序章
血の契約
『おい、貴様』
それは突然の呼びかけであった。羊皮紙を走らせるペンを止め、はた、と周囲を見渡す。しかし、薄暗い部屋の隅々まで目を凝らせども、だだっ広い地下書庫には自分を除いて人の姿はない。
やはり疲れか、日夜地下に閉じ籠りきりで、とうとう気でも狂ったか。幻聴に見舞われた直後にしては妙に落ち着いた心持ちで、再びペン先を羊皮紙に引っ掛ける。
『こっちだ、愚か者め』
やけにしつこい幻聴だ。自覚してからもなお、勉学の邪魔をしてくるとは。構わず、厚みのある法書を手繰る。読書に集中して数分も経てば、この手の幻聴はいつの間にかと消え去るだろう。
しかし、期待は外れた。数分、数十分、数時間経っても、その声は断続的に、似たような呼びかけを繰り返した。最早、勉学どころの話ではない。目は法文の羅列の上を滑るばかりだった。思わず眉間に皺が寄り、もう耐えかねると席を立ち上がったそのとき、声もまた痺れを切らしたかのような調子で告げた。
『階段脇の角だ、早くしろ。あまり幻滅させるな』
何が幻滅だ。私の幻聴の癖をして、私に何を期待し幻滅するというのか。階段脇の角を睨んだ。あまりに広い地下書庫を照らすのは持ち込んだ卓上ランプの灯りだけで、そこはすっかり暗がりに落ち込んでしまっている。さて、彼処には何があったか。仮にも我が家ながら、さっぱり思い出せない。それもそうだ、このような鬱々とした場所、蔵書を読み漁るためでなければ訪れないのだから、肝心の蔵書以外に気を払っているはずもない。
しかし、それでこの声の気が済むのなら。私はランプを手に取り、部屋の隅へと歩きだした。
『布を避けろ』
「布……?」
近付いてみれば、確かにそこには、暗幕を被った塊がひっそりと佇んでいた。一体どれほどの間忘れ去られていたのか、滑らかな布地の上にはうっすらと埃が積もっている。このところ、毎日この階段を上り下りしていたというのに、その存在にすら全く気がつかなかった。それは間違いなく、永い間ここに居座っていた形跡を持ちながら、まるで今この瞬間、この空間に忽然と姿を顕したような……。
と、そこまで思いを巡らせて私は、自分が柄にもなく心を躍らせていることに気が付いた。こほん、とひとつ咳払いを落として、両手の指で摘むようにして暗幕を剥がす。
現れたのは、がらくたのように雑然と片付けられた小道具の山だった。その中に、黒い漆で固められた豪奢な紳士用の杖がある。私の手は、吸い寄せられるように自然とそこへ伸びた。そして、朱く印の彫り込まれた握りに掌が触れた刹那。夥しいほどの情報が、私の中に流れ込んできた。
「っぐ……!?」
誰かの、意識。そうとしか言い表しようがない。私ではない誰かの視覚、聴覚、感情。それらの記憶が一瞬のうちに脳の中を駆け巡った。あまりの衝撃にぐらり、と傾く身体を、握った杖を支えにどうにか押し戻す。
『ほう、気絶しなかったか。やはり貴様は見応えがある』
先刻より、更に鮮明に響く声。脳裏に直接流れ込んでくるようなその声と、先ほどの意識がシンクロする。本能で解った。私が幻聴と疑っていたかの声の主は、ほかでもない、この漆黒の杖だったのだと。幻覚などではない、人間よりも遥かに危険な叡智を備えた「それ」は、視界が歪み吐き気を催す私のさまを、愉悦の込もった眼差しで確かに見つめている。
「お前は……何だ……」
睨みを利かせて問えば、それは愉しげに含みのある声で言うた。
『それを問うのは私の方だぞ、小僧。私は貴様の野心に呼ばれて、百年の眠りから引き上げられたというのに』
「野心……?」
『そうとも。貴様の渇望は底知れぬ。それこそ我が意識の深淵にまで届くほどにな』
「冗談を。私に大層な野心などない。父や伯父ではあるまいし。第一、私はそういうのに辟易としているんだ」
私の一族はみな、政界に名を馳せる華々しい経歴の持ち主で、その家に生まれた私もまた当然のようにそう在ることを期待された。家名のために教養を重ね、同じ家に棲む、たかが他人によってひけらかされるために、智慧を磨く。かといって、私はそのことにさして文句も言わなかった。理由はほかでもない。どうでもいいのだ。「私」という在り方そのものが。生きることにおいて欲のひとつも見出せない男に、野心だなどとんでもない。
幸いにして、勉学は不得意ではない。それどころか、常人よりも容易くその全てを習得してしまう自覚がある。そうとなれば、もはや何かに踠いて生きる必要もあるまい。この生き方はむしろ野心とは対極のーー謂わば、諦観だ。
それなのに、この奇妙な杖は、相も変わらず含みのある笑いを溢す。まるで、おかしいのは私の方だとでも言うように。
『まあ、良い。自覚するのにそう時間は掛らんだろうさ』
「何の話だ」
『こちらの話だ。ふむ……ところで小僧、名は何という』
どこまでも、好き勝手に話を進める奴だ。そもそも頭痛の種を増やすために、こうして呼びかけに応えたわけではない。
「……ルイス。ルイス=カンティクロウ」
『ルイス……か。意外にぱっとせん名前だな、姓の方はともかくとして』
「別に意外でもないだろう。そういうお前は、名はあるのか」
『我が名はブラッディ・ジャッジメント。旧き吸血鬼の最期の血潮、その結晶たる姿よ』
「お前の方はまた、随分と仰々しい名前じゃないか」
言いながら、幼少期にこの地下書庫で見た、古い吸血鬼の文献資料のことを思い出す。カンティクロウ家に縁があるという、吸血鬼一族の末裔の話——子供騙しの空想噺の類とばかり思っていたが、この魔杖から、その話が飛び出すとは。
黒き魔杖は、ふふ、と悦を帯びた笑いを溢した。
『呼びづらくてご不満かな?では、そうだな。《ブラッド》とでも、呼んで貰おうか』