第29話 王都陥落前夜
その日、城門は民を守るためではなく、王を守るために閉じられた。
地鳴りの正体が足音だと知った時には、もう遅かった。
地平線を埋め尽くす影。
黒い波。
だがそれは魔物の軍勢ではない。
かつて人だった者たちだった。
兵士。農夫。商人。職人。母親。子供。
破れた服のまま、名残のある顔のまま、濁った瞳で王都を目指して歩いてくる。
叫び声もない。
擦れた喉から漏れる低い唸りだけが、世界の終わりを告げていた。
「門を閉じろ!! 全門封鎖!!」
王の命令が下る。
巨大な城門が軋み、跳ね橋が上がる。
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城門の外では、まだ人が生きていた。
「開けてくれ!!」
「赤ん坊がいるんだ!!」
「まだ感染してない!! 頼む!!」
門を叩く手。
泣き叫ぶ声。
だが門は開かない。
城壁の兵は目を逸らし、命令だけを叫ぶ。
「下がれ!! 離れろ!!」
次の瞬間、群れが到達した。
人だったものが、人に襲いかかる。
悲鳴が響き渡り、血が石畳を濡らす。
城壁の上から矢が降る。
だが数が違いすぎた。
一体倒れても、その上を踏み越えて次が来る。
押し潰され、噛まれ、引きずられ、やがて悲鳴が消えた。
代わりに増えたのは、同じ唸り声。
門の前に、新しい群れが加わった。
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王城内。
「王よ、民をお入れください! 民は国の礎ですぞ!」
「黙れ!!」
王は玉座の肘掛けを叩いた。
「食糧は限られている! 無益な者を抱える余裕はない!」
城内に残されたのは、王にとって価値のある者だけだった。
金を持つ者。利用できる者。美しい者。
それ以外は、切り捨てられた。
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城壁の上。
ヴァルド将軍は外を見下ろしていた。
敵ではない。
知っている顔を見ている。
酒場で語り合った友。
家族の話をして笑っていた部下。
今は全員、理性を失った瞳で城を見上げている。
「将軍……撃てません……」
若い兵の声が崩れる。
「……撃つな」
ヴァルドは低く言った。
「威嚇だけでいい。殺そうと思うな」
その直後、城壁下で結界を張っていた魔導士が噛みつかれた。
「ぎゃああああ!!」
助けに行けない。
誰も動けない。
やがてその魔導士が立ち上がる。
血に濡れた口元で、ゆっくり城を見上げた。
感染者の濁った瞳……人の理性は失っていた。
ヴァルドは唇を噛み、血を滲ませた。
(何が民のための開拓だ)
死の谷の調査。
王の命令。
国の未来のためという美辞麗句。
(あれは嘘だった)
ただの領土欲。
ただの野心。
その結果が、これだ。
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その時、城の中央から蒼い光が天へ伸びた。
「グラン殿……」
至高位大魔導師。
王城全体を包む巨大結界が展開される。
光の壁が、感染者の波を押し留めた。
「魔物は城内に入れるな!!」
歓声が上がる。
だがグランの顔は青白い。
汗が頬を伝い、唇は震えていた。
これは攻撃ではない。
守る魔法。
押し返す力ではなく、受け止め続ける力。
「グラン様、持ちますか!?」
若い魔導士が心配そうに尋ねる。
「……時間は稼げる」
「だが……いつまで食糧がもつか」
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数日後。
城内で食糧の奪い合いが始まった。
配給は減り、倉庫前で兵と市民が殴り合う。
「俺たちは外で戦ってきたんだぞ!!」
「作物を作ったのはこっちだ!!」
秩序が崩れていく。
グランは結界を維持しながら、それを見ているしかなかった。
魔物は防げる。
だが、人の醜さは防げない。
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重臣たちの会議は、もはや儀式のようだった。
結論は出ない。
希望もない。
ただ時間だけが過ぎてゆく。
その時。
静かに扉が開いた。
入ってきたのは、白銀の法衣を纏った一人の老人だった。
枢機卿カーディス・レヴァンテ。
細身の体。
年齢不詳の穏やかな顔。
常に微笑を浮かべ、声を荒げることのない男。
王国教会の頂点に立つ聖職者であり、王の精神的支柱とまで言われる人物。
「陛下、まだ道は残されております」
柔らかな声が、ざわめきを鎮める。
「……申してみよ」
「転移魔法の封印を解くのです」
空気が凍った。
「他国へ救援を要請し、即時戦力を王都へ招き入れるのです」
理屈は正しい。
隣国ルーメリアは滅んだ。
友好国は遠い。
通常の救援では間に合わない。
瞬時に軍を呼び込めるのは、古代より封じられてきた大規模転移魔法陣のみ。
「だが……他国の軍を王城に入れるのだぞ?裏切らない保証がどこにある」
「もはや選んでいる余裕はありません。滅びを待つか、信頼して賭けるかです」
反論の余地を与えない声音。
王は拳を握りしめた。
「……やるしかあるまい」
その決断を聞いた瞬間、カーディスは深々と頭を下げた。
「賢明なるご判断に、神の加護を」
その唇の端が、ほんのわずかに吊り上がったことに、誰も気づかなかった。
王国を救うはずの転移陣が、王国を滅ぼす門になることを。




