中途編入試験2
顔見知りに挨拶をするような気軽い声を残して、黎は真っ直ぐに博美の方へと駆けだした。
能力を使う訳でも無く、至って普通に。
事前に火之迦から、博美は火之迦が黎の一撃を喰らった時の話を聴いていた。
曰く、30メートルは離れていた距離を一瞬の内に踏破し、攻撃する前に殴られていた、という事。
それはすなわち、強化による身体能力強化なのでは?とも訊かされていた。
炎を操る火之迦のレベルは、既に発達。
発生、発動、発展、発達、発現という階位が存在するものの、発現の階位まで進めた者は実は誰も居ない。
現状で発達の階位が世界で最高の能力を保有している事になる。
そんな世界最強の能力者に油断があったとはいえ、一撃を入れる事が出来るのならば、同じ発達並みの力を持つ者だろうというのが能力研究者の見解だ。
能力の強さは端的に言えば倍数だ。
発生は1、発動は2、発展は4、発達は8、発現は16倍の強さを誇る、という計算らしい。
発展に成れば、戦車や戦闘機ですら正面から喧嘩できるとも言われているし、発達となれば軍隊とも戦えるのだと噂されている。
実際に1人の能力者に対して、そんな税金の無駄にしかならない事をするほど軍隊に遊ばせておく予算は無い、という理由などで実際にそれ程の能力を発揮できるかは実証されず、未だに眉唾物で机上の空論らしい。
能力者同士の戦いであれば相性で多少の変動はあるが大体はそんな感じなのだという。
何事も数字だけでは現わせないと博美は思っている。
だが能力の階位の壁というのは確かに存在するし、感覚的にもそのような感じだと本能が理解していた。
そして、目の前のただ走って来る少年からは能力こそ未だ感じられないが、得体の知れない感覚を感じ取れる。
火之迦と一度だけ戦った博美が感じた感覚が自分よりも強大な存在へ立ち向かう物だとすれば、黎との戦いに感じる感覚はまるで大きさこそ普通なのに底が見えない穴へと引き摺りこまれるような感覚なのだ。
今までに感じたことの無い、想像でしか解らない初めて体験する未知という名の恐怖。
空手という武道を納めているからこそ、相手の力量を推し量る技能を手にした佐藤博美の感覚的な推察だが、それは間違いなどでは無かった。
40メートル有った距離が30メートル程に縮まり、瞬きをした時だ。
文字通り、黎が瞬間移動したかのように目の前に現れていた。
「な……ッ!?」
驚愕と共に、目の前には黎の拳。
「……ッ!!」
博美は目を瞑らなかった。
だからこそ歯を食いしばり、来るであろう衝撃に備える。
それなりに力の乗った一撃だというのが見て取れるが、如何せん武道を修めた者の体捌きではない事を瞬時に理解できた。
大振り、不十分な体重の乗せ具合、崩れた体勢による力の分散、何より平均的な武術家を下回る筋肉量と筋肉の付き具合がその証拠だと博美は直ぐに看破したのだ。
黎の拳は間もなく、博美の顔面をフェミニストとは言えない遠慮のない一撃を叩き込んでくる事も理解していた。
黎の拳が博美の顔面に叩き込まれる数秒の時間。
時が止まったかのように、その状況を冷静に分析している事を博美はありのままに受け止めた。
だが、博美の身体は殴られる事を肯定した意識とは全くの別物のように既に行動に移している。
身体を強化された博美の身体は、常人ならば回避のしようが無い絶対不可避の一撃を回避させる事を可能とさせた。
黎の拳が目の前に現れた瞬間から、幼少の頃から続けてきた能力に依らない修練という反復によって染み付いた反射運動によって、正に考える前に身体が動いてしまう。
身体に染み付くほど繰り返した修練と、常人の肉体を遥かに超える強度と反応速度を強化する能力が組み合わさった時、世間一般どころか博美本人にすら想像だにしない化物へと変えてしまったのだ。
博美は顔面に迫った拳を首を僅かに傾け、最低限の動きで回避。
