で地面を蹴った。
今度はするりと逆上がりができた。
「やったなハチコ」
ハチコが誉められるとあたしも嬉しい。
あたしはハチコに良かったねと言った。
「トウヤ先生、ハチコはもう一回やってみます」
ハチコはそう言うとくるりと逆上がりをして見せた。
あたしは、ハチコは双子の妹なんだから逆上がりができるようになって当然だと思った。
「そういえばハチコの逆上がりを見ていて気がついたけど、ハチコのつむじは右巻きなんだな」
「ハチコは知りませんでした……」
「トウヤ先生、ナナコはどっち巻き?」
「ナナコのつむじは左巻きだね。双子でも違うところがあるもんだ」
だから姉様方はあたしとハチコの髪を揃える時に、ナナコは右分け、ハチコは左分けにするんだとはじめてわかった。
「ハチコのつむじもナナコと同じだったらいいのに」
ハチコと違うところが見つかってあたしはちょっと寂しく思った。
/
今日の体育の授業は鉄棒だった。
あたしは鉄棒があまり得意じゃない。手が錆くさくなるのもちょっと嫌だ。
「ハチコ、コココ、こっちだよ」
鉄棒のある場所からナナコがあたしとコココを呼んだ。ナナコはやる気みたいだ。
リッコ姉以上の姉様たちはグランドで縄跳びをやっていた。
そっちの方が楽しそうだなあとあたしは思った。
コココは飛び上がって鉄棒をお腹に当てて手を放す「飛び上がり」をやっていた。
コココの飛び上がりはきれいに止まっていた。自分の妹なのに凄いと思った。
あたしは一年生の時、飛び上がりができるまでとても時間がかかった事を思い出した。
「ナナコとハチコは今日こそ逆上がりができるようになってみようか」
「ナナコは逆上がり絶対できるようになる!」
「ハチコはまだむりです……」
あたしは弱音を吐いたけど、それでも二人とも逆上がりの練習をはじめた。
「ナナコ、ちょっと手伝ってあげるから、逆上がりのコツをつかんでみよう」
トウヤ先生はナナコが地面を蹴る時に背中を少し押し上げた。そうするとナナコはするっと逆上がりができていた。
「ナナコ逆上がりできた!」
「今の感覚でおへそを鉄棒に近づけてみる感じでやってみるんだ」
そうしたら、ナナコはその次からは一人でも逆上がりができるようになっていた。
ナナコは運動神経が良くていいなとあたしは思った。
「よし、ナナコは逆上がりのコツをつかんだみたいだな」
ナナコはまたトウヤ先生の前で逆上がりをやって見せた。とても得意そうだった。
「トウヤ先生、逆上がりの次はナナコは何をするの?」
「よし、次はちょっと難しいけど懸垂逆上がりをやってみようか。いいかナナコ。これまでは足で地面を蹴ってその勢いで鉄棒に体を押しつけていたけど、こんどは腕とお腹の腹筋の力だけで鉄棒に体を持ち上げていくんだ」
ナナコとトウヤ先生の会話を横で聞いていたけど、逆上がりさえまだあたしはできないのに、それより難しい技なんて絶対無理だと思った。
あたしが思ったとおり、ナナコも懸垂逆上がりに苦戦している。
あたしはナナコでもまだこれは無理だと思った。
それよりあたしは普通の逆上がりができるようにならないといけない。
あたしは足で蹴る普通の逆上がりの練習を何度もした。
練習しているとナナコがすぐ横であたしに言う。
「ハチコ、足で蹴る時におへそを鉄棒に近づける感じで行くときっとできるよ」
「さっきトウヤ先生がナナコにそう言ってたけど、ハチコにはまだ無理みたい」
そうするとそれまでコココの方を見ていたトウヤ先生がハチコの方に来た。
「よし、次はハチコも逆上がりができるようになってみようか」
そう言うとトウヤ先生はあたしの横に立った。
「はい、ハチコも頑張ります」
「ハチコもまずは逆上がりの感覚をつかんでみようか」
トウヤ先生はあたしが地面を蹴る時に背中を少し押し上げてくれた。そうするとあたしもするっと逆上がりができていた。
「トウヤ先生! ハチコもできました!」
あたしは今まで全然無理だったのにちょっとの助けで逆上がりができて感動した。
「よし、今の感覚を忘れないうちに一人でもできるようにやってみようか」
あたしは一回目は途中までできた。あともう少しでコツがつかめそうだった。
「おへそを鉄棒に近づける感じだよ」
ナナコがハチコにアドバイスしてくれた。双子でも一緒にできないこともある。
「うん」
それでもあたしはそう言うと、もう一度足で地面を蹴った。
今度はするりと逆上がりができていた。
「やったなハチコ」
あたしは誉められれてとても嬉しかった。
ナナコはあたしに良かったねと言ってくれた。
「トウヤ先生、ハチコはもう一回やってみます」
あたしはそう言うとくるりと逆上がりをして見せた。
あたしは、ナナコと双子の妹なんだから逆上がりができるようになって良かったと思った。
「そういえばハチコの逆上がりを見ていて気がついたけど、ハチコのつむじは右巻きなんだな」
「ハチコは知りませんでした……」
「トウヤ先生、ナナコはどっち巻き?」
「ナナコのつむじは左巻きだね。双子でも違うところがあるもんだ」
だから姉様方はナナコとあたしの髪を揃える時に、ナナコは右分け、あたしは左分けにするんだとはじめてわかった。
「ハチコのつむじもナナコと同じだったらいいのに」
あたしと違うところが見つかってナナコはちょっと寂しそうだった。
でもあたしはナナコと違うところが見つかってかえって嬉しかった。
双子でも違うところがあることに気がついてくれたトウヤ先生はすごいと思った。
◆ ◆ ◆
『写生のじかん ——トウヤ編』
「じゃあみんな、二人一組でお互いの絵を描いてみよう」
僕は分校の校庭に響くように声を張る。
ハルニレの巨木が枝を張り巡らした下の地面は下草もまばらで、ほどよく乾いて腰を下ろすにはちょうどいい。
「先生はみんなを見て回るから、好きな場所で描いていいよ」
年齢も学習進度もバラバラの生徒達は、こうした半ば自習の授業にはすっかり慣れている。
子供の手には少し大きいスケッチブックを抱えて、思い思いの場所で向かい合いスケッチを始める。
僕が二人一組、と口にした時からショコはミケコの服の裾を放さない。十四歳という年齢の割には少し幼い行動の多いショコは、こうした時にはすぐ一つ上の姉のミケコの後ろに隠れてしまう。
「大丈夫よ、そこで一緒にやりましょう」
嫌な顔一つ見せずミケコはショコをうながす。その様子を見て小さくため息をついたのは、この場では最年長のニコだったのを僕は見逃さなかった。
ミケコがいないとショコはすぐ不安そうな顔になる。長女のイチコのいない今、姉妹の面倒を見るのは自分だという責任感もあるのだろう。
それにあからさまにはしないがショコはニコのそばに寄っていくことはまずない。ミケコにばかり懐くことへの嫉妬も彼女の中にはあるのかもしれない。
僕はそんなニコの分析をしつつ他の姉妹にも目をやる。
ナナコとハチコの双子はいつも通り二人一組で互いを描いている。末っ子のコココは珍しくリッコが面倒をみている。
という事は——目で追うと校庭の端の草むらから、白い髪ととがった耳がのぞいている。
「こらー! イツコ! 今はスケッチの時間だ。バッタを捕まえるのはあとあと。ニコ、イツコのヤツの面倒を見てやってくれないか」
