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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第一部 姉 (七)

 

「ろくでなし」と聞いてきた父親の父親、自分と母を認めなかった祖父に声まで似ていると言われ、文九郎は寒気がした。元々鏡や水面に映る己の姿などほとんど見ないし、見ても髷の具合しか気にしていなかった文九郎だったが、今後は目にする度に悪寒が走る気がした。


「話を途中からしか聞いてないせいでしょうが、あっしにはどうにもわからねぇんですが……そもそもこれまで会わなくてどうということはなかったんですから、これからも会わなくても、どうということないんじゃありやせんか?なんで今頃になって、ここへお越しになったので?」

「おお、そうですか。話は途中からしか聞いておられませぬか。実は文九郎様の腹違いの兄上である現当主、主馬(しゅめ)様は長く患っておられ、そのぉ……先のことをあまり考えられないのでございます。御子も無く、このままでは御家断絶。そこで弟君である文九郎様を御嫡子にと……」

「ご嫡子ならば、ご親戚からお迎えすれば良いじゃありやせんか。あっしが新見様の身内たぁどうにも信じられねぇが、万が一そうだとしても、町家で育ったこんなあっしより、お武家様として育ったご親戚の部屋住みのお方のほうが跡取りとしてずうっと相応しくないでやすか」

「実のところ、そのことは某も大奥様に申し上げました。しかし大奥様の仰るには、大殿様の孫が一人もいないのなら致し方ないが、文九郎様がいらっしゃるのだから、文九郎様に継いでいただくのが一番であると……」


 文九郎はこの勝手な言い草に腹の虫が暴れ始めた。なんとか堪えて穏やかな疑問を口にした。

「岡っ引きの孫であるあっしをどうやって新見様のお屋敷に入れるので?」

「そこはまあ、やりようがございましてな。ご心配には及びませぬ」

 具体的に言わない真鍋に文九郎は更に腹が立った。どういうことをやろうとしているか、見当はつく。

「どうせあっしをまずはどこかのお武家様に養子として入れ、爺さんやお袋の名前を表向きには消してから、新見家へ入れようってんでしょう。そこまでしねぇと迎えられねえんだったら、ご親戚からお迎えになればいいじゃありやせんか。一手間でことは済む」

 文九郎は苛立ちも怒りも堪えきれなくなってきていた。頭には薄暗い中、延々泣き続けている母だと思う女の後ろ姿が浮かんでいた。

「俺には爺さんしか身内はいねぇんだ。帰ってくだせぇ」

「そう仰らずに、新見の御屋敷にお越しくだされ。御祖母様や姉君にお会いになれば、お考えも変わるはず……」

「とっとと帰りやがれ!」


 文九郎の我慢がプツンと切れた。真鍋の腕を掴むと、引っ張って店から追い出そうとした。町人が武家に対してそんなことをすれば下手したら手打ちものだが、相手は文九郎を若様扱いしているし、その良い者面ぶりを剥がすためにも構うものかと文九郎は思った。

 文九郎は栗本の伝手で柔術も習い、人足仕事でも身体を鍛えているから、大柄なだけでなく、力もかなりある。

 小柄な真鍋は驚いていた。

 酒井幸右衛門が慌てて止めに入ってきた。文九郎の腕を押さえて言った。

「文九郎様、お気をお沈めください。今日のところは帰ります。真鍋様、さぁ」

 中間に目配せし、二人で真鍋を促して外へ出た。

「また参ります。文九郎様にはなんとしても、御祖母様と姉君にお会いしていただきたいのです」

 兄君にとは言わなかった酒井である。


 文九郎は外へ出た三人を振り向きもしなかった。上り框に上がると隅に置いてあった箒を持ち出し、真鍋達が座っていた辺りの埃を荒っぽく外へ掃きだした。

 ぶへっと野次馬が埃を避けて戸口から消えた。

 文九郎の腹の中は煮えくりかえっていた。箒を手折りたいくらいだった。

 ――爺ちゃんの言う通り、あまりに勝手すぎる!そんなお家なんか断絶すればいい!

