第二部 鵺 (十三)
田島町から駆けてきた下っ引きは茶を一杯飲んだだけで、文九郎と共に田島町へ取って返してくれた。名は浩助だという。
川村が当然というように、文九郎についてきた。
浩助は古川の右岸にある鷺森神社近くに住む白金の親分に文九郎達を引き合わせた。
恰幅の良い白金の親分は乗り捨てられた舟がないか調べてくれていた。
「広尾原の川縁に一艘ありました。そこからの足取りはまだ掴めてないんですが……」
この当時の白金は、新堀川が古川と名を変えた辺りの、白金村という名が示すとおり、田畑が広がる中に寺や武家屋敷が立つという長閑な場所だった。古川の左岸には建物が多く建っているが、右岸には家屋が少なく、田畑や入会の原っぱが広がっている。昼間なら風光明媚と楽しめたろうが、日が沈んだ後では、月明かりだけが頼りになる。晦日あたりならば、提灯に照らし出される足元以外は暗闇だ。夜の人探しに向いた土地ではない。幸い、この夜の月は十三夜で、満月に近かった。
しかし綾音が三之助と一緒ということから、そんな幸運には気がまわらず、文九郎の焦りは高まる一方だ。
綾音が三之助と二人きりではなく、林英昌もいることが救いだったが、今も一緒かどうかはわからない。
「どうしてこの辺りに来たんだろう?稲葉家に縁のある所がありやすかい?」
文九郎の問いに白金の親分は首を傾げた。
「あたしの知ってる限りでは思い当たるものは何もないんですが……」
「あ」と川村が声を出した。
その場にいた全員が川村を見た。
「いや、稲葉家のことは存ぜぬが、綾音様が昔、天玄寺へ行きたいと申されたことがあります。稲葉家へ嫁がれる前、某が新見家で奉公を始めて間もなくのことです」
天玄寺*は鷺森神社よりもっと古川の上流の右岸にある家康公の御生母縁の寺である。
「天玄寺へ?どうしてまた?」と口では尋ねながら、文九郎は違うことを考えていた。
――へーえ、川村さんはそんなに昔から新見家に奉公していたんだ。てっきり、姉ちゃんが新見家へ戻った頃からかと思っていた……あれ?すると免許皆伝はいつ?まさか十代半ばまでに?
もしも本当に十代半ばで免許皆伝を承けたなら、川村こそ化物である。
「なんでも秘仏の毘沙門天像を見たいと……」
「ああ、なるほど」と、白金の親分が頷いたところで、川村が続けた。
「正確には毘沙門天が踏みつけている餓鬼をご覧になりかったようなのですが……」
「餓鬼を?」
そう確かめた文九郎の頭には、綾音が化物や魑魅魍魎の絵を集めていたという話が浮かんでいた。
「はい。私もそれを不思議に思って覚えていたのです」
「あの餓鬼はなかなか愛嬌がありますからな。わかる気がしますよ」
意外な白金の親分の言葉だった。しかし文九郎には綾音が餓鬼を見たいと思ったのは愛嬌があるからではない気がした。
「天玄寺の住職は林様とお知り合いかもしれねぇですね」
浩助の声に白金の親分は、ぽんと膝を打った。
「林様というのは、林英昌先生のことですかな?前に天玄寺の住職の古い馴染みだと聞いたことがありますよ」
これだけ縁が知れたら、行ってみないわけにいかない。
「あっしは、まず天玄寺へ行ってみやす。親分は他をお願いしやす」
「この雅吉を連れていってくだされ。この辺りなら、真っ暗闇でも歩けるくらい、よく知っております」
親分は側にいた三十くらいの日焼けした逞しい体格の男の肩を叩きながら言った。
雅吉の案内で、文九郎と川村は天玄寺へと向かった。
その道中、川村が意外なことを言ってきた。
「文九郎様の新見のお祖父様は、某にとっては大恩人です。とてもありがたい旦那様でした。文九郎様は悪い印象しかお持ちでないと思いますが……」
文九郎は黙って話の続きを待った。
「某は十五俵一人扶持の小人目付の家に四男として生まれました。兄弟が多くて貧乏でしたから、十五で元服するとすぐに新見家で中小性として奉公しました。
奉公を始めたら、道場へはもう通えないか、通えても月に一、二度ではないかと思っていたのに、大殿様はそれまで通り、道場へ通えるようにしてくださいました。畏れ多いことに謝儀も出してくださいました。おかげで、習っていた武芸の全てで免許皆伝を受けることができました。
すぐ上の兄は奉公先から習い事をするならばその分給金を減らすと言われたそうで、某は兄にずいぶん羨ましがられたものです。
某が大殿様にお仕えしたのはたったの二年ほどで、病のためにずっと床についておいででしたが、無体なことや我が儘なことは一切申されず、某は武士の理想を見ている心持ちでした。この御方のためならば、命をかけることもできるとまで思えました……確かに文九郎様のお祖父様と御母上に見せた言動は惨いと某も思いますが、身内に厳しい方だったのかもしれません」
川村はそこで一息入れた。
「長々と昔話をいたしましたが、某が申し上げたいのは、文九郎様には新見のお祖父様に似ていることを嫌がらないでいただきたいということなのです」
視線を感じて文九郎が横を見ると、川村の真剣な眼差しがあった。
新見家の奉公人の前で口にした覚えはなかったが、思っていることが長屋の壁より筒抜けの文九郎だから、似ていると言われる度に虫酸が走っていたのがバレていたらしい。
「新見家に今いる奉公人は、全員、大殿様を存じあげております。皆、文九郎様が大殿様に似ていることを喜んでおります。文九郎様を見守るようにという綾音様のお指図を、某は喜んで承っております。そのことだけは覚えておいていただきたいのです。我々、新見家の奉公人は皆、心から文九郎様の力になりたいと思っているのだということを……」
文九郎は何も言わなかった。いや、言えなかった。川村が自分を助けてくれるのは、綾音の指図だからだと思っていたからだ。それはその通りなのだが、その命に従う裏に大殿様への恩返しの気持ちがあるとは思ってもみなかった。
川村の言うとおり、大殿様は身内に厳しい人だったのだろうが、そもそも太吉爺さんと母のお文は身内と認められなかったのだ。やはり文九郎には無情な人としか思えない。ただ、自分に対する酒井や川村の言動が真摯なものだということは素直に嬉しかった。
臨済宗の寺、天玄寺は家康公の御生母縁の寺ということで将軍の御成りがあると聞いていた文九郎は、壮大な伽藍を思い描いていた。しかし、提灯の灯りで見渡したせいかもしれないが、思いの外こじんまりとした寺だった。
「人の気配と血の臭いがする……」
川村が言った。
文九郎が川村に向いた時にはもう川村は本堂に向かって歩きはじめていた。
慌てて文九郎は川村を追いかけた。
文九郎も本堂の手前で血の臭いに気がついた。心の臓が大きく打つ。
――まさか姉ちゃんの血じゃないよな……
*念のための注: フィクションということで、モデルにした実在するお寺とは字を変えています。




