『死霊艦隊:死霊門』
死霊艦隊。
それが姿を現すようになったのは、奇しくもネロスがクーデターにより陥落した直後の一ヶ月前のことである――らしい。
偶然かどうかは、ひとまず保留にしよう。
リザード人によると、重力センサーに映った渦のような空間の歪みは、その死霊艦隊が出現する前ぶれだという。
同時に送られてきたのが、この一ヶ月に何千もの星が死霊によって滅びたことを示す、ニュースや動画などの圧縮データである。
目を通すだけで何千時間とかかりそうな大量の情報を前に、俺は途方に暮れた。
「ブラック・ダイカン号。簡潔に頼む。アレは危険なものか?」
『危険ですね。受け取った圧縮情報の一次解析を終えましたが、欺瞞情報の可能性は低いです。死霊艦隊は、確認されているものだけで五百の星を滅ぼし、推定で七千の星を滅ぼしています。そして、その侵攻の前触れがあの重力異常です』
「優先順位を追加するぞ。第一は地球とネロスが滅びないことだ。次に俺の命。後はさっきの通りで」
『では、即時撤退を進言します、マスター。未知の敵を相手に失敗は許されません。この情報を持ち帰り、始祖の船と合流して、万全の状態で対処すべきです』
「それしかない……が、大丈夫なのか? アレを放置して」
木星近傍に浮かぶ重力の歪みは、しだいに大きくなっていく。
『データによると、アレは死霊門と呼ばれるものです。転移ゲートの一種で、死霊艦隊の拠点につながっています。あと一日もしないうちに安定して、中から死霊の群れが飛び出してきます』
リザード人が転送してきた延べ何万時間もの動画の中から、ブラック・ダイカン号が映像を選び出した。
どこかの星の防衛艦隊が、巨大な黒い円環型の転移ゲートに攻撃をかけている映像だ。
転移ゲートというのは、宇宙の高速道路だ。宇宙船が跳躍航法を使って自力で転移するには、準備に時間と手間がかかるし、宇宙船に跳躍ドライブが必要となる。たとえば、ブラック・ダイカン号は無慣性ドライブは搭載しているが、跳躍ドライブはないので、跳躍航法はできない。
転移ゲートを転移座標に建設すれば、転移ゲートをくぐり抜けることで、つながっている別の転移ゲートに即座に移動が可能だ。
映像では、死霊門の中心からワラワラと宇宙戦闘機サイズの死霊艦が出現し、攻撃をかける防衛艦隊と死闘を繰り広げている。
いや、それは死闘というよりは――
「あれ? なんか、弱くない? あいつら?」
沈められるのは死霊艦の方ばかりで、防衛艦隊の側に被害はない。
『弱いです』
情報の解析を終えているブラック・ダイカン号はあっさりと言った。
『死霊艦の第一世代は〈感染者〉とも呼ばれ、接触した相手を死霊化し、仲間とします』
「何それ怖い」
映画のゾンビが、噛み付いた相手をゾンビにするようなものか。
『ですが、それ以外の攻撃はありません。接触する前に破壊すればよいのです』
「あの防衛艦隊は、そのことは知ってるのか?」
『はい。この映像は今から二週間前のもの。この時点ですでに百あまりの星が死霊艦隊に滅ぼされています。脱出した人々から、死霊艦隊の特徴が伝えられています』
「対死霊艦隊の対策はできてるわけか」
死霊艦は遠距離戦用の武器を備えておらず、防衛艦隊からのアウトレンジ攻撃によって一方的に打ちのめされている。
死霊艦の側は、仲間が破壊されても破壊されても、死霊門から出現し、広がっていく。
やがて、偶然なのか学習したのか、一部の死霊艦が仲間を盾にして防衛艦隊に接近していく。防衛艦隊もそれを察して死角をなくすために側面に部隊を展開させるが、その分、正面火力の密度が落ち、死霊艦がさらに近づく。
防衛艦隊に増援が来る。しかし、焼け石に水だ。
じりじりと防衛艦隊の戦線が下がる。下がる分、防衛ラインは広がる。コンパスの足を広げて円を描くようなものだ。下がれば、死霊門を囲む円周は長くなる。まして宇宙空間なので、立体的に広がっていく。
補給のために、防衛艦隊が前線部隊を後方部隊と入れ替えた時だった。
