第三十八話:水上カンパネラ
第三十八話:水上カンパネラ
濁流、とは正しい表現ではなく、正しくは水柱というべきか。
地より湧き出た大量の水は空を目指し、小高い岩場の上にいてもなお、見上げるほど高くに吹き上がる。
月の光に照らされて、星屑のように散る水滴が黄金に輝き、夜空に一瞬の彩りを添えて消えていく。
呆然と見上げる先で、吹き上がった大量の水が巨大な水塊として滞留し、こぶのように巨大化していく。まだ大きい、もっと大きい。膨れ上がる水塊はその規模を増していき、それをじっと見つめる陸鰐と、プレイヤー達の唖然とした顔。
円形に肥大化するその水の塊は、土星の輪のように中心部から水の膜を展開していき、空には一面の水の平原が出来上がる。
どういう原理なのかはわからないが、ただの水ではないのだろう。重力に従って落ちてこないのもどうかと思うが、何かしら理屈があるのは確かだ。
幻想的とも言える風景。水の膜を隔てた月が朧月のようにふらふらと揺れ、透明度の高い液体がきらきらと光っている。
水が吹き上がった際にびしょぬれになったプレイヤー達は一様に口をぽかんと開き、水の平原から降ってくる雨のような水滴に頬を打たれ、その手に持った得物でさえもだらりと意味も無く垂れ下がる。
「……なんだ、あれ」
と、ぽそりと呟いた男の声に、連鎖するように他のプレイヤー達も溜息のような吐息を零す。ささやかだが、気を静めるための無意識の呼吸。そんな小さな吐息が散る前に、じっと水塊を見つめていた陸鰐が動き出す。
ぎょっとして身を固くするプレイヤー達を一切無視し、隻眼の大鰐がその尾をくゆらせ、四肢をたわめ、力を溜めるように身構える。
「……ギリー、あれは何」
『――天然のセーフティーエリアが消えた』
「ん?」
『竜脈に傷が……竜穴に穴が開いた、魔素が溢れ出している』
「……竜脈?」
『わかりやすく言うのなら地脈のようなものだ。竜穴はいわばパワースポットの概念に近い。魔素……だけではないのだが、世界中を魔素が血液のように巡っている。それを竜脈といい、所々に出来る魔素溜りを、竜穴と呼ぶ』
ぽつり、ぽつりと。降り注ぐ雨は小雨から豪雨へと急激に様相を変え、僅かに陥没した町に降ってくる。陸鰐の攻撃と、水流によって砕け散った石畳の上に小さな雨粒が落ちていき、未だ緩やかに湧き出している水と合わさり、見る間にその嵩を増していく。
頬に掠める雨粒を乱暴に手の甲で拭い、ぐっと目を細め遠くの陸鰐にピントを合わせる。いつ動くか、その狙いは何となくわかるが、それが成功するかどうかは定かではない。
「……竜穴、ねぇ。それとセーフティーエリアはある意味連動しているわけだ」
『そうだ。竜穴は魔素溜り。空気中の魔素を引きつけ、竜穴の上の土地には魔素が1つも存在しない空間が出来上がる』
「魔素ね、酸素みたいなイメージなのかな? それが無いと、モンスターは活動できない?」
『だからこそ、我らは人との魂の繋がりなく、セーフティーエリアに踏み込むことが出来ない』
ギリーの静かな声が、雨音に霞んで消える。静かに、静かに、遠くからりんと聞き覚えのある音が響く。千蝉の声、急に降り出した雨に反応したのか。
町を見下ろせば小さな染みが水溜りになり、水溜りが小さな池になり、小さな池が小規模な湖になっていく。通常の水と性質が違うらしいそれは土と混じることもなく地上に溜まり、町をあっという間に水没させる。
すぐさま膝丈まで嵩を増やした不思議な水に困惑するも、すぐ側で身を縮める陸鰐がいてはプレイヤー達も動けない。
固唾をのみ、息を殺し、誰もが陸鰐の次の一手を待ちかねて、ゆらゆらと揺れる水面に落ち着きなく視線を落とす。
月が映り、波紋にゆらゆらとその形をおぼろげにする水面から、身体の半分をはみ出させた巨体が更に身を縮ませる。
「届くのか、届くんなら……」
『……逃げる道は無いぞ、主』
「――わかってる。今更、逃げは打てない」
水中で揺蕩う尾がゆらりと妖しく揺れ動き、ぐっとその四肢に力が入った瞬間には、陸鰐は空中に浮かぶ水塊目がけて跳び上がっていた。
予測していたとはいえ、無謀にすら思える行動。しかし陸鰐は降ってくる雨粒を足かけに、空高くへと駆け上がる。
陸鰐の急な動きに身体を強張らせたプレイヤー達が、更に驚きに口を開きながら上を見上げる。全身をくねらせて水面から跳び上がった陸鰐は、頭上の水塊に鼻先から正面衝突。