「ええ、任せとしてください」
腕まくりをしてニコはイツコをつかまえにゆく。頼もしい後ろ姿だった。
姿が見当たらないと思ったら、ハルニレの木の裏側でナナコとハチコはスケッチブックを地面において、寝そべるようにスケッチペンシルを走らせていた。
この姿勢からでは互いの顔しか見えないはずだが、画用紙をまっすぐ見つめて線を引く二人には一切迷いが無い。
互いの姿を一日中見ているからなのか、それともこの一卵性双生児には生まれながらの共通した絵画の才能があるのか。
いったん絵筆を取ると、頭の中にある画像を描き写すように一心不乱に作業を進めている。僕が後ろから見ていることなんて全く気にしていないようだ。
「学校終わったらどうする?」
ナナコが少し顔を上げて問う。
「あやとりする?」
ハチコもちらりとナナコの顔を見る。
それだけでもう通じ合ったのか、またスケッチブックに向かう。二人とも絵の方はもうほぼ完成しそうだった。この二人に余計な口出しは無用なようだった。
一方で、コココと組んだリッコは賑やかだった。といっても騒がしくしているのは九割九分がリッコではあったのだが。
「ちょっと、コココ、これが私?」
コココが足を崩して座った目の前のスケッチブックには、数字の8を思わせるような線がのたくりまわっていた。
こくりとうコココはうなずく。
「これどう見てもただの雪だるまだわよ! だいたいどっちが顔でどっちが体かもはっきりしないし」
「……」
じいっとリッコの顔を見つめるコココ。
「な、なんだわよ」
まっすぐなまなざしに思わずリッコはたじろいでいる。
「おぉー」
小さく感嘆したかのような声を漏らすと、コココは連なった丸の上部から、二本の触角のような弧を描いた。
リッコは首を捻っている。それに気がついたコココはスケッチペンシルを置くと両手で自分の目を指さした。
「……目?」
聞き返すリッコに、ぶんぶんと首を振って同意するコココ。
どうして顔の外に目が飛び出るのか。どっと疲れたリッコはそれ以上の追求は無意味と質問するのをやめたようだ。ここは少し指導しておいた方がいいかもしれない。
「コココいいぞ! 子供はのびのびと見たままを描くのが一番だ」
後ろからコココの絵をのぞき込みながら言うと、こここは神妙な顔でうなずく。
「ちょ、ちょっと新米教師! これのどこが私だっていうのよ!」
「いや、リッコ、僕の言いたいのは似てる似てないという事じゃ無いんだ。絵の技術というのはこれからどんどん伸ばしていける。大事なのは紙と向かい合う事をおそれず、のびのびと描く事なんだ」
「むむうううう」
僕の説得力のある言葉にリッコはさすがに言い返せない。
「特にこの上に伸びた二本の線。この力強さはなかなか出せないぞ!」
言い返す気力も失ったのか、リッコは力なくため息を漏らす。
「それはそうとリッコ、おまえは全然進んでないじゃないか。コココの面倒をみてやるのはいいけど、自分の絵もちゃんと仕上げなくちゃな!」
「……あー、はい。せんせー」
力なくこたえるリッコの精神状態が少し気になったが、すぐにいつものハイテンションに戻るだろう。
僕は他の生徒も見て回る。ナナコとハチコの絵はもうちらりと見ただけで何も言う事はなかった。
こと絵に関してはこの二人はすでに完成している。この才能を生かす道に進むのかどうか。それは双子がそれぞれに決める事だったが、僕はできるだけの後押しをしてやりたいと思った。
ハルニレの木の幹の近く、木漏れ日の差し込む場所でミケコとショコの二人は互いを描いている。
「どうだい、調子の方は」
僕が近づいてくるのに気づいて、慌ててミケコはスケッチブックを抱きかかえるようにして隠す。
「ショコの方はいい感じだね。ちゃんと体のバランスの取れたデッサンができている」
えへへと笑い嬉しそうな顔を見せるショコ。コミュニケーションを取る事に難しさのある子供だが、こうした一人で集中する事のできる作業は好きなようだった。
「そ、そうよねえ! ショコの絵の上手さはたいしたものよね! それに比べたら私なんてぜんぜん!」
勝手にしゃべって勝手にパニクっているミケコ。
「ミケコ、絵を見られたら恥ずかしい気持ちはわかるけど、僕にも絵を見せてくれないかな」
口を閉じて言葉に詰まるミケコ。顔を真っ赤にしてスケッチブックを地面に置く。
「やあ、かわいらしく描けてるじゃないか」
ミケコの絵はなんというかマンガだった。誇張されて大きく描かれたショコの瞳にはキラキラと星が舞っている。
このワッカの里にも中央からの物資として書籍が届く。その中の少女マンガを一番楽しみにしているのがミケコだった。
「そ、そうですか」
耳まで赤くしてミケコはつぶやく。
「ところでニコとイツコが見当たらないようだけど」
ミケコに僕がたずねると、話を切り替えるのは今だとばかりにミケコがこたえる。
「あの、校庭わきの草むらの方に行ったみたいです」
やれやれとトウヤが視線を向けると、ちょうどイツコを引きずったニコが草むらから現れたところだった。
「ああ……先生、戻られてましたか」
息を荒げてニコが言う。服のそこかしこに草の種をくっつけたままの姿に僕は全てを了解した。
「すまん、ニコ。世話をかけたね」
「いいえ、妹のしつけは私の仕事です」
にっこりとすごい笑顔を浮かべてニコは、荷物のようにイツコを置く。
「ほら、せんせー」
服のたもとからイツコが取り出したのは立派なトノサマバッタ。
「イツコ、これを描く」
バッタを放してやると、イツコはスケッチブックを開いて一心不乱に描き始める。
げんなりとした顔のニコに僕は声をかける。
「そろそろ小休止してお昼にしようか」
ハルニレの巨木の根元に車座になって昼食を囲む。
普段は各自別々の弁当箱を持ってきているが、今日はピクニック風に全員分をまとめて持ってきている。
ニコの開いた風呂敷の中にはたくさんのおにぎりと、ウインナと卵焼き。
「すごいな、これは全部ニコが?」
「ええ、おにぎりはミケコと握ったチーズおかかおにぎりです」
「私だって海苔を巻いたのだわ!」
ここぞとばかりにリッコが主張する。
ちょうど南中した太陽の日差しは強いが、この木陰には木漏れ日がそそぎ、風が通って気持ちがいい。
気がつくとニコの膝の上に頭をのせて、コココは寝息をたてている。
「コココはいつもすぐ寝ちゃうね」
ショコがつぶやく。
「ふああ、なんだか私も眠くなってきました」
ミケコが言うのも道理で、昼を食べてお腹がふくれた姉妹はみなうつらうつらしている。
「……みんなちょっと休もうか」
誰も反対するわけが無い。静かな昼休みの時間が過ぎていった。
◆ ◆ ◆
『看病 ——ニコ編』
仄かな、しかし力強い光が遠くで瞬く。その周囲をさらに小さな光の粒が巡っている。遠い周回軌道を持つものもあれば、近くを凄い速さで回っているものもある。円のイメージを強く感じる。
その光の粒はさらに輝きと数を増し、よくCG映像で見る太陽系の概念図のような形態から、もっと光が濃密な銀河系のような姿になる。
いつしか私の視界はぼうっと霞がかかり、全体を俯瞰している状況から、その光の集合体の中を彷徨っている状態へと移行する。
