第一部 姉 (ニ)
文九郎は素早く背中に差していた木刀を抜いて右手に持ち、辻斬りと思われる侍を必死に追いかけた。
背後で佐吉の呼び子が鳴り響く。
文九郎の気持ちは見回りに参加した初日に辻斬りの姿を目撃できたことで高揚していた。
満月が照らす夜の町は、提灯がなくても追いかけるには十分な明るさがある。時々雲が月を隠すのだけが、この夜の難点だった。
若くて意気盛んな文九郎の足は、木刀片手でも早い。だが相手の足も早かった。二人の走力はほぼ同じらしく、間を詰めることがどうにもできない。
侍は南から東へと進路を変え、路地を複雑に抜け、家屋の隙間をすり抜け、いつの間にか新銭座町へと入っていた。木戸を避けて逃避行できるなど、相手がこの辺りの地理に詳しいということだ。
曲がり角や雲の悪戯で見え隠れしていた後ろ姿が何度目かに見えなくなった直後、ドサッと重たい荷物が落ちたような音が文九郎に聞こえた。
文九郎は頭の中の地図から下手人は宇田川へ、いや、宇田川にあった舟に飛び降りたのだと悟った。
その時、月が厚い雲に隠れたらしく、視界が真っ暗闇になった。何も見えない。
――しまった!栗本の旦那、こんな所に舟は手配してねぇよな……
文九郎は川音がする方に目を凝らしたが、舟は灯をともしておらず、月が雲を纏ってしまっては、竿が船縁を擦って水を掻き分ける微かな音がするだけだった。音を頼りに川沿いの道を早足で下ったが、すぐに川は海に出る。
月が雲から顔を見せたようで、辺りがまたほんの少し明るくなった。
しかし闇に慣れた目に見えたのは、微かに揺れる水面だけだった。
せめて何処へ向かうか見極めたいと思ったが、芝からはどこへでも行ける。とても絞りこめない。
「畜生!」
文九郎は下手人が乗った舟を見送るしかない悔しさに道の土を蹴りあげた。
二刀を差した辻斬りを町人の文九郎が捕まえたなら、大手柄だ。岡っ引きになるのを反対し続けている爺さんを説得できる良い材料になったろう。見回りの数を増やしていたのに逃したのは町奉行所としても痛い。何よりもまた犠牲者が出てしまった。文九郎は三重、四重に悔しかった。
「文九郎、無事か」
栗本の声だ。振り向くと龕灯を手にした小者を連れて栗本金八郎がこちらへ駆け足でやって来る。
文九郎は栗本に向かって頭を下げた。
「へい、あっしは無事でやすが、下手人を逃がしちまいやした。すいやせん」
「謝ることはねぇ。無茶をするな。おめぇは一介の町人だ。十手も持っちゃいねぇだろ。そこんところを忘れるな」
そう、文九郎は勝手に探索を手伝っているだけで、さっきまで一緒にいた佐吉とは立場が違う。
「顔は見たか」
「路地から出てきた時に横顔がちらりと見えやしたが、人相はわかりやせんでした。頭巾を被ってただけじゃなく、面も付けてたみてぇで、横顔は鼻の辺から下が大きく飛び出して見えやした。たぶん口面てヤツですね。頭巾も小袖も袴も、何かの模様が入った黒っぽい色に見えましたが、あの感じは昼間見たら派手な色だったかもしれねぇです。背丈は五尺六、七寸(約168cm)くれぇです。背丈も体格も中肉中背ってやつで、めだったところはありやせんでした。わかったのはそれだけで」
「夜中の必死の鬼ごっこで、それだけ把握したのは上出来だ。さすがだぜ、文九郎。これまで誰も姿を見ていなかったんだ。背丈がわかったのは大手柄だ。しかし顔を隠すのに口面なぁ……」
栗本は顎に手をやりながら続けた。
「時代錯誤の気取った野郎だぜ」
栗本の「上出来」や「大手柄」という言葉に文九郎は嬉しくなった。
しかし文九郎には一つ、栗本に言わなかったことがあった。後ろ姿を追いかけているうちに、気になる点を見つけていた。だが文九郎には辻斬りだけの特徴という確信がなかった。
