第八十六話:里帰りを目指して
第八十六話:里帰りを目指して
秋の夕暮れは駆け足でいなくなる。ついさっきまで、半分は橙色に染まっていた空は深い黒に呑み込まれ、太陽が最後の一瞬だけ強くきらめいて地平線へと落ちていく。
太陽が消えた途端に大空には星が瞬きはじめ、大気を温める存在を失くした風は、途端に冷たさを孕んで地を吹き抜ける。
「ネブラはどう?」
モルガナの背に乗り、雪花が静かに声をかけてきた。自分の腕の中で丸くなるネブラが寝ているかもと思ったようだが、その声にネブラ自身がひょいと長い首をもたげる。
気遣うような雪花のほうに鼻先を向け、きゅー、と鳴いてからまた丸くなった。
「もう大丈夫だってさ」
ギリーの背の上、ネブラの身体を指先で撫でれば、ぎっちり逆立っていた鱗も落ち着いていて、その上の羽毛も今は穏やかに風に吹かれるままになっている。それもそうだろう。自分はギリーに、雪花はモルガナに乗り、ずっと休まずに駆け続ければあっという間に街からは離れられる。
足元に広がっていた草原には細かな砂が混ざり始め、少し視線を先に向ければ、砂の海が広がっていた。エアリスから見て北に位置する小砂漠、アルカリ洞窟群だ。
手綱を振るい、ネブラの父親であるニブルヘイムがいるであろう洞窟を目指して、ギリーに砂の海を進ませる。
「朶さんに連絡は?」
「メッセージは一応送った。ただ、向こうから連絡が来るかは……」
メッセージ機能はセーフティーエリア外では凍結される。メッセージを送ることも受け取ることも出来ないことはないが、エリア外では送ることは出来ても送られてきたメッセージを開くことは出来ない。
必然的に、連絡方法は物理的な手紙か、それかフィールド上でランダム、もしくは固定で現れる天然のセーフティーエリアを見つけ出すかだが、そういうものはそう簡単には見つからない。
一応、朶さんにはログアウト中の安全を考え、北の小砂漠の洞窟にいるとは連絡したが、返信を待つ余裕は無かった。一応、ニブルヘイムを口説き落とせば撮影も可能かもしれないという思惑もあるので、完全な迷惑にはならないと信じたいところだ。
「ニブルヘイムに、うん、と言わせるしかない」
「ボス、お願いだから洞窟の奥深くで、ブラストとか撃たないでね」
セーフティーエリア内じゃないんだから、と困った顔で言う雪花の苦言を無言でスルーし、ギリーの手綱を握りなおしながら片手でネブラを撫でる。
荒く、早かった呼吸も随分と落ち着いた。街にいた頃とは打って変わって、穏やかな様子で丸くなっている。
自分達からしたら突然、耐えられなくなったように見えたが、ネブラのストレス症状が顕著に表れ出したのは正規サービスが始まった今日からだ。
恐らく、急激に増えた人間の数に、参ってしまったのだろう。大都市とはいっても、かつてほどの住民がいないエアリスの人口密度はそんなに高くはなかった。その環境が激変したのだから、もっと自分が気を使わなければならなかったのだ。
『主、そろそろ潜る地点だ』
「メッセージは……来てない。どう思う? 雪花」
「えー、あの人のことだから何かしら送ってくると思うんだけど――」
と、雪花がそう言ったのと時を同じくして、空から何とも形容しがたい声が聞こえてくる。雪花と共に頭上を仰げば、これまた何とも言い表し難い生き物がひらひらと舞い降りてきた。
「こんな生き物いたっけ……モンスター?」
例えるなら、コウモリの翼が生えた栗鼠だろうか。額にユニコーンのような、捻じれた小さな角がちょこんと生えていて、くりくりとした双眸は光の無い黒。身体はまんま栗鼠なのだが、額に生えた角と肩から突き出たコウモリの羽が、栗鼠とは思えない造形を形作っている。