そのまま1メートルの岩を苦も無くかち割る威力を持つ正拳突きを黎の胸へと叩き込む事に成功させてしまった。
「かは……ッ!!」
黎の肺に貯め込まれた空気が強制的に吐き出され、もんどりうって吹っ飛んだ。
地面を無様に転がり、地面との摩擦によって黎の身体に無数の擦過傷が付けられる。
だが一番の傷は外傷ではなく黎の内臓だった。
博美の拳は黎の肉体を貫きこそしなかったものの、内臓の中身は瞬間的に加えられた強打によって破裂。
拳が当たった感触で、それを博美は悟り、青褪める。
また、やってしまった……と。
並みの能力者ならば人間の決して消す事の出来ない隙を縫って、博美が起こしてしまった事件の後から覚えた、壊さずにすむ柔道の投げ技なり絞め技なりで倒す事が出来ていたが、接近の気配すら悟らせなかった黎には、脊髄反射で本気の一撃を繰り出してしまった。
反射とは即ち、手加減が出来ないと言う事でもある。
気付いた時には手遅れで。
手加減の一切無い一撃をただ編入して来た少年へ加えてしまった。
手応えからして黎の身体は間違いなく一般人のそれであり、強化された博美の拳には、明確に衝撃の余波で肋骨が砕け、肉の潰れ、内臓が水袋の破る嫌な感触が残っている。
間違いなく、その砕けた肋骨は他の内臓器官……肺にも突き刺さっているであろう事も予想できた。
それは即ち黎の死を意味してる。
うつ伏せのままボロ雑巾のようになった少年を、博美は虚ろな瞳で捕えて―――――
「あ、あ……」
うろたえながらも、このような事態が初めてでは無かった為に、博美は黎を医務室へと運ぶために倒れたままの黎の下へと駆けだそうとした時だった。
「ごほッ、げほ……おぇッ」
激しく咽る咳と共に、黎は何事も無く立ち上がり、鼻血を鼻から出し、込み出したらしい多量の血反吐を口から地面へと吐き捨てた。
赤黒い血が、べちゃりという粘着質な液体が地面へとぶちまけられた事によって、その音が博美の耳だけに響く。
「え? なん、で……?」
博美はその光景に混乱しかできない。
間違いなく、自分の拳の感触は黎を博美の意志とは無関係にも関わらず殺したはずだった。
殺していなかった事に対しての安堵と共に、困惑という感情が博美の中で渦巻いて訳が解らなくなる。
「あぁ~、痛ってぇ……口の中が血の味しかしねぇ……」
博美の混乱を余所に、黎は胸を右手で擦りつつ口の中に残った血の味に顔をしかめる。
間違いなく黎は博美の強化された拳を受けた。
肋骨は砕け、肺に骨が刺さって呼吸困難になり、心臓にまで骨が刺さって、それこそ間違いなく黎は死ぬ運命晒された。
一般人だったならば、後は死を待つだけだっただろう。
しかし、黎は普通の人間ではなかった。
能力抱えた一般人なのだ。
正に虫の息に違いなかったし、黎でなければ死んでいた事は言うまでも無い。
黎は先程とは違った別の能力を発動させた。
火之迦や御影が探し出した、巷で騒がれた『吸血鬼』という名の能力を。
黎は本をあまり読まないし、ゲームも漫画も殆ど見た事が無いが、テレビなどで放映された古い映画で何となく吸血鬼という存在の最低限くらいの知識としての情報は知っている。
黎の『吸血鬼』は映画に出ていた吸血鬼の都合の良い能力だけを寄り合わせた能力と言えるだろう。
十字架や杭は効かないし、ニンニクも食べられ、鏡に映れもすれば、流水であるところの海を泳ぐ事も可能だ。
もちろん、太陽の光すら平然と幾らでも浴びられる。
そんな吸血鬼の弱点を無くした『吸血鬼』の能力は、不死身に近い治癒能力、身体を自在に変える変身能力、人間の体よりも強靭な身体能力という3点。
ただ能力が発動中は他人の血が極上のワインのように感じる事と、女性になってしまうデメリットがあるのだが、それは弱点と言うよりは蛇足だろう。
つまりは瀕死の重体を負った黎が『吸血鬼』を発動させ、瀕死から回復したというだけの話なのだ。
