第百五十八話・半:思い出したように降る俄か雨
第百五十八話・半:思い出したように降る俄か雨
――〝魔術師じゃないんだから、危ないことはしないほうがいい〟
――〝魔術師じゃないんだから、魔法なんて覚えなくていい〟
――〝魔術師じゃないんだから、普通に就職して大人しくしていなさい〟
彼女はいつも何度も、そう言われてきた。耳にタコが出来るほど、彼女がうんざりするほど言って聞かせる人々がいた。
それは両親であり、兄弟同然に育ったイトコであり、それの両親である叔父、叔母だったりしたが、一番うるさく、しつこく彼女にそう言ったのはその中の誰でもない、彼女の祖父だった。
そう、彼女――藤堂弥生の実の祖父であり、または元奴隷の男。
現代日本では時代遅れな肩書きをいつまでもその首筋に刻み込んだまま、氾濫する大河に抗い続けるような無為な行為を続ける男――藤堂博樹が、弥生の夢を誰よりも否定した。
魔法使いになりたい、と言えば、有無を言わさずダメだと言われた。
祖父と同じくソロモンで働きたいと言えば、聞こえなかった振りをされた。
どうしてもと食い下がれば、幼子相手に大人げなく、弥生が泣き喚いて、おじいちゃんなんて大嫌いよ! と叫ばれるまで、諦めなさい、と言い続けた。
幼い頃の弥生の記憶は、祖父の否定の言葉で満ちている。祖父が弥生に笑いかけたことはほとんどない。何故なら、弥生は祖父の顔を見る度にソロモンに連れて行って、とお願いしたからだ。
親族の中で唯一、ソロモンでの職に――いいや、あまつさえ総会の椅子は辞退すれども、幹部という立場に収まり、魔法と異種族のるつぼの中で生きる存在は、弥生の憧れだった。
幼い足は、祖父の背中を見つけると考える間もなく駆けだした。短い足を一生懸命に動かして、つんのめりながらも祖父の広い背中を追った。
認めてほしかったのだ。笑いかけてほしかった。いつか、お願いし続ければ、ソロモンに連れて行ってもらえると信じていた。仕方ないなぁ、と溜息まじりに、大きな腕で抱き上げてもらえると思っていた。
けれど、伸ばされた腕はいつだって払いのけられる。親族は皆、その様子を見かねて〝大人げないですよ〟と言っていた。けれど祖父を大人げないと詰る彼らもまた、祖父のようには言わずとも、一度だって弥生の夢を応援してくれたことはない。
誰もがダメだ、諦めなさいと弥生に言う。
それは、女の子だから? いいや、違う。
まだ若いから? いいや、違う。
理由は、たった1つ。
――弥生が、魔術師ではないからだ。
弥生の知る親族の中で、祖父と、祖母と、弥生だけが魔術師ではない。そのうち、祖母は例外だ。何故なら、祖父と結婚し、子を為した祖母は人では無かったから。公的にはただの人間だとされている彼女は、絶滅したはずのハブグリフォンだった。
どこで会ったのかも、どうやって結婚までこぎつけたのかも知らないが、祖父と祖母の間には二人の男の子が産まれ、そのうちの兄の方が弥生の父で、弟の方が睦月の父だった。
そのどちらもが何の因果か魔術師として生まれ、そしてその嫁も魔術師だった。そして、当たり前の話だが、魔術師と魔術師の間に子供が出来れば、その子供は十中八九――いいや、妙な奇跡でも起きない限りは魔術師として生まれてくる、はずだった。
そう、睦月だけではなく、本当なら弥生も、何の疑問も無く魔術師として生まれてくるはずだったのだ。
けれど、結果は無残なものだった。弥生にとっても、両親にとっても、親族の誰にとってもそれは不運なことだった。
敵の多い祖父。狙われやすい、絶滅したはずのグリフォンとの混血血統。簡単には手出し出来ない魔術師達が集う家系の中の、唯一の軟皮の子。
親族の中で、ただ一人の女の子だということもあり、弥生は蝶よ花よ、どころではなく、まるで高価な貴金属でも扱うように育てられた。
誰よりも大切な子。守らなければいけない子。そういう育てられ方をした割には、ちょっと高飛車程度に育ったのは、幸か不幸か祖父の大人げない、魔法使いは諦めろ攻撃のおかげだったのだろう。
祖父はいくども弥生の自信を打ち砕き、高い鼻っ柱は折られ続けた。ワガママが通らず泣いても、喚いても、祖父はその点に関してだけは、絶対に弥生を甘やかしたりはしなかったから。
