第一部 姉 (一)
おっ母さんと呼ぶ自分の声に目が覚めて辺りを見回すと、見慣れた庄兵衛長屋の店だった。
爺さんの姿がない。木戸番の万作爺さんのところだろうと、文九郎はほっとした。
もしも爺さんの目の前で「おっ母さん」と寝言を言ったものなら、「図体だけはでけぇが、まだまだガキだな、ふん」とかなんとか、薄笑いを浮かべて言われたに違いない。
次に慌てて壁を見た。長屋の壁は薄い。静かなら、寝言も筒抜けだ。
幸い路地から女達の声が賑やかに聞こえ、その中に隣人であるおなかの声もあった。十才から三才までの子供四人と左官職人の旦那、合わせて五人の面倒をみている元気者だ。日が暮れてしまう前に夜食の支度をしているのだろう。
反対側の隣人は今日も朝早くから出掛けている。いつも帰りは暗くなってからだから問題ない。
母親と思われる女が泣いている夢を見たのは久しぶりだった。小さい頃は一月に二、三度見ていたが、大きくなるにつれて月に一度、三月に一度と間隔が開いてきた。この時代の成人式である、元服した数えの十七、満十六には一年に一度見るかどうかになり、満十八になった今ではこの前見たのがいつだったかも思い出せないくらいだ。
逆に何故久しぶりに見たのか不思議に思った。今夜から杢二郎親分の子分である佐吉と組んで町内の見回りをするのに、幸先良いとは思えない。
町方が主導する夜回りに加わることを爺さんには話していない。話せば反対するに決まっているから、爺さんがいないうちに出掛けるにしくはない。
今のうちに出掛けて杢二郎親分の家でもう一寝入りしようと、文九郎はのそりと起き上がった。
文九郎が加わることになった夜回りは、辻斬りを捕まえるための夜回りである。この時代には後の世のような、わずかな遺留品から犯人を突き止められるような技術はないから、現行犯で捕まえるしかない。
芝から愛宕にかけての地域で辻斬りが出始めたのは二月ほど前だった。
この二月の間に辻斬りは十日前後に一度起こり、それらがすべて同一人物の仕業だとわかったのは半月前のことだ。いずれも一太刀の首斬りか袈裟斬りで、斬り口に共通した点があったのだ。
同じ下手人であることがわかるまで一月以上もかかったのは、最初の被害者三人がここ数年増える一方の浮浪者だったために、町方の対応がなおざりだったことに大きな要因があった。
元岡っ引きの太吉爺さんが「それで終わりゃ良いがな。そうはなるめいよ」と予言した通り、四人目は振売り、その次は商家の手代と、人別帳に載っている町人が斬り殺された。
最初に下手人は同じではないかと気づいたのは、浮浪者から検視してきた南町奉行所の定町廻り同心、栗本金八郞だった。爺さんが御用聞きとして手札を貰った二人目の御町の旦那である。小柄で童顔なため、一見では頼りないように見えるが、良く見ると肩幅は広く、手足は太く、口を開けばべらんめえの、十手と捕縛術に長けた南町でも屈指の腕利きの同心だ。
栗本は傍証として、浮浪者三人を検視した医者と四人目の被害者を検視した医者に五人目の被害者を検視させ、自身の説を確定させた。
それから更に被害者が出て、これまでの犠牲者は六人になっている。年齢も生業も、住んでいる町もバラバラだったが、身元のわかった三人は皆、町人だ。浮浪者の三人も地方から出てきた、おそらく元百姓で、武士は被害者にいない。
文九郎は腹が立って仕方がなかった。どこかの侍が時代遅れの「試し斬り」を楽しんでいるとしか思えないからだ。
半月前、辻斬りの下手人が一人らしいと分かった時、文九郎は杢二郎親分に探索の手伝いをさせてくれと頼みこんだ。