これまでも、防衛艦隊は前線と後方とを補給のためにローテーションさせていた。しかし、今回は十分な補給か整備ができなかったらしい。防衛艦隊の火力はそれまでより低下していた。そしてついに、死霊艦の一部が防衛艦隊にとりついた。
この防衛艦隊は、死霊艦隊と死霊化の恐ろしさを知っていた。防衛艦隊の陣形の外側は無人のドローン部隊で形成されており、死霊艦にとりつかれた端から自爆して死霊化を阻止する。
しかし、それは飢えたタコが自らの足を食べるがごとき延命処置であった。ドローンの数が減るにつれ、急速に防衛艦隊は戦力を消耗していき、そしてついに、中核を成すドローン母艦が死霊艦にとりつかれる。
「おう」
俺の口から、思わず呻き声が出ていた。
そのドローン母艦は商船の通信指揮機能を強化してドローンを搭載したもので、リザード人の乗る私掠船と同じ武装商船だった。
接触した〈感染者〉とドローン母艦の表面がボコボコと泡立つようにねじれ、歪み、一体化して変容していく。
「なんだ、あれは?」
『死霊化です。マスターが装着する鎧装と原理的には似ていますが、鎧装がナノマテリアルを消費して行われるのに対し、通常物質を消費して形態変化します』
「食われるってことか」
宇宙連邦の法では、ナノマシンの通常物質使用は強い制限が課せられている。暴走すれば、惑星丸ごとを食い尽くしかねないからだ。
「ナノマシン規制とか最初からなしか、あいつら」
『死霊化して生まれるのが、第二世代の死霊艦です。感染能力を失いますが、その代わりに高い戦闘力を持ちます。〈殲滅者〉とも呼ばれます』
死霊艦の艦首がふたつに裂け、そして、ぎゅるん、と伸びた。
『あれは私にも搭載されている誘導砲身ですね。レールキャノンです。あのサイズであれば、三発までの重質量弾を撃てます』
死霊艦のレールキャノンが砲撃を開始した。
重質量弾は、レーザーやビームと違い、エネルギーシールドでは防げない。同じ硬度を持つ戦艦の物理的な装甲のみが、重質量弾を食い止めるのだ。それ以外の艦種では、避けるしかない。
防衛艦隊の編成は、コストパフォーマンスに優れたドローン母艦を主力とする中型艦で、第一世代の〈感染者〉には有効だが、〈殲滅者〉とは相性が悪い。重質量弾に撃ち抜かれ、漂流するもの、爆発するものが出てくる。
ドローン母艦が失われると、〈感染者〉に食われるドローンが増える。ナノマテリアルと違い、通常物質で変容する死霊艦は質量保存則に縛られる。ドローンが転じた〈殲滅者〉は小型で、弾頭用の重質量物質までは成形できず、レールガンの威力もそれほどには強くない。それでも、戦力バランスは急勾配を描いて死霊艦隊側に有利となる。
戦闘開始から、二十時間が経過した。
死霊門を囲む防衛ラインは崩壊し、今や、防衛艦隊の方を死霊艦が取り囲んでいる。
それでも、防衛艦隊は戦いを諦めなかった。じりじりと戦線を下げながら、戦いを継続している。
素人目にも、勝ち目がなさそうだ。しかし、戦いは続く。
「何が、彼らをあそこまで戦わせるんだ」
俺の問いに、ブラック・ダイカン号が答えた。
『彼らは時間稼ぎをしているのです』
「何の時間だ」
『この星の住民を撤退させる時間です。一時間でも二時間でも耐えれば、それだけ多くの住民が、脱出できます』
俺は映像に関連付けられた情報タグを引っ張り出して閲覧した。この星には二十億人近い住民がおり、防衛艦隊が戦っている間にも大車輪で疎開が進められていた。
しかし、短い時間に救出できる人間の数には限りがある。
「脱出できたのは……一億五千万人か」
残りの十八億五千万人がどうなったかは不明だ。死霊艦隊に占領された星を偵察して戻ってきた者はいない。少なくとも、リザード人が持ってきた記録にはない。
防衛艦隊が、死霊艦の群れに完全に包囲された時点で、記録は終わっていた。
『この記録は、防衛艦隊から離れた場所に待機していた高速連絡船によって撮られたものです。死霊艦が近づいてきたので、跳躍航法で脱出した、とあります』
「その高速連絡船は記録を取るためにそこにいたのか?」
『いえ。防衛艦隊の生き残りが脱出してきたら回収するためでした。戦闘の記録は一緒に与えられた副次的な任務です』
