第百九十七話:善を愛せ、悪を殺せ
――ルメーラのアナウンスを聞き終えた瞬間、セリアは咄嗟に榊を突き飛ばしていた。
「熱っつ――!」
熱い――セリアは咄嗟にそう言ったが、実際には、感じたのは熱ではない。
革の手袋に霜さえ降らせる――それは冷たさだった。熱いと感じてしまうほどの冷たさが、革手袋越しにもセリアの手に尋常ならざる冷気を伝え、咄嗟に感じた痛みを熱症と勘違いしての声だった。
「【自己冷却】か――!」
〝魔法使い〟の古代元素スキル。氷凍系の第3派生、【自己冷却】。それは一見、ただ己の身体を冷やすスキルに思われがちだが、実際にはもっと攻撃的なスキルだ。
例えるならば、凍てつく金属。触れれば皮膚は貼り付き、痛みのあまりに熱を感じるほどの温度まで体表を冷却するスキル。
分類は特殊パッシブスキルであり、自身の体内に作用する魔法スキル。だからこそ、スキル発声のための頭さえセーフティーエリア外ならば効果は全身に現れる。
そして、【あんぐら】において、セーフティーエリア内でも熱さと冷たさは感じるし、その2つに由来する痛みだけは感じるように出来ている。
理由は味覚システムのためというしょうもないものだが、エリア内で〝辛み〟を感じられる以上、辛さとは痛みであり、食事からは熱さも冷たさも排除できない。
「余計なヒント教えやがって……ッ」
セーフティエリア内でありながら痛みを感じた原因を即座に理解し、舌打ちをするセリアの視線の先、笑う榊の姿があった。
突き飛ばされた先、水中に全身を沈めて中指を立て――榊は驚異的な瞬発力によって瞬く間に足に食い込むワイヤーを隠し持っていたナイフで切断し、水底を蹴って急浮上。
追って、セリアが舌打ちと共に統括ギルドと教会の壁を交互に蹴りつけ登っていくが、水圧を考えても恐らく榊の方が先に水面から飛び出すだろう。このままではエリア外に出た瞬間に的になる。
迷いは一瞬。瞬間的な判断で、彼はすぐさまポケットから魔石を取り出し、跳ね上げながら相棒を呼びつける。
「トロイ! 来い!!」
『しくじったな、セリアめ!』
セリアの呼び声にトルニトロイはかんかんだったが、声にはわずかに歓喜があった。【アーグワ】で出来た足場を蹴りつけ、セーフティーエリアから離れる榊を振り返りもせず、赤の竜はセリアの保護を優先する。
透明な結界に近付けるだけ近付いて、吼える声には抱えた怒りを吐き出す相手がいることへの歓喜があった。
『だがいい! 俺とお前でゴミ掃除だ!!』
【白煙】の魔石は、本来ならばその場で即発動してもおかしくない威力で弾かれた。
だが、此処はセーフティーエリア内。弾丸めいたスピードで夜明けの迫る空に打ち上げられたそれは、エリア外に出た瞬間――正しく役目を全うする。
「――小細工かよ、ムッカつくなぁあ!」
突如、爆発的に広がる白煙の中、セーフティエリアから飛び出したセリアは、榊が喚き散らす声を聞きながら手を伸ばす。
視界はゼロ。今、白煙の中に魔法を撃たれれば、セリアとて無事では済まない。
だが魔法が込められた魔石は、発動と共に周囲の魔素を一時だけ吸い上げる。完全に自己の魔力のみで発動する魔術とは違い、魔法は空気中の魔素を巻き込まなければ撃てはしない。
セリアと同じ〝魔法使い〟ゆえに、榊も魔法スキルのシステムは熟知しているだろう。それゆえの苛立ちだ。
クールタイムが終われば、榊はすぐさまがむしゃらに大型魔法を撃ってくるに違いない。だが2秒でいい、とセリアは思う。
その前に、一瞬でもトルニトロイに指先が届くなら。
「――【竜魂同化】ッ」
守りたいものを、守れるだろう――と。
第百九十七話:善を愛せ、悪を殺せ
苛立っていた。苛立っていた。心の底から苛立っていた。
煮える苛立ちは女の全身を這い回る、濃紫の紋様のようだった。暗く、忌まわしく、粘つくような負の色合い。
蛇のようにのたくる模様は顔面を横断し、深紅の髪さえ漆黒に染め上げていた。
――黒の長髪を振り乱し、その女は空中に立っている。
【アーグワ】によって空中に生み出した氷の塊。その上に立ち、女――榊は、底光りするオレンジの瞳を輝かせ、怒れる獣のように眼前の光景を睨んでいた。
