詩鶯京の姫君の初恋
玖遠国の砂那姫が己は恋をしているのだと気づいたのは彼女が十二のときのこと、罪のないことに、あいてはもう十年もともに過ごしてきたひとつ年上の幼なじみであった。
名を蘇芳。詩鶯京の数ある年若の公達たちのなかでもすらりとしてみめうるわしく、さらには、怜悧な知性と繊細な詩才のもち主でもあった。
そうなると、必然、年頃の娘たちの話題に上ることも少なくなくなるわけで、姫の友人たちのあいだでも相応の好意を集めていたが、当のかれじしんはまだ恋心にも肉体の欲にもはっきりめざめていないようすで、むしろ彼女たちをみずから遠ざけようとすらしていた。
そうして、そのような娘たちのなかで、かれがたったひとり心をゆるし、いっしょに野面や花畑で遊ぶのは砂那だけだったのである。
その特別扱いが砂那はしんじつ嬉しかった。
もっとも、それもおそらくは己の地位とかかわっているのであろうと考えるといくらか憂鬱な気持ちになる。
砂那は玖遠国天帝の一子であり、蘇芳は詩鶯京の京主の息子、ともにこの国で最も貴い血筋の生まれなのだ。
自然、まわりから敬して遠ざけられたり、あるいはその反対に媚びられたりすることも少なくない。
ゆえにまったく対等のあいてを見つけだすことは容易ではなく、どうしても同格の位を持つおたがいといっしょにいるときが最も心地良いということになるのであった。
それでも、長いあいだ、砂那にとって蘇芳は年上の兄のような存在でありつづけた。あるいは、ずっとそう思い込んでいた。
それが、いつのまにか明瞭に恋に落ちたと自覚されたのは、蘇芳が十二歳を過ぎて子供を脱し、いっそう精悍に変わっていったからでもあるだろう。
いままでは、むしろ少女のようにきゃしゃで、とくに男らしさを感じさせなかった蘇芳も、その頃から背がのび、声も変わり、たしかに男子なのだと感じさせるようになった。
砂那はそのようなかれの変化にとまどい、気おくれもしたが、その一方でそこにあらわれた己とは異なる個性に惹かれていったのであった。
その想いが、宮廷の詩人たちが読み、伶人たちが高らかに歌い上げる恋であることは、さすがに自然とわかった。
わたしは蘇芳お兄さまに恋をしている。そう思うと、胸のおくにほんのりとあたたかなものがひろがってゆくかのようであった。
とはいえ、一国の姫ともなれば、思うままにあいてと契ることも許されぬ。聡明な彼女は、己の恋が実らないものであると悟らざるを得なかった。
むろん、父である天帝にわがままをいえば、彼女のねがいを叶えてくれることもあるかもしれぬ。
だが、それはいかにもかってなことに思われたし、そもそも、蘇芳がおのれをどう見ているのか、異性として好ましく可愛らしいと思ってくれているのか、それともただの妹としか見ていないのか、それもわからなかった。
いつしか、砂那はその想いの切なさに悩むようになった。ちょうど、その頃、彼女はまた自然と心もからだも変わってゆく季を迎えていた。
そのため、いつしか蘇芳とのあいだにも距離ができ、ふたり、無心に笑い合うようなことは少なくなっていった。
砂那にしてみれば寂しいことであったが、そのくらいの歳ともなればまわりも子供とは見なくなる。
幼なじみとはいえ大貴族の子である蘇芳といつまでも遊びつづけることができなくなるのも当然のことだった。
そうして、一年の時が過ぎた。蘇芳はいまや、ほとんど大人と変わらないほど背丈がのびていた。
いったい男の子というのは、何をたべてああも早く背がのびるのだろうと、そう不思議に感じるほどであった。
そうしていっそう凛々しくも頼もしくなった蘇芳に、砂那の想いは募った。やはり己にはこの方しかいないのではないか、そうとまで思いつめもした。
お兄さまはいったいわたしのことをどのように見ているのだろうと悩み、たべるものものどを通らなくなった。
もし、その秘密の真相を教えてくれる魔法の鏡があったなら、彼女はどのような代償を払ってでも手に入れようとしたに違いない。
