第8話 旧校舎へ
~旧校舎へ~
「――あれ?」
秋が不思議そうな声を上げた。四人で生活校舎を出て旧校舎へ向かっている最中に、橋のところで見慣れた姿を見つけたのである。
「こんにちは、秋くん」
桜子は落ち着いた様子でひかえめにあいさつをした。
「あれ、センパイじゃん。ちーっす」
秋の後ろを歩いていた直も、桜子の姿を見つけてなれなれしく声を掛ける。
「遠藤君も、こんにちは」
桜子は余裕のある微笑みを崩さずに、清涼飲料水のような透明感のある声であいさつを返した。さすがの直も桜子に対しては、いつもの憎まれ口を叩くことはできないようだ。
「センパイはこんなところで何してんの?待ち合わせ?」
「え・・・聞いていないんですか?」
桜子はとまどった顔をする。
「あ、わり。忘れてた」
山中先生が思い出したように声を上げた。
「実は森下さんも一緒に来ることになってたんだよ。私が誘ったんだった」
「わたしは知ってたけどね」
花がうれしそうにうなずきながら言う。
「おいおい、じゃあ何で教えてくれなかったんだ?あらかじめセンパイが来るって聞いてたら、俺もそれなりにおしゃれしてきたぜ。俺、すっぴんだけど大丈夫か?」
直が茶化しながら花に言う。
「えへへ、忘れてたよ。ごめんね、さくら子ちゃん」
花は恥ずかしそうに頭をかいた。
「でもクソ真面目なセンパイがこんなことに参加するなんて驚きだな。生徒会も旧校舎には入ってはいけないってよく言ってたじゃねえか」
「あれは、学校側の意見を代わりに言っていただけで。私個人の意見ではないですよ」
桜子は苦笑しながら答える。
「バレたら怒られるぜ?生徒会長がこんなことしていいのかよ」
直は試すかのように、桜子を煽った。
「大丈夫ですよ。私はそこまで頭のかたい人間ではないですから。それに、私が参加することで、良いこともあるんですよ」
桜子は直の言葉をさらりと受け流し、微笑みを崩さずに言う。
「どゆこと?」
直は桜子にからんでも無駄だと悟り、素直に聞いた。
「森下さんが来てくれれば、もし他の先生に見つかっても何とでも言い訳できるってことよ。ほら彼女、めっちゃ評判のいい生徒会長だし」
山中先生がしれっとそんなことを説明する。
「ああ、なるほどな。センセも悪どいなぁ」
直も納得した様子でうなずいた。
「まあ、森下さんが生徒会長うんぬんっていうのを抜きにしても誘ってたけどね。だって森下さんも私のお気に入りちゃんだもの」
そういって山中先生は桜子にウインクをする。おい聞いたかよ、ひいきだ、義務教育の闇だ、と直が野次った。
「あら、私だって人間よ。それくらいいいじゃない。むかつくガキなんて大量にいるわよ。もちろん、直君だって私のとびっきりのお気に入りよ」
おお…そりゃどうも、と直は山中先生の急な告白にくすぐったそうな反応をした。ガラにもなく照れているようだ。
「そっかあ。桜ちゃんも来てくれるんだね」
ふと、秋はそんなことをつぶやいた。
しかし、言った後に秋はしまった、と思った。いつも学校では桜子のことを「森下先輩」と呼んでいるのに、つい愛称で呼んでしまったのだ。
桜子も、唐突に自分の愛称を呼ばれたからか、少し動揺しながら顔をふせた。心なしか桜子のミルクのような白い頬に赤みがさした。
それを耳ざとく聞いていた直が、ここぞとばかりに割って入る。
「え、え、何だよ今の?なになに?え、お前ってセンパイとそんな仲なわけ?ふしだらー」
「いや、違うよ。そんなんじゃないって」
秋も恥ずかしくなって否定する。しかし、直はにやにやとした笑いを顔に浮かべながら、そんな秋の顔をじろじろと眺める。
「じゃあどんな感じなんだよ?学校一の高嶺の花であるみんなの憧れのセンパイを、そんななれなれしく呼んじゃうお前はどんな感じなんだよ?」
「だーかーら、違うって。花と先輩は仲が良いだろ?だから俺も昔から先輩とは顔見知りなんだよ」
