第十五話 一億の覚悟と、生き残りの声
谷へ踏み込む前、私は一度だけ足を止めた。
ひより。
つむぎ。
ぽにゃ。
そして、グラン。
視線を巡らせる。
誰一人として、失いたくない。
「……よし」
短く息を吐き、覚悟を固める。
「EVトラック」
はっきりと念じた瞬間、空間が軋むように歪んだ。
重低音。
次の刹那、地面に現れたのは巨大な車体だった。
最新型EVトラック。
静音設計、魔王の攻撃も防いだ厚い装甲、悪路走破仕様。
――一億円。
高い。
けれど、迷いはなかった。
その直後。
ピロリン。
スマホが鳴る。
⸻
【talina銀行アプリ】
前回残高
¥164,348,900
今回使用額
¥100,000,000
現在残高
¥64,348,900
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〈使用内訳〉
・EVトラック
100,000,000円
⸻
「……億り人じゃなくなったね」
ひよりが、かすかに笑う。
私は首を横に振った。
「いいの」
この人たちを守れるなら。
全員、無事に元の世界へ帰せるなら。
お金なんて、また稼げばいい。
――いつの間にか、そう思えるようになっていた。
この人たちは、もう、ただの仲間じゃない。
大切な、私の家族だ。
⸻
EVトラックは、谷の奥へと進む。
空気が重い。
魔物の気配が、肌にまとわりつく。
私は、ぽつりと呟いた。
「ねえ、グラン」
「先鋒隊って……二百人だったんだよね」
「戻ったのは……十人だけ」
しばしの沈黙。
「……死体が、あちこちにあるって覚悟はしてた」
「でも……全然、ないね」
グランは、低く答えた。
「……恐らく、捕食されておりますじゃ」
「餌を巣穴にまとめて確保する習性の魔物でしょうな」
「……いずれ、目にすることになるやもしれません」
「覚悟してくだされ」
「気持ちの良いものでは、ありませぬ」
ひよりの肩が、わずかに震えた。
つむぎは、窓の外から目を逸らさなかった。
⸻
「……待ってくだされ」
突然、グランが声を上げた。
「……あれは」
EVトラックが止まる。
「何?何か見える?」
私たちの目には、何も見えない。
ただ、風が吹き抜けているだけ。
だが、グランは確信していた。
扉を開け、外へ出る。
「危ないよ!降りないで!」
制止を振り切り、杖を掲げる。
短い詠唱。
次の瞬間、空間が揺らぎ――
目の前に、テントが現れた。
「……隠蔽結界」
グランは、迷わず中へ入った。
⸻
「ひより殿!すぐ来てくだされ!」
切迫した声。
中に入った瞬間、鼻を突く異臭。
……死臭。
床には、数名の戦士が横たわっていた。
誰も、動かない。
そして、その中央。
一人の若い魔法使いが、壁にもたれていた。
……生きている。
「……この子……」
私は思い出した。
王都での最初の謁見。
グランが、誇らしげに言っていた。
『儂の一番弟子ですじゃ』
『未来のタリナ王国を背負う男ですじゃ』
その青年だった。
彼は、王国でただ一人《至高位大魔導師》の称号を持つグランが、後継者として唯一認めた存在だった。
ひよりが、迷いなくスーパーポーションを使う。
淡い光が身体を包み、呼吸が、わずかに戻る。
彼は、うっすらと目を開いた。
「……師……匠……」
「無理に喋らずともよい」
だが、彼は必死に言葉を紡ぐ。
「……祠には……恐るべき魔物が……」
「……仲間が……」
「……守れなかった……」
その横。
二人の男女が横たわっていた。
一人は、剣士の女性。
彼のパーティメンバーであり――恋人。
結婚の約束をしていた相手。
もう一人は、彼の兄。
盾となり、最後まで前に立ち続けた戦士。
ひよりは歯を食いしばり、何度も回復を試みる。
……反応しない。
「……ごめん……」
「……もう……無理……」
死んだ者は、生き返らない。
現実が、静かに突きつけられる。
この世界は、ゲームじゃない。
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「……私も……戦います……」
若い魔法使いが懇願する。
「……仇を……討たせてください……」
声は震え、涙が滲んでいた。
グランは、低く言い放つ。
「ならぬ」
「お主では、死ぬだけじゃ」
「……魔法は、効かなかったのであろう?」
彼は、俯いた。
「……はい……」
「自分は……どんな敵でも倒せると……思い上がっていました……」
「……未熟者です……」
グランは、そっと彼の肩に手を置いた。
「未熟ではない」
「相手が、強すぎただけじゃ」
「それに――」
周囲を見渡す。
「この結界……見事じゃ」
「儂でも、完全には見抜けなかった」
「それだけの魔法を編める者を――」
声が、ほんの一瞬だけ詰まる。
「……ここで死なせるわけには、いかん」
拳が、強く握られていた。
肩が、微かに震えている。
――泣いている。
けれど、弟子には見せない。
「王都へ戻れ」
「儂のエターナル・ブルードラゴンを貸そう」
「王都に戻り、結界を固めてほしい」
「もし、儂たちが敗れたとしても、王都を、魔物から守れるようにな」
「お主なら、その役目を任せられる」
若い魔法使いは、震える手で、杖を握りしめる。
「……私に……その役目を……?」
「うむ」
グランは、はっきりと頷いた。
「……そして、伝えてくれ」
「祠の主を倒せたなら、死の谷に、開拓の道が開けるとな」
若い魔法使いは、涙を流しながら頷いた。
「……必ず……伝えます……」
「……どうか……ご無事で……」
⸻
エターナル・ブルードラゴンが、空へ舞い上がる。
その背に乗る弟子を、グランは見送った。
背中は、小さく――
だが、怒りと悲しみで、確かに震えていた。
⸻
私は、その光景から目を離せなかった。
……これが、この世界だ。
お金が減るだけじゃない。
命が、消える。
現実なんだ。
私は、EVトラックのハンドルを握った。
「行こう」
祠へ。
谷の主のもとへ。
この世界で、これ以上――
誰も失わせないために。
――それが、私たちの戦いだ。




