第百六十六話:神命、亜なれば六花を失する
かつて――弥生はこれほどまでに、〝微笑み〟が怖いと思ったことはない。
「ダメだよ、聞かれたことにはちゃんと答えなきゃ」
かつて――弥生はこれほどまでに、誰かの言動をおぞましいと思ったことはない。
「弥生ちゃんが聞いてるんだから、ちゃんと答えなよ――」
「――ね、弥生ちゃん」
弥生に向けて放たれるその声に、疑問符など存在しなかった。
再び地に叩き伏せられたリトの横、無造作に立つ人影がある。揺らめく炎を纏うがゆえに、陽炎のように周囲の空気を歪める、影無しのヒト。
深紅の紋様を全身に刻み込み、左右、赤と濃茶にわけられた瞳を猫のように
ゆったりと細めている。
左の指先には、睦月の傷の具合を確かめた時についた血が滴り、反対側の手は肩抜き貫頭衣が熱波で揺れるのを気にするように、胸元の布地を掴んでいた。
狛乃は冷静そのもの、といった大人びた表情で弥生に言う。ね、当然だよね、と。同意を求めるまでもなく。
自然体のまま、返事のない弥生を見て首を傾げる狛乃に、普段と変わった様子はない。
突然、叫び出したりはしていないし、暴走した、という状態でもない。割り込みはしたものの、横合いから勝手に獲物を掠めるような真似もしていない。
事実、リトは先程と同じように「いたい、いたい」と喚いてはいるが、誰がどうみても先程の一撃が致命傷で無いことは確かだった。
では、一体、何が恐ろしいと感じさせているのか。
「こ……狛ちゃん……?」
わけがわからないまま、背筋に怖気を走らせる弥生の足の下、ガルメナがわずかに羽毛を逆立て、何か言おうとして口を閉ざした。
けれど、伝わってくる。動揺から隠し切れない感覚が、感情が、弥生の心にもふと寄り添う。そしてそれは、弥生が抱いたものと同じ――、
強い違和感。
何か、人を人たらしめるための何かを。いいや、それ以上に、魂を持つ生き物が持っているはずの当たり前の何かが、つと、消えてしまっているような――。
『……〝眠れ〟』
不意に、ガルメナが魔法を行使する。単純、かつ最も基本的な〈言霊〉を使い、異様な雰囲気に固唾をのんでいた見物人達を一斉に眠らせる。
自分に向けられたものではないとわかっていたのか、不思議そうな顔をして狛乃は動かない。不意をつかれたリトもまた、うわ言のように、いたい、と呻きながらも静かになる。静寂が辺りに漂い、狛乃は困った様子でガルメナを見た。
「えっと……リトの答えは、聞かなくていいの?」
『先にお前に話がある……だろう、小娘』
静かな声でガルメナが言い、弥生は狛乃に向かって恐々、ねえ、と話しかける。緑の瞳が狛乃を見下ろし、赤と濃褐色が、心配そうなそれを柔らかく受け止めた。
狛乃は、優しい声で言う。なあに、弥生ちゃん? と微笑みながら。
そうなると、弥生は混乱してしまって口ごもる。どうしてこんな雰囲気の中、微笑んでいるの? とか。この状況に、何の疑問も抱いてないの? とか。
言いたいことはたくさんあるのに、そのどれもが恐ろしい問いかけのように感じて声にならない。
確かに、弥生はリトに叫んだ。何故、どうして、と絶叫した。
けれど、その答えはリトの行動にあらわれている。すなわち――藍色の瞳一杯に涙を溜め、上下三対に欠けた牙を剥き、弥生に向かって躍りかかった……その行動、その全てに。
それを言葉にするのは、不粋だと。それを言葉にさせることは、相手への情けを持たない恥ずべき行いであると、弥生はそう考えて、何故、と叫ぶ唇を噛みしめたのだ。
けれど、そこに横槍を入れたのが狛乃だ。彼とも彼女とも呼べないその人は、ごく当たり前のようにリトを地に落とし、質問されたら答えるべきだ、と駄々っ子に言うように述べてみせた。
そこに、その行いに、何一つ疑問は無い。
あるいは、狛乃が普段からそんな人物であったなら、弥生もここまで恐れなかった。
だが、わずかにでも知った仲。【あんぐら】の内部でのメッセージのやり取りから始まり、現実世界でも連絡を取り合う仲になり、ましてや、互いに互いを――友と呼んだ間柄だ。
全てを知っている、とは到底言えない。表面だけしか知らないだろう、と言えば、頷けなくとも否定は出来ない。生身の身体で会ったことも無いくせに、と言われたら、黙り込んでしまうような仲かもしれない。
けれど――狛ちゃんは、そんな人じゃない、とは言える。
「――――」
吸う息が――冷えた空気に侵されるように凍えていた。肺腑に氷を詰められたような心地で、弥生は軋るような呼吸を繰り返す。
おかしい、と心のどこかがそう叫ぶ。あんなの、狛ちゃんじゃない、とそう思う。じゃあ、あれは誰? いいや、違う、疑問に思うべきはそうじゃない。誰、ではないのだ。正しくは……、
「……あれは何?」
誰に聞いたのかもわからない疑問が、熱い吐息と共に零れ落ちる。冷たい空気に白く滲み、狛乃がつい、と首を傾げる。
「大丈夫?」
そんな様子の弥生を見て、狛乃は心配そうにそう言った。それだけ見れば自然だが、狛乃は、この状況がよくわからない、というように首を傾げる。
その仕草が理解出来なくて、彼女が知る狛乃と余りにも違い過ぎていて、なおさら弥生は恐くなった。
普段の狛乃なら、これだけ待たされて苛立たないわけがない。気が短く、どことなくせっかちで、好戦的。そんな狛乃が、舌打ちの一つも、むっとした表情さえもなく、穏やかな微笑を浮かべて不思議そうに弥生をじっと見ている。
たったそれだけ、だが決定的なその違いが、それが――どれだけ恐ろしいか。
やはり、狛乃ではない、と確信を持つ。可憐な唇が震え、頬がかたく強張った。緑の瞳が捉えきれない恐怖に震え、ゆるゆると弥生は狛乃に聞いた。
「あなたは……なに?」
すると、狛乃は途端に――合点がいった! とでもいうように華やかに笑ってこう言った。
「自分は、自分だよ!」
女性よりも、ほんの少しだけ低い声が心底嬉しそうにそう言った。大事なものは、何も変わって無いよ! と。誇らしげに、自慢げに。
「だから大丈夫、怖くないよ!」
まるで、前にも同じことを経験したからわかってる、というように、狛乃は知ったふうに弥生に言う。自分の大事なものは、何一つ変わっていないから大丈夫、と。
そして、狛乃は声高に、
「弥生ちゃんは、大事な友達だから!」
満面の笑みでそう言った。
第百六十六話:ゆえに、亜神は蓋然性禁忌とする