第一部 姉 (四)
文九郎は警戒しつつ人足仕事に励んだ。欠伸がどうにも止まらなかったから、傍目には暢気に見えたかもしれないが、異様な気配がしないか、常に気にしていた。
再び文九郎が自分を見つめる視線を感じたのは、人足仕事を終えて芝へ戻る道すがらだった。
火事場の片付けが早めに終わったので、文九郎は一寝入りを兼ねて芝神明傍の岡場所へ行くつもりだった。昨夜の辻斬り追跡と昼間の謎の視線に気が張ってしまい、どうにも気分が落ち着かないでいたから、気持ちを切り替えてすっきりさせるためにおなぎの顔が見たくなったのだ。その柔らかな胸に顔を埋めたかった。
おなぎは文九郎より五つ年上の、文九郎が唯一抱いた女であり、岡場所へ行くのはおなぎに会いたいと思うからだ。しかし惚れているわけではない。
おなぎには間夫がいる。おなぎは商売だから、文九郎が悪くない客だから、優しいのだ。
文九郎はよくわかっている。それでも今の文九郎に一時の安らぎを与えてくれるのはおなぎだけなのだ。
――後をつけられている。間違いない。
京橋を越えたところで文九郎は確信した。
昨夜追いかけた辻斬りを思い浮かべた。そしてそんなはずはないとすぐに取り消した。文九郎を見つけるのが早すぎる。偶然見かけたにしても、夜にちらりと見ただけの男を翌日に見分けられるとは考えにくい。なによりあの侍は一度も後ろを振り返らなかったのだ。
別口だとしたら、何か。次の夜回りまでのんびり過ごせると思っていたが、そうはいかないらしい。
文九郎は過去にあったことを一つ一つ思い返しながら、芝神明への道を歩いた。仕事場から後をつけられるようなことは思い浮かばなかった。
――だてに元岡っ引きの頑固爺いに育てられちゃいねぇぜ。相手を巻くことだってその気になりゃ簡単だ。けど、まずはつけてくる奴の面ぁ確かめねぇとな。
つけてくる連中を見極めようと、文九郎は岡場所へ向かう横道には入らず芝神明の境内に入り、葭簀張りの茶屋の裏にさっと回り込んで身を隠した。
この日も飯倉神明宮、通称「芝神明」の境内はなかなかの賑わいで、店間に見える表側を老若男女が行き交っている。数年後には風俗取締りで大打撃を受ける芝神明の境内と門前町だが、天明六年如月(1786年3月)のこの時は盛り場としての最盛期だ。
文九郎をつけている奴等はもうそこまで来ている。
まもなく葭簀張りの店の隙間に周囲を見回しながら姿を見せたのは、文九郎の予想外にも、きれいに月代を剃り、羽織袴の整った身なりをした侍二人だった。
二人の体格は昨夜追いかけた侍とは明らかに違う。まさかと思ってはいたが、確かめることができて文九郎にほっとする気持ちと残念に思う気持ちが交錯した。
――浪人ならともかく、あんなどこかの御家中みてぇなお侍ぇに睨まれるようなことした覚えはねぇぜ。何者だ?
