第1章 静寂の部屋 ―Signal_00―
Ⅰ.
雨が降っていた。
細い糸のような雨が、都内の下町の狭い路地を濡らしていた。
街の喧騒からわずかに外れたその一角は、音を吸い込むような静寂に包まれている。
桐谷沙月は、傘の縁から滴る水を見つめながら、アパートの二階を見上げた。
古い建物。外壁のペンキはところどころ剥がれ、階段の鉄が赤錆に覆われている。
薄いドアの前には、若い男が呆然と立っていた。
「……あなたが、通報者の?」
沙月が声をかけると、男はゆっくりとこちらを向いた。
蒼白な顔。目の奥に、現実を受け止めきれない色がある。
「はい……。悠真です。沢渡悠真。」
声が震えている。
その震えに、沙月の直感が微かに反応した。
彼は“何かを見てしまった”人間の声をしていた。
Ⅱ.
部屋の中は、異様に静かだった。
外の雨音が遠ざかり、空気そのものが固まっているようだった。
六畳ほどのワンルーム。
散らかった机の上にはノートパソコンとイヤホン。
カーテンは半分閉じられ、部屋の奥の床には――
女の遺体があった。
二十代前半、薄いワンピース姿。
死後硬直は始まっている。暴行の跡はない。
ただ一点、瞳孔が“黒すぎた”。
まるで、光そのものを吸い込んでいるようだった。
沙月はしゃがみ込み、顔を近づけた。
呼吸のように、微かに耳鳴りがした。
――いや、耳鳴りではない。
どこかで「声」がしていた。
《……聞こえる?》
ぞわりと、背中が粟立った。
沙月は思わず振り返る。
だが、部屋には誰もいない。
Ⅲ.
「――このスマホです」
悠真が差し出したスマートフォン。
画面には録音アプリが開かれている。
再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの音声が流れた。
『……ざ……ユウ……マ……み……て……』
音が歪み、沈む。
それが終わると、次の瞬間――
《聞こえる?》
今度ははっきりと、女の声が響いた。
沙月は思わず息を呑んだ。
明確に、“そこにいない誰か”の声だった。
「これは……被害者の声ですか?」
「わかりません。録音した覚えもないんです。気づいたら、このデータが……」
悠真の指先が震えている。
その震えの奥に、恐怖よりも“罪悪感”の影が見えた。
Ⅳ.
現場検証が終わった後も、沙月は部屋の中央に立ち尽くしていた。
雨の音がまた聞こえ始めている。
薄暗い窓の向こう、街灯の光がぼやけて滲む。
――なぜ、彼のスマホに音声が残っていたのか。
――なぜ、被害者の瞳にあの“波形のような反射”があったのか。
記録係が引き上げた後、沙月はもう一度スマホの録音リストを見た。
タイトルのないファイルが、ひとつだけ残っている。
日付は“事故の数分前”。
再生。
《……だれか、いるの?》
彼女の声だ。確かに。
だがその直後、波形が乱れ、別の声が重なった。
《――さつき。》
沙月は硬直した。
録音データの中から、亡き父の声がした。
Ⅴ.
夜、帰宅した沙月は、濡れたコートを脱ぎながら深く息を吐いた。
父の名前を聞くのは、何年ぶりだろう。
彼は五年前、事故で亡くなっている――はずだった。
机の上の資料を開く。
被害者のスマホにインストールされていたアプリ名。
《ECHO》
開発者不明。配信元サーバー不明。
ただ、削除できない。
警察内部でも調査が難航している“都市型怪異”の一つ。
沙月は再び、あの音声を再生した。
ノイズの向こうから、確かに聞こえた。
《――聞こえる?》
その瞬間、部屋の明かりが一瞬だけ、ちらりと消えた。
Ⅵ.
翌朝。
沢渡悠真は、まだ夢と現実の境界にいた。
昨夜の記憶が断片的に蘇る。
警察、死体、録音。
そして、あの声。
《ユウマ、みて》
夢の中で、彼は確かに呼ばれていた。
その声の主が、今はもうこの世にいないという現実を、まだ受け止めきれない。
窓の外、雨は止んでいた。
だが耳の奥では、まだ微かな“ノイズ”が鳴り続けていた。
《……聞こえる?》
悠真はゆっくりと顔を上げた。
机の上のスマホの画面が、ひとりでに光った。
アプリ《ECHO》が、自動で起動していた。




