第八十九話:いざ行かん、竜に乗って
第八十九話:いざ行かん、竜に乗って
再ログインの気だるさを引きずりながら、アルカリ洞窟群の中を進み、来た道を戻ってようやく地上へとたどり着く。
空には満点の星。太陽は沈みきり、秋の夜が冷たい風と共に自分を出迎えた。割れる砂の道を上り切り、自然、星空を見上げながら肺腑にひやりとした空気を目一杯に吸い込む。
「準備は? 問題ない?」
「大丈夫、忘れ物も無い」
事務的に確認をする雪花に頷き返し、自分はそっと道を開いてくれたギリーの首筋を撫でる。ニブルヘイムの衝撃的な告白を聞いて以来、どこか落ち着かない様子のギリーだが、聞くまでも無くギリー自身から、自身が例え精霊だとしても、主への気持ちに変わりなど無い、とイケメンもかくやという言葉を貰い受けたばかりだ。
変わらぬ信頼を込めてその頭に頬を寄せながら、砂原を踏みしめて荒涼とした地を何とはなしに見回した。草一本も無いそれを何とも言えない気持ちで眺めていれば、アルカリ洞窟群から一人の男が歩いてくる。
砂色のデラッジの裾を揺らし、眼鏡をかけた細身の男。背が高いせいか、落ち着いた色合いに身を包んでいる割に妙に目立つ。金髪の隙間から覗く、金色の瞳。針のような瞳孔だけが、男の正体が人間ではないことを示していた。
ニブルヘイムの人の姿――その姿に目を細めた瞬間に、男は竜に戻っていた。巨体を月光に晒し、影が集まるように、灰が凝るように人間が竜へと変わる。
頭には4本の角。長い首が月を追うように空に伸ばされ、翼がぐぅっと伸ばされて鱗に吸い付いていた砂が剥がれ落ちていく。
『これをお望みなんでしょう?』
月を見上げたまま、厳かな声が降って来る。それに頷きながら、その巨体に怯えて首に絡みついてくるネブラを撫でつつ、ギリーの背の上でニブルヘイムを見上げる橙に声をかける。
「橙、籠に入りなさい」
ギリーの横腹の位置にある、鞍に取り付けられた籠にはいれというその指示に、嫌々と短い首を横に振る橙を見て、雪花がじゃあ、橙は俺がみると名乗り出た。
「いいの? 鱗、振動でけっこう痛いよ?」
橙を懐に抱えてギリーに乗ると、振動によって背中の鱗がこすれてけっこうな違和感がある。恐らく、痛覚を切っていない雪花にとっては地味に痛いだろうと言えば、雪花はそんなことより、と橙を抱き上げながらニブルヘイムを指さした。
「俺は橙抱えてギリーに乗るから、ボスはネブラと一緒にニブルヘイムに乗るべきだと思う。頭とか、そういう目立つところに」
籠に入らなくて済む! と喜んで尾を振りながら雪花にしがみつく橙の腹毛を撫でながら、雪花はそう言ってちら、とニブルヘイムの巨体を見上げる。
「あー、やっぱり。そうした方が良いかな」
「人が制御できてる、って見てすぐにわかった方が絶対に良い。ボスはただでさえ懸賞金かかってるんだから、そりゃNPCとテストプレイヤー共は喜ぶだろうけど、新規さんは驚きの方が強いと思う」
どうせなら頭にでも乗って、たらふくスクリーンショットを撮らせた方が、ボスの求める知名度的なものも向上する、という雪花の言はもっともだった。
しかし、これをどうやって乗りこなすのかと、思わず月を見上げるニブルヘイムを更に見上げる自分。どこにしがみつくかと考えて、角しかないかと結論が出るが、その鱗はつるつるしていて、しがみつくにはものすごく向いていないように見える。
「ニブルヘイムー!」
とりあえずは挑戦だとニブルヘイムを呼ぶが、その頭は下がって来ない。頭を下ろせといってもニヤニヤと牙を剥きだすだけで、逆にその頭はさらに高く上げられた。出来るものならやってみろとでも言うように、せせら笑う声すら聞こえたことに自分でも悪い癖が顕わになる。
悪い癖、すなわち、短気だ。
「ギリー」
静かな声でギリーを呼び寄せ、協力をお願いしてからたっぷりと魔力を込めて詠唱を開始する。早口で唱えきり、うつむく自分におや? とずっと上の方で首を傾げる竜の足元に、赤々とした魔力が魔法陣を描き切った。
『「【アルトール】!」』
地属性の分解魔術、それの二重発動に呑気に構えていた竜の足元は一瞬で陥没。砂が消失し、巨大なすり鉢型に凹んだ地面に吸い込まれ、巨体ががくんと穴に落ちる。しかしその爪は流石に砂竜というだけあって、咄嗟に砂に食い込み、滑りにくい構造であるがゆえに無様に落ちていくところまではいかなかった。
