第十四話 焼きたての朝と、谷の主
ひよりの枕を確認し、二度寝しようとまどろんでいた私は、鼻をくすぐる甘い香りに気づいた。
――パン?
それも、焼きたての朝のパン屋さんみたいな匂い。
思わず、布団の中で深呼吸する。
キッチンの方からだ。
ベッドを抜け出し、そっと覗くと――
そこに、つむぎがいた。
既に制服姿で、フライパンとオーブンを使い、手際よく作業している。
焼き色のついた丸いパンが、次々と並べられていく。
「……おはよう」
「おはようございます」
振り返りもせず、淡々と返事。
「どうぞ。焼きたてです」
テーブルに置かれたパンは、表面がこんがり、ほんのり湯気が立っている。
よだれが出そうだ。
一口、ちぎって口に入れた。
「……美味しい」
昨日に続いて、期待を裏切らない。
外はサクッとしていて、中はふわふわ。
ほんのり甘くて、何もつけなくても口の中に旨味が広がる。
「……え、これって材料から?」
「はい。自分で作った方が美味しいので」
高校生が作るレベルじゃない。
⸻
ふと、周囲を見回して気づいた。
床が綺麗だ。
テーブルも、キッチンも、ぴかぴか。
「……掃除、したの?」
「はい」
「いつ?」
「皆さんが寝ている間に」
さらに。
「食事の準備と、部屋の掃除」
「トイレとお風呂も掃除しました」
「洗濯物も、干してあります」
……完璧すぎない?
「……若いのに、なんでそんなに出来るの?」
つむぎは、少しだけ手を止めた。
「私、母が十六歳の時に生まれた子なんです」
「二人で、ずっと苦労して生きてきました」
淡々とした声。
「だから、小さい頃から言われてました」
『なんでも一人でできるようになりなさい』って。
「家事は、習慣です」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……偉いね」
「そうですか?」
首を傾げる。
「ところで、お母さんって、いくつ?」
「三十一です」
「……」
なるほど。
おばさん呼ばわりされる訳だ。
……私と、変わらないじゃない。
⸻
しばらくして、ひよりも起きてきた。
「わぁ……いい匂い!」
一口食べて、目を輝かせる。
「なにこれ!美味しすぎます!」
ぽにゃも、専用のご飯を用意してもらっていた。
「くぅーん!」
尻尾をぶんぶん振り、完全に懐いている。
「……結婚する人は幸せね」
私の呟きに、つむぎは何も答えなかった。
⸻
「……そういえば」
パンを食べ終えた頃、ふと気づく。
「グラン、いないね」
どこにも姿が見当たらない。
その時――
外から、重い風切り音がした。
次の瞬間、扉が開く。
「戻りましたじゃ」
グランだった。
「どこ行ってたの?」
「ほっ、少し、調査を」
杖をつき、続ける。
「エターナル・ブルードラゴンに乗って、空からこの辺りを見ておりました」
……さらっと、とんでもないことを言う。
「この先に、祠がありますじゃ」
空気が、引き締まった。
「おそらく、大物が棲みついております。異様な気配を感じましたじゃ」
「その存在が、周囲の魔物を引き寄せているようですじゃ」
私は、即座に理解した。
「……つまり」
「そいつを倒せば」
「死の谷は、静かになる?」
グランは、ゆっくりと頷く。
「可能性は高いですな」
「ほっほっ、開拓も、現実味を帯びてきますじゃ」
ひよりが、拳を握る。
「行きましょう!」
ぽにゃも、「くぅ!」と鳴いた。
つむぎは、少しだけ目を伏せてから、言った。
「……行くしかないんですよね」
私は、立ち上がった。
「行こう」
焼きたての朝は、もう終わりだ。
死の谷の奥。
そこに棲む“主”が、私たちを待っている。
そして――
この一戦が、谷の運命を決めることになる。