「脱出者の回収任務はどうなった?」
『回収された脱出者はいなかったそうです』
「そうか」
俺は目を閉じて、防衛艦隊将兵の冥福を祈った。
死霊艦隊との戦い方をみるかぎり、防衛艦隊は自分たちにできる最善を尽くした。乗員脱出用の高速連絡船を配備していたあたり、時間稼ぎ以上の戦いができないことは、最初からわかって戦っていたのだろう。
「つまりは――死霊門ができたらソル星系は終わりなんだな?」
『データを分析する限り、そうです』
「死霊門ができるまで残り一日だったか? それまでに、破壊はできるのか?」
『始祖の船に搭載された武器を使えば』
ブラック・ダイカン号の声には、わずかに歯切れの悪さのようなものがあった。
宇宙連邦の人工知能は、こういう人間臭さも、インタフェースに組み入れている。
「始祖の船には、今、三億人のネロスの民がいる。武器は使えないんじゃないのか。それに、木星までの往復にかかる時間もある」
『私のデータによれば、始祖の船には、地球=木星間の距離を砲撃可能な武器もあります。小マゼラン殿であれば、良い手を思いつかれるかもしれません』
「今ここで、そうしたことを小マゼランに確認は可能か?」
三時間かけて地球まで戻って、また三時間かけて木星に戻るとなると、移動だけで合計六時間である。タイムリミットが一日でこのロスは大きい。
『できません。通信のタイムラグが大きく、また、転送が必要な情報が多すぎます』
「……少し待て」
俺は目を閉じ、手で自分の顔をおおった。情報を遮断して意識を集中させ、思考する。
リザード人の私掠船との戦いと、今とでは、まるで状況が違っている。
最大の違いは、ブラック・ダイカン号の進言がアテにできないというところだ。ブラック・ダイカン号は戦闘の専門家といっても、あくまで戦闘機の人工知能だ。相手の情報を知り尽くしていて、確実に勝てる私掠船との戦術方針であれば頼りになるが、未知の敵の死霊艦隊が相手の、しかも戦略的な判断となると、切れ味が悪い。
素人である俺の判断もアテにならないが、今はその素人である俺の判断が求められているのだ。
これは地球代官である俺の責任なのだ。
間違っていても、今ここで決断を下すことが。
「ブラック・ダイカン号。現状で死霊門を破壊するには、どういう手がある?」
『ビーム砲であれば、戦艦の主砲か要塞砲クラスが必要です。あるいは、レールキャノン搭載の砲撃巡航艦なら、重質量弾を打ち込むことで破壊できます。死霊門が定着してしまえば、その程度ではどうにもなりませんが』
「つまり、戦艦か砲撃巡航艦を転移座標の近くに配置しておいて、死霊門が出現したら素早く破壊しろ、ということか」
『はい。私が解析したデータの中にも、死霊門を定着前に破壊して死霊艦隊の侵攻を阻止した星系の事例があります』
「この機体に搭載されてるレールキャノンではダメなのか?」
『私のレールキャノンは未完成です。弾倉も装備していません。ご存じのように、今は脱出用にしか使えません』
「リザード人の私掠船の兵装に、使えそうなものはないか?」
『ないですね。私掠船では、先に見た映像の防衛艦隊と装備に差はありません』
私掠船の主兵装は、ドローンだ。レーザーやミサイルを搭載して戦う。
防衛艦隊の映像でも、小型の〈感染者〉死霊艦には十分な兵装だったが、威力はさほどでもなかった。
「そりゃそうか。要塞や戦艦相手に戦う武器じゃないからな」
『私掠船や防衛艦隊の主敵を考えれば、そのような兵装は無用です』
手詰まりだ。
――冗談で小マゼランと話をしていたアレを本気で考えないといけないか。
俺はしばらく考えてから、口を開いた。
「体当たりなら、どうだ? コクピットごと脱出して、機体を加速してぶつけるんだ」
『無理です。私の無慣性ドライブでは速度が足りません。重質量弾は光速の九十パーセントまで加速して射出しますが、それ以上でなくては』
「そうか、なら――」
いよいよ、覚悟を決めるしかない。
やると決断すれば、あとは準備である。
技術的な面は、ブラック・ダイカン号に丸投げをして、俺はリザード人の宇宙船〈緋竜〉へと乗り込んだ。
