第二十話 猶予三日、裏切りの気配
雪はまだ降っていなかった。
けれど風は、北の大地、雪の国フロストリアへ進むほどに刃のように冷たくなっていった。
焦げた谷を背に、ひかりたちは歩いていた。
王国軍が去ったあとに残ったのは、静寂と後悔だけだった。
そして、グランがもぎ取った「三日」という、あまりにも短い猶予。
「……急ごう」
ひかりの声は小さいが、揺らいでいなかった。
目指すは北。
逃げた魔物たちの痕跡を追い、土の匂いを頼りに、谷を越え、さらに人の足が踏み入れぬ荒野へ。
やがて地面の色が変わる。
灰色の岩肌が露出し、ところどころに土が盛り上がった跡が見える。
「……います」
つむぎが、ぽにゃを抱いたまま囁いた。
その声に、地面が微かに震える。
(警戒している……当然だ)
ひかりは武器を持たず、両手をゆっくりと広げた。
「戦いに来たんじゃない」
冷たい風の中、声だけがまっすぐ届く。
「グラニスに、会いに来たの」
沈黙。
やがて、大地が低く唸った。
隆起する土塊。
岩が組み上がるように形を成し、巨大な影が現れる。
岩の王。
谷の主。
グラニス。
その姿は以前より小さい。
削れ、欠け、傷だらけだった。
「……また来たか、人の子よ」
声が、頭の奥に響く。
ひかりは一歩も引かない。
「ごめん」
最初の言葉は、それだった。
「止められなかった」
グラニスの視線が揺れる。
「人の軍勢は、我らを焼いた」
「違うって、言いたい。でも……止められなかった私も同じだよ」
悔しさが声に滲む。
つむぎが前に出る。
「……何故、フロストリアを襲わないの?」
「無益な血は、大地を痩せさせる」
グラニスの声は重い。
「だが我らは奪われた。奪われたなら、奪い返す。それが理だ」
「タリナ王国を襲うの?」
「然り」
空気が凍る。
ひよりが、ぎゅっと拳を握る。
「復讐したら、また復讐されます!」
「……知っている」
グラニスの声は、静かだった。
「それでも、我らの子は焼かれた」
ひかりの胸が締め付けられる。
「だから来たの」
風の中で、まっすぐ見上げる。
「復讐以外の道を、選べるかもしれないから」
大地が静まる。
「……語れ」
⸻
雪の国の国境が見える丘の手前。
土の魔物たちが集まる中で、ひかりたちは輪の中心に立った。
敵の真っただ中なのに、不思議と怖くなかった。
「王国は土地が必要だった」
ひかりは魔物と正面から対峙して、飾る事なく顛末を語った。
「……難民が溢れて、食べ物も足りない。でも、それは“奪っていい理由”じゃない」
グラニスは黙って聞いている。
「あなたたちが生きる権利と同じくらい、人間にも生きたい人がいる。でも、どっちかが消えるしかない世界は間違ってる」
「……では、どうする」
つむぎが震えながら口を開いた。
「分け合えないか、探すんです。土地も、水も、食べ物も」
「人は裏切る」
「それでも!」
ひかりは強く拳を握った。
「一度信じてみないと、永遠に敵のままだよ……」
長い沈黙があった。
風の音だけが吹き抜ける。
やがて、グラニスの体がゆっくりと沈み、目線がひかりと同じ高さになる。
「……我は、歌を聞いた」
低い声。
「奪うための音ではなかった」
ひよりの目に涙が浮かぶ。
「……撃たなかった者の目も、見た」
つむぎの顔をチラリと見る。
土の巨体が、ゆっくりと頷いた。
「……よかろう」
その一言で、空気が変わる。
「王国の代表を呼べ。我は戦を止める」
ひよりが思わず泣き笑いになる。
「ほんとに……?」
「ただし」
大地が低く鳴る。
「欺きがあれば、その時は全てを崩す」
「うん」
ひかりは力強く頷いた。
「約束する。今度こそ、裏切らせない」
その言葉の重みを、まだ知らないまま。
⸻
雪国フロストリアの白い山々が遠くに見える場所で、和平の場が整えられた。
石の机の上に和平合意書が用意され、あとは双方の代表が署名するだけ……。
ひかりの胸は、痛いほど高鳴っていた。
「間に合った……」
つむぎが空を見上げる。
「これで、止められるかもしれない」
ひよりは小さく笑う。
「歌、無駄じゃなかったね」
グランは遠くを見つめていた。
「……王が来るはずじゃ」
その言葉に、風が止まる。
静かすぎる。
鳥の声もない。
ひかりの胸に、嫌な予感が走った。
遠くの地平線。
小さな黒い点が、いくつも現れる。
それは、隊列だった。
旗が翻る。
見覚えのある紋章。
タリナ王国軍。
その先頭に立つ、金縁のマント。
「……ヴァルド将軍」
グランの声が、凍る。
ひかりの心臓が、嫌な音を立てた。
約束の時間より早い。
王の姿は見えない。
グラニスが、低く囁く。
「……人の軍勢だな」
ひかりは、必死に自分に言い聞かせる。
(大丈夫、ただの護衛。きっと話し合いに来たんだ)
だけど。
将軍の後ろに並ぶ魔法部隊の陣形は。
どう見ても――
交渉の形ではなかった。
風が、血の匂いを運んできた気がした。
それでもひかりは前に出る。
信じると決めたから。
信じなければ、この世界は終わるから。
その背中を、夕陽が長く照らしていた。
まるで――
処刑台へ向かう者の影のように。




