尊い日常と些細な異常
実に数学的な部屋だと思う。
真っ白い部屋は完璧な図形のように装飾を廃し、かといってレーシングカーのような無駄を捨てた先に有る機能美を備えているわけでもない。
僕にとってこの部屋は苦手だった数学のようで、ただ無機質な部屋にしか見えない。
僕の頭の中で病室と数学、2つの苦手が1つになっている。
「空けて」
「うん」
園歌が僕の買ってきたペットボトルのお茶を差し出す。なんだか甘えん坊だ。
僕がキャップを捻ると、乾いた音とともにペットボトルが空気を吸い込み僅かに膨らむ。
園歌はそれを受け取り3口ほど喉に通す。
「明日には退院できるって」
「そうか。何か食べたいものあるか? 」
「力付くのが食べたい。お肉とか」
「あ~あ、修学旅行のやり直しとかないのかな? 」
「後で皆で行けばいいさ」
僅か2泊の検査入院で衣食住、全てに妹は飽き飽きしているようだ。
戻ってきた女子高生7人は、皆消えていた間の記憶がスッポリと抜けていた。気が付いたら自分の部屋で寝ていたそうだ。
そのせいで胸も裂けるほど心配していた僕達父兄と、「いなくなった」という自覚すらない妹達のコンタクトは、感情のギャップで笑いを取るコントみたいで感動の再開とは程遠いものとなった。
開け放たれた窓からは僕らの故郷の香りが、帰燕のように僕の肺に収まる。
また穏やかな日常が始まる。ちょっと変ってしまったところもあるが、僕の影の異常も段々と日常になっていくんだろう。
園歌がいないという異常に比べ、なんと些細な異常だろう。
『ねええ、ナースステーションてなんかエロくなぁい? ナース駅! 特急とか鈍行とかがナースの駅を通過すると思うとたまんないよね? 』
影が喋るくらいどうと言うことはない。それからナースステーションのステーションは駅って意味じゃねえよ。
「そうだ園歌、そういえば京都で紗希ちゃんのお母さんにあったぞ? 」
「え? ギラちゃんのお母さん? 」
椚良でギラちゃんらしい。
「うん。凄く若いお母さんで驚いたよ」
「でしょでしょ? 私も最初会った時は驚いたもん! それでいて特別若作りしてるわけでもない、って感じがまた凄いのよ! 」
「おまけに可愛いしな」
「そう? まあ、美人だとは思うけど……私としてはお兄ちゃんに、友達のお母さんをあまりそういう目で見て欲しくないんだけど? 」
園歌にしてみたら、自分の兄が友達の母親を可愛いとか言うのは、あまり良い気分じゃないかもしれない。
園歌は僕が女性の見た目を褒めるのを凄く嫌がる。
テレビで見るアイドルなんかでもそうなのだから、友人の母親とあっては尚更だろう。
「お兄ちゃん、彼女とか作る時も絶対見た目で選んじゃ駄目だからね? 付き合う前にちゃんと私に紹介するんだよ? 」
「高校生のうちから小姑全開だな、おまえ? 僕の未来の奥さんとは仲良くしてくれよ? 」
「お兄ちゃんにふさわしい人ならいくらでも仲良くしてあげる」
園歌はなにがおかしいのか、けらけらと笑う。どうせ僕に彼女なんて出来ないとでも思っているんだろう。
「ラッギちゃーん! お母さんがトン汁作ってきたから一緒に食べよー! 」
子供のようなけたたましい声と共に病室のドアが勢いよく開け放たれる。
勢いが良すぎて開いたドアが反動で勢いよく閉じ、ゴンという鈍い音と共に悲鳴が上がる。
「あ痛ああああぁぁ! 頭打ったああ! ドアが襲ってきた! 生きてるよこのドア! 」
突発的な騒ぎになにが起こったのか全く理解できなかったが、みると小動物のような女の子が頭を押えて蹲っている。
「もう。ギラちゃん大丈夫? 」
園歌は立ち上がりギラちゃんと呼ばれた少女に駆け寄る。
騒ぎの主は椚良紗希だ。ぼくも何度か会っていて彼女の事はよく知っている。やはり園歌と同じで検査入院中だ。
「あいたたた……このドア軽すぎて嫌い! 」
「別にそんな事ないわよ。どれだけ力入れてドア開けてるのよ? 」
園歌が、自業自得をドアのせいにする紗希ちゃんをおかしそうに笑う。
「そんな事ないもん! 超軽いよこのドア! っておにいちゃんがいるううう! 」
ようやく僕の存在に気付いたらしい紗希ちゃんが、クリクリとした大きな目玉を更にひろげて僕を指差す。
「元気そうだね紗希ちゃん」
「うわあ、みっともないとこ見られたあ! 今までお兄ちゃんの前では猫かぶってたのにい! 」
僕には十分いつもの紗希ちゃんに見えるのだが……
猫をかぶるというより、もともと子猫みたいに落ち着きのない子だったような?