もっとも黎にとって、女性になる事は隠しておきたい事だったために、呆けている博美に対して幾分か高くなり始めた声で一歩的に叫ぶ。
「……っと、急用が出来たので試験はまた改めてやり直しで!!」
ある意味で後が無い黎は、どんな手を使っても合格して住居を手に入れ無くてはならない。
しかし、他人に女になった姿を見せたくない黎は闘技場に集まっている観客達の目を避けるために逃げ出した。
「え!? あッ、ちょっと!?」
いきなり背を向けて猛然と走り去る黎に対し、博美はようやく我に返ったが時既に遅し。
黎は闘技場の出入り口の向こう側へと消えてしまった。
そんな消えてしまった黎の背中を思い返しながら、博美は思わず口走る。
「良かったぁぁ……」
博美は殺していなかったという安堵感を今更に自覚できたからか、ペタリとその場に座り込んでしまう。
「能力的には十分、かな……」
それと同時に思い出したように編入試験をしていた事を思い出し、博美は呟いた。
一瞬で距離を詰める事の出来る能力と、瀕死から回復できるほどの治癒能力、どちらも使いこなしている事から、発展に限りなく近い発動といった所。
このような人材を逃す手は無いだろうと博美は評価する。
こうして、編入試験は釈然としない結末になったが、黎は明嶺学園編入試験に合格する事が出来たのだった。
「はっはっはっは、はぁ……ッ」
そのまま編入試験から逃げ出した黎は学園の人気の無さそうな庭園へと逃げ込み、ようやく足を止めて乱れた呼吸を整えた。
ゆっくり数分、余裕を持ちつつようやく一息ついた時には既に黎の容姿は大分変っていた。
髪の色こそ黒と変わらないものの、その長さは腰まで伸び切ってしまっているし、瞳の色は普通の人間には有り得ない真紅。
犬歯も幾分か伸び、身体は丸みを帯び、手足も男の時より幾分か細くなった。
黎の顔は元々若干男寄りの中性的なものだったが、それがより女性寄りへと変化し、胸や尻、腰は出るところは出て引っ込むところは引っ込んで、来ていた服は上下共にはみ出た部分は多少苦しく、引っ込んだ部分はブカブカになった。
「はぁ……来て早々に女に成るなんて思いもしなかった……先が思いやられるな……」
細くなって頼りなくなった自分の身体を見降ろし、溜息を吐いて座ろうとしたところでジーンズが少しずり落ちた。
凹凸のハッキリしてしまった身体は見ていて、とても情けなくなる。
黎にとって、この女性となるという事はあまり嬉しく無い。
何故ならほぼ一人で生きてきた黎にとって、女性とは弱い物だと思ってしまうからだ。
今でこそ、その考えは改めているが、女性の身体に初めて成った黎は随分と非力になってしまったと身を以て知った。
だから女性は弱い、そう幼い黎は思いこんでしまうも感情と自我の次に芽生える理性を得てから、それは間違いで女性でも強いと言う事を少しづつ納得する事になる。
だが如何せん、それは身体能力的ではなく精神的な状況で、という注釈が付く。
肉体で男性と女性を比べれば、ほぼ間違いなく男性の方が有利なのは疑いようが無く、女性の身体はどうにも頼りなく思えてしまう。
そんな事を考えながら、腰の括れで辛うじて引っかかっているジーパンのベルトを調整して丁度いいところまで締めてから座り込んだ。
そんな時だった。
「ん? そこに誰かいるのか?」
突然、かけられたために周囲に人の気配を感じなかった事で油断し、安心しきっていた黎は、声こそ出さなかったが飛び上がらんばかりに驚いた。
声の主は庭園の170センチはある正面の垣根を挟んだ場所にいた。
座り込んだ黎には、辛うじて目元までが見える。
何所と無く低い声に、ベリーショートの髪、恐らく男子生徒だろうと黎は予想した。
それと同時に不味いという思いが心中に広がる。
「あ、いや……その……」
