02:Daily_End
冷蔵庫には大した物は入っていなかったが、簡単な炒め物位ならば作るのに十分だった。消費期限ギリギリのもやしと少しだけ余っていた豚肉をフライパンで炒め、塩コショウで簡単に味付けする。保存食用のご飯を二食分温め、茶碗と皿に盛った。
「……?」
彼女――アガシオン――は不思議そうな目でそれを見ていた。香山はさして特別な料理を振る舞った訳では無い。確かに多少繊細さには欠ける、所謂男の料理だが、もやし炒め自体はそうそう珍しいものでは無く、一般庶民なら一度は食べたことがあるであろう料理だ。
しかし少女は、それを横から見たり真上から見たり、皿に触ってみたり臭いを嗅いだりしていた。未知のものに接する野生動物の様な挙動に香山は戸惑ったが、表面上は平静を装いながら取り皿や醤油差しを食卓へと運び込む。
「(何なんだ、この子は)」
もやし炒めを目にする機会の無いほどの上流階級か? いや、それにしては動作が洗練されてない。よくは知らないが、そういう子供は小さい頃からそれなりの教育をされるものではないのか。いや、あくまで想像なのだが。
「いただきます」
「……」
彼女は料理を前に、じっと正座をしたままそれを見つめていた。香山はそれを訝しげに見て、しかし自分の空腹を解消するために箸をとって食べ始めた。時刻はもう八時を過ぎ、普段ならばもう食べ終えている時間だ。それは腹も減るというものだ。
少女は動かず、じっと目の前の料理を見つめている。食べ方が分からない、という事は無いだろう。もしかして嫌いなものがあっただろうか。肉は駄目だったか? と心配になって声をかけようとした時だ。
ぐぅ
「……」
「……」
小さく腹の音が聞こえて来た。どうやら空腹なのは彼女も同じらしい。
香山はもやし炒めを皿に取って、目の前に置いた。アガシオンは明らかにその皿を眼で追っており、しかし何処かで堪えるように身体を強張らせていた。
香山は一つ、嫌な仮説に行き当たった。しかし現状を説明するにはこれか、若しくは彼女が食事を摂らない生命体であるかのどちらかだろう。
「あー、食っていいぞ?」
「はい、御主人」
香山が許可を出すと、彼女も箸を手に取って食べ始めた。やはりだ、この子はこの子自身の『御主人』の許可が無ければ食事を摂ることも出来ない。そう思い込んでいる。先程の彼女の様子がお預けを喰らった犬のそれに酷似していたために思い当たったのだが、どうやら当たりだったようだ。
しかし、これは由々しき事態である。彼女はこれまでにそういう風に躾けられてきたという可能性が出て来た。子供をペットの様に扱う親というのは、悲しいことだが存在し得るのだ。もしかしたら虐待から逃げ延びて来て、自分の部屋の前までたどり着いた所で力尽きたのかもしれない、と香山は絶望的な仮説を立てる。
そして香山はその流れで、あえて目を逸らしてきた事実に関して思考を始める。
彼女の怪力や超人的な身体能力に関して、どのように説明付ければいいのだろうか。それだけでなく、どうやって彼女は自分の『御主人』の場所を特定し、警察署からやってきたのだろうか。
「そうだ、警察」
あの警察官達は、『こちらで保護をする』と言っていたはずだ。だというのにこのザマである。しかしこのような年端もいかぬ子供が無断で出て行けるほど警備が緩い筈がない。至極真っ当な組織であるならば。
香山は、明日にでも警察署に行って確認をとることにした。本来は今日の内に連絡を取るべきなのだろうが、胃も満たされ、この激動の一日によってもたらされた多大な疲労感もあって、彼の頭は全く働かなくなっていた。端的に言おう、眠いのである。途轍もなく眠いのである。
幸い明日はバイトのシフトは入っていない。どうせもう署内に人はいないだろうと勝手に結論をつけ、この夜中に呼びつけるのも気が引けると言い訳をしてから眠る準備をし始めた。
「布団……あーあのままだから泥付いてら。シャワーは、まぁ浴びてから寝るか」
そして後はアガシオンの寝床をどうするかを考えるのみとなったが、しかしこれが難題であった。子供を放って自分は布団で寝るというのは中々に外道である、とはいえ布団は一組しか無く、また二人分のスペースも無い。あとは硬い床で背中を痛めつけながら眠るという拷問マゾヒストコースしか残っておらず、彼は途方に暮れた。
「押入れ……いけるか?」
何がいけるのか彼自身もよく分からないまま時間は過ぎ、壁掛け時計は十一時を示していた。カーテンの隙間から見える外には都会の暗闇が広がっており、その中にぽつぽつと人口の灯りが夜空の星々の如く瞬いている。
