06:Exchange
「朝雪、何故ボロボロなんだ」
「あ、その、こ……転んでしまいまして」
朝雪 篤志は誤魔化すようにへらっと笑う。上司である戸隠 慶四郎は訝しげな目でそれを見るが、それ以上の追及はせずに本題へと戻った。
「今回の件……ターミナルの集団暴力事件だがな、おそらく大規模な戦闘になるだろう。そこで、お前達にも調査に加わって欲しい」
「相手のランクは幾つですか? 4以上だとすると、薬物兵器の使用を許可して頂きたいのですが」
「まぁ、まずはこれを見ろ。事件資料だ」
「はぁ……」
戸隠は引出しから一冊のファイルを取出して朝雪に見せる。パラパラとページを捲ると、そこにはある男性が映っている写真が数枚貼り付けられている。映っているとはいえ、それは人ごみに紛れた小さなものばかりであるが、その周囲を赤い丸で囲んであって見つけやすい。
その男はスーツを着ていた。見た目は極々普通にそこらのオフィス街にいるようなサラリーマンといった出で立ちで、表情は優しげで真面目そうな真人間という印象を朝雪は受けた。
「先のターミナルの監視カメラ、そして数件報告されている暴力事件の野次馬の中にも、コイツの姿があった。映像の中のコイツは腹立たしいほどに笑顔で、暴徒達はコイツに見向きもしない」
映像を見てみると、確かに暴徒の近くを不用心にも悠々と歩いて行くではないか。まるでその光景を観賞するように、無意味に周りをぐるぐると回ったり、時にはその間を潜り抜けてみたりもしていた。
「この写真を元に調べてみた結果、コイツが現在脱走中の№29だと判明した」
「№29って確か……」
その番号に朝雪は聞き覚えがあった。そして奴が何者であるかも、はっきりと思い出した。
それはおよそ六年前のある出来事だ。その日、一人の男性のアンコモンを保護して施設にまで護送した。彼はとても大人しく、終始にこやかな表情を崩さずに職員達と会話をしていたのだ。
最初の頃は彼は『怒りん坊』という名で呼ばれていた。彼の周囲の人間は怒りやすくなり、他人に暴力を振るうようになるという特性を持っていると『勘違い』したためである。
しかし当時はそれを疑うことなく、また彼が無意識にその特性を垂れ流していると思い込んでいた。彼自身も中々話せる男であり、当時の職員達は愚かしいことに油断していたのである。
それがあの惨劇に繋がった。
彼の特性には指向性があり、それは№29自身によってある程度コントロール出来るものだった。『誰』が『誰』を攻撃するかや、その怒りの感情の度合いすら彼の意思一つだった。
その証拠に、彼は笑っていた。職員同士の殺し合いを、まるでディナーショーの観客のようにゆったりと椅子に座って、いつの間にか持っていたスナック菓子を頬張りながらその場にいた最後の一人が力尽きるまで楽しんでいたのだ。
その日のその時に施設内にいた職員達は、その八割が死亡し、残りの二割も重症を負った。この事件をきっかけに№29はランク4に引き上げられ、いざという時には殺害することも許可された。
「生き残った職員は言ってたよ。『アイツは生かしていてはいけない部類のアンコモンだ』とな」
何故彼が大人しく施設内にまでついて来たのか。その理由を、被害者たちは理解した。
彼は愉快犯であり、正気にあって狂気を振るうという矛盾した精神を持ち合わせる、数少ない狂人の一人であった。その標的として彼らは狙われ、まんまと弄ばれたという訳だ。
「アイツにやられた職員達の為にも、我ら国家規模秘密保全団体の面子にかけても、何としてでも奴を捕らえる。朝雪、君にはその部隊の隊長をやってもらいたい」
「お、俺がですか!?」
「副隊長には吹深を選出する。それ以外の人員は、お前達で決めてくれ」
そういうと、もう話は終わりだと言わんばかりに部屋から追い出され、朝雪は途方に暮れた。彼自身、リーダーの素質は無いと自覚しており、周囲の評価も概ねその通りである。どちらかといえば指揮する側よりされる側の方が力を発揮出来る性分であり、今回の上司の指示には疑問を抱かざるを得なかった。
「どういうことだよ、もぉ……」