ずぶりと入り込んだと思えばすぐさまその巨体が水塊に飲み込まれ、ゆったりと尾を揺らしながら完全に入り込む。
空中に浮かぶ水の城。そう形容するに相応しい場所に居座る陸鰐は、まさにその城の王者だろうか。隻眼を光らせ、空中から地上を見下ろし、ゆらゆらと揺れる水の壁越しにプレイヤー達を睥睨する。
地上に残されたプレイヤー達は呆然とそれを見上げ、男も女も、契約しているのだろうモンスターも、全てがこの先の運命を悟り悲鳴を先取りするかのように短く息を吸う。
空中に浮かんだ巨大な水の塊の中を泳ぎ、陸鰐は余裕をもって頭を揺らす。白い牙が垣間見える大顎を開き、陸鰐の動きが静止。背筋を駆けあがる悪寒と慣れた既視感の感覚に、咄嗟にギリーの首に掴まり直す。
「……っやばい! ギリー!」
『しかし――!』
「上だ! “朱の色 精霊の色 火の精霊と見紛う色”!」
本能的な危機察知。急に動きを止めたモンスターはろくでもないと記憶している脳が即座に警戒信号を発し、それに従い喉からは読み慣れた詠唱が滑り出る。
水に囲まれた岩場の上、逃げ場のない現状に一瞬だけギリーが足踏みし、それから意を決したように四肢を踏ん張って耐えの姿勢。
ギリーの膨らんだ尾がざらりと岩場の砂を掃き、がちりとがちりと牙を噛み鳴らすのに連動してそれが舞い上がる。詠唱を続ける自分と合わせ、ギリーも何かのスキルを準備、大口を開けた陸鰐をじっと注視し、攻撃のタイミングを合わせるべく息を詰める。
「“猛火の線を繋ぎ巡らせ 力を得て炎上せよ”!」
『――来る!』
「【フレイム】!」
ギリーの合図と共に前方に視界を塞ぐほどの炎の壁を出現させる。厚みを重視して展開した魔力は、思い描いた通りにその場に顕現。
それにタイミングを合わせギリーが勢いよく足場を蹴りつけ、跳び上がると同時に炎に遮られていた視界が一気に開ける。
町を見下ろし、陸鰐を見上げ、雨に打たれる異常な状況。
自分の視線と、まだ見上げるほど高くにいる陸鰐の視線が一瞬の交錯。それと同時に陸鰐の周囲に浮かぶ水塊にも視線がいき、その異様な光景に絶句する。
巨大、巨大な水のボールが大量に周囲に浮かび、更に下を見ればプレイヤー達が各々の手段で身を守ろうと遅い行動を始めている。
跳び上がるギリーががちりと牙を噛み鳴らし、空中に小さな岩が出現。跳び上がった勢いが落下に転じる前にそれを踏みしめて、更に上へと飛び上がる。
大量の水の塊はぐるぐると渦を巻き、陸鰐の顎が勢いよく閉じられるのと同時に高速射出。ごう、と音でも聞こえてきそうな速度であちこちに飛散する。
『主、絶対に放すな!』
ギリーの叫びと同じくし、岩場に出現させたまま置いてきた炎壁に1つが着弾。容赦なく炎を突き抜け消滅させ、もう1つが先程ギリーが空中に出現させた岩にもぶち当たる。
小さな岩を木端微塵にしながら森へと落ちるそれを見送り、はっと顔を上げれば今まさに目の前に迫る巨大な水塊。
円形であることは知っていても、間近に迫れば水の壁にしか見えはしない。目前に迫るそれを前に、ぐっとギリーの首に抱き着くようにしがみ付きながら、悲鳴のような指示を飛ばす。
「――避けて!」
『――ッッ!!』
息を詰めるギリーが再び牙を噛み鳴らす。出現した岩を蹴りつけ、水の壁を乗り越えるように間一髪で跳躍、飛び越え、高度を近くした陸鰐と視線が絡む。
距離があるとはいえ、いつの間にかこちらを向いていた陸鰐の鼻先に浮かぶ水塊。先程見たものよりも二回りほど巨大なそれを視認して、喉がひくりと戦慄き、絶叫を上げる。
「――跳べ、ギリー!!」
『承知――したッ!!』
雄叫びと共に、ギリーの足が力いっぱいに空中に出現する足場を踏む。一足、二足、出現させた岩を経由し、三足目で陸鰐の顎が閉じられる。
耳鳴りのような音と共に浮かぶ水塊がゆらりと揺れて、悪夢ような速度で真正面から迫り来る。足りない、足りない、まだ後少しが届かない。
迫るそれに挑むように吠えながら、ギリーが限界まで筋肉を引き絞り跳躍する。後一歩、出現させた岩に引っ掛けた爪が罅割れながらも、渾身の力で上に向かって駆け上がる。
一転、その背にしがみ付く自分の目には水の壁よりも夜空が映っていた。疑似的な水の雲を隔てた先に広がる満天の星、揺らぐ満月、飛び散る水滴が黄金に光り、蒼黒い背景の上に多重構造となった星々がエフェクトをかけたように光り輝く。