 旗本の場合、跡継ぎがなくて家が断絶した場合、当主の奥方、或いは元当主の奥方が路頭に迷うことはない。公儀はそれなりの扶持を終生与える。姉君とやらはどこかへ嫁に行くだろう。だから文九郎は新見家が断絶したとて、なにも気にならない。


  むかっ腹に任せて埃を散らして箒を元に戻したところに、引戸の無くなった戸口にひょいとまた顔が覗いた。さっき栗本の旦那を支えていた佐吉だ。

「御旗本の若様かもしれねぇお人に言うことじゃねえかもしれやせんが、一応お耳に入れておきやす」

「おめぇまで気色の悪い言い方しねぇでくれ。栗本の旦那の言伝てかい?」

「あぁ。どうも最近、武家屋敷や寺で盗難が続いているらしくってさ、目付方や寺社方から町方でも警戒してくれってお達しがあったんだ」

「武家屋敷に盗みに入るなんざ応援したくなるじゃねぇか」

「しっ!そういうことは小声で言うもんだ。とにかく辻斬りだけじゃなく、盗賊にも目を光らせろ、怪しい奴がいたらしょっぴけってさ」


 三年前の浅間山の噴火以降、天候不順や災害が続き、疲弊した農村から生きる術を求めて江戸へ流れ込む人が増えていて治安は年々悪化している。そんな状況だから、見かけない奴、怪しい奴を見かけたらしょっ引けと言われても、本当にそんなことをしたら、あまりに多くてすぐに大番所や伝馬町の牢屋はもちろん、自身番の仮牢もいっぱいになることだろう。

 文九郎は聞き流すことにした。



 翌日、人足仕事を終えると、文九郎は次の仕事場の確認のため、寄子になっている人宿の甲州屋に立ち寄った。

 甲州屋は間口三間の芝口一丁目にある裏店だ。

 文九郎はいつものように開けっ放しの戸口からひょいと土間に足を踏み入れた。すると一瞬店内が凍りついた。店表にいた五人全員が文九郎を見て動きを止めたのだ。

 次いで、いつもは愛想の悪い主の小左衛門(こざえもん)が不気味な笑みを浮かべて帳場から立ち上がり、わざわざ上げ床の縁まで出てきた。

 文九郎は背中に悪寒が走った。

「これは文九郎様、どうぞ御上がりください」

 小左衛門の言動のあまりの気持ち悪さに、文九郎は寒気が増してぞわぞわと鳥肌がたった。

「誰がどんな噂を吹き込んだかしりやせんが、あっしは太吉爺さんの孫の文九郎ですぜ。明日の仕事は場所が変わるってぇから、聞きに来やした。明日はどこへ行きゃあいいんです?」

 番頭は凍りついた表情から、これまた不気味な笑顔を浮かべ、「立ち話もなんですから、さ、お上がりになって」と言ってきた。今まで文九郎が甲州屋で一度たりとも聞いたことのない科白である。

「場所を教えてもらえたらすぐに帰りやす。……で、明日は何処へ行きゃあいいんで?」

 文九郎は問いを繰り返した。番頭が背中を押してきたが、頑として動かなかった。ここで迂闊に乗っては後が怖い。

「明日も人足仕事をなさるのでございますか?」

 小左衛門の物言いに、思わず文九郎は後ろを向いた。誰もいない。小左衛門に向き直ると、

「あっしはなんとかってぇお旗本とは関わりねぇっすよ。昨日の騒ぎは何かの間違いでしてね」

 小左衛門はじっと文九郎の顔を見つめてきた。

「あたしは新見の先代の殿様を少しばかり存じております。確かに似てなさるとは思っていたのですよ。顔も声も。血は争えませぬなぁ……」

 勝手に感慨に耽っている。文九郎は埒が明かないと、番頭に顔を向けた。

「さっさと明日の行き先を教えてくれ。早く帰らねぇといけねぇ。やることがいっぱいあるんですよ!」

「いくら困窮しているお武家様が多いこの頃といっても、お屋敷に迎え入れられる若様が人足仕事はいけませんでしょう。知らないうちはともかく、知ってしまってはね」

 甲州屋の下心はわかっている。文九郎に恩を売っておいて、新見家へ奉公人を世話しようというのだ。

「稼がないと干上がっちまいやすよ。新手の嫌がらせですかい、これは」

 文九郎は苛立ちを素直に顔に出し、腰に手を当てて小左衛門を睨み付けた。

 番頭には慌てた風があったが、さすが海千山千越えてきた小左衛門である。引き続き不気味な笑みを浮かべたまま、文九郎に告げた。

「明日はすぐそこの松坂屋さんの手伝いに行っていただきましょう。敷地奥の土蔵への荷移しですから、通りからは見えません」

 そんなことを気にするのかと文九郎は呆れて返事が遅れた。

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