本来ならば吹深がリーダーを務めるのがベストだ。彼女は頭がいい。戦闘技能も申し分ないし、『奥の手』もある。例えそれを除いたとしても、少なくとも朝雪よりは指揮者としての能力は上だ。
しかし、少し考えてみれば吹深をリーダーにしなかった上司の判断も分からなくも無かった。その理由に思い当たったのはそれから数分後のことだったが、朝雪はそれに納得して、しかしそれはそれで厄介なことになったと、憂鬱な気分でとぼとぼと廊下を歩いた。
感情に振り回される人間程、死にやすいものは無い。どのようにして吹深を抑えるか。そればかりを考えていた。
もう絶対怪我なんてしない。香山がそう心に誓ったのは言うまでもない。この一日足らずで白衣の人間に対してのトラウマが量産され、軽く人間不信になりそうである。
「もしも俺が病院に行けなくなったらアイツらの所為だ」
ベッドに横たわったまま、そんな恨み言を言いたくなっても仕方のないことだ。シオンはそんな香山のベッドに頭だけを乗せてぐっすりと眠っており、軽く髪を撫でてやるとくすぐったそうに身動ぎした。
香山は部屋の奥のベッドにいるはずの吹深へと視線を移した。しかしそこに彼女はおらず、傍に設置してある小さなテーブルの上に一冊の手帳が置かれているだけだった。
香山はシオンを起こさない様にしながら立ち上がり、その手帳を手に取った。それは吹深がカフェで使っていた黒い革の装丁が成された手帳で、香山の知らない知識が記されているであろう資料だった。彼はそれに対して興味を抱き、悪いとは思いながらもこっそりとページを幾つかめくった。
開いたページには『№98』とタイトルが付けられており、その下には文章と記号の羅列が並んでいた。
「(これは……さっき書いていたページだな?)」
『食事』と書かれた横には『飲料』、『サンドイッチ』と記され、その横には両方ともにバツ印がつけられていた。そしてその様な文章が並んだその下にはこう記されている。
『№98と№98-Lの主従関係の上書きは困難。飲料(甘味)を摂取させ、与える側と与えられる側という図式を構築したが、効果は無し。№98-Lの身体にも変化が見られず、被験者から条件を調査することも現時点では不可能。よって更なる実験及び経過観察の為、№98及び№98-Lの保護が必要となる』
文脈としては、この『№98-L』とは自分の事だろうと香山はアタリを付ける。そしてその想像があながち間違いではないと、少しページを戻し、過去の記述を読み進める内に確信した。
『№98の特性についての考察は未だ想像の域を出ない。最も有力な説は、№98は他人と一種の主従関係を結び、主を守護する、もしくは主の命令に従うことで超人的な力を発揮するということだ。№98――個体名アガシオンを一時的に保護していた警察施設に問い合わせた所、部屋に取り付けられている監視カメラの映像を入手することが出来た』
その文章の下には警察施設の名称と、保護をした警察官の名前と顔写真が載っていた。間違いなくあの警察官だ。その後に続く文章から読み取ると、彼は過去にも何度かアンコモン絡みの事件に関わっており、今回も快く協力してくれたと述べられている。
『一八〇〇、状況開始。それまで大人しく座っていたアガシオンが突然立ち上がり、部屋をキョロキョロと見回し始めた』
『一八〇六、脱出。部屋から忽然と姿を消し、街のD-32に出現した。この現象より、№98が任意的もしくは条件反射的な空間転移の能力を所有している可能性が高まる』
『同時刻、№98-Lのいたコンビニにて強盗が発砲。その後三十二秒の間を置いて、アガシオンが店内へと乱入。素手での人体破壊によって強盗を撃退。№98-Lの命令によって戦闘行動を停止。両二名共に店から退出した』
この理解し難い内容を何とか飲み込みながらページを捲る。次のページには一枚の写真が貼り付けられており、そこには香山がシオンに渡した飴玉の外袋が写っていた。
『飴自体は一般市場に多く流通している一般的なものであり、袋の内側についていた残り粕の成分を分析してみても通常の商品と変わりはない。また№98-Lは一般市民であり、違法薬物や暴力団組員との接点も無く、飴玉に細工を施した可能性は極めて薄いと思われる』
