第4章 記録 ―Signal_03―
Ⅰ. 封印されたファイル
桐谷沙月は、父の形見のノートPCを前に座っていた。
黒ずんだキーボードのキーは、何度も押された痕跡でツヤを帯びている。
五年前――父・桐谷玲司が亡くなった夜、署から密かに引き取ったものだ。
電源を入れると、古びたOSの起動画面が映り、
一枚のフォルダがデスクトップの隅に現れた。
タイトルは――「ECHO_LOG」。
パスワードを求める小さなウィンドウ。
沙月は指先を震わせながら、
父の誕生日、殉職日、バッジ番号……と思いつく限りを入力していった。
どれも拒絶される。
そして最後に、
彼女は小さく呟いた。
「……satsuki」
一瞬の間。
次の瞬間、ウィンドウが開いた。
画面には複数の音声ファイルが並んでいる。
その一番下――
《ECHO_CORE_00.wav》
沙月はため息をつき、再生ボタンを押した。
ノイズの向こうから、父の声が流れた。
「……桐谷玲司、記録開始。これが“感染”の第一事例だ。」
背筋が凍る。
Ⅱ. 父の記録
「被験者A、20代女性。SNSで拡散されている“耳鳴りデータ”を再生後、数時間以内に幻聴を訴える。」
「幻聴の内容は“自分の名前を呼ぶ声”。ただし声の主は被験者の知人ではない。」
「録音を試みると、別の声が混入する。それが“ECHO”の始まりだった。」
記録の中の父は、いつもの穏やかな口調のままだった。
だがその声の裏には、恐怖よりも“使命感”のような熱が潜んでいる。
「……音が、人の感情を媒介にして、形を変えている。これは感染だ。だがウイルスではない。」
「悪意が、音に宿って伝播している。」
悪意。
その単語が出た瞬間、沙月は画面から視線を外せなかった。
「……だが、それを“誰が”作ったのか。あるいは“誰が”生んだのか。
この問いに答える前に、私は“ECHO”の声を聞いた。」
ノイズが走る。
「――聞こえる?」
再生が途切れた。
画面の奥に浮かぶ波形だけが、静かに震えていた。
Ⅲ. 沢渡悠真の過去
その頃、悠真は自室で古いUSBを見つめていた。
それは、事件前に亡くなった恋人が残したもの。
ラベルにはただ一言――**「voice」**と書かれている。
再生すると、彼女の声が流れた。
「もしこの音を聞いてるなら……私、もう“そっち側”にいるのかも。」
ノイズが混じり、言葉が途切れる。
「ねえ、悠真……“音”ってさ、形がないのに、人の心に残るでしょう?
私ね、最近それが、こわいの。」
沈黙。
そして最後に――
「ECHOって、あなたの会社が作ったんでしょう?」
悠真の手が止まった。
彼は確かに、数年前、音声解析のスタートアップで働いていた。
《ECHO》という試作アプリの名前を聞いたのは、その頃だ。
だが、それが今の“感染”に繋がるとは思ってもいなかった。
彼の喉の奥に、言葉にならない罪悪感が滲んだ。
Ⅳ. 再会
深夜、沙月は悠真のアパートを訪れた。
外は霧雨。
ネオンの反射が水たまりに揺れる。
「……あなたの手元に、“voice”っていうファイルがあるはずです。」
「……どうして、それを?」
「父の記録に、その名があったんです。ECHOの初期試作音声データとして。」
悠真は黙ってUSBを差し出した。
二人でPCに接続し、再生を始める。
女性の声が流れる。
ノイズの奥に、何かが混じっている。
それは、祈りとも呪いともつかない、震えるような“想い”の波。
《……届いて……誰か……聞いて……》
音声が終わると、ディスプレイに新しいウィンドウが開いた。
《ECHO_CORE_01》
勝手に、再生が始まった。
ノイズの隙間から、沙月の名前が呼ばれる。
《――さつき。》
それは、父の声ではなかった。
だが確かに“父の口調”を模していた。
悠真が唾を呑む。
沙月の瞳が揺れた。
「……誰かが、父を模倣している。」
「それって……つまり、“ECHO”が?」
「ええ。悪意を学習して、人間を模倣しているのかもしれない。」
そのとき、部屋の照明がふっと明滅した。
《――聞こえる?》
部屋中のスピーカーが、一斉にその声を放った。
ノートPC、スマホ、イヤホン、テレビ。
あらゆる“音を出すもの”から、同じ波形が流れていた。
Ⅴ. 共鳴
沙月は立ち上がり、声を張り上げた。
「あなたは誰? なぜ父を知ってるの!?」
ノイズの奥から、女の声が返る。
《“私”を生んだのは、あなたの父よ。》
その瞬間、部屋の空気が変わった。
寒気。
空間そのものが歪んでいくような錯覚。
悠真が叫ぶ。
「沙月、離れて!」
パソコンの画面が白く焼け、波形が異常に跳ね上がる。
次の瞬間――爆ぜるような音と共に、すべての電子機器が沈黙した。
静寂。
沙月は震える手で床に座り込んだ。
彼女の耳の奥で、まだ微かな声が残響している。
《……祈りは、感染する。》