(まるでシャンデリアの中を遊泳しているようだ)
そんな感慨を抱くが、熱に浮かされたように思考が長く続かない。私の思考と視界は昏い光に満ちたスープの中を漂い続ける。
「……はいいから、ミケコは夕食の支度にまわって」
落ち着いたテノールの声が聞こえる。家族ではない。でも聞き覚えがある。一体誰の声だろうか。
徐々に体の感覚を取り戻し始める。私は横たわっている。おそらく布団の中だ。体が熱っぽい。しかし背筋をゾクゾクと這いあがる寒気が止まらない。
と、額にひんやりと冷たい感覚。ほてった体の熱を奪う心地よい柔らかななにか。
そこでようやく目が覚めた。暗い部屋に私は寝ている。枕元の電気スタンドが柔らかい光を放っている。
「……あれ、何時……」
「まだ午後六時だよ」
つぶやくと返事があった。
換えられた氷嚢を持ったトウヤが部屋の中に立て膝で座っていた。
「え、トウヤ先生? なぜ」
「ニコが席を立とうとして倒れた時は驚いたよ。なぜあんなに具合が悪くなるまで僕に黙ってたんだ」
そうだ。だんだんと私は状況を思い出していた。
授業の後、私はトウヤの学校事務を手伝っていたのだ。
マニュアルはあるし定型フォーマットも用意されている。基本的に昨年度までのエガシ先生の残した資料に準じて仕上げればいい仕事だ。
問題はエガシ先生の残した資料がどこにどう仕舞われているのか乱雑の一言に過ぎることにあった。
私は十年生になってからそうした学校事務を手伝うことが多くなっていた。イチコ姉はこうした細々とした仕事は不得手だったし、自然と次女の私が学級委員長的な立場となっていたのだった。
だから、トウヤへ学校の書類を渡す際などに、何がどこにあってどういう順番になっているといったことを手伝うようになっていた。
トウヤはさすがは首都の大学を首席で卒業したと噂されるだけあって、こうした書類仕事には有能だった。混沌としていた職員室の書類を魔法のように整理整頓し、当座必要な物だけを抽出した。
本当の意味で私の知っていることが役に立つことは稀だったが、放課後、トウヤと一緒に資料整理の仕事をするのはなかなか楽しい時間だった。
それでつい無理をしたのだった。
朝から頭が重く、体の節々が妙な具合で凝り固まっていた。これは風邪の先触れかもしれないと体では感じていた。
ただ、この日は首都に提出する書類でトウヤが忙しい日だと分かっていた。だからほんのちょっとだけ今日の分のルーチンワークを済ましたらすぐに帰ろうと思っていたのだ。
それで整理を終えた書類を棚に戻そうとして、そこから先の記憶が途切れている。
「……あ、あのトウヤ先生、私は職員室で倒れたんですか?」
立ち膝で私の顔をのぞき込んでいるトウヤの方へ視線を向けて私は問う。
「ああ、椅子に取りすがってその場に倒れ伏すような倒れ方だったから、打撲とか出血は大丈夫だと思う」
まったく記憶に無い。頭はガンガンと頭痛で痛むが、仰向けに倒れて頭部を強打するような事はなかったようで安心した。
「それでここまで先生が連れてきてくれたんですね。本当にすいません」
私の声にトウヤはゆっくりとかぶりを振る。
「謝ることはない。ニコが少しつらそうな顔色だったことは僕も授業中からわかっていたんだ。それなのに放課後の手伝いまでさせてしまった。こちらこそ本当に申し訳ない」
そういうとトウヤは深く頭を下げた。
それは私が勝手に無理をしただけで、と言いたかったが、それをトウヤが受け入れるとも思えなかった。なによりトウヤが私のことを案じてくれていたのが嬉しかった。
「ところで家のことはどうなって——」
「ニコ、今は風邪を治すのが一番大事なことだよ。家のことはミケコが取り仕切ってくれている。それで人手が足りないから僕がニコの看病を少し手伝っているだけ」
そういうとトウヤはちょっと待ってと言い、枕元の水差しからコップ一杯の水を汲んだ。それを両手で包み込む。
「……天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、表四十一の式」
トウヤがそう唱えると、手のひらの内側から淡く青い光が溢れだしてきた。コップの中の水もそれを受けて青に染まる。
「さあ、これを飲むんだ。つらかったら一口でいい」
トウヤは私の肩をだき、少し上体を起こすと、差し出した右手にコップを握らせた。
それまで意識していなかったが、私はひどく喉が渇いていた。促されるままにガラスのコップの中の水を一口飲む。もう青い光は放っていない。ただのぬるま湯のように舌には感じたが、喉を通る時にトロリとした甘みがあるような気もした。
「ただの水だが因果力で賦活の効果を与えてある。風邪のウィルスは殺せないけれど、ニコ自身の生命力を助けてくれるはずだ」
そう言われると少し体の芯がポカポカしてきたような気もする。私は残りの水もすべて飲み干してしまった。
もう一度横になり布団をかけてもらう。他人にこんな事をしてもらうのは、両親がまだお社にいることの方が多かった子供時代ぶりのような気もした。
「さあ、もう少し眠った方がいい。あとでミケコがお粥かなにかを持ってくるからそれも食べられるようなら食べなさい」
トウヤの落ち着いた立ち居振る舞いに安心するとともに、二つも年下の男の子にそんな風に言われる自分への腹立たしさも感じた。でもここはせっかくの機会なので甘えておこうか。そんなことを考えた。
「ニコ姉、大丈夫?」
丁度そこへ割烹着姿のミケコが顔を出した。
「みんなの様子は?」
トウヤがミケコの方を向き、問う。
「食事も終えて、ショコたちが小さい子をお風呂に入れているわ」
「もうそっちは大丈夫そうだね。ニコもいま起きて薬湯を飲ませたところだ。あとで何か消化の良い物を作ってやるといい」
それを聞くとミケコは安心した表情を見せた。そして私に向かって聞いてくる。
「何か作るけどお粥と雑炊とおうどんならどれがいい?」
「……っと、おうどん、かな」
そう言うとつい私はプッと吹き出してしまった。
「ミケコ、あんた将来いいお嫁さんになるわよ」
「病人がなに言ってるの。まだ熱があるんだから大人しく寝てなさい」
ミケコも照れ隠しか普段は使い慣れない命令口調で私に言う。
「はーい。病人は大人しく寝ますよっと。そうして見守っててくれる二人もいるし。なんだか父さんと母さんが帰ってきてくれたみたいよ」
私の言葉にミケコの顔は真っ赤になる。
トウヤの方は意味がまだよくつかめていないようだ。きょとんとした顔をしている。こういうところの鈍感さはやはりまだ十五歳の少年なのだなと思わせた。
ミケコの作ってくれた夜食も食べ、一晩ぐっすり寝た。
倒れた直後に見た、昏い光が無限ループするような悪夢は今度は見なかった。
翌朝。
熱は平熱まであともう少しというところまで落ちた。まだ軽い頭痛はするが咳や体の節々が痛むような諸症状は出ていないようだった。
要するにただの熱からくる風邪だったようだ。
ミケコに今日は大事を取って学校は休むと伝えた。
風邪をうつすといけないので、ミケコ以外の姉妹は部屋の戸口から中には入れさせなかった。それでも心配なのか全員が私の顔を見にやってきた。
もう大丈夫なの? まだつらいの? なにか食べたいものはある?