「しまった! おにいちゃんの分のトン汁がない! 私とお母さんとラギちゃんの分しかなあい! 」
そう叫ぶと、紗希ちゃんは病室を出て走り去った。
行動が唐突過ぎて全く付いていけない。
僕達が呆然とそれを見送っていると、10秒と置かず戻ってきて
「お母さんの分食べて良いって! 良かったねおにいちゃん! お母さんのトン汁美味しいよ」
あっさりと言ってのける。
お盆には3人分の器にトン汁が盛られている。
それを見て、ようやくゆかりさんが紗希ちゃんに、さらには園歌の分までトン汁を作って持って来てくれた事が理解できた。
「いやいや、僕はいいよ紗希ちゃん! それゆかりさんの分でしょ? 3人で食べてよ」
「…………」
「紗希ちゃん? 」
「すっげえええ! お母さんが言った通りの事おにいちゃんが喋ってる! お母さんエスパー? 」
「え? ゆかりさんが何か言ってたの? 」
「うん。おにいちゃんはどうせ遠慮するから、遠慮したら速攻で持って帰って来なさい、ってお母さんが言ってたよ? おにいちゃんトン汁食べ損なったね」
紗希ちゃんは言うが早いかお盆を僕に預け、1つだけ器を掴むと自分の病室に走っていってしまった。
「お母さん凄いね! おにいちゃんほんとに遠慮したよ! お前の作ったトン汁なんか食えるか! くらいの速攻で断ってきたよ! 」
病室のドアを閉めても彼女の声が僕達の部屋まで響いてくる。話がものすごく盛られてる!
「ゆかりさんとか呼んでるの? 私の、友達の、お母さんを? 」
完全に置いてけぼりの僕達だったが、園歌が意外なところに食い付いてきた。
「ん? ああ、そう。そうなんだ。苗字で呼ぶと紗希ちゃんとごっちゃになって紛らわしかったからね」
「あっちも随分とお兄ちゃんの事は何でも分かってます、的な感じ出してるんですけど? 」
「まあ、京都じゃ随分と助けてもらったしな」
「じゃあ挨拶くらいしてきた方がいいんじゃない? 」
「あ、後でちゃんとするよ」
実はちょっと顔を合わせづらいというのがあるんけどね。
「ふうん…………」
なんだか妙に低いトーンで妙なところを気にしてる。僕より10cmも低い身長で見下すような顔で、僕を真っ直ぐに見上げる。
……園歌がなにを言いたいのかさっぱりだ。なんだか早く紗希ちゃんに来て貰いたいくらいだ。
「とにかくゆかりさんがせっかく作ってきてくれたんだし、頂けよ。お前病院のご飯美味しくないって言ってたろ? 」
園歌は何か言いたげな顔を作るが素直に僕の言う事に従う。
僕が紗希ちゃんの座る椅子を用意して、園歌はテーブルにトン汁を運ぶ。
「きゃあ! 」
今度は何だ?
突然の妹の悲鳴に振り返ると、手を滑らせたのか床にトン汁がぶちまけられていた。
「大丈夫か? 園歌! 」
火傷でもしていないかと妹を見るが、そんな様子はない。しかし園歌は青ざめた顔で、自分のその手を見つめたまま立ちすくんでいる。
「熱いから触るなよ? 」
僕は急いで部屋を出てモップを借りてこようとドアを開ける。
しかし思いのほか勢いが強かったらしく、反動でドアが勢いよく閉まってしまう。
『ゴン! 』
目から火花が出た。
「痛ってええ! 何だよこのドア! 軽すぎるだろ! 」
先程の紗希ちゃんと全く同じことをやってしまった上に、全く同じ言い訳までしてしまった。
「ギラちゃんとおんなじ事言ってる」
園歌は声を殺して笑っていた。紗希ちゃんの時は心配して駆け寄ったくせに。
おでこをさする僕を見て笑う妹に、先程の青ざめた顔はもうなかった。
誤字脱字等ありましたら指摘お願いします