それに動揺した黎は口がうまく回らず、つい口籠ってしまうばかりか、女になっている顔を見られたくないがために俯き加減になる。
「ふむ……迷子か? 少し待っていろ」
一瞬の間の後、今の黎の状況をから考えられる事を思い付いたのか、全然似合っていないが、ぶっきら棒な口調ながら何所か優しさを感じる声を最後に一度姿を見失った。
どうやら先程の垣根より高い180センチほどの長身だと思っていた彼の身長は、170センチを越える越えないか程だったらしい。
垣根の微かな葉音を最後に、またしても誰もいなかったかのように気配が消えた。
「え?」
気配を読むという芸当を黎は持っている訳ではないが、人が居れば何となく気配は感じられるはずで、黎はそれを全く感じなかった。
先程の試験官だった佐藤博美と同じく何か武術をやっているのかもしれない、と黎は感じた。
そんな事を考えていると、右の方から足音が聴こえ、先程の男子生徒だと思っていた人物が現れる。
徐々に近づいてくるにつれて、黎は自分の間違いに気付く。
よくよく見れば、男子学生の制服を着たボーイッシュな女生徒だ。
その証拠に、服の上からでも何となく解る程度には胸がある。
身長は男と並ぶ、女性としては170センチを越える長身に、ベリーショートの髪型だったために思わず間違えてしまったのだ。
何故、男子学生服を来ているのかはわからないが、無理矢理着せられている訳でもなく、その颯爽とした姿は、正に女性の理想の男性像をそのまま引っ張り出したような姿。
黎は思わず見惚れてしまう。
「君は……そんな恰好でどうしたんだ?」
目を見開き、黎の姿を真近で見た男装の彼女は言う。
容姿こそ女性化した事で変わった可愛らしい顔、白くキメ細やかな肌、流れるような長い黒髪、折れそうなほどに細い肢体だが、服は男物のラフなTシャツとジーパンのみ。
しかも先程の編入試験で博美のカウンターを喰らった時に吹っ飛び、地面を転がった事で一部が破れ、土埃に汚れたその姿は、まるで襲われでもしてどこかから逃げてきたような出で立ちだ。
「……あー、なんて説明したらいいか」
編入試験で女になってしまうのを見られるのが嫌で、途中で逃げたしてきてここに隠れてました、と言うにはどうにも言い出せるはずも無く、黎は視線を逸らしつつ頬を掻きながら力無く笑い、言い淀む。
「ふむ……どうやら込み入った事情があるみたいだな」
その仕草が余計な妄想を引き立てる要素になったかは定かではないが、男装の彼女は何を思ったか黎の近くにしゃがみ込んだかと思うと背中と膝裏に腕を通し、持ち上げた。
女性が男性にしてほしい……かどうかは定かではないが、俗に言うお姫様抱っこを黎はされてしまう。
今の状況を傍から見れば美男子にお姫様抱っこされる美少女の図ではあるが、近づいて見れば男装したボーイッシュな女子にお姫様抱っこされる美少女。
だが実際の所と事情を知る者が見れば、男装した女子にお姫様抱っこされる女性化した男というよく解らない図だ。
そんな図のまま、男装の彼女はまるで重さを感じないかのように軽やかに走り出した。
「一先ず、私の部屋で汚れを落として服を貸そう。 話はそれから訊くよ」
人間を抱えたまま息を乱さず、爽やかな笑顔を浮かべたままサラリと自然に彼女は言いうと同時に軽やかな速さが、その言葉を最後にトンデモない速さに変わった。
「え゛ッ? いやッ! それは不味い……ッ!?」
色とりどりの花が咲き乱れる庭園の風景が、色の線にしか見えなくなるくらいに。
正に飛ぶように目まぐるしく景色が移り変わり、ショートカットなのか、時折世界選手権で金メダルを取れるくらいの跳躍をするためとても怖い。
黎も『吸血鬼』を使えば出来なくはないが、お姫様抱っこというイマイチ力を込め難い体勢なので、黎は思わず男装の彼女に不本意にもしがみ付く形になった。
悲鳴を漏らさなかったのは、男の矜持の賜物だろう。