第一部 姉 (五)
文九郎は、太吉爺さんが額に黒子のある侍のことを口にしたことがあったかもしれないと、思い返してみた。全く覚えがなかった。
そもそも太吉は昔のことをあまり話したがらない。物心ついた頃から文九郎は太吉が手掛けた捕物のことを聞きたがったが、自慢話になるはずのことさえ話そうとしなかった。
太吉の若い頃のことも、御用聞きとしての手柄や文九郎が物心つく前のことも、教えてくれたのは元南町奉行所同心、隠居後の成瀬とその住み込みの奉公人、為蔵だった。二人とも文九郎を可愛がってくれた。
その二人によると、十七で相州から江戸へ出てきた太吉は、食うに困って同じような身の上の若者と徒党を組んで盗みや強請に手を染め、お縄になったことのある、本当は前科者である。本来なら遠島になる所を、その男気に当時定町廻り同心だった成瀬藤九郎が太吉を気に入り、何にどう手を回したのか、太吉は遠島の代わりに成瀬の家に下男として五年間住み込みで働くことになったという。
おかげで人別にも奉行所の記録にも太吉が捕まったことは記載されていないらしい。だから、「本当は前科者」という言い方になる。
成瀬が感じ入り、際どいことをしてまで太吉を救ったのは、仲間うちで一番あくどいことをしていなかったうえに、仲間を逃がそうと、一人、囮になったことらしい。
その後成瀬の家を出てからは手札を貰い、御用聞きとして四十年近く働いた頑丈な身体と心を持つ男だ。そんな過去が今も太吉に弱みを見せることを拒ませているのだろうと文九郎は思う。
太吉が泣くのを見たのも恩人と崇めていた成瀬の一昨年の通夜だけだ。
文九郎の「九郎」は、もちろん成瀬藤九郎の「九郎」である。
思えば、文九郎が御用聞きになりたいと強く思うきっかけは、為蔵爺さんが話してくれた番屋での出来事だ。
御用聞きの勤めをこなすために、太吉はまだ小さい文九郎をあちこちに預けたのだが、その一つが源助町周辺の番屋だった。本来ならお叱りを受けるところだが、番屋につめる町役人達は快く文九郎の守りをしてくれたそうだ。
また文九郎の存在が番屋に連れてこられた罪人に思わぬ効果をもたらすこともあったという。あどけない幼児の姿に家族や昔を思い出すのか、刃向かったりシラを切っていた荒くれ者が素直に自白することが時々あったというのだ。
そんなことがある度に成瀬は「文九郎はちゃんと役に立っておる。良い御用聞きだぜ」と嬉しそうに文九郎を抱え上げたり、あやしたりしていたそうだ。
記憶にある幼い自分を抱き抱える太い腕は、太吉爺さんではなく成瀬なのだと、その話を聞いたとき、文九郎は思った。
記憶にあるかぎり、太吉が御町の旦那の御用聞きとして活躍する姿を見てきた文九郎は、十になる頃にははっきりと同じように御町の旦那の御用聞きになりたいと思っていた。一番身近な勤めだから、良い面も悪い面もよく承知しているつもりでいた。その上で自分に一番向いた勤めだと思うのだ。
成瀬が隠居した後に引き継ぐ形で太吉に手札を出した栗本も、太吉が手札を返してきたら、若くても太吉という後ろ楯がいるし、見所のある文九郎にも手札を出すつもりでいたという。
ところが太吉は文九郎に手札を出さないでくだせぇと栗本に頼んできた。太吉の言い分はこうである。
「あいつは若くて世間知らずでやす。ところが当人は知ってるつもりでいるから質が悪い。御用聞きだけで食っていけるもんではねぇし、後々のことを考えても、まずは堅気の仕事に就いてから、御用聞きをさせてぇんでやす。あっしの二の舞はさせたくねぇんで」
