尊い日常と些細な異常 3
買い物を済ませゆかりさんの車の助手席に乗り込んだ僕は、車が通りに出るのを待って電話の件を切り出す。
「今日は電話出られなくてすいませんでした」
「なになに? お母さんおにいちゃんの携帯知ってんの? 」
後部座席でフィギュアの箱をためつすがめつしていた紗希ちゃんが、シートの間から身を乗り出してくる。
その顔面をゆかりさんは後部座席に押し戻し、
「お仕事中すいませんでした。美桜木さんが京都から一昨日こちらに戻ってこられたようなので、御連絡をと思いまして」
正面を向いたまま答える。運転する横顔はいつもより大人びて見える。
「幸留まだ見つかんないんでしょ? どこ行っちゃったんだろうね……」
紗希ちゃんの悲しそうな顔がルームミラーに写る。
美桜木夫妻は京都から帰ってきていたのか。未だ娘が戻らない夫妻の心中は察するに余りある。
「さぞ辛いでしょうね? 僕達で励ましてあげれたら良いんだけど」
「それが……」
ゆかりさんはチラとルームミラーを見やる。
どうやら紗希ちゃんの前では話しづらい事があるようだ。
それきり黙ってしまった彼女の横顔に、なんとなく僕の……僕達の日常は薄い氷の上に打ち立てられているような、そんな予感がした。
アパートの前で車が止まると僕より先に紗希ちゃんが飛び出し、僕達の部屋のドアを開ける。
「ただいま、ラギちゃん! おにいちゃん送ってきたよ」
「え? ギラちゃん? なんで? てかお兄ちゃん送ってきた? 」
「うん! あがっていい? 」
混乱する園歌に招かれて紗希ちゃんは部屋に入っていく。
僕はまだ車の中にいた。ゆかりさんはなにやら深刻な顔で僕らの部屋を見つめている。
「美桜木さん帰ってたんですね? もしかして日曜日の予定聞いたのって2人に会いに行くんですか? 」
「え? ええ……はい。なんだか私達に相談したい事があるらしくて……」
先程から心ここに有らずといった感じだが、また何か心配事でも抱えているのだろうか?
「紗希ちゃんも元気そうで良かったですね」
「いえ……お蔭様で……」
「園歌も元気なのはいいんですけど、なんか前より甘えん坊になっちゃって……」
「はあ……」
「そういえばトン汁すいませんでした。紗希ちゃんが自分の分僕に分けてくれたんですよ。凄くうまかったです」
「………………」
「ハア……なんだか1人で怒ってるのが馬鹿らしくなってきたわ……」
ゆかりさんは大きくため息を吐くとつぶやく。
「え? ゆかりさんまだ怒ってたんですか? 僕はてっきり……」
「平祇さんが鈍いだけです」
「そんなの分かりませんよ」
「普通は分かります。私はあの日からずーーーーーと怒ってます。あなたが私なんか必要ないって切り捨てた夜からずっとです」
「やめてくださいよ! その言い方だとなんだか僕がゆかりさんを、ボロ雑巾か何かみたいに捨てたみたいじゃないですか! 」
「だってその通りじゃないですか……」
ゆかりさんはプウと頬を膨らます。確かにゆかりさんにしたらその通りなんだろうけど言い方が凄く引っかかる。
「大体さっきだってあなた美桜木さんの事心配してたでしょ? 自分は心配するくせに、他人には自分を心配させないとかマザーですか、あなた? 」
「僕が美桜木さんの心配するのと、ゆかりさんが僕の心配するのは全然違うでしょ? 」
「同じです」
「全っ然違いますよ! だってゆかりさん僕の影ことは自分せいだと思ってるじゃないですか。あなたが僕に夢の事喋っちゃったせいだって」
「ほら、またそうやって私が責任感じないよう気を使ってる! そういうのいらないって言ってるんですよ」
「別にあなたに気なんか使ってませんよ! あなたこそ、その心配性直した方がいいんじゃないですか? 」
