第一部 姉 (六)
この時迄に同じ長屋の住人である野次馬達は、皆、耳は店の中の出来事にそばだてたまま、驚きの目で文九郎を見つめていた。
よくこんなに揃うものだと文九郎は感心した。
その中には見回りで忙しいはずの御町の旦那、栗本もいた。
「あんたをお屋敷に引き取りたいんだってよ。あのご家中の人」
「は?」
「そしたら太吉爺さん、今更なに言ってやがる!で、バーン!お侍さんが引戸を突き破って外へ倒れてきてね。あたしゃもう少しで引戸とお侍さんの下敷きになるところだったよ」
「ええっ!じゃあ戸はお陀仏かよ!」
暦は春だが、夜はまだかなり冷え込む。引戸無しで寝ないといけないのは嬉しくない。そのうえ家守の小言も半刻は続くだろう。
――ちったぁ手加減しろってんだ、あの馬鹿力!全然弱ってねぇじゃねぇか。なんでいつまでもあんなに元気なんだか。
文九郎は人だかりにどいてくれと手で示しながら、店の前へ歩いていった。
人だかりは好奇心丸出しの目で文九郎を見ている。
文九郎の耳に太吉爺さんの声が聞こえてきた。
「あっしが面倒見て育ててきたんだ。『文九郎様』はすっかり岡っ引きの孫ですよ。しかも岡っ引きになりたがっておられる。あんた方が不浄役人と嫌っておられる御町の旦那の手先にね。はっはっはぁ!手札を出そうかという相手が五百石の御旗本の若様と知ったら、御町の旦那も腰抜かすでやしょうな」
確かに盗み聞きしていた栗本の旦那は腰を抜かしていた。よく見たら佐吉と奉行所付き御用箱持ちの中間、平助に支えられていたのだ。
驚愕の目で文九郎を見つめながら、栗本が口を開いた。
「お、おい、文九郎、いや文九郎様、おめ……いや、あなた様は五百石の若様だと知っていや……いや、し、知っておられたのですか」
「旦那、慣れない言葉遣いしたら、舌噛みやすぜ」
実のところは文九郎も愕然としていた。
「おめ……いや、お主の父御が武家ではないかという噂は耳にしていたが、三一*とか、せいぜい我らと同じ三十俵あたりまでの御家人だと思っていたのに……」
文九郎もそう思っていた。
「文九郎様がお主の生業に憧れるのは当然であろう。あのとき其が大殿様を説得できておれば、このようなことには……誠に詫びのしようもない」
店の中の太吉と「御家中」侍の会話は続いている。
「詫びてお文が戻ってくるかい!岡っ引きの血を引く者なんぞ当家の恥、そんな子がいてはならない、いるわけがないと言ったのは誰あろう、大殿様だ。違ぇますかい?お武家様に二言はねぇんでございましょう?こちとら、金子も一銭たりと貰っちゃいねぇんだ。あの放蕩無頼の若様が岡っ引きの娘に手を出すわけがねぇって大殿様が仰ったからな!」
「お腹立ちはごもっとも!しかし大殿様はとうにお亡くなりになり、これは大奥様のたってのご希望にて……」
「皮肉なもんですな。そう言ってお文と文九郎を見捨てた大殿様に文九郎が似てるとはね。あれだけ種蒔きまくった若殿様にロクな子ができなかったってのも、いやもう、笑いが止まらねぇですよ。あんた方が蔑む岡っ引きの血を引く文九郎が一番デキが良いなんてね。くっくっくっ……」
「何卒、文九郎様を当家にお戻しくだされ。家中一同、丁重にお迎えいたす所存」
「戻す?文九郎はあの御屋敷に足を踏み入れたことは一度もありゃしませんぜ。ま、このこたぁ、あっしの気持ちは問題じゃねえ。文九郎が……いや、文九郎様がなんと仰いますかね?」
そこまで言って、やっと太吉は野次馬の中に呆然と突っ立っている文九郎に気づいたらしい。急に声を落とした。
「文九郎、一昨日お前をつけていたのはこちらのお武家様だろ?お前に話があるらしい。聞いて差し上げろ」
太吉の言葉に、上がり框で入口に背を向けて平伏していた二人の侍が一斉に後ろを向いた。
一人はあの額の真ん中に黒子のある侍だった。もう一人は六十をとうに越えていそうな白髪髷侍だ。
太吉はよろよろと二人の侍の横を通り抜けて土間へ降りた。
「爺ちゃん、どこへ行くんだい?」
文九郎の問いかけに太吉は木戸の方を指差しただけだったが、文九郎には源助町の木戸番、万作爺さんのところだとわかった。
「あとで迎えに行くよ。万作爺さんのとこから動くなよ」
文九郎の言葉に頷きも振り向きもせず、太吉は野次馬を睨み付けて木戸へと歩いていった。さっきまで怒鳴り散らしていたのが別人のように、その後ろ姿は力無く、歩くのがやっとというように見えた。
爺さんが長屋の木戸を出るまで見送ってから文九郎が店に目を戻すと、侍二人が土間に跪き、今度は文九郎に向かって平伏していた。土間に立っていた中間まで平伏している。
「文九郎様、お初にお目にかかります。其は新見家用人、真鍋十蔵。こちらは中小姓の酒井幸右衛門。あれは中間の甚兵衛でござる」
白髪侍が文九郎に向かって挨拶をした。文九郎が視線を向けなければ、中間の紹介は省いたのではないか。文九郎はそれも気に入らなかった。
「新見家の御家中の方々が何のご用でこんなうらぶれた長屋へお見えになったかは知りやせんが、祖父があんなに怒る相手とあっしが話すことはありやせん。お帰りください」
文九郎は冷ややかな口調で言うと、戸口の端へ退き、軽く頭を下げた。
「文九郎様、御祖父様共々、お怒りになるのはごもっともでございます。しかしこれは御二方にとって悪いお話ではありませぬぞ。もちろん、文九郎様だけをお迎えしようというのではありませぬ。御祖父様共々、新見家に来ていただこうと考えておるのです。新見家には文九郎様の御祖母様と兄君、姉君がおいでです。この方々と是非ともお会いしていただきたく……」
文九郎は苛立った声で真鍋と名乗った白髪侍の言葉を遮った。
「あっしは父親のことを『ろくでなし』としか聞いちゃあいねぇんですよ。今更そんな父親と繋がりがあるお人と会いたいなんて思いやしません。お袋とは三つの時に別れて、結局その後は会わないまま七つの時に死んじまったから、お袋のこともうろ覚え。あっしには祖父しか身内はいねぇんです。あの祖父が嫌がることは絶対に受け入れられやせん。金の問題じゃねぇんですよ」
「声まで大殿に似ておられる。あの時大殿とお文殿を説得できておれば……」
絞り出すような声でそう呟いたのは、額に黒子のある酒井幸右衛門だった。
* 三一: 大名や旗本、御家人の家臣のうち、特に給金の安い下級侍を指す。年三両一分の給金が江戸時代前半の相場だったことからついた俗称。…のはず(←)