秋はむきになって否定を続けた。桜子は、そんな秋を困ったような笑いを浮かべながら見つめている。
「学校では森下先輩って呼んでるくせに、それ以外のところでは桜ちゃんなんだな。怪しいなあ。不純異性交遊だなあ」
「だって、そしたら直みたいにからかってくる連中がいるだろ」
秋は顔をしかめて言い返した。
「ふーん?被告人、他に、言い訳は?」
直からはまだこの話をひっぱろうという意思がありありと見てとれた。これは面倒くさいことになったと、秋はげんなりする。直のこういうところは実にめんどくさい。
「言い訳じゃないって。それに俺は桃子と仲が良いだろ?自然と先輩とも親しくなるよ。だって桃子の家に行けば先輩だっているんだから」
「おお、お前はセンパイの家で、センパイとお喋りもしてるんだな。なんとまぁスキャンダラスなやつだぜ」
なおも直は意地悪くつっこんでくる。しかし、桃子の話を出したことで多少は納得する部分があったのか、少し追及の勢いが落ちた。
「遠藤君、そろそろいいでしょう?秋くんも困っているし」
更に、見かねた桜子が助け舟を出してくれた。これではさすがの直もこの話を止めざるを得ないだろう。
「でも私も興味あるけどねえ。あんた達がそんな仲だったなんて知らなかったから。意外だったわ」
空気を読まず、山中先生がタイミング悪くそんなことを言った。せっかく話が終わりそうだったのに、と秋は心の中で恨めしく毒づいた。
「もう、先生まで・・・。この話はまた今度にしましょう」
しかし、それも桜子がぴしゃりと切り捨てた。こうなっては山中先生も直も何も言えない。先生までも黙らせるとは、さすが桜子だ、と秋は素直に感嘆する。
「そう言われちゃあ、仕方がねえな。また今度ゆっくりと、プレイボーイに話をうかがうことにいたしましょうか」
直は不完全燃焼な様子ながらも引いてくれた。山中先生も「なんだあ、残念」とつぶやいて歩き始める。
秋は誰にも気づかれないように、桜子に向かって謝るように片手で小さく拝んだ。
すると桜子は、そんな秋に優しく微笑みを返す。それは学校ではまず見ることのできない感情のこもった笑顔だった。
ああ、これでしばらく直からはこのネタでからまれるなあ。
秋はそんなことを思いながら後悔のため息をついた。
――しかし偶然にも、花だけはそんな秋と桜子のやり取りを見ていた。
なんだよー?ずいぶんと親しげな感じじゃないですか。
花としては複雑な心境だった。
でも、確かにしゅうちゃんって学校ではさくら子ちゃんのことを「森下先輩」って呼んでるなあ。そういえば、そもそも二人が学校で話してるところなんてあんまり見たことないかも。それに話をしていても、どこかよそよそしいというか。
でも、二人きりの時は「桜ちゃん」なんて呼んでたんだ。
花はその事実に少なからずもショックを受けていた。胸の奥がちくちくとうずくように痛むのは何でだろう。
――そっか。きっとこれがやきもちってやつだ。
花はそんな生まれて初めて芽生えた感情を、一人で密かに受け止めていた。
今まで、しゅうちゃんのことは自分が一番知っているつもりでいたけど、さくら子ちゃんは私の知らないしゅうちゃんを知っているんだ。
そして同時に、どこかで花は、秋は自分のものだと思って安心していたことに気づいた。しかし、それは自分の勝手な思い込みだったのかもしれない。
でも、しゅうちゃんの言うとおり、しゅうちゃんともも子ちゃんはお互いの家を行き来するくらい仲が良いんだから、自然とさくら子ちゃんとも仲良くなるのだって不思議じゃないよね。
そう、ただそれだけのことじゃないか。
花は自分に芽生えた気持ちを何とか飲み込んだ。
しかし同時に、今までそういう対象として見ていなかった桃子も、花にはとても不安な存在に感じられた。
うーん、でもなんだかなぁ。
――やっぱり、ちょっと、くやしいかも。
次回は12日の12時に更新予定です。またお昼です。