第二十一話 グラニスの分霊体
空気が、張り詰めていた。
雪の国フロストリアの白い山脈を遠くに望む国境の丘。
和平のために設えられた石の机を囲み、土の魔物たちが静かに佇んでいる。
その中心に――
岩の王、谷の主、グラニス。
かつて死の谷を揺るがした巨躯は、今や傷だらけで削れ、ひかりたちと同じ目線の高さまで身を落としていた。
威圧ではなく、対話のために。
その姿が示す覚悟の重さを、ひかりは痛いほど理解していた。
「……王様はどこ?」
ひよりのか細い声に、ひかりはようやく呼吸を思い出す。
ここまで来た。
歌が届き、言葉が届き、憎しみは止まりかけている。
世界はまだ、引き返せる場所にいる。
――そのはずだった。
遠くの地平線に、黒い線が現れるまでは。
規律正しい隊列。
翻る旗。
見慣れた紋章。
タリナ王国軍。
その先頭に立つ、金縁のマント。
「……ヴァルド将軍」
グランの声が、かすかに震えた。
ひかりの心臓が、嫌な音を立てる。
「王様は!?」
「陛下は来られぬ」
短い答え。
その背後で、魔法部隊が静かに陣形を組み替える。
殲滅の布陣。
「待って!!」
ひかりは思わず前に出た。
その姿を見たヴァルドは、馬をゆっくり進める。
怒りではない。
凪いだ湖のような、深く静かな目だった。
「異界の娘よ」
低く、よく通る声。
「子を持ったことはあるか」
唐突な問いに、ひかりの足が止まる。
「……ありません」
喉がひりつく。
「ならば分かるまい」
責める響きはない。
ただ、深い悲しみが滲んでいた。
「生まれた瞬間、世界のすべてになる存在がいることを」
風が止む。
「守ると決めた命が、自分より先に消える恐怖を」
胸が締めつけられる。
「私の娘は、笑うと目が細くなった。母親に似てな」
誰も動けない。
「花が好きで、土いじりが好きで……この大地の匂いが好きだった」
グラニスの体が、わずかに軋む。
「その娘が、谷の崩落で死んだ」
静寂が落ちる。
グランが目を伏せる。
「将軍……レオルドから聞かれたのですな。ミリア殿のことを」
ヴァルドの目が細くなる。
「私は将軍である前に、一人の父親だ」
声が、かすかに揺れる。
「娘は王国に忠誠を誓った剣士だった。軍に入る以上、死を覚悟していた。……だが」
そこで初めて、言葉が詰まった。
「来月、結婚するはずだった」
空気が震える。
「幸せの絶頂だったんだ」
視線が、ゆっくりとグラニスに向く。
「和平だと?」
声が低く沈む。
「奪われた父親に、その言葉を受け入れろと言うのか」
ひかりの呼吸が乱れる。
分からない。
でも、分かる。
その痛みを否定する資格は、自分にはない。
「……でも」
震える声を絞り出す。
「だからって、また奪ったら、同じことが続くだけで――」
「続けばよい!」
語気が強くなった。
「娘が死んだ日に、私の世界は終わったのだ」
涙はない。
代わりに、何かが完全に壊れていた。
「終わった世界で、守るべきものは一つだけ。復讐だ!」
「ここには同じ思いをした者が大勢いる。大切な家族、恋人を魔物に殺された者たち……誰がこの復讐を止められようか」
魔法陣が、次々と輝き始める。
「違う!!」
ひかりの叫びが響く。
「悲しみで動いたら、また誰かが同じ思いするんだよ!!」
「綺麗事を言うな!」
「綺麗事でいい!! それでも止めなきゃダメなんだよ!!」
グラニスが低く唸る。
「……やはり、人は変わらぬか」
「違う!! 信じて!!」
その瞬間――
「放て」
炎、雷、風。
魔法の奔流が和平の机を飲み込み、合意書は一瞬で灰になる。
「やめてぇぇぇぇ!!!」
叫びは爆音に消される。
土の魔物たちが砕け散る。
グラニスが前に出て、ひかりたちを庇う。
巨体が崩れ、岩が砕ける。
「グラニス!!」
ひかりが駆け寄る。
崩れ落ちた岩の奥で、光が脈打っている。
「……人の子よ」
弱々しい声が響く。
「信じたのは、我の選択だ」
「死なないで……お願い……」
「大地は巡る」
ひび割れた岩の奥で、光が小さく揺れる。
「憎しみもまた、巡る」
最後の光が弾ける。
崩れた岩の中から――
小さな少女が立っていた。
土色の髪。
琥珀の瞳。
「……分霊体」
グランが呟く。
少女はひかりを見つめる。
「歌……あたたかかった」
涙が止まらない。
「でもね」
少女は静かに言った。
「この国に、大きな災いが来る……魔王でない限り、止められない」
その身体が、土の粒子となって風に溶けていく。
静寂だけが残る。
ヴァルドはそれを見つめ、目を閉じた。
「……これで、終わった」
「終わってない!!」
ひかりの声が震える。
「何も終わってないよ!!」
そのとき。
そっと、右手が握られた。
つむぎだった。
震える手。
言葉はない。
でも、離さない。
ひかりは強く握り返す。
独りじゃない。
まだ、終わっていない。
その光景を見て、ヴァルドの呼吸が止まる。
「……ミリア?」
かすれた声。
つむぎを見つめる目が揺れる。
「……似ている」
信じられないものを見るように、立ち尽くす。
雪が降り始め、焼けた大地を覆っていく。
ひかりは涙で滲む空を見上げる。
「……それでも」
つむぎの手を握りしめる。
「奪わない世界を、諦めない」
その小さな誓いは、静かな雪に溶けていった。
――約束は砕けた。
けれど、希望まで砕けたわけじゃない。