けれど、そんな祖父も〝魔法使い〟という単語さえ出さなければ、弥生と睦月にはめっぽう甘い人だった。そうでなければ、弥生は祖父の愛さえ疑うことになったかもしれない。
魔法使いになりたいという希望以外は、本当に何でも叶えられた。欲しいものは何でも手に入った。欲しいと言えば、両親も祖父も、その不憫さを思ってか何でも買い与えたから。
特に祖父は弥生が魔法使い以外のものに興味を示すようにと考えてか、弥生が少しでも〝やってみたいな〟と言えば何でも一式買い揃えた。さあこっちに興味を持ちなさいとでも言うように。
ファッションに興味があると言えば高価な服を好きなだけ与え。鉱石図鑑を眺めていれば綺麗な宝石一式と、各種顕微鏡などの子供用とは思えない実験道具を部屋ごと誂え。
植物を育てるのが楽しいの、と言えば温室とプロの管理人を。護身用に手ずから魔獣を侍らせてみたいと言ってみた時には、言った数時間後には専門の調教師と各種魔獣が取り揃えられた。
けれど、そのどれもが弥生を満たすことはなかった。何をやっても物足りない。満たされない。
物が溢れ、全てに恵まれた部屋で弥生は何度も呟いてきた――〝私が欲しいものはこれじゃない〟と。
弥生が欲しいもの。弥生が憧れたもの。幼い頃から心に輝く、ただ一つの夢の形。
幼い弥生は、祖父に、自分を重ねていた。親族の中で、唯一の只人の身でありながら、魔法を扱い、知略を駆使し、何者にも屈しない祖父は、弥生にとっては唯一の拠り所だった。
子供心に思ったのだ――魔術師でなくとも、あんな風になれるんだ、と。
そんな事実は、そこに至るまでの険しい道のりを考えずに、弥生が魔法使いを諦めない理由になった。
弥生は知らない。
祖父が、藤堂博樹が今に至るまでの道のりを。その歩みを。
弥生は知らない。
その道のりが、どれだけの苦難と絶望に塗れたものだったのかを。
弥生は、知っているはずだけれども耳を塞ぐ。
祖父が、どれだけ自身のことを愛し、またそれ故に自身の夢を阻むのだということに。
けれどまた、祖父も知らない。
弥生が、魔法使いになるために、人知れずどれだけの努力を積み重ねたのかを。
――そして、今夜。ついに彼女は行動した。
浮遊二輪に跨って、眠そうなイトコを後ろに乗せて、真夜中の中空国道を法定速度ガン無視で駆け抜けたのは、ひとえに〝魔法使い資格〟を得るためだ。
弥生は通行証を提示することで、睦月はその付き添いとして、ソロモン本部の最深部にほど近い、魔法使い資格に関する認定や査定を扱う部署がある第四層へと問題なく入り込んだ。
何しに行くの? そんな深いところまで潜る理由は? と道中うるさかった睦月も、第四層へとたどり着き、そこが何の目的をもって機能している部署なのかを理解してからは青い顔で押し黙っていた。
初めてのソロモン本部。広大な地下空間。役所とそっくりな間取りのそこかしこでは、様々な人々が忙しそうに行き来している。憧れの場所に来たとはしゃぎながらも、目的を果たすために弥生は迷いなく揃いのバッジで制服を飾る受付の女性に話しかけた。
「あの、すみません! 魔法使い資格の最終試験についてなんですが!」
「ああ、はいどうぞ。推薦状と筆記試験合格証はお持ちですか?」
青い顔をした睦月は置き去りにして、弥生は素早く筆記試験合格証と身分証を提示し、同時にソロモン王が直々に書いた推薦状を磨き抜かれたカウンターの上に滑らせた。
魔法関連総合結社、ソロモンにて発行される魔法使い資格に必要なのは、筆記試験と実技試験、それと幹部による推薦状。このうち、最も重要なのは誰が推薦状を書いたのかと、実技試験という名の依頼解決実績だ。
魔法使いとしてソロモンに登録するということは、正式な魔法使いとして、モグリではなく公的に認められるということ。それだけの恩恵を得るということ。そして魔法使い達はその恩恵の対価として、定期的にソロモンからの依頼を請け負う義務がある。
その際に、理論だけで戦えない者をソロモンは必要としていない。ソロモンとは人も化物も、善も悪も跋扈する混沌世界。自身の身は自ら守れるようでなくては、無駄な死者を増やすだけであるとして、力無き者は拒まれる。