アガシオンは満腹になったのか、眠たげな様子で、しかし決して眠らない様に目蓋に力を入れ続けている。香山は今夜の寝床を確保しようと、座布団を何枚か押入れの中の狭いスペースに押し込めて、布団代わりにしようと工夫を凝らしていた。
「なあ、アガシオン」
「何でしょうか、御主人」
「シャワー、一人で浴びれるよな?」
「御命令とあらば」
駄目だ、会話が成り立っていない。これを命令と捉えるとなると、他の日常的な事柄も全て命令無しでは行なわないつもりだろうか。最低でも生理的欲求に関することは自分で判断してもらいたいのだが。
「……よし、なら命令だ。これからお前は自由の身だ。自分で判断して、自分で行動しろ」
「そのオーダーは受け付けません」
「何で」
「現在の御主人は貴方だからです。自由の身になることは出来ません」
どうやらこの少女は相当頑固なようだ。ここまで来ると病的というか、狂気に近いものを感じる。その目は真剣そのもので、香山はほんの少し背筋が寒くなった。先程シャワーを浴びてこいと命令しなくて正解だった。これでは『浴びるのを止めろ』と命じない限り永遠に風呂に居座りかねない。
「……分かった。だが、最低限の生理的なことに関しては自分で判断しろ。風呂とか、トイレとか。これは命令だ、いいな?」
「了解」
そう言うと少女は立ち上がり、備え付けのユニットバスへと歩いて行った。香山はどっと疲れた様子で座り込むと、そのまま床に転がり込んで目を閉じた。体力の限界である。
「あぁ、シャワー、い……いか明日で……」
せっかく作った寝床に入ることなく、香山は深い眠りに就いた。
目を覚ます。痛み、軋む背中を伸ばし、首をこきこきと鳴らしてから暫く項垂れる。寝不足の脳を何とか働かせ、痺れた足を顔を顰めながら動かして立ち上がろうとした。
こつ、と背中に何かの重みを感じ、そちらを見る。アガシオンがもたれ掛り、香山以上に眠たげな目で彼を見上げていた。
「おはよう」
「おはようございます御主人」
素直に返事が返ってきて一安心だ。御主人という呼称は中々慣れず、むず痒いが。
「呼び方、変えないか? 御主人ってのはどうも気恥ずかしい」
「……?」
意味が解らないという顔をされた。彼女にとってはそれが普通の事なのだろうが、流石に外で人に聞かれた時のことを考えると変えてもらった方が無難である。このままでは『年端もいかない少女を手籠めにして御主人と呼ばせている』という根も葉もない噂が広がるのも時間の問題だろう。誤解で臭い飯を食うことになるのは御免だ。
「じゃあ、香山……さんでどうだ?」
「御命令とあらば構いませんが」
これはこれで気恥ずかしいが、御主人呼びよりはマシだろう。少なくとも警察を呼ばれる心配はなさそうだ。
「(ま、これから警察行くんだけどな)」
昨日この子を保護した警察官に一言文句を言ってやろう。そしてその後何があったのか、根掘り葉掘り訊いてやろう。そして可能ならば改めてこの子の保護をお願いしよう。少なくともこのまま自分の元に置いておくよりは、お互いの為になるはずだ。と香山は思った。それは半分は本心であるが、もう半分はこれ以上変なことに巻き込まれるのは御免だという厄介払いの気持ちもあった。
「ごしゅ……香山さん?」
「ん、ああ。取りあえずメシだな」
とはいえ冷蔵庫の中は空っぽだ。出費がかさむが、ここはどこかで食材を確保しなければなるまい。香山は財布残高を確かめると、ジーンズのポケットに捻じ込んだ。
「あ、そういえば」
そう零すと、香山はアガシオンの方を見る。彼女は相変わらずの手術用ガウンで、このまま外に連れ出すのは憚られた。部屋の隅にあるチェストからアガシオンでも着れるサイズの服を探した。が、男一人暮らしの部屋に子供用の服があるはずがなく、彼自身そんなに服を買わないので枚数自体が少ない。
「まぁ、今はこれで我慢しろ」
引出しの中からジャージを一着取出した。洗濯で失敗して少し縮んでしまったものだが、彼女には丁度いいだろう。少しゆったり目で、寧ろ楽かもしれない。
「これは?」
「あ? ジャージも見たことないか?」
「はい」
「……一応聞くが、服の着方は流石に分かるよな?」
「はい、分かります」
これでわかりませんなんて返ってきた日にはどうしようかと思った。などと一安心したのもつかの間、アガシオンは何を思ったのかその場でおもむろにガウンを脱ぎ始める。これには流石の香山も予想外だったようで、制止するタイミングを完全に失ってしまった。
「オイ」
「何でしょうか?」
「着替えはなるべく人の目の無い所でやれ」
「……? はい、了解致しました」
この年頃ならば、子供とはいえ羞恥心が芽生えているはずだ。実家の道場に通っていた子供達にも、人前で着替えをしないくらいの分別はあった。しかしこの子にはそういうものがまるで感じられない。最早無知や無垢で片付けるには限度があるだろう。