目印も目安も存在しない夜空だけが広がる視界は、落ちていきそうな、吸い込まれていきそうな、そんな錯覚を伴って眼前に広がっていく。
薄い水の膜を隔て、世界は揺れる。ゆらゆらと揺れる。星は瞬き、月は崩れ、滲む空がぐんぐん近付く。空から降る雨粒は、真下から見れば塵のようだ。
空を駆けるギリーの首にしがみつくのもおろそかに、喉からは喝采のような声。堪えきれない感情は、リアルでは絶対に味わえない。
「ああ――!」
見たことも無い絶景と、血沸き肉躍る戦闘の高揚感に急き立てられ、自然と口角が吊り上る。
冷たく澄んだ水の匂い、計ったように鳴き出した千蝉の声、星が降るような夜空を駆ける、その理由すら歓迎に値する。
迫る水塊、巨大なそれは掠めるだけで、この夢に終止符を打つだろう。ギリギリを行く優越感、窮地を脱する時の快楽に溺れた自分は、笑みを浮かべて宙に吠える。
「――ああ、楽しい!!」
楽しい、楽しい、楽しくって仕方がない! そう吠えると同時にギリーの獅子吼が伴奏に鳴り響き、視界は反転、夜空と星はひっくり返り、宙に浮かぶ水の膜を突き破る。
足元を通り過ぎていく水塊を視界の端に捉えながら、自分の瞳はもっと別のものを見つけ、歓喜に輝く。
打つ手はある、世界は変わった、手駒は揃った、こんな最高の状況で、逃げれば自分の魂が泣く。
「――足場を作れ、雪花!」
宙に浮かぶ水の塊、そこから広がる水の平原。突き破った先は全くの別世界で、そこには純白の一角獣が緩やかに水面を駆けている。
自分の声を聞き取った雪花が手綱を引き、一角獣が角を振りたてながら前足を掲げ大きく嘶く。一面の水平原がざわつくような感覚と共に、波紋を広げ、そこにギリーが四肢を広げ着地する。
「ギリー、右ッ!」
着地と共に筋肉をぶるりと震わせて、指示に従いギリーが軽やかな足捌きで右に跳ね飛ぶ。さっきまで自分達がいた場所を水の塊が通り過ぎ、小さなさざ波がギリーの足にぶつかり、跳ねる。
眼前、一角獣に乗ったまま油断なく陸鰐を睨む雪花と、短く視線を交わして意思を確認。
冗談だろうと思っていた雪花の言葉も本当だった。水の上を歩けるようにするスキルがあるなんて、まさかと思ったが今まさにこの場に立てているのが証拠だろう。
恐らくはあの一角獣によるスキルだろうが、と思いながら、勢いを殺す為に緩やかに水面を駆けるギリーの毛に掴まり直し、真っ直ぐに顔を上げてラスボスの威容を目の当たりにする。
「……覚えてるみたいだな」
青い壁を隔て、円の中心に在る陸鰐の目は、じっとこちらを睨んでいる。宙を駆けている時も、今も、ずっと自分の存在に気が付いた時からの熱視線だ。
その黄色い瞳を潰した相手を覚えているのか。陸鰐は自分から一切視線を外さず、熱烈に攻撃を仕掛けてくる。
ただ撃っても躱されるだけと分かっているのか、未だ陸鰐は動かない。苛立たしげに尾を揺らし、その大顎を威嚇の為に開くのみだ。
陸鰐を睨みながら、雪花が近くに寄ってくる。ずぶ濡れになったツナギは重そうで、しかし彼を乗せる一角獣は涼しげな顔でたてがみをふるりと揺らす。
「ウチの傭兵はとんでもないもの連れて来たみたいだね」
「……あっはー、何これボス、なんかしたの?」
「片目潰したの自分だから。恨まれてるんじゃないかな、だいぶ」
「そ・れ・だー……。なぁんかおかしいと思ったんだよね。ボス見つけてから、攻撃の方向が急に変わったから」
嫌味も込めて雪花を詰れば、曖昧に微笑んで躱された。陸鰐に注意しながらも聞いた話に納得したのか、雪花が苦々しい表情で舌を打つ。
「……で、雇い主サンのご意向は?」
「今日のご飯は鰐肉だから。雪花はステーキとか好き?」
嫌そうに、それでもロールプレイのままに自分にお伺いを立てる雪花に、笑いながらそう提案する。
ここで逃げればプライドがずたずたになる。せめてVRの中でくらい、無謀と思われるような賭けをしてみたい。否――、
「――楽しいから、止めたくない」
「……」
「戦いたい。いや、勝ちたい」
「……」
力が欲しい、戦いたい、自分の強さを知らしめたい。勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい――!