故に、その試練は最後の最後に、魔法使いとしての立場を望む者達に課せられるのだ。
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受付嬢に提示された書類に熱のこもった目を通し、喜び勇んで署名していく弥生を見つめながら、睦月は待合のソファに座ることも出来ずにただ呆然と立っていた。
睦月の見つめる先ではどんどん話が進み、推薦状に、筆記試験合格証など、必要書類が次々と確認されて、認められていく。
睦月は思う。〝おじい様、週末に会いに来いって言ってたでしょう? 一緒に行くわよ〟と言って真夜中に引っ張り出されただけのはずだったと。
確かに時間は変だったが、弥生姐さんとおじい様が電話でやり取りでもして、喧嘩になって、売り言葉に買い言葉で会うことになったのかも、と思ったのが間違いだったと気が付いたのは、いかにも役所然とした第四層に辿り着いてからだった。
案内板に書かれた、【魔法使い資格認定、更新はこちら】という文字を見れば、睦月にだって弥生が何をしにここまで来たのか分かってしまった。分かってしまったのだ。此処まできたら、いっそ気が付きたくなかったくらいのものだった。
今まで、〝私は魔法使いになりたいの! 睦月はどーおもう?〟と小さい頃から何度も弥生に聞かれる度に、困った顔をして〝僕にはよくわからないよ〟と答えてきた睦月は、いうなれば親族の中では唯一の中立派だった。
反対もしなければ、賛成もしない。強いていうならば、危ないことをするのは心配だな、と言うくらいの反対しかしてこなかった睦月が、何故そんな緩やかな反対しかしなかったのかと聞かれれば、それは弥生の行動力を舐めていたからだ。
そう、舐めていた。この少し年上のイトコを、睦月はずっと見くびっていたのだ。
親族だし、本当の姉みたいに育てられたから親愛の情はちゃんとある。でも、心のどこかで睦月は弥生のことを、ワガママな子だと思っていた。ワガママで、乱暴で、嫉妬深い姐さん。
睦月のことをじっと見つめる緑の目は、小さな頃はいつだって、大きくなった今でも時たまに、言い知れない嫉妬を抱えて小さく燐のように燃えているのだ。
〝魔術師で羨ましい、いいわね睦月は〟と言われるたびに、睦月は心の中で〝そんなにいいもんじゃないよ〟と反論した。勿論、心の中だけで、ひっそりとだ。
弥生がどれだけ魔術師であることに焦がれているかを知っていたから、睦月はついぞその言葉を口には出さなかった。表立って弥生の夢に反対するようなこともしなかった。
睦月が、魔術師ではない故に、身体的、肉体的な訓練も無く、あんまりにもみんなから大切にされる弥生を羨ましく思っていたとしても。
その不憫さから睦月に対する乱暴な振る舞いが許されていることを不満に思っていたとしても、きっと同じかそれ以上に、弥生は魔術師ではないことを不満に思っているのだからと。
でも、それでも睦月にだって不満はあった。弥生姐さんの夢が、魔法使いだってのはわかっている。けれど、だからといって家族みんなの心配を全部無視して、魔術師だっていつ死ぬかわからないような世界に踏み込むのは間違っているんじゃないかと。
私の気持ちを考えてよ、と言うならば、じゃあ死ぬほど心配な僕等の気持ちは考えてくれないのかと――。
「――そうですよね。あなたはただ、ご家族をとても心配なさっているだけなのに」
「……ええ。でも、きっと……姐さんは僕の気持なんかどうでもいいんです」
柔らかな声が睦月の隣で発せられた。それがあんまりにも自然で、するりと心に入り込んで来る内容だったから、睦月は無意識のままにそれに返事をしたのだ。
複雑な気持ちだった。誰かに慰めてもらいたかったのかもしれない。守ってやっているのに、こんなにも心配してあげているのに、どうして姐さんは、愚かにもそれを受け入れてくれないのだろう? と。
それは、押しつけがましい愛かもしれない。けれど、危ない世界に飛び込もうとする家族を、引き留めない者がいるのだろうか。
どれだけ危険か知りもしないで、どれだけの苦労があるのかも知らないで、ただ羨ましいと嫉妬の目を向けられる睦月の気持ちを――弥生は考えてくれたことがあるのだろうか?