しかし、そこで終わらせるほどなら、自分は人から短気とは言われない。即座に再詠唱していた魔術を唱えながら、ギリーの鞍に足をかけたままギリーを飛び上がらせ、更にそこから鞍を蹴り付け二段ジャンプの要領で決して低くは無い位置にあるニブルヘイムの頭上をとった。
必死にしがみつくネブラを多少は気にかけながらも、唇は怒りを伴い滑るように動く。紡いだ言葉は魔力を編み上げ、ぎょっとして顔を上げる竜の鼻先に巨大な魔法陣の花を咲かせた。選んだ魔術は、自分の十八番である火の魔術。
元より赤いそれが親和性を伴って燃え上がり、威力を底上げされたそれが発動を渇望して火の粉を散らす。あんぐり、と驚きに口を開ける竜の口を着地の衝撃で無理矢理に閉じさせ、どのモンスターでも共通の弱点であろう〝目〟に向けて空中で抜き放ったアドルフの爪を振りかぶる。
――が、そこは流石にログノート大陸の覇者である竜種の、それも成竜。危険を察して即座に何かしらの魔法を撃とうとするが、彼の鼻先にいる敵の首には可愛い愛娘の姿。本気を出せば人間一匹、簡単に消し炭に出来るが、てこでも離れないとその首にしがみつく我が子を巻き込むわけにはいかないと、魔法を諦めて竜が妥協案に鋭く頭を振って自分を斜め上に跳ね飛ばした。
しかし、その妥協案は自分に安全な追撃を許す隙となる。未だニブルヘイムの頭近くに作り出した魔法陣は消えていない。自分の手の内で膨らむ魔力が未だ霧散していないのを見て取って、ニブルヘイムの顔色が変わり音速でその首が動く。追って、自分の喉は世界を変える呪文を叫んだ。
「――【ガル・ブラスト】!」
叫びに応え、ニブルヘイムの頭があった位置で魔法陣が炸裂。赤い因子に親和性があるゆえに習得した、ブラストの派生魔術であるガル・ブラストが深紅の小爆発を起こし、砂漠の冷えた空気を吹き飛ばす。
防炎マントを広げ、ネブラと自分の顔をかばいながら、爆風に煽られて体勢を崩した自分達を走り込んできたギリーが華麗に回収した。柔らかく地面に着地し、丁寧に下ろしてくれたギリーにお礼を言いつつ、ガル・ブラストの熱波を避けるために咄嗟に砂に頭を潜らせていたニブルヘイムにゆっくりと歩み寄る。
『ひど、ひどいですよ!』
砂から顔を上げ、くぐもった声でそう叫ぶニブルヘイムに、自分はにっこりと微笑んで見せる。
「ほら、頭があんまり遠いと話しにくいから」
『あなた、ネブラがいるからって容赦なく! ずるいですよそれ!』
「可愛い我が子に魔法なんて使えないしね? それでも、さっきの組み立ては随分練習したんだよ。成功したけど、シミュレーションとは違った。やっぱり、もう少し考えないと高位のモンスター相手じゃ避けられるな……」
さきほどの動きは、正規サービスが開始されるまでスキルの熟練度上げと並行して行っていた練習の成果だ。この世界でのモンスターの強さについていくために、他のプレイヤーもそうだが、皆、どことなくアクロバティックな動きを身につけつつある。自分もその例に漏れず、草原でギリーと雪花と、一緒になって随分と練習したのだ。
「今のは、ニブルヘイムとか砂竜モドキとかの体高が、まあ、頭が高い位置にある敵を相手にする時の組み立て」
『正直、組み立てよりもあなたの躊躇の無さと勢いが怖い』
「ありがとう」
『褒めてない!』
ギリーと協力し、二重でアルトールを発動すれば大抵の敵の頭は低い位置にくる。しかし、それでもまだ足りない時は先程のようにギリーに一度ジャンプさせ、そこから更に自分が鞍を蹴り付けてジャンプする。そうすることで、通常のジャンプじゃ届かない位置に届くのだ。そしてそれを可能にするために、鞍は最初のころよりもかなり分厚く、硬くアレンジしてもらっている。
何故、頭上をとることにそこまでこだわるかといえば、魔術師としてやってきて、一番重要なのは頭だと痛感しているからだ。もしくは身体の柔らかい部分を狙うということ。特に大抵のモンスターなら頭に目玉がある。どんなに硬い甲殻や鱗に覆われていようと、目だけはそれを防ぐものが薄い。
