第2章/狂いし闇
月が煌々と眼下の街を照らす深夜二時過ぎーー東京近郊にある、鬱蒼たる蔦と雑草に周りを覆った元病院の廃墟にこの日、珍しく複数の人の気配があった。
国道の幹線道路からも視認出来る所に建つ此処はかつては大勢の患者がひしめく有名な病院であったが、ネットの情報によると90年代前半、国から受け取る診療報酬の不正請求が露見され、結果廃業に追い込まれたそうだ。
一時は心霊スポットとして一部の心無い若者達に度々侵入を許していたが、現在は廃墟マニアがたまに入り込むくらいであった。
そんな廃病院の玄関前ーーレントゲン専用バスと思われる大型車両が放置されたところにワゴンの改造車と一人の白人の男が立っていた。
ワゴンを運転してきたと思われるその男、ウェリントン眼鏡で知性的な印象をさりげなく加味しながら、遠目にはグレイの無地に見えるが実はブルーのチョークストライプ入りのダブルのスーツを着飾り、胸元にはピンクのタイという、ワゴンにはあまりに不似合いなスタイルであった。右胸にはチーフの代わりか、一本の蒼い薔薇が飾られ、男をよりエレガントに構築していた。
やがて、その男と対峙するように、数メートルの距離を隔てて一台のベンツを迎え入れた。
そこから吐き出されたのは、屈強な巨体を有した男と白いスーツに身を固めた白髪混じりの中年男の二人。後者はある組織の中堅幹部、組持ちの人間であった。
「待たせたな」
「遠い上に、こんなところまで御足労おかけしてすみません。ところで、お隣の方は?」
見た目から想像出来ない程の流暢な日本語であった。
「こいつはウチの若い衆の一人だ。気にせんでくれ」
白髪混じりの男に紹介された巨漢が軽く頭を下げた。
「なるほど、いわゆる〈逮捕要員〉ってやつですか」
こう告げた眼鏡の男の言葉に一瞬、巨漢が怒気を孕む。それをすかさず察知した白髪混じりの男は右手を軽く挙げて、
「そう言わんでくれ。なんせ、組に入って半年も経っちゃいねんでな」
「期待の大型新人、ですか・・・それは失礼しました。ではーー」
そう言いながら、眼鏡の男は背後に停めていたワゴンの後部ドアを開けると、そこから黒のスーツケースを下ろした。
「早速、交渉に入りましょうか」
そこから始まったのは、ある新型ドラッグの闇交渉兼取引であった。そして、数分後ーー
「では、1パケ04(0.4g)あたり一万ということで・・・宜しいですね」
「こいつの効能は大丈夫だろうな?なんせ、最近の薬はどれもこれもモノが悪い上に高すぎる。世知辛いのはこちとら一緒なんでな」
「そうは見えませんがね。それに最近、“北”からシャブが200キロ上がったとある筋から聞きましたが?」
「貨物船で海上投棄、ってヤツだろ。所詮、噂だ」
近年、某国からの供給ルートが絶たれて、覚醒剤相場が急騰しているのだ。
「噂、ね・・・あ、効能の方は前回のタイプに更に改良を加えましたので、決してハードに引けをとらないかと思います。ただし、副作用もハード以上になる場合もありますのでくれぐれもご注意を・・・あくまでも使用者の体質によりますが」
「値が高い割には未だ完璧じゃねえってワケか。阿漕な商売してんな、おたくら」
「前にもご説明した通り、コレはそんじょそこらのドラッグとは違います。確かに、作用時間の短さや身体依存性等クリアすべき問題はありますが、そこから得られる利益が臨床実験されたドラッグの比ではないことは御存知のはず。もう少しで完璧になりますよ。ちなみにこれは現在開発中のリキッド・タイプの試作品です。オマケとして一つだけ差し上げましょう」
そう告げると、眼鏡の男は上衣の内側からちょうどタバコ一本分のサイズの容器を白髪混じりに渡した。容器の中には赤黒い液体が満たされていた。
「早いところ、完璧に仕上げてくれ。最近の売は何かと手間かかる割には、どれもこれもおいしくねえ。そこへ来て、この“アカバチ(朱蜂)”のお出ましだ。今までとは比べものにならねぇ快楽と副作用を引き起こす最強のドラッグ・・・俺はこいつがいずれ世界の闇市場を席巻すると信じてるんだよ。全てが完璧になってくれりゃあ、シャブなんか目じゃねえ。これ以上、中国や香港の余所もんにでけぇ面なんかさせやしねえさ」
基本的に麻薬や覚醒剤等の密売に関しては、組織の下部団体の組員などが個人的に行っているという建前をとっている。ゆえに形式的には禁止している場合が多い。だが、実情は儲けた金の大半を上納金等として組織に持って行かれるため、上納金や自分達の生活資金を捻出するために危険だが利益率が高い非合法な資金獲得に見境なく手を染めるケースが多く、それに対して上層部も発覚しない限りは黙認しているのだ。
その一方で、組織にとっては同時に麻薬取引は効率のいいビジネスであることは紛れもない事実であった。そのメリットは少ない原資で膨大な利益を上げられること。ヘロインなら、投資とリターンの比率は1対1600といわれている。うまくいけば、使用者を確実に常用者化させることで販路が確立されて、そこから継続的に利益を得ることが出来るのだ。
「うまくいけば、いずれは直参にそれなりの“座布団”を用意してもらえるはずだ。だからこそ、俺はこいつに全てを賭けてるんだ・・・だから、早いところ頼むとおたくのボスに伝えてくれ、“代理人”さんよ」
「伝えておきます」
「ところで・・・こんなこたぁ聞くのも何なんだが・・・」
「何か?」
「・・・こいつの中身、一体何だ?」
「今更、何を」
「あぁ、ここまで首突っ込んでいながら、今更なのは分かってるんだ・・・先月の都内で起きた商店街での無差別殺傷事件や一週間前の集団リンチ殺人のことは御存知かい?」
「確か、通行人8人、リンチ殺人の方は少年10人の犠牲者が出たそうですね。しかも両方共、犯人は犯行直後に自殺したとか」
「どちらもそのやり口があまりに惨い所為か、マスコミも詳しい情報は流してねぇみたいだが・・・実は自殺した二人、この“アカバチ”の使用者なんだよ」
「ほう・・・」
眼鏡の奥の青い瞳が一瞬、不気味な光を宿した。
「いろいろ裏に手を廻して調べさせてみたんだが、警察もこの件に関しては何故か歯切れが悪い。ま、こっちとしちゃ助かってはいるんだが・・・」
「それなら、何の問題も無いでしょう」
「実は知り合いに理系に詳しい奴がいて、勝手に調べさせてもらったんだ。そいつが言うにはコイツは化学式からして今までにお目にかかったことが無いものらしい。シャブやマリファナとかのハードでも、ああ見えて100年以上臨床実験されてきている。だから、ある意味でドラッグとしての安全性は確保されているんだ。だが、この“アカバチ”は正直謎が多すぎなんだよ・・・なぁ、いくら完璧じゃないにしろ、血を飲みたくなる衝動に駆られるなんて・・・そんな副作用の薬、普通はねえだろ?ーーそろそろ、教えてくれねえか?いや、余計な詮索をしないってルールは忘れちゃいない。ただ、これからの事を考えて、せめてコイツのことだけでも・・・」
「悪いけど、そこまでにしてくんないかな」




