序
月明かりだろうか。わずかに明かりが差す中で、島田髷に結った女が泣いている。こちらに向けた背中が震えている。いつから泣いているのか。聞いている方も辛くなる嗚咽だ。
文九郎はそっとその泣き続ける女に近づいていく。近づくにつれ、島田髷に乱れがあり、櫛も簪も差していないことに気づく。着ている単はあちこち継ぎ接ぎだらけだ。きっと寝間着だ。
嗚咽はますます酷くなる。
背中が目の前に来たとき、その肩に手をのばす。
「おっ母さん?」
いつもそこで目が覚める。
幼い頃から時々見る夢だ。
だがすべて夢というわけではないと文九郎は知っている。おそらく三才で別れる直前の母なのだ。微かに残る記憶が見せる夢なのだ。
その証拠に父親の夢は見たことがない。祖父の太吉いわく、「ろくでなし」だった父親は、母が身籠ったことを告げてからは一度も会おうとしなかったという。そうして文九郎が生まれてからおよそ半年後に、酒の飲み過ぎで死んだのだそうだ。会ったことがないのだから、夢に出てこないのだと文九郎は納得する。
母親も顔は覚えていないから、後ろ姿なのだ。しかし、いつか振り向いてくれるんじゃないかと、幼い文九郎は期待していた。
物心付いた頃には「ろくでなし」の父親のことを祖父に聞こうとしたことが何度かあった。だがその都度「聞くな」と、祖父の全身が告げていた。
祖父が見せた感情が怒りだったなら、文九郎はひるみはしなかったろう。町奉行所の同心、御町の旦那の御用聞きをしていた口の悪い祖父と近所に住む悪ガキ達のおかげで、言い合いや怒鳴りあいは慣れっこだったのだから。
だがそんな時に祖父から文九郎が感じたのは深く重い悲しみだった。その深さと重さに、幼いながらも文九郎は言葉が出なくなったのだ。