今のも、ニブルヘイムがわざわざ砂に頭を突っ込んでまで、ガル・ブラストを避けたのは、あのままでは大きなダメージは負わないものの、その膨大な熱で瞼ごしに眼球がやられてしまうと判断したからだ。
そういうところに本格的な【あんぐら】のシステムでは、瞼ごしに眼球が熱で白化することさえ珍しくない。
「まあ……良い練習になった。改善の余地はありだな。雪花! 外から見ててどうだった!」
「いい感じ! でもやっぱり周りも防炎マント必須! あと、やっぱり速度が足りない!」
掲げたマントの影から顔を覗かせつつ、雪花がそう返す。その足元には、砂にべったりと伏せたまま両腕で顔を覆い、じっと動かないでいる橙が見えた。草原での練習中もいつもそうやっていたが、あまりの可愛さに思わず何度目かわからないスクリーンショットを撮り、すぐにニブルヘイムに向き直る。
「これ以上は時間の無駄だから行こう。乗せろ、ニブルヘイム」
『……』
しぶしぶ、しかし、今度は大人しくニブルヘイムが巨大な頭を砂地に乗せた。恨みがましい目で見つめてくるそれを無視しながら、これ見よがしにネブラを撫でつつその頭に乗り込む。
案の定、つるつるとした鱗はよく滑り、どうにか頭の小さな突起に足をかけ、両手でしっかりと角の先端を握る。膝をもう一つの角に引っかければ、先程よりも安定した乗り心地になった。
荷物は全て雪花とギリーに預け、羨ましそうにぐあぐあ鳴く橙にごめんね、と言いながら、ネブラにしっかりとしがみつくように指示を出す。
念のために、ベルトに噛ませておいたロープを取り出し、即席の手綱としてニブルヘイムの角にきつく巻きつける。たわめた部分に腰を引っ掛け、より安定させることに成功した。
「よし、大丈夫」
『……落ちないでくださいね』
娘が一緒なんですから、と文句を言う竜の頭を撫でつつ、角をしっかりと掴みなおして頷いた。雪花が橙と一緒にギリーに乗り込み、落ち着かない様子で地面を引っ掻くモルガナがウォーミングアップというように小走りに走り出す。
ニブルヘイムは巨大な翼を広げながら、堂々とすり鉢状の穴から這い出していく。肩に力が入り、緩く羽ばたく翼が生んだ風が砂を巻き、地上に小さなつむじ風がわいた。
頭がぐぐ、と下がり、仰け反って滑り落ちるのを防ぎながら、必死になってしがみつく。ギリーとは全く違う感覚。滑る鱗がとにかく危なっかしい上に、頻繁に上下する頭の動きを把握するまでは、力をこめ続けてふんばるしかない。
必死な自分に喉の奥で笑いながら、ニブルヘイムが空気を目一杯に肺に送り込む。すぐ近くに巨大な黄金の瞳。鋭く並ぶ牙が覗き、砂竜は口を開けてその姿に似つかわしくない、高く狼の遠吠えのような声を上げる。
澄んだ空気はその音をどこまでも運ぶようで、途端に遠くから様々なモンスターの声が返って来る。あちらこちらから、夜の中に潜んでいたモンスター達が、竜の呼び声に応えて同じように叫び声を返す中――。
『――――!』
その翼が突如力強く羽ばたき始め、つむじ風が地を埋め尽くす。素振りのようなそれではなく、本格的な動き。リズムをとるように小刻みに振られる頭にしがみつきながら、自分の胸を高揚感が埋め尽くす。
――自分は今、巨大な竜の頭に乗っているのだ。
それがどんなに、どんなに言い表し難い感情か。その感情を深く噛みしめながら、ネブラをマフラーのように首に巻き、自分がひときわ足に力をこめた瞬間。
ニブルヘイムの身体がふわりと浮き上がり、そして一度地を離れれば、その翼は当然のように風を孕み、途端に高度を増していく。
眼下には小砂漠、アルカリ洞窟群の偉容。砂原の上で、まぶしそうに手で庇を作りながら自分達を見上げる雪花が、前を向き直りギリーの手綱を振るう。
走り出したギリーの何と美しいことか。自分が毛並みを整えたドルーウは、艶やかな三色の体毛を月明かりに光らせながら、たちまち細い足で地を蹴って風のように駆けていく。
ニブルヘイムもまた、それを追ってぐん、と翼を動かした。オールを漕ぐように、最初は緩やかに風の抵抗を強く受けて。次第に作りだされた風の流れに紛れながら、黄金色の巨体が滑るように月の下を走り出す。
ちょうどいい高度を保ちながら、ニブルヘイムは空を行く。自分とネブラを乗せ、〝始まりの街、エアリス〟を目指して。
力強く、金色の翼が夜を切り裂いた。