姉妹との他愛ない会話が私を元気づけてくれるようだった。
昼時に一度家まで様子を見に帰ってきたミケコによると、今日の分校は稀に見る静けさだったらしい。
普段口やかましく言っている私がいないのだから、もっと無軌道になってもいいようなものだが、ふざけても叱ってくれる相手がいないとふざける方もやる気をなくすらしい。
もう一眠りして夕方近く。
熱は完全に引いたようだった。まだ足下はふらつくが丸一日風邪で横になっていたのだからそれなりに憔悴したようだ。
まだ完治したとは言えないが、家の中をふらふらするくらいは認めて欲しい。まだ誰も家には帰ってきていないようだ。
自分で冷蔵庫をあさりヨーグルトなどを食す。
そこにどういうわけかトウヤが来た。
「なんだ元気そうじゃないか」
昨日のかいがいしさが嘘のようにしれっとした口調で言う。
「トウヤ先生こそどうしたんですか」
私もあえて事務的に返す。
「あーミケコに昨日借りた皿を返しに。……それといつも君にばかり頼ってすまない。ニコ」
食器を棚に入れながら、視線を合わせずそんなことをトウヤは言う。
「私こそ保護者代表としてトウヤ先生には期待してますよ」
ちょっと気弱そうなトウヤの表情にほんの少し優越感をくすぐられる。
たまには病気になるのも悪くない。そんな出来事だった。
◆ ◆ ◆
『地龍狩り ——イツコ編』
わたしは鼻を利かせて赤トリュフの匂いを探っていた。ミズナラの樹が多く根を張るこの山間は赤トリュフが採れることでワッカの里ではよく知られていた。
赤トリュフはミズナラの樹の根元、土の中で生育する。だから土の上から目で見て見つけることはほぼ不可能だ。
赤トリュフの発する一種の揮発性の油にも似た特有の芳香を嗅ぎ分け、地面を掘るポイントを探し出すことは姉妹の中でわたしが一番得意とするところだった。
匂いを感じるポイントを見つけては、携帯している折りたたみ式スコップで慎重に土を掘り返す。赤トリュフの表面が空気に触れると、その独特の芳香が辺りに広がるので目をつむっていても自分が宝を掘り当てた事がわかる。
この匂いをかぐと、わたしはうなじから耳の先までチリチリと毛が逆立つような興奮を感じる。相手は逃げこそしないが、地中にひっそりと身を隠している。それを狩り立てるこのトリュフ狩りはわたしの本能的な欲求を満たしてくれた。
このあたりの赤トリュフは品質に特筆するべき特徴もなく、サイズも普通なのでごく常識的な価格でしか取り引きされない。それでもほぼ自給自足の農業以外に、大きな産業のないワッカの里では貴重な現金収入を見込める特産物だった。
「せんせー、あったよー! こっち!」
わたしは大声をはりあげてトウヤ先生を呼ぶ。
トウヤ先生は「生物学」という学問を首都で専門にしていたそうだ。その活動の一つとして、特定の地域の生き物を実際に調査する「フィールドワーク」というものがあるそうだ。
トウヤ先生がミケコ姉に相談して、ワッカの里の特産物として赤トリュフの話が出て、それならわたしのトリュフ狩りに同行すればいい、とそういう話になったのだ。
そうは言ってもトウヤ先生はただの人間で、わたしたちのような鋭敏な嗅覚は持たないから、基本的にわたしの後をついてくるだけで、見つけたトリュフの写真を撮ったり、どこで採れたのか場所を記入したりするだけだ。
それが何の役に立つのかわたしには全然わからないけど、トウヤ先生の役に立てるということは純粋に嬉しかった。
わたしが赤トリュフ発見の第一報を知らせ、スコップで慎重に土をのけている間にトウヤ先生が追いついてきた。
「……はあ、はあ、イツコの山の中での足の速さは予想以上だな! ぼくはこれでも、フィールドワークで他の人に後れを取ったことはないんだけどな」
トウヤ先生は息を整えながら言う。
「山の中での足の速さ。わたしが里でも一番!」
「ははは、そりゃかなわないわけだ。僕ももっと鍛えなくちゃな」
話しながらもわたしはスコップの先で慎重に土をのける。興味深そうな様子でトウヤ先生はそれを眺める。赤トリュフの、濃厚だが鼻にスーッと抜けるような匂いはますます強くなっている。最後の方では掘った穴の中に手を突っ込んで、匂いに加えて触感でも探りながらキノコの本体を指先で掘り出す。
ふわりと赤トリュフの陶然とするような芳香が周囲に広がる。
「やあ、これは凄いな」
完全に赤トリュフを露出させると、人間のトウヤ先生にも強烈な匂いが感じられるようだった。
「ちょっと触らせてもらってもいいかい?」
わたしはトウヤ先生に掘ったばかりの赤トリュフを渡す。直径五センチメートルくらいのそこそこ大きいものだ。
トウヤ先生は写真を撮ったり、掘った穴の深さを測ったり、このトリュフが寄生していたミズナラの樹に識別タグを打ち付けたりしている。
「よし、もういいよ」
トウヤ先生の仕事が終わったら、わたしは赤トリュフを掘った穴を元の状態に埋め戻す。この作業もトリュフ狩りでは大切なことだ。無闇に山を荒らさない為でもあるし、一度赤トリュフの採れた場所では、またトリュフの菌が繁殖することがあると経験上知られているからだ。
そしてトウヤ先生から返された赤トリュフを腰の獲物袋に大切にしまう。
「さてと、ずいぶん山深くまで分け入ってしまったな。まだ日は高いけどトリュフ狩りを続けるかい?」
わたしは少しの間考える。山深くと言っても直線距離的には里からそう離れているわけではない。ただ、よく使われる山道の関係で、普通人はあまり来ない場所だというだけだ。
「できれば、もう少し続けたい」
まだ正午を少し過ぎた時分だ。あともうちょっと、という頃合いで折り返すのが山を知っている者の常識だが、今日は天候も安定しているしもう少しいけそうだった。
「よしわかった。ここはイツコにまかせるよ」
わたしは風の通る方向に鼻を利かす。ついさっきから感じていたことだが、風の向きが少し変化している。これまで歩いてきた方向から風が流れており、新しい赤トリュフを探すには風下に向かうしかない状況だ。
匂いを頼りに獲物を探す狩りでは、風下に向かうしかない状況というのはあまり好ましくない。肝心の獲物の匂いが向かってこないので、どうしてもトリュフの近くまでたどり着かないと存在を感知できないからだ。
「せんせい、かぜの向きがかわってる」
念のためトウヤ先生にも状況の変化を伝えておく。
「そうだな。少し東寄りになってきているようだ」
トウヤ先生はコンパスを見ながら地図で現在の地点を確認している。この先のまだ足を踏み入れたことのない、気になる一帯だけ様子を見たら帰ろう。そう思った矢先だった。
「せんせい、足を止めて。しずかに」
わたしは右手を横に伸ばしてトウヤ先生の歩みをとめた。
風下に向かって歩いているということは、わたしたちの匂いがその方向へ流れているということだ。そしていまわたしは強烈な芳香を放つ赤トリュフを大量に持っている。
「なにか大きなモノ、この先にいる」
わたしはささやき声でトウヤ先生に伝える。
匂いではない。大きくて攻撃的な生物の発する危険な存在感を感じる。わたしの両耳はピンととがり、しっぽは逆立っている。
「どうする。引き返すか」
トウヤ先生がささやき返す。
わたし一人なら手頃な木に登って出方を待つという手も使える。しかし、今日はトウヤ先生も同行している。このまま背中を見せて引き返すのも悪手に思えた。わたしには適切な対処法が思いつかなかった。
「イツコ、僕のことが足手まといならその心配はいらない。これでも因果法百式を修めているんだ。ひとりでも大物の相手は可能だ」
トウヤ先生の言葉は少し難しかったけど、先生は先生で対処法があるらしい。それならわたしもいつものようにやるだけだ。
「わかった。わたし木に登る。上から様子を見る」
