プロローグ
なかなか異世界に行きませんが、よろしくお願いします。
和室に置かれた足の低いテーブルには、綺麗に平らげられ誇らしげな食器が並ぶ。
美味しくないときは黙って食べる。美味しいときは必ず褒める。これが僕達が決めたルールだ。
でも、あまり褒めると同じ料理が連日食卓に並ぶことがあるから、僕はどんなに美味しくても程々に褒めることにしている。
今日のおかずは美味しかったが、テレビはろくなものを放送していなかった。
夕食を終え、僕はそのまま寝転がると、テキトーにリモコンでチャンネルを変える。どこもつまらなそうな番組ばかりだ。
「お前の好きなの見ていいよ」
そう言って僕は妹にチャンネル権を委譲した。妹もいくつかチャンネルを変えるが、特に見たいものも無かったのだろう。テーブルの上の食器を重ねて立ち上がる。
妹は寝転がる僕を見下ろすと、顎をクイクイと動かし、残った食器を運ぶよう僕を促す。
顎で使うとはこのことだね。まあ本来僕の仕事だから文句は言えないけれど。
僕は黙って立ち上がると、妹の後についてキッチンへ食器を運ぶ。食事を作るのは妹の仕事で、後片付けは僕の仕事の筈なのだが僕が食べた後動き出すのが遅いせいで、じれた妹が率先して動き出すことが多い。
目の前に汚れた食器があると落ち着かないそうだ。
カチャカチャと食器の触れ合う音だけが僕達の鼓膜を揺らす。僕はテレビを見ているときは殆ど喋らないので、元来お喋り好きな妹はあまりテレビが好きではないらしい。
僕が妹の隣に立ち妹の「お手伝い」を始めると、とたんに饒舌になる。
妹の名前は平祇園歌。近所の女子高に通う高校1年生だ。両親を早くに亡くしたためか、近所では美人でしっかり者の妹として評判だが、僕の心配の種は尽きない。
美人という評判については兄としてコメントを控えるが、こうして毎日文句も言わず、僕のために食事を作ってくれるしっかり者の妹の何が心配かと言われるかもしれないんだけど、その、文句も言わず毎日食事を作ってくれる女子高生、ってのが兄としては心配なんだ。
普通文句の1つも言いたくなるんじゃないだろうか? 普通はたまにサボりたくなったりするんじゃないだろうか?
小さい頃から犬や猫を拾ってきては里親を探したり、お年玉を全部募金しちゃったり、学校でも他人の嫌がる仕事を率先してやったりと、本来誇らしく思うのが本当なのかもしれないけれど、僕としては漠然と妹の行く末が心配なのだ。
僕自身もそんな妹を、叱るべきなのか褒めるべきなのかも分からないまま、その漠然とした不安を抱え続けている。
たった一人残った僕の家族。近所の人達や職場の皆に妹を褒められると自分のことのように嬉しいけれど、このことを相談すると皆口裏を合わせたように立派だ、とか今時そんな娘はいない、とか言われてそこで話が終わってしまう。
やっぱり僕が心配しすぎなんだろうか? それに相談というより妹自慢と捉える人もいるようで、最近では他人に相談しなくなってしまった。
そんな妹が明日から修学旅行に出かける。
当然妹のお喋りはその事に終始する。
おかずは一週間分冷凍庫に入っているからチンして食べること。
洗濯と掃除は自分がいなくても毎日やること。
お土産は本当に抹茶サブレで良いのか。
僕の職場の皆にも何かお土産買って来た方が良いのか。
僕はだらしないから心配だ。
等々。全くどっちが年上なのか分からないよこれじゃあ。
そして食器も洗い終わる頃、
「お兄ちゃんは高校にも行かないで働いてるのに、私だけ修学旅行とか行っちゃって……ごめんね。ううん……ありがとう。おにいちゃん」
妹は僕ではなく、目の前の蛇口を俯いたまま見つめながらそう言った。
僕が少しだけ赤く染まった妹の横顔を見つめていると、さ、お風呂入っちゃおっと。どこかわざとらしく言うと、トタトタとお風呂場に向かった。
突然の妹の感謝の言葉にさすがに涙は溢れなかったけれど、僕は目尻が下がるのも、唇が緩むのも押えることが出来なかった。うん、気持ち悪いね、僕。
昔からそれほど仲が悪かったわけではないけど、両親がいなくなってからの僕達は以前にも増して仲良く、助け合ってきた。でもこうもはっきりとお礼を言われたことも無かったんだ。
色々心配だけど、良く出来た妹だよね。僕はこの妹を、両親に代わって幸せにしてあげたい。
僕はこのときそんな風に思ったんだ……
・・・
・・
妹がいなくても僕はきちんと朝起きて、朝ごはんを食べて仕事に行き、仕事から帰ると部屋の掃除もしたし食器も洗った。
どんなもんだい。洗濯はしていないけど、明日は必ずやるよ。
2日目のメニューもきちんとこなした。えっへん。
でもまた洗濯をしなかった。なんとなくまとめて洗った方が、経済的なんじゃないかと思ったからだ。……明日こそ洗濯しよう。
次の日も僕はいつものように携帯の目覚ましで目を覚ます。妹が修学旅行に出かけて3日目の朝だ。
いや……まて。
僕は目を開けるとすぐに異変に気付く。何か変だ、いつもの朝と違うぞ? 外はまだ暗い。朝じゃない?