『主従関係を結ぶ条件は、現時点では『彼女の世話を一定の期間行なうこと』かもしくは、『飴あるいは甘味を与えること』が有力である。最も有力なのは後者であり、現在調査中である』
香山は手帳を閉じる。そして元の場所へと置こうとして、指の力を緩めた。
「ん?」
手帳の間から何やらはみ出している。香山は躊躇することなくそれを抜き出して手に取ってみた。
それは男性の写真だった。隣には吹深が写っており、仲睦まじそうな雰囲気が伝わって来る。男は牧野が着ていたような白衣を着用しており、この施設の研究員かと予想した。
「恋人か何かか?」
見るからに実直そうな、好青年という言葉が良く似合う男性だ。年齢は香山と同じくらいで、白衣の下に拳銃のホルスターを仕込んでいる以外は普通の青年だと、香山は写真から印象を受けた。
特に目を惹いたのは彼女の――吹深の表情だった。現在のような陰も無く、幸せ一杯という風に見える。心なしか表情が柔らかく、今の彼女とは全くの別人にも思える程だ。
こうして過去と現在の変貌具合に戸惑っていると、廊下から靴音が聞こえてくる。急いで手帳に写真を挟み直し、先まで眠っていたベッドのすぐそばにまで戻った。今さっき起きたばかりの様に振る舞い、靴音の主がドアを開けるのを待った。
「やあやあ香山くん。ご機嫌いかが?」
「最悪だ。……さっきもこんなやり取りしなかったか?」
「そうだっけ? ああ、そうそう、君に朗報だよ」
牧野は相変わらず笑みを浮かべながら、へらへらとした態度で香山に告げた。彼女が言うには、彼女達の上司が香山と一度話をしたいと申し出たらしい。香山は妙な胸騒ぎに悩まされながらも、しかし断るという選択肢は存在せず、牧野に付き従ってその上司と会うしかなかった。シオンに関しては牧野曰く「眠らせておいていいよ。付いて来ても何も分かんないだろうし」との事で、このまま寝かせておいても構わないという。
このまま――ベッドに頭だけを乗せた状態――で寝かせておくのも心苦しいので、香山はシオンをベッドに寝かせ、ちゃんと布団をかけてから部屋を後にした。
エレベーターの扉の前に立つ。電光板を見ると、地上から今降りてくるのが分かる。この施設はかなり深い所にあるらしく、中々到着しない。退屈を紛らわせていた香山に、牧野が話しかけた。
「そういえば、吹深は?」
「あぁ、起きた時にはもういなかった。花摘みにでも行ったんだろう」
「ふーん。……あぁ、そうだ一つだけ言っておくね?」
エレベーターが到着する。乗り込み、扉を閉めるボタンを押して、一番奥の壁に背を向ける。そして一段といやらしい笑みを浮かべて、香山に告げた。
「盗み見は良くないなぁ。乙女の手帳をさ?」
エレベーターの扉が開き、迎えに来た職員が最初に見たのは、同僚の間でも悪名高いマッドサイエンティストである牧野に土下座をする青年の姿であった。「どうか内密に、内密に……っ」と繰り返す青年を見下ろしながら、牧野は愉悦に満ちたサディスティックな笑顔を彼に向けている。
「ま、牧野さん?」
「ん、ああゴメンゴメン楽しくなっちゃってね? ……ホラ、内緒にしておいてあげるから顔を上げなよ」
「ぐぅ……不覚だ」
香山は頭を上げる。今日はどうにもらしくないことばかりをしているような気がして、そんな自分に思わずため息が零れた。しかしやってしまったことは仕方がないので、後は吹深に嬲り殺されないためにも黙っていてもらうしかないのだ。
何名かの研究員と黒服に連れられ、大きな部屋の扉の前に立たされた。牧野はIDカードを端末に差し込んだまま網膜鍵に自分の瞳を当てると、口許で何かの符丁を囁いた。鍵が開いた音がして、重苦しい合金製の扉が音も無く横へとスライドしていく。
「牧野研究員、参上いたしました」
「ああ、ご苦労様。君は下がっていいよ。彼とは一対一で話がしたい」
牧野は香山の顔をちらりと見て薄く笑うと、「健闘を祈るよ」とだけ残して退室した。
香山は目の前の男性の顔を見据えた。男性の表情は厳つく、ライオンの鬣を連想させる立派な髭と軍艦を思わせる巨躯も相まって、厳格さと威圧感を十分に持ち合わせていた。一般人ならば縮み上がり、動けなくなるであろうほどの重圧を持つその鋭い双眸が香山を射抜いている。