「ネロス皇国所属。ソル星系、地球代官の一星銀河だ」
リザード人に握手とかの風習があるのかわからないので、敬礼のまねごとだけしてみた。
「妾はカンパニア巣のリュミスだ。今は女王代行をしている」
「俺はカンパニア巣の戦長ドランだ。この〈緋竜〉の船長でもある。乗船を歓迎するぜ、ギンガ」
案内を受けて指揮所に上がると、ふたりのリザード人が俺を出迎えた。
宇宙版wikipediaによれば、リザード人は装飾品や、鱗の模様で固体識別するとよい、ということらしい。顔だけでは見分けがつかないのは種族が違うので仕方がない。
リュミスの方は尻尾についた飾りで、ドランの方は頭の冠で他のリザード人と区別がついた。
「これから死霊門を相手にしなくてはいけないので、手短にいく。カンパニア巣のリザード人は、このソル星系に新しい巣を作る気はあるか? その気があるのならば、今、この場で俺が地球代官として承認をしたい」
俺の問いに、リュミスとドランは顔を見合わせた。ドランが尻尾を小さく振ると、リュミスもそれに合わせて尾を振る。シャラン、という音が響いた。
リザード人同士のボディランゲージの後、リュミスが俺に向かって言った。
「あります」
「では、ネロス皇国地球代官一星銀河の名において、カンパニア巣のリザード人居住区を、ソル星系第五惑星、木星に建設することを承認する」
俺は記録装置を手にそう宣言した後、装置からメモリカードを取り出し、リュミスに渡した。
「こいつを保管しておいてくれ。さて、ソル星系に居住区を作るからには、ソル星系防衛のために働く義務がある」
「もちろんだ。故郷を守るために命を張るのは当然のこと」
ドラン船長が勢い込んで言った。その際に頭の冠がズレたので、それを大きな手でちまちまと直す。
「死霊艦隊は故郷の巣を破壊した仇敵だ。死霊門を壊すためなら、なんでもするぜ。ただし、リュミス姫と妹君である女王卵は船を下ろさせてくれ」
「ああいや、その必要はない」
ドランが言外に匂わせた、体当たり、という選択肢を俺は否定した。
もちろん、その選択肢を選ばない最大の理由は、私掠船二隻をぶつけたところで、形成中の死霊門には傷ひとつつかないからだ。ブラック・ダイカン号が光速の三十パーセント、秒速で十万キロメートルの速度で体当たりしても壊れないのだ。せいぜいが光速の十パーセントしか出せない私掠船では、多少の質量があっても死霊門の周囲にまとわりつく空間障壁を打ち抜けない。
期待はしていないが、念のため、確認だけはしておくことにした。
「ただ、もし二隻のどちらかが重質量物質を持っていたならば、供出してもらいたい。それがあると、話がずいぶん簡単になる」
重質量物質は、角砂糖サイズで一億トンにもなる。なので、専用の慣性中立化装置で慣性質量を打ち消した状態で持ち運ぶのだ。
重質量物質も慣性中立化装置もたいへん高価なものだ。
期待はしていないが、私掠船ならば、どこかで奪った積み荷にあるかもしれない。
「残念ながら、ない」
「そうか……そうだろうな」
期待はしていないが、落胆させられた。
「重質量物質、ということはレールキャノンか?」
さすがに本職だけあり、ドランはすぐに俺の意図を見抜いた。
「そうだ。俺の機体、ブラックダイカン号にはレールキャノンの誘導砲身がついている。しかし、艤装が終わってなくて、砲弾の重質量物質を搭載していないんだ」
「では、どうやって、死霊門を破壊する?」
俺は方法を説明した。
ふたりのリザード人の表情は変わらなかったが、ドランの頬の鰓部分が赤くなり、リュミスの尻尾がびしっ、と伸びて飾りが音を立てた。
「軍事について妾はわからんが、そなたの勇気はたたえよう」
リュミスの言葉に、俺は苦笑で返した。
「勇気というよりは、責任だな」
「責任? 地球代官としての職務に、そこまでの献身があるとは思わないが」
「そうではなくて、今ここで死霊門を破壊できるのが、俺だけ、という責任だ。他にもっといい手があれば、そっちを選ぶんだけどね」
