第六十八話・半:逃げ道の先に道は無く、そして君は立ち止る
第六十八話・半:逃げ道の先に道は無く、そして君は立ち止る
「広告媒体のチェックは!」
「資料足りないんじゃないですかこれ!」
「リーダー、追加の予算はどこから引っ張って来たんですか? 出所がはっきりしないと役所が文句を……」
「サポート妖精でサボってるやついるんですけど!」
「役所はこっちで対応するから! 製品版の在庫のチェックして!」
安い雑居ビルの一室のような、くたびれた内装のだだっ広い部屋の中は慌ただしい空気で満ち満ちていた。
【Under Ground Online】運営本部、と形だけ看板を掲げたその部屋の中で、実質的リーダーである陵真は難しい顔で次から次へと書類に目を通していく。
「琥珀さんに連絡は?」
傍に来た所員に顔も上げずにそう問えば、とっくに連絡しましたと返事があった。続けて、問題ないそうです、と言葉が続き、陵真は緩やかに安堵の息を吐く。
「琥珀さんさえ押さえておけば、後はいくらでもどうにかなる」
緊張に乾く唇を舐めて湿らせ、陵真は逸る心を抑えながら次々と書類を捲る。秘書のような立ち位置にいる祐が新たな書類を手に隣に座り、焦りを抑えきれない陵真を見る。
「焦るほどの圧力が?」
「焦るほどの圧力をかけられたと気が付いた時にはもう遅いんだ。潰される前に簡単に手が出せないようにするべきなんだ」
ばさばさと書類を捲る手が止まり、陵真がふと瞬きさえ止めて動かなくなる。その瞳だけが落ち着きなく揺れていて、焦りと不安がその奥に掠めていく。
「落ち着きなよ、リーダー」
悪い癖だよ、と陵真を窘める声は聞こえないようで、忙しなく動く瞳の奥に理解の色。不安と想像が線を結び、明確な脅威が陵真の脳裏に描き出される。
様々なパターンを次々と思い浮かべ、打ち消しては最善の道を探して指先が机を叩いた。小刻みのそれが爪を割るほどの強さになる前に祐がその手首をがっしりと掴み、異変に気が付いた所員の一人、沢渡 准が唇を噛み切る前にハンカチを巻いた指で陵真の口をこじ開ける。
「ちょいちょいちょい! いつもよりヤバいやん!」
「お前も煩いよ沢渡。良いからそのまま抑えてて。蓮! 水出して!」
准が慌てて陵真の頭を抑えるが、陵真は半分正気を失っているような様子で、そんなことを気にも留めない。祐が声をかけた男は嫌そうに顔をしかめ、ぶつくさと文句を言いながらも片手を上げる動作をとった。
「あのねぇ……いつもいつも、水! とか、お湯! とか。僕はポットじゃないんですよ?」
不満の声と共にぱちり、と高らかに指が鳴らされ、突如不可思議な現象が現れる。陵真の上に一瞬で水塊が浮かべられ、祐と准がさっと離れると同時に頭から陵真に叩き付けられる。
冷たい水を頭から浴びた陵真はまたぴたりと動きを止めて、目を見開いたまま天井を仰ぎ見た。呆然としたまま、半開きの唇からは感嘆の声が漏れる。
「あぁ、そうだ。そうしよう……」
薄らと笑みを浮かべる陵真は、満足そうに頷いて、またぶつぶつと何事かを呟き始める。祐と准は目を見合わせ、互いに肩を竦めながら溜息を一つ。
「……またなんか、面倒そうなこと思いついたっぽいんやけど」
「正気に戻ったならいいでしょ」
「ねぇ、僕のこと無視しないで下さいよ。僕のことなんだと思ってるんですか、ねぇ」
まぁ、確かにそれで十分だけどと二人は頷くが、水を出現させて陵真の暴走に文字通り水を差した張本人は、文句ありげに再びぱっちん、と指を鳴らす。
指を鳴らすだけで一瞬にして水を出現させた男、蓮は不服そうに二人の前に一瞬で現れた。テレポートとか心臓に悪いやん……と呻く准を睨み、男はちょうどいい長さの黒髪を揺らしながら眉を潜める。
「僕のこと舐めてません?」
「黙れよ、琥珀ジュニア」
「期待してるで、バックアップ!」
祐は罵倒を、准は親指を立てながら片目を瞑って高らかに言う。琥珀ジュニアと呼ばれた男はぐっとその秀麗な顔を歪め、腹立たしいというように唇をへの字に曲げる。
「僕に対する当たり強くないですか? バックアップの機嫌を取らないとか、何考えてるんですか」