「座りたまえ」
蛇に睨まれた蛙の気持ちを味わっていた香山は、その一言で我に帰る。男性――牧野曰く『上司』――の向かい側のソファに腰を下ろすと、目一杯の見栄を張る為に姿勢を正し、視線をその顔から外すことなく相手の発言を待った。
男は香山の虚勢を知ってか知らずか、その態度に感心したかのように頷き、一言「楽にしてくれ」と告げてから彼の足元に置かれた鞄に手を突っ込んだ。取出したのは一本のUSBメモリである。ストラップ部分には彼の印象にそぐわない、ウサギを模した小さな人形がぶら下がっていた。
「娘の土産でね。カワイイだろう?」
訝しげに見ていた香山の視線に気づいていたのか、彼――戸隠 慶四郎――はそう答えた。香山はそれに「ああ、そうですか」と返すのが精一杯で、再び部屋には沈黙が満ちる。戸隠はそれを気にした様子も無く、テーブルに埋め込まれた端末にメモリを差し込むと、手元の操作盤で複数のファイルを展開して眼前にホログラムとして映し出した。
「香山 冬樹。二十五歳」
それは香山に関する書類だった。名前や性別はもちろん、過去の遍歴が事細かに記されている。しかし香山はそれに驚いた様子はない。寧ろ「その位はするだろうな」という一種の達観や諦観にも似た感情をもって、戸隠の読み上げる内容に誤解が無いかどうかにのみ精神を集中していた。
「実家は古武術の道場を経営しており、本人も有段者である。道場の経営を継ぐ予定だったが、しかし五年前に突然上京。フリーターとして生計を立てている。……ここまでは合ってるかい?」
香山は頷き、肯定の意を表す。
「そしてこの五年前のことだが、君は何処まで知っていたのかな?」
「どこまで?」
「そう、あの事故が何故起きたのか。そして、『彼女』が何者だったのか」
香山はばね仕掛けの人形のように跳び上がり、テーブルに掌を叩きつけて前につんのめる。衝撃でホログラム状のディスプレイにノイズが奔り、一瞬だがざりざりと雑音をかき鳴らしてから元に戻る。
「知っているのか、アイツの事を」
「もちろん知っている。彼女の事は残念だった。早期発見が出来なかったことが悔やまれるよ」
「事故と言ったな。どういう――」
戸隠は香山の頭ほどの大きさの掌でその先を制した。言いたいことはまだあったが、香山はそれ以上の無謀を冒すことは無く、素直にその制止に従った。
「アンコモンに関する情報は秘匿されなければならない。彼、彼女らが善悪のどちらに属するのであれ、それらが軍勢を成し、大地を侵略することは阻止されなければならないからだ」
ディスプレイが光り、正三角形を組み合わせた図形の中心に瞳が描かれたエンブレムが映し出される。その上を横切るように『N.S.P.O』とロゴが立体的に浮き出て、金属的な光沢を演出した。
「我ら国家規模秘密保全団体は、おいそれとその情報を外部に受け渡してはならない。それは赤ん坊に抜身の日本刀を預けるに等しい愚行であり、もし知ってしまったならばそれを対処しなければならない」
「だが」と戸隠は続ける。
「我々の監視下に自らを置き、その出来る限りの力を以て貢献するとなれば話は別だ」
鞄から一枚の紙を取出す。そこには契約書と銘打たれており、下にはつらつらと文章が並んでいた。その内容を要約すると以下のようになる。
『以下の者はこれより国家規模秘密保全団体――以下NSPOと記述――の一切の活動に従事する事』
『NSPO及びアンコモンに関する一切の情報は秘匿されなければならず、職員は一人の例外も無くその責任と義務を負う』
『これが守られなかった場合、身の安全は保障出来ない』
その下には名前と実印の欄が書かれている。
要するに、自分達に従う代わりに情報を閲覧する権利を与えるということだ。戸隠は続けてこうも言った。
「君の知りたい情報は、実はそれほど高いセキュリティのものではない。職員ならばほんの少しの段取りさえ踏めば閲覧出来る程度のものでしかない。……それに」