セリアの小細工のせいで、もはや魔法の不意打ちは不可能だと悟っていた。榊はそれをただ睨みつけるしかない。睨みながら、打開策を考えるしかない。
目の前を埋め尽くしている白煙……その煙を振り払いながら、巨大な両翼を羽ばたかせる赤い竜。全身、輝く深紅の鱗に覆われ、細い瞳孔が浮かぶ瞳は空の青。
左右に短い黒角を生やした頭は黒鉄の鎧で覆われていて、その鎧は太い首を覆い、背中を覆い、胸筋、腹、後脚……びっしりと棘が生えそろう尾の先までをも覆いつくす。
その背には銀縁の鞍があり、榊が睨みつける視線の先――セリアが無表情で銀縁の鞍の上に立っていた。
黒灰色の瞳は夜明けの光すら通さずに、水底に沈む鉱石のように鈍い色合いを見せている。
浮かぶ瞳孔は竜のそれ。肌には黒灰色の鱗が浮かび、ゆっくりと吐き出す息は凍えるような冷気が混じる。
……〝従竜士〟並びに〝騎竜士〟『type〝魔法使い〟』の複合アビリティ。
――〝竜の民〟
榊だけではなく、【Under Ground Online】で遊ぶプレイヤーならば、初心者以外はほとんどの者が名前だけは知っているアビリティ。
世界警察という大型団体に所属しているがゆえに、セリアは自身のアビリティを全て公式掲示板で公開している。習得条件こそ公表していないが、誰にだって察しはつく。
竜種関係のアビリティ――2種混合で発現するアビリティであろうと、そう言われているアビリティ。ただし、そういうアビリティを習得したと、世界警察公式はそれだけしか公表しなかった。
わかっているのは、ダッカス支部爆破事件の実行犯――ギルド『まじかる☆ちゃーりー』の討伐の際。
世界警察の威信をかけ最高戦力として派遣されたセリアが、トルニトロイ抜きで指名手配プレイヤー全員を挽き肉にしたということだけ。
その際に、その肌には赤い鱗ではなく黒灰色の鱗が確認されていて、竜を連れずとも発動できるアビリティなのでは? などと掲示板では言われていたものだが……。
「――おいおいおい、理不尽だろ。ぁあ゛? 爆破犯共はドラゴン無しでも、アタシの時には2対1かぁ? 随分とちっせぇ男だなぁ!」
からからと笑いながら、榊はトルニトロイの背からこちらを見下ろすセリアを挑発する。
「はっ……それとも何だよ、適応称号スキルが怖いか? それか狛犬野郎の味方をして後悔でもしてるか? そうだよ、アタシの方に理があるんだ! 人災野郎が報いを受けるのは当然だからなぁ!!」
適応称号スキルが発動していても、一線級の指定ランカー――それも、世界警察最高戦力などと謳われるセリアとトルニトロイが相手では、呪いを発動させるのも一苦労だ。
でも、プライドからでも、気紛れからでも良い。挑発に乗って戦う相手がセリアだけになれば、勝てずとも呪いの発動は出来ると……榊はそう踏んだのだ。だが、セリアは一言も答えない。
「チッ……ふざけんなよ、お前なんかに構ってる暇ないんだよ! アタシは狛犬に用があるんだ……聞いたろ? 笑える顛末だろ? 何の不満があるんだよ!」
それに、榊の空耳で無ければ、ついさっき、セリアは確かにトルニトロイを呼んでいた。それはつまり、〝竜の民〟のスキル効果は発動の際に一度は竜に触れなければいけないということ。
そして恐らく、そういったタイプのスキルに発動制限はつきものだ。距離か、魔力消費か、制限時間か――どちらにせよ、常時発動出来るものだとは思えない。
「爽快に思わなかったか? 欠片も? 本当に? 実はすっきりしたんじゃないか? 酷い、と言いながら目をそらさない奴らが多いんじゃないか?」
その上、トルニトロイの全身に生成された鎧を見ても、〝竜の民〟というアビリティの真骨頂は竜との共闘にあるのは間違いない。
複合――ということは、前のアビリティが凍結されるということ。ならば新しいアビリティにいくらか原型アビリティのコンセプトが残っているのは当然のことだ。
「人災野郎と叩いただろう。アタシも同じだ! ムカつくんだよ、腹立つんだよ! だって、おかしいだろ!? なんでアイツばっかりが良い思いするんだよ……!」