「口面てのは、狐かい?」
「……狐ではなかったような……黒っぽく見えたから、少なくとも白狐じゃありやせん……すいやせん、はっきりしやせん。斬られたお人はどうなりました?」
栗本はかぶりを振った。
「居酒屋で飲んだ帰りの大工らしい。今度も後ろからの袈裟斬りだよ。逃げようとしたんだろな。腰近くまで真っ二つにしてやがった」
それを聞いて文九郎の腹は一段と煮えくり返った。昼間汗水垂らして働き、仕事帰りに腹を満たして一杯飲むというささやかな楽しみの直後に襲った悲劇なのだ。これまでの被害者同様、本人には何の咎もないだろう。
――あの野郎、絶対お縄にしてやる!次こそは……
もしもあの下手人が幕臣ならば、町方が裁けない相手になることもすっかり文九郎の頭から飛んでいた。
「今夜出たってこたぁ、やっばり前から五日目だ。明日から四日は息がつけるな。妙に律儀な野郎だ」
文九郎の高揚した気持ちに水を差すように、栗本が言った。
その通りだ。これまでの流れでは、次に奴が刃を振るうのは五日後か、六日後である。当初はもっと頻繁に現れることを恐れた町方の多勢だったが、人を斬って逃げおおせることは決して容易くはない、目撃者がいないということは気を配っているし、そうしたヤバい奴には不思議な規則性があるものだと、冷静に説いた老与力がいたのだ。若い頃には多くの科人を、年を取ってからは過去の仕置きの記録を管理してきた人物の豊富な知識と経験に基づく見立だった。これまでのところ見事に当たっている。
夜中に起きる犯罪は辻斬りだけではないが、刃物を振るう輩はそうそういないから、明日からの四日間は通常の見回りで済むのだ。
文九郎が次に夜回りに加わるのは五日後になった。
それから半刻(約1時間)後、文九郎は足音を忍ばせて源助町の西側にある庄兵衛長屋に戻った。辻斬りが出たために、四つの見回りをお役御免となり、思っていたより早い帰宅だった。
防犯の観点からは大問題だが、庄兵衛長屋は表の木戸が閉まった後も反対側の路地から稲荷の裏へ抜ける経路で、こっそり出入りできる。そうして、ちゃんと見張りがいる。
抜け道の番をしているのは、庄兵衛長屋を根城にしている赤犬、薄茶の毛色の雌犬だ。毛色から「アカ」と呼ばれて本犬もそれが名前だと思っているが、特定の飼い主がいるわけではなく、なんとなくこの辺りの住人が残飯を与え、なんとなく面倒をみていないこともない、この時代には多くいた「町犬」だ。文九郎が覚えている限りで三代目のアカである。餌をくれたり遊んでくれる庄兵衛長屋や近隣の住人には吠えないが、見知らぬ人間や犬がやってくると吠えるから、庄兵衛長屋の住人にとっては実に頼りになる番犬だ。
いつものように稲荷の祠の前で眠っていたアカは、文九郎が側を通るときにちらりと見ただけですぐにまた目を瞑った。
もう明け方が近い。
稲荷のある路地奥から三つ目の店の引戸はなんの抵抗もなく開いた。心張り棒をしていないから、起きてるのかと文九郎は警戒したが、中から鼾が聞こえてきた。
――元岡っ引きの店が泥棒に入られたら、洒落にもならねぇぜ。……って、こんなところに入る泥棒はいねぇだろうけどさ。狸寝入りじゃないよな?
爺さんの様子を窺いながら、文九郎は薬缶の口から直に冷めた茶を喉へ流し込んだ。
文九郎が爺さんの隣にそっと布団を敷き、そっと潜り込んだと同時に鼾が止んだ。
起こしたかと文九郎はどきりとしたが、また寝息が聞こえてきた。
ほっとして布団の中で手足をゆったりと伸ばす。あっという間に寝入っていた。太吉爺さんにいつもの明け六つ(午前6時頃)に叩き起こされた時には四半刻(約30分)も眠っていない気がした。