注意すると彼女はジャージを持ったままユニットバスへと向かう。あちらで着替えるのかと香山は安心し、そして自分が昨日今日とシャワーを浴びていないことに今更ながら気付いた。秋の入りで残暑も散ってきた頃だが、流石に臭いが気になる。
「(アイツが出てきたら少し待ってもらうか)」
軽く汗を洗い流して身体を拭くだけでも違うだろう。バスタオルと着替えを引出しから取り出すと、何の気も無しにカーテンの隙間に視線がいった。
カーテンを開け、外を見る。何となく下の道路に目をやった。何時も通りの何の変わりも無い住宅街がある。そのはずだった。
「(あ?)」
この近所では見かけたことの無い、白いワンボックスカーが停まっていた。それだけならまだいい。ワンボックスカー自体は珍しいものではないし、何処の誰がどのような車に乗っていたとして、香山には何の問題も無い。
しかし、遠目に見ても分かる通り、窓は全面マジックミラー。ナンバープレートは泥に塗れていて確認が困難で、まるで番号を隠すためにわざと泥を塗っている様にも思える。香山がその車を観察していると、エンジンをかけて何処かへと走っていってしまった。
怪しい。これは早めに警察に引き渡した方がいいかもしれない。自意識過剰かもしれないが、どうしても昨日のアガシオンの一件とあの車の関連性を疑わずにはいられなかった。
ピンポーン
インターフォンが鳴った。香山は先のことも有り、恐る恐るドアーアイを覗く。そこには一人の女性がおり、上から下まで真っ黒のスーツを着ていた。まるで映画に出てくるブラックメンのようにも見え、香山自身の妄想は確信に変わっていった。
「すみません、役所の者ですが――」
追い詰められた人間がどのような愚行に及ぶかは想像しやすい。破れかぶれになって障害を排除しようとするか、若しくはその場から逃げ出すかのどちらかだ。
そして香山は後者だった。ここで保護してもらった方がいいと彼の冷静な部分が叫ぶ一方、捕まった後に何をされるか分からないという恐怖が香山の頭を支配していた。映画では記憶を消去されて終わりだが、現実はどうだろうか。記憶の改竄がうまくいかないかもしれない。効き目に個人差があるかもしれない。ならばどうするのが最も簡単で効果的か。
殺害。それが一番堅実だ。このご時世、強盗に運悪く遭遇して殺されるなんて珍しくもなんともない。財布でも持ち出して燃やせば完璧だ。金目当ての犯行とされ、その金も何処からも発見されない。
がしゃがしゃとドアを開けようとする音が聞こえる。鍵は普段からかけていたので簡単には入れまい。
しかし、それが暫く続いた後に、少しだけ静かになった。代わりにドアの鍵穴から、次のような音が聞こえてくる。
カチャ……カチャカチャ……
「(げっ)」
思い浮かんだのは、鍵穴に針金を通してピッキングを試みている女性の図である。時代遅れのアナログ鍵がこんな所で裏目に出るとは思いもしなかった。
「クソッ……!!」
香山はユニットバスへ走り、勢いよくドアを開けた。下着姿のアガシオンは少し驚いた様子で香山を見ると、もそもそとジャージを着込みながら、酷く慌てた様子で突然風呂場のドアを開けた男に問うた。
「どうしたのですか、香山さん」
この様子だと表の異変には気付いていないようだ。しかし説明している時間も惜しく、また説明したとして現在の香山のテンパり具合では伝わるかどうかも怪しい所だ。
なので彼はただ一言、真剣な声色で言う。
「逃げるぞ」
ドアが乱暴に開け放たれた音がする。バタバタと数人の人間の足音が聞こえ、それが二、三人分になった所で音が止んだ。そこからは周囲を警戒してか、足音は統制されたように静かになってじりじりと香山達の方向へと近付いているように聞こえた。
「くそっ」
「逃げる、ですか?」
「ああ、そうだ。ピッキングなんて手を使う奴らがマトモなはずがねぇ。逃げるのが……」
言い終わらない所で、ドンと音がした。その音は香山の背後の、アガシオンのいる方から聞こえた。
「オイ、何を」
「りゃ」
力の抜けるような掛け声と共に、ユニットバスと外を隔てる壁が彼女の拳によって取り払われた。コンクリートとタイルで出来た、とてもではないが脆いとは言えないくらいの強度はある、一般的な家の壁だ。それがまるで発泡スチロールのようにいともたやすく砕かれ、階下へその残骸をぼろぼろと零している。
「どうしました?」
「いや、何でもない」
香山は色々と諦めた顔で、スリッパのまま外へと跳び下りた。背の低い雑木をクッション代わりにして着地し、アガシオンがいることを確認してから走り出した。
向かう先は、あの警察署。何かの手がかりがそこにあると、彼の直感は告げていた。