表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月夜の鵺  作者: 空木弓
4/43

第一部 姉 (三)

 

 毎朝、文九郎は爺さんと自分のために飯を炊いて味噌汁をつくっている。

 文九郎が小さい頃には太吉爺さんが朝飯を炊いていたが、数えの八つで文九郎は飯の炊き方と味噌汁の作り方を覚え、自分でつくり始めた。御用聞きで忙しい爺さんを助けるためという殊勝な心持ちからではなく、爺さんのつくる飯が固すぎたり柔らかすぎたり、味噌汁は辛すぎたり薄すぎたりと不味いからだった。

 きっかけは文九郎が満七歳になったばかりのある日、とうとう正直に「なんで爺ちゃんの作る飯も味噌汁もこんなに不味いんだよ」と、つい言ってしまったことだった。

「なんだとぉ。俺の作る飯が気に入らねぇなら、てめぇで作れ!」

 満七つの孫に即座にそう返した太吉爺さんも爺さんなら、それを受けて更に「おう、自分でつくらぁ!」と言い返した孫も孫だった。


 普通に喋っていても会話が筒抜けの長屋である。太吉爺さんと文九郎のやり取りは隣の三軒先まで筒抜けで、事情丸わかりの当時隣に住んでいたさわ婆さんが代わりに作ってやろうと言ってくれた。しかし、そんなありがたいはずの申し出を「覚えるまででいい」と断った文九郎だった。

「さすが太吉さんの孫だよ。頑固だねぇ……」

 文九郎の名が近所に馳せた最初だったらしい。


 実は同じような会話がさわ婆さんと太吉爺さんの間でもあったのだが、太吉爺さんと文九郎の違いは料理の才だった。文九郎はすぐに手早くおいしく米を炊き、ほどよい塩加減の味噌汁を作れるようになった。

 それ以来どんなに帰りが遅くなっても毎朝いつもの時間に起きて朝飯をつくりを続けてきた。休んだのは風邪で寝込んだ数回だけだから、いまや手慣れたものである。

 二刻足らずしか寝ていないこの日の朝も、欠伸を連発しながら、途中で眠り込みそうになりながら、文九郎はいつもの手順をこなした。


 爺さんのことだから、杢二郎親分を手伝い始めたことに気づいてるのではないかと、少し緊張しながら膳についた文九郎だったが、太吉爺さんは何も言わずに飯を掻き込んでいた。機嫌が悪そうなのはいつものことである。

「今日の仕事場は、どこでい」

 聞きたくもなさそうな調子で聞く。

「昨日と一緒だ。鍋町だよ」

 尋ねられたから答えたのにそうかとか、なんとかという返事はない。

 愛想のないことこの上ないが、この太吉爺さんが文九郎にとって唯一の身内だ。文九郎にとって掛け替えのない身内だ。無愛想な見かけの裏の熱くて深い情も良くわかっている。

「じゃ、行ってくらぁ」

 食べ終えると、文九郎はすぐに出かける。

 太吉爺さんは、いつものように「あぁ」とか「うぅ」というような、呻くような返事を返した。

 見上げると、この日も空は青く晴れ渡っていた。寝不足の目にお天道様の明るさがしみた。


 太吉の一人娘、お文は未婚のまま十八で文九郎を産み、文九郎が三歳の時に後添いとして品川の酒屋に嫁いだ。

 その際に、太吉は娘が先妻の二人の子を育てる妨げになってはいけないと、妻を亡くしてからは家事を娘任せにしてまともに飯すら炊けないにもかかわらず、まだまだ手のかかる幼い孫を手元に引き取った。

 お文も我が子の身を心配したらしいが、庄兵衛長屋の女房連が自分達が太吉を助けると請け合い、お文を品川へ送り出したのだそうだ。


 文九郎は酒屋に嫁いだ後の母親と会うことはおろか、姿を見かけることすらなく、七つの時に産後の日達が悪くて死んだとだけ、爺さんから聞いた。母親が命懸けで産み落とした妹のことも、一年後に亡くなったと、人づてに聞いただけである。


 悪ガキに親のいないことで苛められたり、父親は「ろくでなし」で母親の顔もろくに覚えていないことを寂しいと思うことがそれなりにはあったが、庄兵衛長屋の住人や番屋につめる町役人、御町の旦那やその供の小者達の人の良さと面倒見の良さで、文九郎は物怖じすることなくすくすくと育った。

 今では太吉より二寸(約6cm)も背が高くて六尺(約180cm)近い上背があり、顔つきもきりりと引き締まっているから、その押し出しの良さは長屋のみならず、町中でも目を引くようになっていた。

 人宿の寄子になった時には、見ばえの良さを求められる大名や旗本の駕籠かきを勧められたくらいだった。給金は悪くなかったが文九郎は即座に断った。


 文九郎は自分を育ててくれた町の衆を心から愛していた。一方で武家といえば貧乏でも見栄だけはっているような連中を見かけることが多かったから、武家奉公に憧れは全くなく、武家屋敷に住み込むなど考えられないでいた。

  文九郎がなりたいと思っているのはただ一つ、太吉爺さんのような町方の旦那の御用聞きだ。

 町方の旦那も武家ではあるが、抱席の下級武士であり、何より町地で起きる揉め事をおさめるのが仕事だ。そこが他の武家連中と大きく違う。町方の旦那のために動くのは、町の衆のためになるのだ。文九郎は太吉が手札を貰っていた同心の人柄と勤めへの姿勢もあって、心の底からそう思っていた。

 そんな文九郎だから、当然爺さんの後を継いで御用聞きになれると思っていた。まさか太吉が猛反対するとは思ってもみなかった。文九郎にとって人生最大のつまづきだ。



 五日前に湯島から伝馬町にかけて起きた大きな火事の片付けと復興で、人足仕事が増えていた。この日の文九郎の鍋町での仕事場は、裏長屋の片付けだった。一刻半ほど眠っただけだから、寝不足で欠伸が止まらない。

「寝てねぇ顔してるぜ。昨夜は何やらかしたんだい」

 最近はよく同じ人足仕事をあてがわれ、すっかり顔馴染みになっている権七がニヤニヤしながら文九郎に声をかけてきた。年は三十くらいに見える、日焼けした顔にがっちりとした肩、太い手足と、精悍そのものの男だ。しかも左脚が右脚よりもやや太く、左足も右足よりも少し大きいことから、文九郎は元侍だと思っていた。

「てやんでぃ、あんたが思うような粋なことじゃねぇよ」

 町方の辻斬り探索に加わり、当の辻斬りを追いかけたとは決して言えない。太吉爺さんに内緒にしているからではない。人足仕事をしている連中には脛に傷持つ輩が少なくないからだ。目の前の権七も、文九郎の勘では人に言えない何かを抱えている口である。そのせいで武士身分を捨てざるを得なかったのかもしれない。


 ――間違いねぇ。

 権七の合いの手に仕事の手を止めた文九郎は、はっきりと背中に視線を感じていた。荷を担いでいる時には気のせいかとも思ったが、間違いなかった。

 伸びをする振りをしながら、そっと辺りを見回した。それらしい人物は目に入らなかった。

 視線はまもなく消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