第三十三話・半:ディー・グレンツェの丘
第三十三話・半:ディー・グレンツェの丘
丘の向こうは、
とある本の一部分を指でなぞり、そっと声に出して反芻する。意味はきっと曖昧で、作者が何を問いたかったのかは、ついぞわかりはしなかった。
安い雑居ビルのように古めかしい一室の中、ぽつりと部屋の中心に置かれた椅子に座り、陵真はゆっくりとその本の表紙を撫でる。
黒々としたインクで打たれた、作者名が心を揺らす。外は藍色の空が広がり、晩秋の夜が忍び寄る。黙したまま背表紙をなぞり、じっとそれを見つめている。
「……」
作者、道庭利幸。没後、出版されることもなく、広く知られることもなく。ただ1冊だけが残る、彼の老人の忘れ形見。
自分で作ったというその本の装丁は美しく、新緑のカバーに金の縁がまた高貴な雰囲気を醸し出す。恐らくは、彼の相棒が好きであった草花を模したものだろう。綺麗な蔦の紋様が描かれた背表紙は、丁寧な保管のおかげで汚れも薄れもありはしない。
分厚くもなく、薄くもなく。黄金比のように美しいその本を膝の上に乗せ、何度も何度も読み返した内容を、ただただ思う。
まるで故人を悼むように。遺品であるその本を手に、ぼう、としたまま陵真は笑う。哀切いりまじるその笑みと共に、ゆっくりとページを捲っていく。
最後の最後、その終わり。本の一番最後のページ。そこにぽつりと記された、小さな文字が未だに陵真の心を揺らしてやまない。
「……丘の向こうは」
丘の向こうは、と、ただそれだけ。最後の締めが肝心なのに、どれだけ探しても他の文は見当たらない。
読点で終わり、その後に続く言葉があるような。そんな言葉がいつまでも気になっていて、答えを探して迷っている。
丘の向こう。丘の向こうに、何があるのか。
道庭利幸の死後、手元に届いたこの本は、ずっとそんな問いを投げ続ける。丘の向こうは、の後に何が続くか。考えても考えても、答えには届かない。
彼の言う“丘”はわかる。不気味の谷と比較され、今や知らない者はいない、VRにおける都市伝説のような1つのグラフ。
ディー・グレンツェの丘と呼ばれたそのグラフは、元は確かな統計の元に作られたものではなく、ただ彼の中でのみ意味を持つ、個人的なグラフであった。
ディー・グレンツェの丘とは、VRにおける「情報量」と「現実感」とをグラフにした際の形を揶揄した言葉である。しばしば、不気味の谷との比較がなされ、その不可解な現象がどういったものかは諸説あった。
通常、VRにおける「現実感」。つまり、現実だと感じる部分は、その「情報量」が多くなればなるほど、数値が上がるとされていた。
無機質な単色空間から始まり、アスファルト、植物、空、風、建物。ここまではグラフにしても順調に上がっていく。更に、それらの情報を細密化(土を弄れば土の匂いがし、温度、感触、砂の視認)するにつれ、グラフは更に上昇する。
しかし、どうしたことかここに動物、人間などの知能があると思われる生き物の情報を細密化して投入すると、このグラフは緩やかに下降する。
つまり、一転して「現実感」が薄れていくという現象である。この現象は動物、人間の動き、表情、受け答えの精度を上げれば上げるほど顕著に下がり、ついには最初の単色空間の数値に近くなるまでに落ち込むという。
このグラフの形を揶揄し、「境界の丘」。ディー・グレンツェの丘と呼ばれるグラフ。
この理論は近年ネット上で発表されたものであり、その真偽についても疑わしいとされている。しかし、ネット上で有名になったこの「現象」は、VR時代という時代背景と相まって、おおよそ知らない者がいないほどの知名度を誇っている。
「境界の丘。VRにおける現実感の消失。情報量は増えているのに、どうして肝心の現実からは遠ざかるのか」
VRと現実の違いは、情報量の違いと言われた。再現できる情報量が限られているからこそ、現実との違いがあるとされていた。
確かに途中まではそうだった。0から始まったVR空間での現実感は、情報量が増えるにつれて、どんどん上昇していった。
現実のようだと誰もが驚き、そしてついに人間を作り出した。データの人間。AIを入れた、人間の形をしたデータそのもの。
初めは、誰もが成功を確信していた。現実との境界を乗り越えて、VRは現実足る存在になれたと誰もが思った。
しかし――、被験者も首をひねった。実験を主催した人達も疑問の声を上げていた。何故、どうして、と声がする中。陵真はただ、ぼんやり見ていた。
たまたま機会があって立ちあったその実験は、見事に失敗に終わっていた。道庭老人は呆然として、こんなはずはないと呟いた。
完璧、完璧だったと彼は言った。何がいけないのだとも言っていた。最後に自分が体験すると言って、彼はVRの中で“人間達”と対峙した。
陵真はただ外側から眺めるばかりで、彼が何を思ったのかはわからなかった。
彼はそれきり、押し黙った。
それからの話である。彼が学習性AIの制作に心血を注ぎ始めたのは。前埜優太と袂を別ち、ただそれだけに没頭したのは。
彼は学習性AIを完成させた。人形に心を作った。感情の種を生み出して、世界中にばらまいた。
「……」
道庭老人は、その後一度も実験をしなかった。学習性AIの完成後、彼はVRにおける現実感についての話など、欠片も話題に出さなかった。
世間ではこう言っている。感情持つ人間のデータなら、きっとこの丘を乗り越えて、現実とVRの境界は消えるだろうと。
陵真もそう思っている。感情さえ宿っていれば、VRの中の世界も、本物になれるだろうと思っている。
「思っているから――こんな世界を作ってみたんだ」
誰ともなく、いや、ディスプレイの中の彼女に向けて、陵真はそっと呟いてみる。彼女はそっと目を瞬かせ、静かに画面に文字を映した。
それの意味を受けとって、陵真は静かに了承の意を示して片手を振る。
「いいよ、任せる。納得いくまで、頑張るといい」
彼女は嬉しそうに笑い、陵真も微笑む。ディスプレイは再び沈黙し、暗い画面に自分自身が映りこむ。
自分自身を見つめたまま、陵真はそっと呟いた。
「丘の向こうは――」
誰も、誰にも。その続きは聞こえなかった。