その生き物はばたばたと羽ばたきながら、ジッ、ジッ、と短い声を上げて小さく畳まれた紙切れを差し出す。いや、自分からしたら小さな紙切れも、栗鼠の身体には大きかったようだ。ふらふらと枝から落ちる木の葉のような不安定な飛び方をしていた栗鼠は、荷物を下ろした途端に機敏に宙を舞った。
「う、わ……ハチドリみたい」
「……モンスターだろうけど、これ、まさかあの人の契約モンスター?」
動物番組で見かけた、ハチドリとそっくりな飛び方をしながら栗鼠はクルクルと自分の目の前で飛び回る。横目に見つつ畳まれた紙を開けば、そこには小さな文字で朶より、と書かれていた。
「えー……〝是非、砂竜を撮影したい。全力で口説き落として。私もそちらに向かうけれど、準備が終わって強制ログアウトの後、再度ログインしなおして小砂漠に向かう。君達は洞窟内に入り、安全地帯を確保してから交互にログアウトして待っていてほしい。出来る事なら、強制ログアウト近くまでログアウトはせず、時間を合わせてくれると助かる〟だって」
「俺はボスに従うまで。指示をどーぞ」
眠そうに欠伸をするモルガナの手綱を引いてたしなめながら、雪花が澄ました顔でそう言い切る。ギリーも自分の決断をうかがって、ひくりと大きな耳を動かした。
自分はメニューを開いて時刻を確認。強制ログアウトまではまだ時間がある。と、いうことはまだメッセージを送っても朶さんはそれを開けるだろう。
すぐにメニューからメッセージ機能を立ち上げ、手早く連絡事項を記入してから、ちょっとだけ手を止める。
「ギリー。朶さんが、戦闘を全く出来ない前提でいこう」
『ふむ』
「もしだ。もし、計画的に襲われた場合。PKにもグルアにも、他の何にも捕まらずに朶さんを乗せて、エアリスからここまで来れる?」
それを聞いてギリーは少しだけ顎を引いて考え込む。数秒して、静かに彼は首を横に振った。
『それは、自信が無い。モンスター相手ならまだどうにかなるかもしれないが、契約モンスターを伴ったプレイヤー達が相手だったら無理かもしれない』
「そっか、正直にありがとう――雪花! すぐに洞窟に潜る。強制ログアウトの時間までに最深部まで行って、ニブルヘイムを確保してから朶さんにメッセージを送る」
「いぇっさー、ボス」
事故が怖いからと、絶対に見栄をはったりしないギリーの言葉は信用できる。自分はぶんぶんと目の前でホバリングしている栗鼠にありがとうと声をかけてから、ギリーの手綱を振るって一息に命令する。
「ギリー、道を開け!」
途端、ぐぅっと足の下でギリーの肺が空気を吸い込んで膨れ上がる。広がった肋を足に感じながら、しっかりと手綱と子竜達を抱き込んだ。衝撃に備えた瞬間、ギリーが大口を開けて咆哮。びりびりと全身に響くほどの音量で吠えたギリーの鼻先で、ずずず、と砂が物理法則に逆らって割れ始める。
なだらかに砂の中に沈む洞窟への道が開いていき、ギリーは堂々と胸をはって歩み出す。退屈そうなモルガナはその後に続きながら、ぼそりと独り言のように呟いた。
『して――雪花、ここには美人はいるのか?』と。
しかし、雪花にいるわけないでしょ、と一喝され、寂しそうにいなないた。思わず吹き出せば不服そうにモルガナが頭を振り、それを慌てて雪花が押し止める。モルガナの角はよく切れる刀剣と同じだ。振り回すのは危ないと止められて、ようやく大人しく歩き始める。
「それでボス。何をするの?」
「ニブルヘイムも、さぞ我が子を乗せて飛んでやりたいことだろうと思って」
しれっとそう言い切れば、今度は雪花が吹き出した。雪花は今ので自分の狙いが分かったらしい。じゃあ急ごう、と手綱を振るい、雪花は足場の良くないはずの洞窟内で上手くモルガナを誘導して駆けさせる。
自分もそれに置いていかれないように手綱を振るい、ニブルヘイム座すアルカリ洞窟群最深部に向かって走り出した。