「よし。それから赤トリュフを一かけ僕にくれ。役に立つかもしれない」
わたしは前方への注意を怠らず、後ろ手で赤トリュフを一つトウヤ先生に渡した。
ちらと周囲に目を走らせ、大きく枝のはりだしているミズナラに登る。地上からの距離はおよそ五メートル。これならどんな相手でも一撃目はかわせる。それから腰に差したマキリ(小刀)もいつでも抜けるように用意をしておく。これが効く相手ならいいのだが。
攻撃的な嫌な気配は少しずつ近づいてくる。わたしの高い視界から、藪を踏み分ける相手の姿が見えた。体高は高くないものの、鱗状の固い皮膚がやっかいな四つ足の龍の仲間だ。
「地龍! 逃げて! せんせい!」
「大きさは!」
トウヤ先生から返事がある。
「四メートル!」
「地龍なら資料を読んだことがある。まかせろ!」
トウヤ先生はどこまでが本気なのか、そう言った。それと共にわたしが潜んでいる枝のちょうど真下あたりに赤トリュフのかけらを少しこぼす。割れた赤トリュフは一層濃厚な芳香をあたりに放つ。
平べったい鱗の装甲を背負ったトカゲにも似た地龍は、それに鋭敏に反応した。藪から俊敏に踊り出し、赤トリュフを柔らかな土ごと喰らった。
「これでも喰らえ!」
強烈な光が地龍の鼻先で光る。タイミングに合わせて先生が何かの因果法を放ったようだ。しかしわたしの目には目くらまし以外の効果は感じられない。
首を振って瞬きをした地龍は鼻をひくつかせている。さほど目は良くないのだ。そこにトウヤ先生は左腕を差し出した。腕には赤くトリュフを塗りつけた跡がある。
「せんせい!」
思わず声が出た。それと地龍が盲滅法に先生の左腕をくわえ込むのは同時だった。どうするか迷った。わたしはちょうど地龍の真上にいる。この高さからマキリを打ち込めばそこそこのダメージは見込めるだろう。しかし致命傷になるとは思えない。
その時、ちらりと上を見たトウヤ先生と視線があった。そこには任せておけ、という意思が明確に感じられた。
トウヤ先生の左腕に貪りついている地龍は死んでもそのあぎとを放さない構えだ。そこに先生の詠唱が重なる。
「……天地の理と五行の式にならい証トウヤが詠ずる。因果の法、裏三十二の式」
先生の双眸が地龍の脳天を見据えた。
「雷球!」
その途端西瓜ほどの大きさのエネルギーの塊が、トウヤ先生の左腕とそれをくわえ込んでいる地龍の頭部を覆った。肉が焦げ骨が焼ける異臭が漂った。
一瞬の出来事だった、地龍の頭部はズタズタに破壊され一部は炭となっていた。
「せんせい!」
わたしはミズナラの枝から飛び降り、片膝をついているトウヤ先生の肩を抱く。
先生は立ち上がりながら、黒焦げの炭の塊となった地龍のあごから左腕を引き抜く。驚いたことにその腕は傷ひとつなく、黒く鈍い金属のような輝きを見せていた。
「せんせい、これは……」
「やあ、僕の左手は元から義手なんだ。だからあんな思い切った事もできる」
理屈はわからないが、先生の腕は地龍に噛みつかれても、雷球に灼かれても大丈夫なようにできているようだった。
「すごい! 心配した! でもよかった……」
わたしは自分の心の整理をつけることができなかった。ただトウヤ先生の無事が嬉しかった。
◆ ◆ ◆
『しっぽの気持ち ——ミケコ編』
分校の教職員宿舎とお社の住宅は、ほぼ隣り合っている。これまでにも食べ物を差し入れしたり、食事に呼んだり行き来は盛んだ。
先生の宿舎は合理性優先のモダンな住宅だが、私たちの住むお社の住宅はずっと昔に宮大工が社殿や拝殿と共に作ったと伝えられている重厚なものだ。特に玄関の唐破風は見事なものだ。
前任のエガシ先生のころからお社と分校の先生は密な繋がりがあったが、トウヤ先生が来てからはより親密になった気がする。
それはいまの分校の生徒がお社の姉妹達しかいないという事情もあるし、なによりトウヤ先生がまだとても若くて、十五歳のわたしと同じ歳だということもあるのだろう。
夕暮れ時に洗濯物のシーツを取り込みに裏庭まで来たら、縁側に腰を下ろしているトウヤ先生と目が合った。軽く会釈をするとトウヤ先生はサンダル履きのまま声をかけてきた。
「ミケコ、たってのお願いがあるんだが……」
そう切り出された時、わたしは心臓が飛び出るかと思った。
トウヤ先生の低めのテノールの声は、たまにわたしの心の奥深くを撫でることがある。
なぜそうなのか、ただ若い男の人の声に耐性が無いだけなのか、わたしにはまだわからない。
「あ、あのなんでしょう!」
いまのわたしの声はキーが二つは上がっていただろう。
「いや、たいしたことじゃない」
トウヤ先生は一度言葉を句切る。珍しくどう話せば良いのか考えている様子だった。
「里の人にカボチャをたくさんもらったんだ。でも茹でるくらいしか料理の仕方を知らないし、だいたいどう扱えばいいのかもわからない。なにか料理の仕方を教えてくれないか」
なんだ、そんなことか。
別に何かを期待していた訳でもないのに軽い失望を感じる。
「ええ、そんなことならわたしの方であずかって料理にしてお渡ししますけど」
「いや、いつもミケコ達に頼ってばかりいるのも申し訳ない。自分で料理するレパートリーを増やしたいんだ」
たいていのことはそつなくこなすトウヤ先生だが、料理は不得手なのだ。トウヤ先生のことをまた一つ知ることができて嬉しい気持ちが止まらない。これは不謹慎な事なんじゃないだろうか。そんな考えもちらりと浮かんだがすぐに思考の波から流されていく。
「じゃあ、カボチャを持ってきてください。わたしもこれから家族の食事の用意があるので、一緒に教えちゃいます」
トウヤ先生は縁側から一旦家の中へ姿を消す。
わたしは手早くシーツを取り込んでしまうと、上に割烹着を着込んでさっそく料理の準備を開始した。
表玄関から入ってきたトウヤ先生は、黒いスラックスに綿の生成りのシャツといういつもの格好の上に、男性用のワークエプロンという姿で現れた。
料理をするというより、庭仕事をするか機械の修理でもするような印象だ。
その少し不釣り合いな姿にもおかしみを感じる。
わたしのしっぽはさっきからずっと斜め上に立ったままだ。嬉しい気持ちを抑えきれない時は、しっぽを立てるのを自分の意思ではやめることができない。
「で、こんなやつなんだ」
トウヤ先生は農業用のずだ袋に入れたまま、大きめのカボチャを四つそのまま持ってきた。このワッカの里でよく栽培されているのを見かける栗カボチャだ。わりと大きめの品種で、このままでは確かに鍋にもレンジにも入らないだろう。
家に上がるようにトウヤ先生を促しながら厨房まで向かう。
「それじゃあ、まずカボチャの切り方からいきましょう。トウヤ先生、カボチャの切り方はご存じですか?」
「いや全然」
残念そうな顔でかぶりをふる。
「じゃあ、まずは道具の選び方からですね〜」
そういいながら、わたしの尻尾も言葉の調子に合わせるようにゆっくりと大きく左右に揺れる。
「やっぱり大きい魚をぶつ切りにする時みたいに出刃包丁がいいのか?」
トウヤ先生の問いに人差し指を立ててわたしはチッチッチッと声に出す。
「力で押し切る時は厚い刃の包丁を使いますが、固い物に刃を通す時は薄い包丁の方がいいんです」
「へえ、そうなのか」
感心したようにトウヤ先生は言う。トウヤ先生の興味津々という気持ちが伝わってわたしも嬉しくなる。しっぽも小刻みに波打つ。
わたしは大きめだけど刃の薄い野菜包丁を手に取った。
「今回はこれで行きましょう」
そう言うと刃の方を持ってトウヤ先生に包丁を差し出す。
「えーと……」
「先生、もちろんトウヤ先生が切るんですよ。わたしは口でしか教えませんからね」
トウヤ先生はおぼつかない手つきで包丁を握る。わたしは床に置かれたカボチャから一つ持ち上げまな板の上に置く。