栗本も太吉の気持が良くわかったから、そうか、ではお前がよいというまで待とうと、太吉が返上した手札は当時の太吉の下っ引き一番手、杢二郎にだけ出し直された。
文九郎もいきなり旦那から手札を貰おうとは思っておらず、杢二郎の下で働こうと思っていたのが、それも太吉に反対されたから、頭に血が昇った。
「なんでぇ!なんで杢二郎さんの下で勤めんのもいけねぇんだよ!」
「まずは堅気の仕事に就けって言ってんだろが!堅気の仕事がなくて御用聞き一本で生きていけるほど世の中甘くはねぇ。俺をはじめ、そんな奴にロクなのがいねぇのはおめぇが一番よく知ってるだろ!」
怒鳴り合いは長屋では端から端まで筒抜けである。
「太吉爺さんの言うこともわかるけど、文ちゃんなら大丈夫だよね」
と、文九郎の肩を持つ者もいたが、
「太吉爺さんの後悔なんだよ。腰を落ち着けてできる生業をやってたら、文九郎坊の面倒をもっと見れたってのがあるんだよ」
「あたしは文ちゃんのことよりもお文さんのことを悔いてるんだと思うね」
と文九郎の悔しいことに、どちらかというと太吉爺さんの心情に深い理解を示す者の方が多かった。
結局、文九郎は数えの十五で無理やり商家に奉公に出された。そこから文九郎の仕事遍歴が始まる。
長年の付き合いから、太吉爺さんが頼めば快く文九郎を雇ったり、弟子にしてくれる大店の主人や親方が大勢いたのだが、やりたいことがあるのにそれを取り上げられている文九郎はどの仕事にも身が入らず、爺さんにも雇ってくれた主人にも悪いと思いながら、気持ちが逸れていくのをどうにもできず、どこも長続きしなかった。
太吉爺さんはそんな文九郎に業を煮やし、手札を返上してからも番屋に詰めたり杢二郎の相談役で小銭稼ぎしていたのが、これまで大きくしてやったんだからこれからは俺の食い扶持を稼げと、三月前にとうとう何もしなくなった。
文九郎はムカムカしながらも老いた爺さんに無理はさせられず、太吉爺さんが長屋の店からほとんど出なくなってからは、仕方なしに人宿の寄子となって日雇い人足や短期のお店勤めをして食い繋いでいた。
どうやったら、爺さんを説得できるのか、岩の方が遥かに柔らかいと思うくらいの頑固ぶりをよく知る文九郎には見当もつかない。
――死ぬのを待つってのもなぁ。
前にふとそう思ってしまったとき、文九郎はゾッとした。
太吉爺さんが死んでしまったら、この世に身内が誰もいなくなるのだ。
覚悟はしているつもりだった。だが、頭の中の呟きに走った悪寒は、文九郎の予想以上だった。
昨夕の夢と寝言を思い返し、文九郎は思った。
――悔しいけど、俺はやっぱりまだガキなのかな……
謎の侍二人に後をつけられてから二日後のことである。新たな人足仕事で夕方近くまでみっちりこきつかわれ、ヘロヘロの体でお梅の煮売屋で煮物を買い、文九郎が庄兵衛長屋に戻ってみると、爺さんと住んでいる店の前に人だかりがしていた。同じ長屋に暮らす暇人が出揃っている。
文九郎が声をかける前に、一番手前にいたおなかが文九郎に気づいた。まん丸く目を見開いてこちらへ駆けてきた。
「文ちゃん、あんたの父親の『ごかちゅう』だとか言う人が来てさ、さっきから大変な騒ぎだよ。爺さんの怒鳴り声はするわ、物の割れる音はするわ、引戸は破れるわ……」
おなかの言い方に「ごかちゅう」が名前だと思った文九郎は、物が割れて引戸の障子紙まで破られたことに、思わず頭を抱えた。
――片付けんのは俺じゃねぇか!あのくそ爺い、暴れるなら外にしろってんだ。……ん?「ごかちゅう」ってのは、「御家中」?