重質量物質を求めたのも、誘導砲身を本来の目的で使えれば、それで済むからだ。
「俺らは何をすればいい?」
ドランが聞いた。
「ドローンを死霊門の周辺に展開して、記録を撮ってくれ。そして、その記録をネロス皇国の始祖の船に伝えてほしい」
「わかった」
「頼む。始祖の船にはこちらから連絡して、事情を説明しておく」
「もし、お前が死霊門の破壊に失敗したら?」
「その場合も、記録は届けてくれ。後は、始祖の船の――メシエ皇女と協力して、後のことを決めてほしい」
メシエの名を口にした瞬間、強い胸の痛みが走った。
それは、この作戦を決断した時よりも、はるかに大きな苦しみだった。
――未練といえば、未練か。
俺は、自分がごく平凡な人間であると知っている。
学業も運動も、顔も性格も、自己評価でも他人の評価でも、悪くはないが良くもない。
その俺が、太陽系と地球を守るために――おいおい、どうしちまったんだ――かなり健康によくないことをやろうとしている。
つまるところ、その人間の能力や性格と、その人間がやることに、本当の意味での関係は薄いのだ。
人を見る時、俺たちはその人のなした『結果』から、能力や性格を判断している。
歴史上の人物は特にそうだ。
しかし、こうして自分が『結果』を出そうとしている今、俺としてはそれは間違っている、と声を大にして言いたい。
でかいことをやる人間は、その内面までがでかい人間なのではない。内面はでかくなくても、自分の身の丈に合わないレベルのことをやらされてしまうことがあるのだ。
――やりたくねー。本気でやりたくねー。
俺は平凡な人間だ。自分の命が大事だ。すごく大事だ。
なのに平凡な俺が今、大事な自分の命に、けっこう雑な扱いをしようとしている。
リザード人の船でやることをすませた後、俺はブラック・ダイカン号に戻った。
『マスター、すべての準備は整いました。いつでもできます』
ここでブラック・ダイカン号に甚大なトラブルが発生してくれていたら、俺は焦ると同時にかなり安堵したはずである。ちっちゃいなぁ。
「こっちも終わった。始祖の船に圧縮通信だ」
俺は現状と、後のことはリザード人に任せてあるので彼らから聞いてほしい、ということを文章にまとめ、送信した。
この通信は、一時間後に始祖の船に届く。
何か返信があっても二時間後で、その時には――どうなっているにしても、俺がそれを知ることはない。
「さて、と」
俺は自分の右手を見た。
始祖の船で待つ、メシエを思う。
「フラグは、立てなかったんだがなぁ」
やはり、フラグと死亡率は関係ないのではないだろうか。
――いやいや、死ぬわけじゃない。死なない。死ぬならやらない。
そこは凡人として譲れないところである。
天秤の片方に地球六十億人とネロス三億人がいても、俺が自己犠牲を強要されるのは、勘弁していただきたい。他人がやりたいなら、止めはしないが。自分の命は地球よりも重いのである。
けれど、それでも。
――その天秤に、メシエのおっぱいがのっかると、俺の命より重くなっちゃうな。
俺の命は、地球よりも重い。
メシエのおっぱいは、俺の命よりも重い。
つまり、メシエのおっぱいは、地球よりも重い。
このことを、メシエ本人に伝えたらどんな顔をするか、と想像してみて、あまりのばかばかしさに笑いがもれた。
――会いたいな。
俺は目を閉じて、右手を動かした。
すかっ。
木星と地球とでは、距離がありすぎるのか、右手に反応はない。
『マスター、始祖の腕輪を肘掛けの所定の位置に合わせてください』
「わかった。これでいいか?」
俺は右手を座席の肘掛けにのせた。
『はい。腕輪の力を引き出します。目を閉じて意識を集中してください』
「ああ」
俺は目を閉じた。
――腕輪の力を引き出す、か。なら、つながるかも。
この期に及んで何をしているのだ、と怒られるかもしれないが、末期の水ならぬ末期のおっぱいである。これが人生で最後の機会かもしれないのだ。
俺は右手をわきわきさせた。
次の瞬間――
「おう?」
「え?」
俺はどこともわからない空間に浮かび、目の前にいるメシエのおっぱいを揉んでいた。