「まずは包丁の先を使ってヘタを取ってください」
トウヤ先生は包丁の先端を斜めに突き刺すようにしてヘタを取ろうとしている。
「同じ要領で反対側のへこんでいるところも取っちゃいます」
じつはこれでカボチャ攻略は半分終わったようなものなのだ。
トウヤ先生が悪戦苦闘している最中に、わたしは鍋に湯を沸かし、冷蔵庫からクリームチーズを取り出し、戸棚からは干しぶどうとスライスアーモンドを引っ張り出す。
「ヘタが取れたよ。次はどうすればいい?」
「上下のヘタが取れたら今度はカボチャの皮にうすく切れ目を入れます」
わたしはカボチャに入っている皺をなぞるようにヘタからヘタへ指を一回転させて見せた。その線に沿うようにトウヤ先生は包丁の刃を当てて薄く切れ目を入れる。
「あとはヘタがあった穴に包丁を突き刺して、表面の切れ目に沿って上から包丁を落とすようにして刃を入れてください」
トウヤ先生が刃に力を込める姿にわたしも力が入る。思わず興奮してしっぽも山形に折れて毛も逆立つ。
上側のヘタから二回、下側からも二回包丁を入れることで、あっけなくカボチャは二つに割れた。
「やあ、コツってのはあるものだね。勉強になったよ」
「ここまで切れればあとは楽なもんです。カボチャの皮を荒く削って、小さく切ってから茹でて冷ましましょう」
皮を削るのは効率優先でピーラーを使ってもらった。半球形になってしっかりとまな板の上に乗ったカボチャは中の種とわたを取ってから包丁で端から切っていく。
「こんなもんでいいかな」
「どうせこのあとで潰すので形はあまり気にしなくていいですよ」
わたしはすでに沸かしてあった鍋に、トウヤ先生が手頃な大きさに切ったカボチャを投入する。
わたしはこうして鍋の中で肉や野菜の様子が変化していくのを見るのが好きだ。リラックスした気分になって、しっぽも大きくゆっくり振れる。
「味付けはどうするんだ?」
「今日はクリーミーサラダにしましょう。茹で上がったカボチャをフォークの背で潰して、そこにクリームチーズと蜂蜜を入れます」
ボウルの中でカボチャを潰す作業はトウヤ先生にまかせて、わたしはクリームチーズと蜂蜜の分量をはかって入れる。
「ある程度材料が馴染んだら、あとは干しぶどうとスライスアーモンドを少し入れて、サラダボウルに盛る時にプレーンヨーグルトをかければ完成です!」
材料は比較的単純なものだが、わりと見栄えのよい一品ができた。
「あとは今晩の食事をささっと作っちゃいますから、先生は休んでいてください。もちろん今日はうちで晩ご飯食べますよね?」
「料理を教えてもらった上に食事までなんだか悪いな。でもご相伴にあずかるよ。僕の切ったカボチャで作ったサラダの評判も気になるしね」
そういうと先生はダイニングテーブルの椅子を引いて座る。
わたしはその視線を受けながら普段の手順で食事の用意をする。
ご飯はもう炊きあがる頃だし、お味噌汁は今日は簡単にお麩とワカメだけにして。メインは大根と鶏もも肉の煮物に決定。もう一品じゃこおろしでもつけときましょうか……。
そんなことを考えながら効率よく立ち回る。気分は小さなミッションをいかに効率よく各個撃破するかという心境だ。一つクリア! と思う瞬間には、われ知らずしっぽの先がぴくりと小さく動く。
「ミケコのしっぽはずいぶん表情豊かだね」
トウヤ先生にそう言われて、ようやく先生が後ろに座っていることを思い出した。熱中しすぎてやってしまったという思いから思わず赤面する。しっぽも力なく下がってしまう。
「あの、トウヤ先生。できれば居間の方で妹たちの面倒でも見てていただけないでしょうか」
わたしの声の調子で心境を察したか、僕はどうも口が不調法なものでいけないな……などとつぶやきながら、トウヤ先生は奥の居間へ立ち去っていった。
ダイニングテーブルの椅子の背もたれにはきちんと折りたたまれたワークエプロンが掛かっている。
エプロンにトウヤ先生の存在感を感じながらわたしは調理を進める。
居間の方からは小さな妹たちがトウヤ先生の取り合いをしている声が聞こえる。
分校で毎日のように顔を合わせていても、トウヤ先生が家にいるというシチュエーションが物珍しいのだろう。
普段は飼い猫のコタとばかり一緒にいるコココまで、トウヤ先生の取り合いに参加しているようだ。
ニコが二階の自室から降りてきてわたしのいる厨房をのぞく。
「夕食当番ご苦労さん。なんだ、今日はトウヤ先生が来ているのかい?」
わたしは振り返らず自分でリズムを取りながら大根おろしの動きを見つめ返事をする。
「ええ、カボチャの扱い方を教えて欲しいと頼まれたから、ちょっとレクチャーしてたんです。トウヤ先生の切ったカボチャで作ったサラダも今日の献立に入りますよ」
振り返らずともニコがニヤニヤと笑っているのを感じる。わたしのしっぽは逆立って太くなっているに違いない。
「まあ仲良きことは美しきかなってね」
ニコの言葉を黙殺してわたしは大根をしっぽまでおろしてしまった。きっと苦いに違いない。
◆ ◆ ◆
『学友 ——トウヤ編』
アカムの訪問は突然だった。せっかくの秋晴れの日曜日。洗濯したシーツを外の物干し竿に掛けていた僕は、近づいてくる爆音に何がどうなっているのか最初飲み込めなかった。
教職員住宅である我が家から目と鼻の先でもある分校の校庭に、突然ツーシーターのスポーツモデルのオートモービルが横付けされた。農耕用のオートモービルくらいしか見かけないこのワッカの里には似つかわしくないことこの上ない。
しかも何を積んでいるのか知らないが、オートモービルの内部からドゥルルルルという何かの駆動音が響いている。
その重低音が途切れるのと同時に、オートモービルのドアが開きサングラス姿の狼族の男が出てきた。
僕よりも頭二つ分は背が高い偉丈夫だ。
「よう、トウヤ!」
この快活というには馴れ馴れしい声音には聞き覚えがあった。
「……アカムか。突然だな。こんな北奥まで何かのついでか?」
「いやだなあ、もちろんお前を訪ねて来たに決まってるだろ」
アカムはサングラスを上げ人懐っこい目を見せる。
「来るなら来るで電話の一つも入れろ」
「昨日の早朝に突然、こんな天気の良い日は北奥のきれいな海を眺めながらドライブもいいなあと思ってな。お前も朝の五時に起こされたくはないだろ」
スピードがどれだけ出るのか知らないが、このスポーツカーならフェリーにかかる時間はともかく、陸路に入ってから北奥まで半日もかからないのだろう。
「それになんだ、さっきまでのあの騒音は」
「腹に来るいい音だろ? 本物のレシプロエンジンも積んでるハイブリッドカーってヤツだ」
「内燃機関か……そんな骨董品よくここまでレストアしたな」
「まあ、蛇の道は蛇ってな。工学部の爺さん方にその筋のマニアがいるんだわ」
真っ赤な車体のボンネットを撫でながらアカムはうそぶく。
「代わりに何を渡した」
「ははは、そんな嫌らしい言い方しなくてもいいだろ。理学部で余ったバイオ燃料を少々融通して差し上げただけだ」
僕はこの年上の友人の軽いノリが決して嫌いではない。嫌いではないが話していると自然と眉が寄って、自分の顔が悪相になっていくのを感じる。
眉根を揉みながら、なるだけ平静を装って話す。
「まあ、たかが数ヶ月とはいえ積もる話もあるだろうし上がってけ」
「じゃあ、遠慮なく」
本当に遠慮する素振りもなく、なおかつ手土産の一つもなしでアカムは我が家へ上がってきた。
畳敷きの居間には大きめのローテーブルを置いてある。脚を折りたたむことも可能なので卓袱台ともいうのかもしれない。
ほうじ茶を入れ、先日お社の姉妹からお裾分けをいただいた羊羹を切って出す。
「しかし殺風景な部屋だな。なにか緑でも置かないのか」
「あいにく『緑の親指』は持ち合わせてないようでね。すぐに枯らしてしまう」