勝算なんてどうでもいい。勝てるか? 違う、どうしたら勝てるのかだけを考えれば良い。
どうしたら勝てる? どうすれば勝てる? 策を巡らせ、手駒を数え、タイミングと順序を組む。
データの筋肉が収縮する。顔を上げ、背を反らし、喉を震わせ、ホルスターから愛銃を抜き放つ。自分の戦意に反応し、ギリーが喉を反らせて内臓が震えるような吠え声を上げる。
「仕留める! 手伝え!」
「あいあいさー……」
やる気の無い声で雪花が答え、で、どーする? と首をこっくりと傾ける。仕留めるには何が必要か? 外皮は固く、何より分厚い。生半可な魔術も効きはしない。『デザートウルフ』だってそう威力があるわけではない。
決定打を自分は持たない。必然的に止めを刺すのは、雪花か一角獣、もしくはギリーに限られる。止めを刺す方法は? 急所への一撃が最も理想、ちまちまと削るには巨体に過ぎる。
「雪花の剣はあれをどうにかできる?」
「もっさん――このユニコーンさんの角なら、何とかイケるんじゃね? レベル」
「言うこと聞くの?」
「あー……もっさん。いける?」
『食われるくらいならやる』
「あ、喋れるんだ。よし、止めは――えっと、名前は?」
『――――』
静かに、嘶いた一角獣が紺色の瞳をこちらに向ける。螺旋の角が振り立てられ、厳かな声でその獣は問いを発する。
『――汝、我を肯定できるか?』
「……」
意味を問うのは無粋とばかりに、その純白の獣はいぶし銀の角をこちらに向けてつきつける。
後、一歩進めば喉の皮膚など破られる。そんな圧迫感を感じながら、問われた意味を反芻して、にぃと唇を吊り上げて答えを返す。
「この状況が、正に答えだ」
『――ならば宜しい。疾く行動せよ』
つきつけていた角を退かし、紺色の瞳が綺麗に瞬く。動き出していた陸鰐へと視線を向け、その鼻先で渦を巻く水塊をじっと見据える。
狙いは完全に自分と雪花。一緒くたにいけると踏んだのだろう、巨大な水塊は内側で渦を巻き、陸鰐の大顎が勢いよく閉じられると同時にこちらに向けて射出される。
「ッ、ギリー……!」
「あー、ボス。大丈夫、大丈夫……っと!」
慌てて避ける動作を指示した自分を制し、一角獣が一歩、優雅な動きで前に出る。恐れも、不安も、迷いもない足取りに、雪花が察したようにばっとその背から飛び降りて、慣れた様子でギリーの隣まで後退する。
その背に何の枷も無くなった一角獣は、落ち着いた様子で迫る水塊に向けて頭を、否、その輝く螺旋の角を振り上げる。
『我はモルガナ――』
低い嘶きと、厳かな声と共に振り上げられた角を一閃。迫り来る水塊が一瞬にして霧となって霧散していき、その身に水滴1つ纏いはしない。
見ればそのたてがみも、1つも濡れることなく優雅に風にたなびいている。一角獣は威嚇するように陸鰐へとその角を見せ付けて、雪花をちらりと振り返る。
『一角獣、モルガナだ』
視線を受けた雪花はひらりとフランクに片手を振り、笑みを浮かべたままじゃあ、それではと話を切り出す。
腰に下げた長剣を引き抜き、戻し、小さな鐘の音のような響きが水の平原を渡っていく。不敵に笑い、その笑みを凶悪な形に歪ませて、流れの傭兵は囃し立てるように口笛を吹いて、こう嘯く。
――陸鰐討伐、始めようか。
囁きと共に、火蓋は切られた。




