この世界に『幸せ』なんて存在しない。なぁ、気づいてたか?
朝早く誰もいない閑散とした教室で、一人席に座った俺は吐き捨てた。
「幸せになりたい、って言うのはイカれたやつのすることだ。」
高校二年生6月29日。文化祭前の浮かれたこの時期は、リア充が増える。その醜い姿は、自販機の下をカサカサ這い回るゴキブリのよう。
「井の中の蛙、大海を知らず。学校という狭い場所でモテるからって調子に乗りやがって。クソ野郎。」
そんな愚痴を言うのは俺こと、先日昼休みに弁当を真っ逆様に床に落として大笑いされた男だ。詰まるところ俺は、ただのクソインキャ僻み野郎。
そんな俺でも言えることがある。
「この世界に幸せはない。」って。
お前らは知っているか。幸せが相対的なものだと。何かと比べることで自分の優位性を知り、それが幸せに昇華する。
その比較対象。例えば、過去の自分や、周りの人間、見ず知らずの人。あるいは世界。なんでもいい。何と比べてもいい。
けれど、過去の自分を比較対象にすることをする人間はいない。必然的に全ての人間は自分以外と比べて、幸せを見つけている。特に、周りの格下の人間。
「過去の自分を比べることで、優位性を知るのは不可能。安定を好む人間たるもの、過去と今の自分に、大きな差など存在しない。あるとしたらそれはただの勘違いだ。それもいつか悟る。」
俺みたいなクソ僻みボッチや、芋くさいメガネオタク。コミュ障全開の独身アラサー教師とか。
そんな底辺の存在と自分を比べる人間しか、この世界にはいない。そして比べることで、実感するのだ。
「あぁ。俺って周りよりすごいんだ。」って。それがそいつの幸せになり生き続けるための原動力になる。
だから、お前らが言っている、幸せになりたいって言うのはさ、格下を嘲笑うことが根本にある下卑た妄想に過ぎない。
それすらできねぇやつ。いわば最底辺の中のさらにどん底のやつは自殺をするしかない。生きる希望がないのだから。
そして底辺の奴らは、その自殺者を嘲笑って幸せを感じ、生きる希望を見つける。
結婚とかする人生成功者は、そういう底辺の塊自体を嘲笑って幸せを見つける。
この俺でさえも、発展途上国の可哀想な子供を嘲笑って、幸せを感じてる。
何が言いたいか。お前らの思ってる、綺麗で正しい幸せなんて存在しねぇってことを言いたい。幸せになりたいって目指すほど、すごい物じゃねぇんだよ。
この世界の幸せなんて、所詮他人を見下すことでしか得られないクソみたいな幸せばかり。
よくお前らがニュースとかで、倫理観のない、非常識、そう言うのを物の良し悪しの判断に使うが、それが今、お前らが幸せを感じるためにやっている行動の性質だ。
自分が成長したから、結婚したから。それ自体は幸せじゃねぇ。自分の価値を高めるそういったレッテルは、お前の優位性を高める物であり、他人を見下す時、より上から目線をするための道具にすぎない。
お前らのいうプラス的の進化ってのは、全て下卑た行動をするための要素でしかない。それをしたいってほざく奴は何もわかってないんだ。
わかったか。この世界に真っ当な幸せなんて存在しない。
お前らが勝手に想像している幸せなんて、実際の幸せとまるっきり違うんだ。
だから、絶望しろよ。何もわかっていないクソ野郎ども。
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教室に入る人が来る。
「二人、か。」
サッカー部の連中らしき騒がしい男二人が後ろの扉からやってくる。
松葉杖をついていた。
会話していた。
「まあ、その怪我は頑張った証拠っしょ。いつも頑張ってるしさ。」
「そうだよな、頑張りの成果だよな。」
その声は嫌でも、俺の鼓膜に届いた。
俺は吊り上がった目で愚痴る。
「何言ってんだ。バカかお前らは。全ての失敗を肯定して生きろよ。醜い奴が。」
怒り狂っていても、俺の口角は上がっていた。
「あぁ。まじか。俺笑ってる。あぁそうか、俺、今幸せなんだ。あは、あはは、はは。」