それにこれは目覚ましでセットしたバーシュインじゃない。これは着信音だ。
携帯の時計を見ると午前2時。
何だっていうんだよ! やめてくれよ! 僕がいったい何をしたって言うんだ!
深夜の着信音に僕の体は小刻みに震えだす。
これはトラウマってやつなのかな?
こんな常識外れの時間に電話がかかって来ると、僕の心臓は激しく締め付けられ、抉られるような痛みを覚える。
隣に家族が寝ていれば、こんなの怖くもなんとも無いただの迷惑な電話だよ。
でも妹は今ここにいない。今は京都にいる。
暗い部屋にふと園歌の顔が浮かぶ。園歌に何かあったのではないかという思いが、僕のトラウマを加速させ胸の痛みはますます強くなり、つめたい汗が滲む。
父が死んだときも母が死んだときも、こういう常識外れの時間に連絡があった。
入院していた病院から、父は午前3時に、母は一年後の夜12過ぎに電話があった。どちらも愛する家族の死を、僕に告げる電話だった。
胸が痛い
怖い
電話に出たくない
出たくない! 出たくない! 出たくない!
止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれとまれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれとまれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれとまれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれとまれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれとまれ
コールは1分以上続いてやっと静寂を取り戻す。いつの間にか外は雨に変ったようだ。時折通る車の水しぶきを上げて走る音が静寂に響く。
しかし、僕の携帯は数秒後に着信音を第2楽章の初めからリピートする。
最早緊急の用件であることは疑いようも無い。僕は間違い電話であることを祈りながら、父さんと母さんに祈りながら震える指で通話ボタンを押す。
間違いであってくれ。頼むよ!
父さん
母さん
園歌を守ってください!
電話の向こうから聞こえてきたのは女の声だった。
『園歌さんの御家族の方ですか? 夜分遅くすいません』
僅かに震えるその声は、間違い電話という僕の望みを断ち切り、絶望的に僕の心を震え上がらせる。
僕は全身の力を振り絞って。ありったけの勇気を総動員して。
「は…い……そうです……」
……そう答えるのが精一杯だった。
僕は朝一番の電車で東京駅に向かい、新幹線で京都に向かう。
あの後電話で親戚のおじさんに事情を説明して、職場に連絡してくれるよう頼んだ。おじさんも追っ付け京都に向かうと言っていたが、とりあえず留めておいた。
だって今朝の電話が全く要領を得ないんだもん。僕が今こうして何とか平静を保っていられるのは、とりあえず最悪の予想は裏切られたからに他ならない。
園歌は死んだわけでも大怪我をしたわけでもない、って分かったという事と、僕以上にパニックになっていた女のお陰でもあるかもしれない。
電話をかけて来た女は園歌の担任の教師らしい。半分泣きながら事情を説明していたが、本人も何が起こったのか把握しきれていない様子だった。
ただ分かったことは、妹が消えたということだけだった。 いや、理解なんて出来てないよ? 僕も。
人が消えるわけが無いんだから。
でもいなくなったとも行方不明とも言わず、女教師は、消えちゃったんです。と繰り返した。
今になって考えるとその女教師は、正確に事実を僕に伝えていたんだ。
僕が勝手に、どこかで迷子にでもなっているんじゃないか、誘拐されたんじゃないか、なんて、頭の中で事実を捻じ曲げていただけだったんだ……