いただきますも言わずアカムは羊羹に手を出す。口に頬張りながらアカムは問う。
「で、例の調査とやらはどこまで進んだ」
何かにつけて不躾なやつだ。あえて不機嫌な調子を言葉に乗せて返事をする。
「何のことだ。北奥の地のフィールドワークならまだあまり手がついていない」
「お前さんの妹のご託宣のことだよ。鍵を見つけるとか何とか」
「それはお前とは関係ない」
それまで部屋の中をキョロキョロ見回していたアカムは、それを聞くと大げさな身振りで悲嘆にくれる。
「おいおい、なんだよ? 学校の寮で同じ釜の飯を食った仲だろう? 隠し事は無しで行こうぜ」
「関係ないし巻き込むつもりもない。それよりアカム、お前こそ今後の身の振り方は決めたのか。首都の大学を出るなら引く手あまただろう」
「学校を出てちゃんと教師になって、学費を免除してもらうような律儀さは持ち合わせていないんでね。親のすねは囓れるだけ囓る方針だ」
「じゃあ、研究所行きか」
「……今の研究を続けるならそれが最善手だろうなあ」
天井を見上げながらアカムは言う。
「亜人種の起源を探る研究か。お前の主張が本当なら今の学会のパラダイムをひっくり返すことになるぞ」
「まあ、俺に言わせりゃあれは人類の作り出した学説だ。俺みたいな狼族からすると据わりの悪いことこの上ない」
アカムは本人の属する狼族やこの里の猫族のような、亜人種のルーツを研究のテーマとしている。
現在主流となっている学説は、地球病の発生初期、人類をベースに今でも普通に見られる猫や狼の遺伝子情報を遺伝子工学によって融合させ作り出されたというものだ。
「今の学説には決定的な穴がある。もしも亜人種が人工的に作り出された物なのであれば、最初のアダムとイヴにたどり着くことが可能なはずだ」
このことは現生人類の場合ではアフリカ単一起源説として一定の評価を得ている。アカムが言っているのは、たとえば狼族がどこかの時点でどこかの研究所で作られた物であるなら、その単一起源にたどり着かなければならないということだ。
「それがどうも、俺なりにデータを解析すると、複数起源であることを示唆しているように思える。亜人種の人為的な単一起源説には、何か大きな欺瞞が隠されているように思うんだ」
やや熱を帯びたアカムの意見に僕はあえて反論してみる。
「はじめから複数のアダムとイブが人工的に用意されていたという可能性は?」
「……それは否定できない。だから、そこを突き崩すのが今の俺のテーマだ」
「亜人種の複数起源説か……」
僕はアカムの研究テーマを口に出してみる。
それは地球病で原因不明の不妊症が蔓延したのと同時に、様々な遺伝子異常を持つ子供が生まれたこととも無関係ではない。純粋な人類といま言われている存在も、生存には支障のないレベルで多くの突然変異を受け入れている。
地球病以前と地球病以後では人類の遺伝子の突然変異の発生確率は一万倍に達するという統計データすらあるほどだ。
古生代から中生代に栄えた軟体動物にアンモナイトという種がある。螺旋を描いて巻かれる美しい殻が特徴的な生物だが、六千五百万年前に突如として絶滅した。ところが絶滅する寸前の時期になると、美しい螺旋状の殻を持つ物以外に、細長く伸びたり複雑に編み込んだ紐のような奇妙な形の殻の種が増えてくる。
僕にはどちらも進化上の絶滅の前の最後の足掻きのように感じられる。
僕は自分の左手の義手を目の前で閉じたり開いたりしてみる。カーボンナノチューブで構成された左腕は脳の電位差を直接読み取って意のままに動く。
今でこそ我が身のように馴染んでいるが、最初から左腕を持たずに生まれた僕は、この腕を使いこなすために相当厳しい訓練を幼少時から積む必要があった。
現在でも地球病は衰えを見せない。不妊が普通の状態であり、受胎したとしても生存が不可能なほどの突然変異で死産となることも珍しくない。僕のように左腕一本で済んだのはむしろラッキーケースなのだ。
『失敗作だったヒトを滅ぼして、より神の意図に沿った存在を地上に栄えさせようとする計画』
かつてエガシ氏に聞いた言葉を思い出す。神の意図なのか人為なのかはひとまず置くとして、このままでは人類は先細り、人口で圧倒的になった亜人種がそのまま人類と呼ばれるようになるだろう。
人類としての形質を残したままの人類はなぜ淘汰されようとしているのか。そして人類としての形質を保っていなければ、なぜ因果力を行使することができないのか。
方向性はまったく違うが、僕の探っている謎とアカムの研究対象は、違う方向から「因果力」という同じものが何に起因する物なのか探っているとも言えるのではないか。
まだただの思いつきの段階だが、このアイデアを僕は折に触れ記憶に刻もうと思った。
「もう帰るのか」
来た時と同様、せわしない。アカムは一刻も腰を落ち着けず、Uターンしてまた首都まで帰るようだった。
「さっきは関係ない、と言ったけれど」
僕は少なからず感傷的になっていたのかもしれなかった。オートモービルに乗り込もうとするアカムに伝えなければと思った。
「『鍵』の探索で亜人種の起源についてなにか手がかりを得たら必ず伝えるよ」
アカムは口の端を上げにやりと笑った。
「お前がそう思っていることなんて、ここに来る前から確信していたよ。おっと。それとこいつを渡すのを忘れてた」
そう言うとアカムはメモリカードを一枚よこした。
「地球病に関する、これまでに発見された中で一番古い研究資料だ。これは俺にはあまり意味のない情報だったが、お前なら活用できるかもしれない」
「それは……ありがたい」
僕は素直に受け取っておいた。首都と違ってネット環境という物がごくごく脆弱な北奥の地においては、こうした大規模なデータの受け渡しは物理的な記録媒体に限る。
「邪魔したな」
そう言うとアカムは狼族用の作りになっているサングラスをかけ、エンジンを始動させる。
自分では格好が良いと思っているのだろう、僕に向けて二本指を立ててからアカムは騒々しいエンジン音とともに去って行った。
家に戻ろうと振り向くと、お社の方からミケコが手を振って歩いてくる。
「お客さん、もう帰っちゃったんですか?」
「ああ、学生時代の馴染みだよ。向こうの方が六つも年上だけどね」
「あら、それは残念でした」
そういうとミケコは手に提げていた風呂敷包みに目をやる。
「せっかくお稲荷さんをたくさん作ったのでお裾分けと思ってたんですが」
「あいつは狼族で、狐族でもないのにそういや稲荷寿司は大好物だったな」
「そうだったんですか。それならなおのこと、今度いらっしゃる時は教えてくださいね」
そういうとミケコは風呂敷に包まれたお重を当たり前のように僕に押しつけ帰って行った。
今度アカムが来る時には首都のお菓子でも持ってこさせなければ。
メモリカードの礼の手紙の端にでもそう書き付けておこうと思った。
◆ ◆ ◆
『風車 ——ショコ編』
海から吹き付ける潮風は、ワッカの里を吹き抜けて大雪山連峰の峰々に駆け上がり冬には雪をもたらす。
わたしは耳の部分も収まるように出っぱりの付いたニット帽をかぶって、なだらかな丘へと続く坂道を上っていく。周囲には背の低い灌木がまばらに生えるだけで見通しはいい。わたしの踏みしだく枯れ葉がカサカサと乾いた音を立てる。
手にはずっしりと重いツタで編んだバスケット。その中にはニコ特製のアップルパイがおさめられている。大家族のわたしの家の大かまどで焼いた物だ。
秋にたくさん穫れた林檎は、ジャムにしたりコンポートにしたりケーキにしたり大活躍するが、やはり一番食べる機会が多いのがアップルパイだ。
「いい? ショコ。きちんといつもお世話になってますって挨拶するのよ」
出かける前にわたしの首にマフラーを巻き付けながらミケコが言う。わたしはそんな事は重々承知しているが、うん、とうなずく。