「自分が心配性だって自覚があるだけあなたの気使い癖よりましです! 」
「おにいちゃん何やってんの! 早くあがってきなよ! 」
僕の部屋から聞こえてきた声に目を向けると、アパートの窓を開けて紗希ちゃんがまるで自分の部屋に招くみたいに僕を大声で呼ぶ。
「ゆかりさん、とにかく上がってください。何にも無いですけどお茶くらい出しますよ」
『こんな女家に入れることないのにぃ。ここで待たせておけばいいのよ』
「お前の家じゃないだろ」
『だってえ、なんかむかつくんだもん! この未亡人』
何故か怒っているクルト・クニルを黙らせながら、僕はゆかりさんを説得して僕らの部屋に迎え入れる。
「あ、いらっしゃい。兄がお世話になりました。どうぞ上がってください」
「お母さん遅いよ、おにいちゃんとなに話してなの? 」
「ごめんね。美歩さんと大樹さんを励ましに行こうかって話ししてたの」
「美歩さんて誰? 」
「幸留ちゃんのお母さんよ。私達が京都で色々お世話になったの」
僕は買ってきたケーキを園歌に渡すと和室に置かれたテーブルに着く。園歌はケーキを持ってキッチンに向かった。
「ねえお母さんおにいちゃん、私も一緒に行っていい? 」
「今回は駄目。あなた達は幸留ちゃんが無事に戻ってきてからにしなさい」
「お母さん超ずるい。私だって幸留のこと心配してるのに」
「そうね……でも我慢しなさい……」
車の中とは打って変わってゆかりさんの我が子に向ける瞳は優しげで、その手は柔らかく紗希ちゃんの頭をなでる。
2人の後ろでは、園歌がケーキとお茶を載せたお盆を持って立ちすくんだままでそれを見ている。
なんとなく、ただケーキをテーブルに乗せるタイミングを計っているようにも見えるし、2人の姿に死んだ母さんを思い出しているようにも見える。
僕には園歌がなにを考えて2人を見ているのか、分からない。
「園歌。お前も座って一緒に食べようぜ。新作のケーキみたいだから早く食べよう? 」
「……うん」
園歌は僕の隣にピッタリと身体を寄せて座ると、どうぞ、と皆の前にケーキを並べた。
「お前くっつきすぎだろ? もうちょっと向こうに座れよ」
「そお? いつもこんなもんじゃない? 」
人前でなにを言ってるんだこの妹は。そんな訳あるか!
「仲良いよね、ラギちゃんとおにいちゃん」
「ギラちゃんもお母さんと仲良いよね? 」
「そんなことないよ。お母さんうるさいもん。私もおにいちゃんみたいなお兄ちゃん欲しかったなあ」
「あんまりお勧めできないわよ? 特に家のお兄ちゃんみたいな人は」
「ええ? なんで? ラギちゃんいっつもおにいちゃんの事自慢してたじゃん」
園歌が僕の自慢してた? 友達に?
「まじで? お前友達に僕の自慢とかしてたの? 」
「ちょっとラギちゃん、変なこと言わないで! 自慢なんかしてないわよ! ちょっとお兄ちゃんの事相談しただけよ! 」
なんだ、ちょっと残念。
何のことは無い、僕が周りに妹の事を相談したら、勝手に妹自慢と捉えられたのと同じパターンか。
「なにかお兄さんのことで心配事でもあるんですか? 」
今まで黙っていたゆかりさんが身を乗り出すように口を開く。
「そりゃあお兄ちゃんは私には勿体無いくらい良い兄ですけど……」
本音か建前か。そう前置きを置いた後に、
「色々心配なんです……」
と、僕に向き直る。
「お兄ちゃんはお風呂入ってて! これからお兄ちゃんの進路相談会始めるから」
「はあ? 進路? なんだそれ? なに僕の進路相談とか勝手に始める気になってんだよ。しかも本人抜きで! 」
「まあまあ! 」
「ちょっと! 紗希ちゃんまで」
僕は紗希ちゃんに脱衣所に押し込まれて、園歌に着替えを渡されて、ゆかりさんにごゆっくりと送り出されて、風呂に入ることになった。
なんで?