杢二郎は代々町方の御用聞きをしてきた香具師の家に生まれ、その気になれば誰の下につくことなく親分になれたのに、なぜか太吉爺さんの手下を長く勤め、太吉爺さんも何かと頼りにしていた男である。文九郎が物心ついた頃にはもう太吉爺さんの下っ引き一番手だった。そんな男だから、太吉爺さんが栗本に返上した手札は当然のように杢二郎に出し直された。
太吉爺さんのことをよく知る杢二郎親分は、当初「太吉爺さんが怒るぜ」と文九郎の願いを聞いてくれなかったが、六人目の被害者が出たところで、とうとう許してくれた。
それというのも、人手が欲しかったからだ。
最初の三人の被害者が何時頃斬られたかはわからなかったが、身元の判明した町人三人の事件当夜の行動から、辻斬りは夜の五つ半頃(午後9時頃)から明け方近くまでと、必ずしも決まった刻限に犯行に及んでいるのではなかった。そうなると、見回りは夜の五つ(午後七時頃)くらいから明け方まで手が抜けない。その分人手がいる。
火事の見回りならば年齢を問わずに頼めるし、頼まれる方も自分の身を助けることにもなるので引き受けやすいが、相手が辻斬りとなるとなかなか引き受けてくれる人物がみつからない。
見回りに自分から手を上げる文九郎のような若者は、町奉行所にも杢二郎のような親分にとっても願ったり叶ったりなのだ。
そんな状況や理由など文九郎には気にならない。探索に参加できることが飛び上がりたいくらい嬉しかった。
その上、杢二郎親分は同い年で普段から仲の良い佐吉と組ませてくれた。大抵、若手は経験豊かな先輩の下っ引きと組ませるものだが、文九郎と佐吉の組み合わせがどちらにとっても一番良いという判断らしい。
佐吉は文九郎と同い年だが、歩んできた道のりはかなり違っていて、七つで父親を亡くし、九つで母親を亡くしていた。兄弟はなく、孤児となった佐吉は母親の妹夫婦に引き取られたのだが、十でそこを飛び出し、父親の友人だった杢二郎の家に転がり込んだ。文九郎と知り合ったのはその頃だ。
気の良い杢二郎はそのまま佐吉の後見人となり面倒を見た。佐吉も転がり込んだ立場をわきまえ、掃除や炊事を進んで手伝う少年だった。そのマメさを見込んで十七で元服した直後から、杢二郎は探索の手伝いをさせ始めた。今では杢二郎親分手下の三番手だ。懐には杢二郎が持たせた十手を忍ばせている。
文九郎は佐吉が羨ましくて仕方がない。たった一人の身寄りである祖父が町方の旦那の御用聞きとして活躍する姿を見て育ってきたのだ。同じ道を進もうとして当然ではないか。文九郎はそう思うのに、三年前に御用聞きを退いた太吉爺さんは、頑として孫が御用聞きになることを許さない。
この日の文九郎と佐吉の担当区域は芝神明の門前町一帯だった。一晩中歩き回るのは酷なので、二人一組を二組作り、一刻(約2時間)交代で見回ることになっていた。文九郎の組は、五つ、九つ(夜中の12時前後)、四つ(午前四時前後)が担当だ。
文九郎は佐吉と並んで残照が消え去った町を歩き始めた。
佐吉はどこから現れるかわからない辻斬りに緊張した面持ちでいたが、文九郎は探索に加わった喜びに顔がほころびそうになるのを我慢していたくらいで、足取りも軽かった。
「文九郎、夜は長いんだぜ。ゆっくり行こうや」
佐吉の声に文九郎はわかってるよと目で返した。
夜陰を切り裂く男の悲鳴を聞いたのは、文九郎と佐吉が九つの見回りを始めて間もなくだった。柴井町の大通りを南下していた時だ。文九郎は間髪入れず、その出所へ向かって駆け出した。佐吉も提灯を片手についてくる。
と、目の前に頭巾を被った侍が路地から飛び出してきた。侍は手の動きから納刀直後に見えた。文九郎達に気がついたのかどうか、文九郎達へは一瞥もくれず、侍は大通りを南へと走り出した。
驚いたことに、ちらりと見えた横顔は人の顔に見えなかった。鼻から下が異様に突き出ていたのだ。
「佐吉、路地を見てくれ。それから笛だ!俺は奴を追いかける。待ちやがれ!」