そんな、弥生を姐さんとして守りたい気持ちと、これではあんまりにも理不尽だと叫ぶ気持ちがごっちゃになって、睦月の心が動揺する。悲しみと葛藤が心を揺らし、それは魔術師にとって致命的な隙となった。
普段なら、絶対にしない油断。どこに居ても、「守護者」の魔術特性を持つ者として、抱き続けていた周囲への警戒心すら薄らぐほどに。
そして、そんな脆くなった心に、柔らかな声はこう続ける。
「では、そんな方を――どうしていつも「守護」しているのですか?」
そんな問いを投げられて、睦月自身でも〝どうしてだろう?〟と思った。思ってしまった。
よく考えれば、それでも家族だし、とか、悪いところもたくさんあるけれど、それでも優しいところだってたくさんある、大切な僕の姐さんだから、という答えが出てくる筈なのに。
その瞬間だけは、心の底からそれに疑問を持ってしまった。こう思ってしまったのだ。
――どうして、僕が弥生姐さんを「守護」しなくちゃいけないんだろう? と。
そうして睦月が疑問を抱いた、ほんの一瞬。
彼の、「守護者」の魔術による、弥生への絶対の守りが暴かれるのと同時に――。
「こ……ふ……っ」
白く、鱗の散る細腕が蛇のようにのたくって、睦月の胸を真後ろから貫いた。
「書類を確認いたします――推薦状はソロモン王の正式な署名ですね。筆記試験合格証にも問題はありません。では、こちらが最終試験のための依頼書となっております」
銀の封蝋に黄金革の便箋筒。カラスの紋章が刻まれた銀蝋以外には、飾り気も何も無いそれを渡されて、弥生は震える手でそれをぐっと握りしめる。
そのまま一礼し、弥生はもつれそうになる足で睦月の所へ戻ろうとする。期待と緊張に震える身体とは裏腹に、弥生の頭は夢と希望でいっぱいだった。
これでもう、一々浮遊二輪に乗るのにも睦月を引っ張り出さなくてもいいのだと。一般人は立ち入り禁止の場所にだって、もう自分一人で行けるのだと。
後は依頼書と推薦状を交えて、おじい様を説得……もとい、もはや反対されても止まる気は無いが報告をすれば完璧だ。
後一歩で、夢を掴める。
もう、睦月に迷惑をかけることもない。
弥生は知っている。姉弟のように育った気弱なイトコが、ずっと自分を「守護」する役目に複雑な気持ちを抱いていることを。自分に嫉妬の滲む目を向けられて、いつも悲しそうな顔をしていた睦月。
実の弟のように、本当なら姉として守ってやりたかったのに、守られる立場であったもどかしさも、今日で全てが終わるのだ。
(これで、これでもう――!)