榊としては、どうにかして引き離すのがベター。だがそのためにはセリアを挑発し、セリアの口から榊と一騎打ちをするという言質を取らなければ、トルニトロイが黙っているはずがない。
鎧を纏う赤竜トルニトロイは、先ほどから尾を震わせ、鈍い黒に輝く装甲をこすり合わせて火花を生んでいる。
純白の牙がずらりと並ぶ大顎は何度も打ち合わされ、その度に小さな炎を噴き出すほどに戦意は上々。今もまた、榊の発言に一々激昂しかけ、その度に口を閉ざすの繰り返しだ。
「まだ足りないんだよ……もっと痛めつけなきゃいけないんだ。もっと……もっとだ! なあ、セリア――お前だって本当のところはそう思うだろ? 善性なんかクソくらえだ! 何のためにPKKの団体に入ったと思ってんだよ! 合法でPKPのクソ野郎共をぶっ殺せるからに決まってるだろ!? なあ――お前も同類だろ!?」
その背に敷かれた銀縁の鞍を踏みつけ、セリアは無言。舌打ちも無く、表情は無い。一見して涼しげな顔で、セリアは榊の発言に耳を傾けているように見えた。
吼える榊に、セリアは沈黙でしか返さない。ただ静かに黒灰色の瞳を動かして、彼は遠目に巨獣を見る。鼻先にすがりつく雪花に、巨大な狼が戸惑うようにぱたぱたと耳を動かしていた。
深紅の瞳に狂乱は無く、落ち着いた様子で雪花を見つめているのを確認し――続けて雪花の顔に、悲愴な色が無いことを認めてからセリアはゆっくりと瞳を伏せる。
「正直になれよ! お前もきっと同類だ――隠してるだけなんだろ? 現実でヤバい仕事してるって話は本当なんだろ? さっきの手並みで確信したよ……お前も悪いやつに違いないってな!」
得意げに、愉快そうに。何かに追い立てられるように、叫ぶ彼女はセリアの内心がわからない。
涼しげな無表情――その黒灰色の瞳の中に、激しい感情の揺らぎは見当たらない。
……だから、榊は気が付けない。
「…………」
『……セ……セリア?』
威嚇を通り越し、今にも榊に向かって炎弾の1つか2つ――吐き出したくて堪らない様子だったトルニトロイを、完璧に制御しているのは何かということに、考えが及ばない。
けれどトルニトロイは気が付いている。体感している。魂を同化させ、セリアの怒りと自己嫌悪を痛いほどに感じ取る赤の竜は、怯えを滲ませて声を上げるが――、
『なあ……セリア、その……』
「黙れ」
『……』
黙れと言われて、反論もせずトロイが黙った。その事実を、考えもせずに榊は唸り、吼えたてる。
「無視すんなよ――……偉そうなんだよ、お前も……狛犬も!! 腹が立つんだよ! 何もかもぉ!」
犬歯を剥き出しにし、両腕を広げ、夜気を裂くように榊は腕を振るって吼え猛る。腹が立つ、苛立たしい、何もかもが気に入らないのだと。
主張し、セリアを睨むオレンジ色の瞳には焦りがあった。セリアはトルニトロイの背の上から動かない。このままでは勝ち目は無い。動けない。
あるいは、セリアもそれをわかっていて無言のまま動かないのではないのだろうか――そんなことを榊が思ったその瞬間。
「ぎゃーぎゃー、ぎゃーぎゃー。理屈をこねて喚き散らして……昔の自分を見てるみたいで――心底腹が立つ」
「……は?」
ようやくセリアが発した言葉を聞いて、榊が疑問を声にした。セリアは榊の疑問には答えずに、ただつらつらとこう言った。
「――俺はグレて周りに八つ当たりをしてたアホ野郎。でもお前は……」
――お前はただの、ゴミクズだ。
親指を下に向け、セリアは閃くような笑顔でそう言った。直球の侮辱に意識がついていかず、一拍遅れて怒りに顔を真っ赤にした榊が吼える。
「ッ、ゴミは、テメェだぁああああ――!!」
吼えながら、榊は跳ねる。作戦も、懸念も、全ての考えを忘れ去り、漆黒の髪を振り乱しながらナイフを片手に飛び出して、
「――トルニトロイ、退かせ」
次の瞬間、静かな声と共に真正面から黒鉄に覆われた尾に吹き飛ばされながら――榊は一際甲高い声で絶叫した。
「呪ってやる――――呪ってやるぞ! 狛犬の先に、お前を殺してやるからな!!」
そして戦端は呪詛と共に。セリアと榊の、戦いの幕が切って落とされた。