二人は揃って困ったような表情をしていた。
「この辺りのどこかにいるはずですが……」
文九郎より年は少し上くらいの、ひょろりと背の高い若侍が葭簀張りの店の間を覗き込みながら言った。文九郎は慌てて隙間から顔を引っ込めた。
「我々が後を付けていることに気がついたということか」
そう言ったのは、相方の四十くらいの侍に違いない。
「気がついていたと思います。なかなかやりますな」
「感心しておる場合か」
若侍は店の間を抜けてきた。文九郎は入れ替わるように隣の隙間に身体を入れた。うまいこと、そこには大きな桶があった。文九郎はその影に潜んだ。気配を消すのも爺さんを見習って得意なことだ。
暫くの間、店の裏側の土を草履が擦る音があちらこちらへ動いていたが、やがて消えた。
文九郎は桶の影からまた茶屋の裏手へと回った。用心して侍の気配が遠くに消えてからもまだ暫く店裏に潜んでいた。
そうして店の間から辺りを窺い、二人の姿も気配もないのを確認してから、やっと楼門の方へ早足で戻った。
とんだ邪魔が入ったことで、すっかり岡場所へ行く気分は萎えてしまっていた。そのうえ芝神明の表玄関たる木戸付きの総門では、会いたくない奴と鉢合わせた。
「文九郎、おめぇが神明様へお参りするたぁ、あれだな。真っ直ぐ行った所じゃなくて左の方へのお参りだな」
寅吉という、隣の長屋で生まれ育った文九郎の幼馴染みがぬっと現れて行く手を塞いだのだ。図体がでかくて口はよく回るが、いざとなると口ほどに度胸はない。小さい頃にはこいつに文九郎はよく苛められ、やり返していた。
「よお、寅吉。相変わらず暇そうだな。こっちは色々忙しくてな。そっちのお参りはまた今度だ。じゃあな」
文九郎は神明前から庄兵衛長屋近くまで早足で戻った。何とはなしに足を緩めることができなかった。
庄兵衛長屋の木戸口が見えてきたところで文九郎は足を緩め、手前の路地に入った。そこにほぼ毎日菜を買っている後家のお梅が営む煮売屋がある。記憶にあるかぎり、文九郎か太吉が毎日煮物や膾を買ってきた店だから、文九郎にとってお梅の味付けがお袋の味だ。気の良いお梅は小さい頃には文九郎の面倒を見てくれてもいた。
「文ちゃん、お帰り。今日は蕪の甘酢漬けがあるよ」
蕪の甘酢漬けは太吉の好物である。
「おう、それ、二鉢分貰ってくよ。いくらだい」
いつものようにお梅の菜を片手に文九郎は太吉が待つ六畳一間の店に戻った。
「爺さん、帰ったぜ」
引戸を開けると、太吉爺さんの背中が見えた。胡座をかいて座っていた。髷の様子からして横になっていたのを慌てて起きたらしい。
夕方にこの姿で文九郎を迎えるのがかれこれ二月ほど続いている。
爺さん、めっきり老けたと、文九郎は感じていた。それでも孫にすら弱味を見せようとしない太吉に文九郎は半分呆れ、半分感心していた。
文九郎は今朝炊いた釜の中の飯と作り置きしていた味噌汁の鍋を確かめた。鍋は空だった。食欲は変わらずあるようだ。
「なあ、爺ちゃん、あんたどこかのご家中に恨み買ってる覚えはねぇか」
昨日から茶袋が入れっぱなしになっている薬缶に水を足し、温め直しながら文九郎は聞いた。
「あ?そんなもん一々覚えてるわけねぇだろが」
太吉は右肩を回しながら、文九郎には顔を向けずに答えた。
「……だよな。聞いた俺が馬鹿だった」
「なんでそんなことを聞く?何やらかした?」
やっと太吉は文九郎に顔を向けた。
「俺は何もやってねぇよ。てめぇに覚えがねぇから爺ちゃんかと思ったんじゃねぇか」
「……どんなお侍ぇだ?」
「一人は俺より年が二つ、三つ上くれぇの面長で目の細い侍。もう一人は額の真ん中に黒子のある、丸い目をした四十過ぎくれぇの、ちょいと腹が出っ張りぎみの侍だった」
太吉はまた文九郎に背を向けた。
「……なーんも思い当たらねぇな。ふん、覚えてねぇ奴らに忘れた頃に仕返しされたりするのが町方の御用聞きだ。割の合わねぇ勤めだ」
文九郎が町方の御用聞き、岡っ引きになることをまだ諦めていないとわかっている太吉爺さんは、最近は何かと岡っ引きの割に合わない面を口にする。
差し向かいに座り、冷飯に熱い茶をかけてお梅の煮売り屋で買った菜で胃の腑に掻き込むという、いつもの夕食の間も、文九郎はさりげなく太吉爺さんの様子を観察した。
文九郎の勘は鋭い。太吉爺さんが「なーんも思い当たらねぇな」と答える迄にあったわずかの間に、何か隠していると感じた。
――爺ちゃんは額の真ん中に黒子のあるお侍ぇに覚えがあるんだ。何があったんだろう?