今日の依頼を達成すれば、あの砂漠の魔術師に勝利することが出来れば、きっと誰からも認められる。守られる立場を抜け出して、自分も、他の親族たちのように、華々しい世界へと、
――行けるはずだと思っていた。魔法使いになりさえすれば、全てが思うがままになると。夢が叶えば、自分もまた、素晴らしい活躍が出来るはずだと。
「……睦月?」
けれど、現実は当然のように弥生の前に苦難を伴って立ちはだかる。
軽い足取りがピタリと止まった。喜びと希望に満ちた弥生の表情が、悩まし気に自分を見つめる睦月の隣にいる者を見て、霧散する。
睦月の青い瞳は苦悩するように、泣き出しそうに歪みながら、弥生をじっと見つめていた。けれども、それくらいは弥生だって織り込み済みだ。
中立でありながらも、睦月もまた、非力な弥生を心配し、どちらかといえば魔法使いになることには賛成していなかったのは知っている。
だから、笑顔で迎えられるとは思っていなかった。喜びに浮かれる弥生の足が止まったのは、そのせいではない。
希望に満ちた弥生が一瞬で凍り付いたのは、彼の隣で、まるで影のようにひっそりと寄り添い、何事かを囁く女性の姿に、フードの合間に覗くその顔に、紛れも無い見覚えがあったからだ。
弥生は、その女性を知っている。その顔を知っている。その声が、考えが、何をもたらすのかもよく知っていた。
希望を殺し、破滅を囁く者。受けた恨みを決して忘れず、報復のための手間を惜しまない者。その想いは執念深く、その行いは知略に基づく――契約の女神、もしくは、
「地獄の魔女――!!」
咄嗟の弥生の叫びに、誰もがハッと顔を上げた気配がした。混沌世界の常だろうか、誰もが、その切羽詰まった悲鳴のような声を聞き過ごすことはなかった。
誰もが、そう誰もが。ガタガタと椅子を蹴倒し、書類をぶちまけ、備品を跳ね飛ばしながらも各々の得物を手に、即座に臨戦態勢に入る。
けれど、睦月だけが動かない。
彼は青い瞳を瞬かせながら、不思議そうな顔をして弥生を見ている。弥生の方を向いているということは、弥生の後ろで武器を構える職員達の姿も見えているはずなのに、彼は夢遊病者のようにぼんやりと立ったままだった。
彼の隣にいる女性――魔女、ジンリーは部屋中の視線を集めながらもゆっくりとフードを取り去り、まるで教師がいつまでたっても静かに出来ない子供達を窘めるように、そっと片手を上げて微笑んだ。
弥生も、他の誰もが、小柄な女性の、たったそれだけの動作で動けなくなる。声を上げることも出来ない。指先一つ動かせない。身動ぎをすれば、殺されてしまうかも。
そんな不安が浮かぶほどの動作ではなかったはずなのに、誰もがそんな思いを胸に硬直する、異様な光景。異様な空気。
そんな中で、魔女は緩やかに微笑んだまま、自身の得物に指をかけながらも構える前に動けなくなってしまった弥生を見やる。その唇は柔らかく動き、薄桃色のそれの隙間からは、緩やかな口笛の音が零れ落ちた。
軽やかな口笛の音。小さくささやかな旋律のそれは静かな空間に染みるように響き、そして、おもむろに魔女はこう言った。
「こんばんは、鼠さん方。お仕事の邪魔をして、申し訳ありません。あと、さようなら」
「――」
出会いの挨拶と、別れの挨拶。一つの台詞の中でそれを両立させた魔女は、ふふっと楽しそうに笑い声を零しながら掻き消えた。
「消えた……? いや……」
文字通り、煙のように。けれども、姿を隠せどもその圧迫感は消えていない。だからこそ、誰も動かない。動けない。
唯一、弥生だけが睦月を心配し、ふらりと倒れそうな様子で一歩を踏み出した。一歩はすぐさま駆け足となり、彼女は転びそうになりながら声も無く、つんのめるように大事なイトコの下へと走り出す。
他の者達は自身の身の安全のために、そんな短慮は起こさない。非常事態の時には無駄な動きはせず、安全が確認されてから動くべきだ。そんな考えが、彼等の足を冷たい床に縫い付ける。
けれど、彼等は動くべきだった。走り出すべきだったのだ。魔女の姿が消えた時点で、なりふり構わず、耐えがたい圧迫感に背を向けてでも、この場から逃げ出すべきだった。
あるいは、必死な様子で睦月に駆け寄る弥生もまた、もっと早くに動くべきだった。魔女の姿があろうとも、それが小柄な女性の形をした怪物であろうとも、イトコの無事を求めるならば、魔女、と叫んだ時に走り出すべきだった。
理由は、たった1つ。
――夜に口笛を吹いたなら、
そこにはきっと――蛇が来るから。