気難しそうな顔を更に顰め、ソファに背をもたれて溜息を吐いた。気が進まない様子で一拍置いてから、渋々と話を続ける。
「そもそも君には選択肢が残されていない。№98に関わり、リンクを張られた時点で君に残された選択肢は二つに一つだ」
デッドオアアライブ。つまりは、そう言う事だろう。
「とはいえ、日常に戻すことももちろん可能だ。四六時中監視が付き、必要とあらば殺害も視野に入れるということが有り得るがね。記憶処理を行なうことも可能だ。その場合も処理を行なわなかった時とは変わりはない。ただ死ぬ心当たりが消失するだけだ」
「……もしも、これに従ったら?」
「君は№98の主人として保護されることになる。扱いとしては職員兼モルモットといった所だな。仕事内容は彼女の世話及び、有事の際に№98を戦線に導入する場合の制御役だ。彼女の力は主人さえ此方側に居ればかなりの戦力になる上、本人には此方に敵対する意思はない。要するに『主人の敵の敵』という立ち位置なのさ、彼女は」
香山がNSPOの味方である以上、シオンがNSPOの敵に回ることはない。逆に香山が敵に回ればシオンもそれに付き従うだろう。それは両方ともに避けなければならない。どちらに対しても、それは望ましいことでは決してないのだから。
「№98との契約を破棄する方法が見つかるかもしれない。そうすれば君は晴れて自由の身だ。記憶を処理して元に戻す。生活にも困らない様に配慮しよう。それなりの就職口を斡旋するし、周囲の人間関係も修復しよう。無論、職員として働く間も給料は払う。週休二日で、残業代も出るし福利厚生も整えている。それに……」
「そんなに」
香山が口を挿んだ。顔を伏せ、両手の指を股の間で組み合わせたまま口だけを動かす。その表情を見ることが出来たのならば、鉄仮面のような冷たく凍りついた顔で、その双眸には昏い闇を垣間見ることが出来ただろう。
「そんなに、俺達を引き入れたいのか」
「香山君」
「何で、逃げさせてくれないんだ」
沈黙が場を支配する。ピンと空気が引き締まり、些細な音すらもその場には存在しない。
それを割るように戸隠の声が響いた。そこに先程まで感じていた威圧感は無い。静かに、しかしはっきりと耳元に響くのが香山にも分かった。
「彼女のことは本当に申し訳ないと思っている。もう少し早く保護出来ていれば、対策も立てられ、その若い命を散らさずに済んだだろう。そして、君が、五年前の君がそこまでのトラウマを背負うことも無かっただろう」
香山は俯いたまま動かない。戸隠は淡々と語り続ける。
「しかし、だ。それを償うには我々では足りないのだ。死人の時を戻すことも、その痛ましい記憶を無かったことにすることも私達にはまだ出来ない。記憶を消しても心に強く残ったトラウマは消えず、一生涯、君に付き纏うだろう。そしてふとした時に思い出すだろう」
戸隠は一枚のカードを取り出し、テーブルの上にそっと置いた。それは牧野や吹深が持っていたIDカードと同じもので、表面には香山の名前が印字されていた。
「厚かましいと思ってくれて構わない。君は余計なお世話だと思うだろう。だが、我々に出来るのは、君が君自身で死の恐怖を克服出来るように、その場を作って与えることだけだ」
香山は顔を上げ、胡乱な目でカードを見つめた。「まるで地獄への片道切符のようだ」などと頭の中で呟き、そして――それを受け取った。
「ありがとう」
戸隠はただただ感謝の念を籠め、深く頭を下げる。香山は居心地が悪そうに頭を掻くが、この状況から抜け出すために話を切り出した。
「……で、俺は何をすればいいんでしょうか」
「先程も言ったとおり、基本的には№98の身の回りの世話だ。外に出たい時は最低二名の記憶処理及びランク2装備の職員を同行させ、二名以上の担当研究員の許可をとること。現時点では超人的身体能力の発現しか無いとはいえ、これから新たな性質が発露しないとも限らん。彼女の移動能力を封じる手立てが無い以上、絶対に守ってくれ」
「了解です」
そう言うと香山は立ち上がり、部屋の出口へと歩いた。扉が開き、向かい側の壁には牧野が腕を組んで寄りかかっているのが見える。その傍にはシオンが連れられており、香山の姿を見止めると子犬のように駆け寄ってきた。