いつも一つ年上のミケコの後をついて回っているわたしだが、月に数度のこのお使いだけは一人で行くことが二年前からの慣例になっている。
丘を登るにつれ風は強くなり、振り返ると里全体が見渡せる。晩秋の低く垂れ込めた雲が日光を遮り景色から彩りを奪い去っている。
「ロンドンブリッジ、ブロークンダウン、ブロークンダウン、ブロークンダウン……」
わたしは少しの心細さを打ち消すように小声で童謡をうたう。
ときおり風にかき消されながらも歌声は流れていく。
そうしてしばらく行くと、びゅうびゅうと風の吹き付ける音に混じって、ヒュンヒュンと高く連続する風切り音が混じる。
目線を上げ、目を見開き、一つ大きく深呼吸する。
見上げた先には白くまっすぐそびえる巨塔。そのてっぺんには三枚翼のブレードが等間隔で生えている。
風を受けた大きなブレードはゆっくりと回っているように見えるが、その先端のスピードは時速三百キロメートルに達することもあるとわたしはトウヤ先生に聞いた。
目線を横に転じると、同じ型の白い風車がみな同じ方向を向いて、数十基も丘の尾根に連なっている。
すべて向きが一緒なのは、風を正面からとらえるようにブレードの取り付けられた部分が自由に回転するからだ。
まるで巨人の行進だ。この光景を眺めるたびにわたしは思う。
この風車群は里の消費電力の大部分をまかなっている発電施設だ。
たいていの家の屋根に設置されているソーラーパネルでも一家族分の電力を発電する事は可能だが、この地方の長く雪の多い冬にはどうしても出力不足になる。
代わりに、冬に特に強く吹く季節風をとらえて発電する風車が、このワッカの里の電力供給の要になっていた。
尾根づたいに少し歩くと目的地が見えた。
わたしの歩む速度も少し速くなる。
巨大な木の切り株を思わせる、円柱形で平らな屋根の家だ。耐雪性と耐風性にすぐれるので風が吹きさらしになるこうした土地に向いている。
上部が半円形になっているのが特徴的な扉をノックする。
「管理人さーん!」
大きな声でわたしは呼びかける。
すぐには返事は返ってこない。少し待って家の中から人の歩み寄る気配がある。
中から扉を開けたのは長身の人類の女性だ。この里では純粋な人類は珍しい。
長い亜麻色の髪を後ろでまとめ、芥子色のセーターに白のデニムパンツを合わせたラフな格好。
「か、管理人さん。あの、いつもお世話になってます」
わかっているつもりでも最初の一言はどうしてもスムーズに出てこない。
母も姉たちも気にする事は無いと言うが、わたしは自分の奥手で引っ込み思案な性格を直したいと思っている。
家族以外で唯一わたしが一対一できちんと話ができるのが、この風力発電所の管理人、トワだった。
「やあ、ショコ。よく来たね」
トワはわたしの顔を見るなり破顔すると、肩より上で切りそろえられているわたしの灰色の髪をわしゃわしゃとかき乱すようになでる。
わたしはいやがる素振りは見せず、なすがままになる。わたしはトワの白く長い指でなでられるのが好きだった。
「今日はアップルパイを持ってきました」
頭の上に手を置かれたままの状態でバスケットを差し出す。上にかけられている布をめくり中をのぞき込むトワ。
「わお! いいにおい! すぐ切るから中に入って」
返事も聞かず、トワはバスケットを受け取るとずんずんと中に入っていく。
わたしも勝手知ったるトワの家なので、扉を閉めて家に入る。
部屋の中は暖かく、落ち着いた色合いの調度品が心も暖かくさせてくれる。
キッチンへと向かったトワと入れ替わりに、わたしを出迎えてくれたのは大きなラブラドール・レトリバーだった。
いつも伏せている薪ストーブ前のカーペットから立ち上がると鼻を鳴らしてわたしの方まで歩み寄ってくる。
「こんにちは。スー」
わたしが犬の名前を呼び頭を撫でると、スーも嬉しそうに大きな舌でわたしの手を舐めようとする。
動物相手ならわたしも緊張する事は無い。膝を折ってしゃがむとスーの毛並みのよい首に抱きつく。
スーの人間よりも高い体温が衣服を通じて伝わってくる。そのままスーはなされるがままになっている。
わたしは物心ついた頃からスーを知っているが、この犬が無闇に吠えたり駆け回るのを見た事が無い。
「ふふん、相変わらず二人は仲がいいね」
トレイに紅茶のポットと切り分けたアップルパイをのせたトワが戻ってくる。トワが視線を向けて指示をすると、スーはわたしから離れていつものカーペットの上に伏せた。
「お社の姉妹はみんな元気かい?」
テーブルに着くよう促しながらトワは尋ねる。
うなずいて、小さくはいとこたえる。
「それはよかった」
にっこりと微笑んで、トワはティーカップに紅茶をなみなみとそそぐ。わたしは黙ってそれを見つめる。
わたしは家族以外の人と一緒にいる時、自分に何か聞かれないか、どう返事をしたらいいのか、いつも心のどこかで怯えているのが常だ。
黙り込んで自分から話そうとはしないわたしには、話の接ぎ穂がない時の沈黙がひどく苦痛に思える。
しかし、トワと一緒にいる時は例外で、互いに黙っていても焦る気持ちがおきない。
それがなぜかはわたしにはわからない。
私たちはアップルパイを食べながら、ぽつりぽつり思いついたように話をする。
たいていは最近里であったこと、首都からもたらされた最新ニュース、それからお社の家族の事。
トワがたずね、わたしがこたえる。
「——それでみんなで月の都市を望遠鏡で見たんです」
先日のよく晴れた晩、分校の屋上にトウヤが持ち出した望遠鏡で月の観測をした。
大小のクレーターとともに、月の影になった箇所で輝く、肉眼では見分けにくい月面都市の明かりを見た。
月にも人が住んでいるという事はわたしも知識では知っていたが、実際に生活の明かりを見ると不思議な気持ちになった。
トウヤが説明するには「政治的な理由」で、月と地球との間の連絡は何年も途絶えているのだという。
「わたしが月から来たと言ったら驚くかい?」
紅茶のおかわりをつぎながら、不意にトワはそう言った。
ぶんぶんとうなずくわたしに、あははと軽く笑ってトワは続ける。
「なに、単に月の生まれってだけさ。勉強の都合でこっちに来たら、ついつい長居をしてしまってね」
「でもずっと誰も月には行けないって先生が」
わたしの言葉にトワは首をたてに振る。
「そうだね。ずいぶんとこじれてしまったようだ」
人ごとのようにトワは言って紅茶に口をつける。
トワと月の関係についてもっと聞いてみたい気持ちがあったが、わたしはそれをこらえる事にした。
聞いてみたらトワは答えてくれるだろう。しかしそれはトワを悲しませる事になるのではないかという気がした。
それを察したのかどうか。トワは独り言のように言を継ぐ。
「わたしはね、ショコ。小さな頃から空に浮かぶ地球を見てはいつか行ってみたいと思っていたんだ」
わたしは目を見開いたまま夢想する。
「月から見る地球……」
「そう。真っ黒の空に青く大きく輝く地球。それはそれは綺麗なものさ。月に住む人の多くが地球に住む人を一段下に見ていたけれど、わたしはそんな事は一度も思わなかった。早く大人になって地球に行ってみたいと思っていた」
そこまで一気にしゃべると、トワは顔を大きく崩してわたしに笑いかける。
「なんだい、どうしてあんたがそんな深刻そうな顔をするのさ。私は行きたいと思っていた『ここ』まで来て幸せに暮らしている。それになんと言っても故郷は夜空を見上げれば嫌でも目に入ってくるしね」
それはトワの言うとおり強がりでもなんでもないのだろうとわたしは思う。
帰り道、トワに手渡された一枚の絵はがき。そこには月の地平線からのぼろうとする地球が描かれていた。
いつかトワの見た地球を自分も見てみたいとわたしは思った。