「俺達と蓮の仲だろぉ? おお、友よー」
「そもそもお前が琥珀さんくらい容量があれば問題なかったんだよ」
「だってそりゃ、貴方達が非常識なんでしょ? あんぐらの総データ量舐めてるでしょう? もう別次元に繋いだ方が楽だってくらい、目一杯夢と希望とやらを詰め込んだくせに」
あれやこれやと無茶を言って、と唸る蓮に、准は恐ろしいものを見るような目を向けながらそれじゃ困るだろうと苦言を呈する。
「別次元だと死んだときどうするん。それもうゲームじゃないやん。本物の異世界トリップや」
「だから、異世界を複製するより、異世界に放り込む方が楽なんですってば」
「だからそれだとゲームにならないだろ? な?」
「だからってそんな無茶な要求しておいて、父さんより容量が少ない、役立たずと罵ったことを僕は忘れてないんですよ」
「事実でしょ」
「そうや。なんだあと一歩足りないって。おかげで俺等はソロモンの刺客に狙われまくったわっ」
あんだけ頭下げといて闇討ちとか割に合わないとぼやく准が首を鳴らし、それでも納得いかないという様子で蓮は唇を尖らせる。甘いマスクでそんなことをしても、ここにはその美貌に反応してくれる者はいない。
表向きは貿易会社、裏では化物の非合法な集団であるソロモン貿易社から、一体どれだけ圧力をかけられたか、と嘆く二人は、大切なバックアップである筈の蓮に対して然程優しい態度は示さない。
「せやからな? 蓮、お前にはボディーガードとして期待してんねん」
「その似非な喋り方やめたらどうです? 東の出の癖に」
「気分だからええの! これだからお坊ちゃんが!」
「お坊ちゃん関係ないでしょう! 確かに准なんかより経済力豊かな環境で育ちましたけど、数年間の苦楽を共にした仲じゃないですか」
「お前は苦の時だけいなかったやろ!」
楽の時しかいなかったくせに! と叫ぶ准に、余程のことが無いと力は使うなって言われてたんだから仕方ないじゃないですか、と負けじと蓮も叫び返す。
不毛な言い争いを無視して祐が准の首根っこを掴んで黙らせ、蓮に冷めた視線を送りながら床の水を片付けろと命令する。
こき使って、とぶつぶつ言いながらも指ぱっちんで全てを片付け、何事も無かったように全てを元に戻した男は、鳶色の瞳をすぅと細める。
「陵真はあれで、まともな状態なんですか?」
横目に見る先にはぼそぼそと何事かを呟き続ける陵真がいて、その普通とはいえないような状態に蓮は心配そうにぎゅううと目を細める。
「だいぶまともだよ。昨日よりはね」
「青年期の頃からエキセントリックになっていく傾向はありましたけど、歳とって悪化してるじゃないですか」
いいんですか、と囁く蓮に、祐は諦めたように首を振る。
「悪いものをね、見過ぎたんだよ。陵真は」
「悪いものですか……」
例えば? と言外に言う蓮に、祐はほんの少しだけ嘲るような声を出した。しかしそれでも、小さな悲しみを乗せて囁くようにそっと告げる。
「陵真は【Under Ground Online】を人生の余白と称したけど――」
正しくは、ただの袋小路だと祐は言った。蓮の問いを無視し、答える気は無いと顔を背ける。ぶつぶつと呟く陵真の肩を祐が叩けば、陵真は揺れる瞳を見開いた。
「――決めた」
「……何を?」
いつか破綻するのをわかっていても、それでも止めない慈父のような眼差しで、祐が震えを止めた陵真を見る。
「全員聞け!」
突如、立ち上がって両手を広げ、爛々と瞳を輝かせる代表に所員たちが視線を向ける。集まった視線の中、陵真は高らかに宣言する。
「――ゲーム内時間でこれより約8日後! 黄麗の伍月より、【Under Ground Online】正規サービスを開始する! 総員、疾く準備を!」
陵真の力強い声に、困惑した空気は一瞬で霧散し、所員たちは威勢のいい返事を返す。祐は慈しむような、惜しむような表情のまま。准は黙して何も語らず、蓮は一人、親譲りの鵄色の瞳を曇らせた。
陵真の座る椅子の背凭れを白くなるほど強く掴み、祐の唇がゆっくりと動いた。
「今はまだ――道よ続け」
祈りの言葉が、ふらりと消えた。
立ち止ったその先に、どんな景色が見えるだろうか