「話は終わった?」
「ああ」
香山はIDカードを牧野に見せる。すると牧野は「ふぅん?」と言葉を零し、それから悪戯っ子のような笑みを浮かべて振り返った。後ろ手に手招きをして、エレベーターへと歩いて行く。
「シオン」
「はい、なんでしょうか」
牧野の後に続きながら、香山はシオンに言葉をかける。シオンはきょとんとした表情で香山を見上げると、次の言葉をただ待った。瞳には無垢の光が宿っており、疑念や邪念とは無縁の、忠実な従者としての彼女だけがいた。
「これからお前と暮らすに当たって、幾つか言っておかなければならないことがある」
「はい」
「生活の中で、俺に関わらない所で判断を迫られることもあるだろう。メシを食ったり、眠ったり、服を着替えたり――そういう欲求に関しては自分で判断しろ。それが間違っている場合は俺が注意するから、それはちゃんと聞くこと」
「……?」
それはごく当たり前の、子供が成長するために必要な、自立の心を育てるためのものだ。シオンは怪物であると同時に、見た目相応の人間であるべきだ。香山はそう思った。
彼女には親が必要なのだ。親が無くとも子は育つとよく言うが、それは自分で考え、自分で意思決定できる子供に限った話だろう。少なくともこの子には、彼女を叱り、彼女の道しるべとなり、彼女を受け入れる『誰か』が必要だ。シオンの世話係になったからには、香山はその『誰か』になるべきだと判断したのだ。
「分かったか? 分かったなら返事だ」
「――はい」
「よし、いい子だ」
「着いたよ、ここがシオンの部屋だ。その隣が香山くんの部屋だね」
牧野はそう告げると、香山に部屋の開閉方法や食事の時間に関して等、最低限のことを教えて、さっさと引き返してしまった。あくびをしながら歩いていったところから見ると、どうやら相当眠かったらしい。仮眠室と書かれたプレートの矢印が差す方へと、これっぽっちも迷わずに向かっていった。
シオンの部屋は香山のIDで開錠されるようになっている――不用心にも思えるが、これは彼女の性質上、物理的な鍵は意味が無いからである――。部屋の中にはシンプルな調度品の数々が配置されていて、一般的な家電や化粧品、置き薬の類も完備されていた。
「へぇ、いい部屋じゃないか」
香山はそう言うと、自分の部屋の鍵を開ける。こちらも香山のIDで開錠されるようになっており、内部の構造にもさして変わりはない。男性用ということで化粧品が無く、その代わりに少しベッドのサイズが大きめになっている。
「シオン、何か用がある場合は内線で俺の部屋の固定電話に掛ける事。番号はチェストの上に置いてあるから、それを見るんだ。食事の時間になったら声をかけるから、なるべく静かにしてるんだぞ」
「了解しました」
シオンが部屋に入り、ドアを閉める。すると自動的に端末のランプが赤く光り、錠の落ちた音が聞こえた。それを確認すると、香山は自分の部屋に入って扉を閉めた。
アパートの私物は来週にでも運ばれるらしく、それまではこの部屋に備え付けられた物品で生活してくれという事だった。しかし流石国の施設といった所だろうか。歯ブラシ一本とっても、自分がアパートで使っていたものよりも遥かに質がいい。家電は当然の如く最新式で、ベッドも手触りが良く、上質な素材であることが素人目にも分かる。
「……別に廃棄してもらってもいいんだけどな」
別段思い入れがあるわけでもない。歯ブラシは百均で買った物だし、テレビも冷蔵庫も時計も、買い換えるタイミングがつかめずに旧型を使っていただけだ。どちらかと言えば布団派だが、ベッドでも問題なく眠れるだろう。
香山はそんなどうでもいいことを考えながら、ベッドに寝転んだ。色々なことがあり過ぎて、何もかも現実味が無く、頭の中は混乱している。混沌とした香山の頭は、しかし二つの事柄をはっきりと認識していた。
これまでの日常は崩れたという事。そして、今、自分は新たな人生を歩もうとしているという事だ。
「(取りあえず眠ろう。……疲れた)」
香山は微睡み、意識の暗闇へと落ちていく。目蓋が落ちる直前、何かの影を目端に捕らえた気がした。