だが、じっさいにはいかにこの世界でも有数の大都市たる詩鶯京といえど、そのような不思議の品を手に入れることはできないのだった。
そうして、また、蘇芳が変わったのは、ただ外見だけのことではなかった。
いつのまにか、かれのその濡れ羽いろのひとみの奥に、何か暗く燃える火が感じられるようになっていったのだ。
それはおそらくは胸に秘めた非常な怒りを焚き材にして燃えさかる炎であり、かれじしんをも焼き尽くしかねない危うさを秘めていた。
砂那はかれの目をのぞき込むたび、不安に思い、一心に祈った。どうか、この人がみずからの心のなかの火に焼かれて斃れるようなことがありませんように、と。
噂で聴こえてくるところによると、いまの京主である蘇芳の父、驪山候はなぜかかれをことのほか嫌い、またかれの母もことあるごとに責めさいなんでいるということなのであった。
蘇芳はその父への屈折した怒りや憎しみを胸に抱え込み、そのために傷つき苦しんでいるものであるのだろう。
そう思うと何とも切なくやるせなく、言葉にできぬ想いが深々とふる雪のように積もっていった。
蘇芳の母がついにみまかり、また、かれが隣国の私塾へ遊学することになったのはその半年ほどあとのことである。
遊学とはいっても、ほとんど追放に等しいことはあきらかだった。
砂那に仕える下郎のひとりがひそやかに教えてくれたところによると、かれは母の葬儀のおり、実父に向かっておまえだ、と叫んだという。おまえが母上を殺したんだ、と。
そうして驪山はいまや反目しあう仲となった息子のことを重い樫の杖で幾たびとなく殴ったのだとか。
いったい何がかれをそこまで変えたのかは知れず、ともかくかれはもはや一子をわが子とも思っておらぬようすであった。
砂那は、ひとり、蘇芳の胸のなかを思い、すすり泣いた。ただ泣くことしかできぬ子供の己がひどく切なかった。
そうしてその数日後、砂那はあらゆる手管を尽くして蘇芳に逢う機会を得た。
十四の少年は、いまや彼女がまったく見たことがない目をしていた。どこか野犬のように暗く、鋭く、危うい光を秘めたそのまなざし。
砂那はただかれの冷え切った指さきを己の皓い手で包み込むように握り締め、それを頬にあてて撫ぜるだけだった。
「どうか、お元気で」
そのとき、蘇芳は、ふっと我に返ったようになり、あのすべてが無邪気でありえた頃の少年の顔に戻ったかと見えた。砂那が好きでたまらなかったその顔、そのまなざし。
だが、それもやはりせつなのことに過ぎなかった。
かれはただ、うん、とひとつうなずくと、砂那の手を振りほどき、それきり振り返ることもなく獅子車に乗って行ってしまった。
もう逢うこともないかもしれない、砂那はそう思った。
その少女らしくなめらかな右の頬を、ひとすじの涙が、しずかにつたわって落ちていった。
ひとりの十三歳の娘の初めての恋が、ここに、いっさい言葉になることもあいてに伝わることもなく終わりのときを迎えたのだ。
砂那はひとりつぶやいた。お兄さまの、ばか。
そうして涙はあとからあとから止めようもなくながれて草はらにちいさなしみを形づくった。
驪山が亡くなり、蘇芳が遊学先から帰って、別れたふたりが再会を遂げるのは、この日からじつに八年先のことになる。
だが、いまはまだ、砂那はそのことを知らぬ。
そうして、彼女はまた、無情に彼女の指を振り払ったように見えた蘇芳が、隣国へ向かう獅子車のなかで、その暗い目をほそめ、ただ凝然と握られた指さきを見つめつづけていることも知らなかったのだった。
のちに亡父のあとを継いで玖遠国の初めての女帝となり蘇芳を含む臣民たちの上に君臨することとなる詩鶯京の砂那姫の、これは、史書に記されることもない、初めての恋の、そのおはなし。
もしこの作品を気に入られたら★評価をお願いします。なお、この短編小説は長編『暗黒迷宮都市の悪役領主』へと続く予定です。もし良ければそちらも続けてお読みいただけるとありがたく思います。