海賊襲来(3)
「良かったねえ、あなた」
「どうにか助かったな」
紀貫之様と奥様も、危険な目を潜り抜けて、安堵していた。
「命があって良かった」
「ああ」
消えていくかもしれない命を松林で感じて、お互いが大事だと痛感した二人は、助かったことを心から喜んでいた。明るく、信頼し合っていて、今までないほどお互い朗らかに見つめ合った。
「お前がいてくれて、良かった。婆様など思ってない。思っているのは、お前一人だけだ」
小男鹿や いかが言いけむ 秋萩の 匂うときしも 妻を恋ふらむ
「旦那様・・・」
紀貫之様と奥様はしばし抱き合い、無事を確認し合った。
紀貫之様と奥様は溝だけではない、ちゃんとした夫婦の形がある。
(良かった)
どうやら、年の差の溝は、埋まったみたいだ。
「ああ、寿命が縮んだ」
助かって良かったのは、ジジババも、婆様も、矢五郎爺も、若手の漕ぎ手も同じだ。
家人の誰もが命を落としたりしなかった。
(助かって良かった)
私も感じる。命があるって素晴らしい。
「な、なんだよ、じっと見て」
私と時文様の間も変化があった。私と目が合ったら、時文様は顔を赤くして反らす。
「な、何でもないです」
私が時文様を今までない目で見るようになったせいだ。
「あのな・・・」
「え?」
時文様は船べりに座っていたのを、私の前まで降りてきて、私の前で何かを言い出そうとももごもごしたので、私もまたか、とあきれ顔で出迎えた。大事なこととかって、時文様はすぐに出ないのだ。
「都についたら、里に帰っても、誰と結婚しないで欲しい」
いきなり時文様がそう言い出したので、私は白い砂浜の上で顔を赤くした。
「どうしてそのようなことを」
「お前は年季奉公でもないから、いつでもどこへでも行ける身。都に戻ったら、俺とさよならする気だろ」
「私と別れるのが、嫌ですか?」
言うのが下手な時文様だ。何を言う気かは知らないが、じれったい。
「俺が止まれと命じたら、止まってくれるか?」
「どうして、そんなことを言うのです?全力で守ってくれたのに、私が時文様をほったらかしにして、どこかに行くと思いますか?」
時文様は分かってない。私がどれほど時文様が大事に思ってくれることを知っているか。命をかけて守ってくれたことがどれほど嬉しいか。 (相変わらず鈍感)
いたずらっ子でからかうしか出来なくて、和歌となると大事な言葉がとんと出なくて、人間を読み取るのも下手。
まだ私が分かってないと思っていて、私に情熱を燃やした目を向けて、じっと見つめて来る。
襲撃前に何か言い出そうとしていたけど、時文様はとうとう私に言い出した。
だから、もう私もくすぐったくて、もう今か今かと思って、ちょっと笑いかけていた。
「こうして無事にいる今、お前に言いたい。俺はお前が好きだ。出来たら、どこにも行かないでくれ。俺のそばにいて欲しい」
時文様なんて、好かれても大したことないと思っていたけど、告白の言葉を聞いた時、私は意外や嬉しかった。
(やだ。時文様なのに、なぜこうも、胸がどきどきするのだろう)
私は激しい動揺と顔の熱さに襲われた。
「誰がどこかに行くと言ったのですか。私は紀貫之様の家来です。ずっと旦那様のもとにいます。時文様が望むなら、いつまでも」
恥ずかしいから、私は時文様の手を押しのけて、背を向けてそう言っておいた。
思ふこと心にあるを ありとのみたのめる君にいかで知らせん
貫之様がまた歌を詠む。
(旦那様、また私のことを)
「いやあ・・・たはは」
さすがに鈍感な時文様も、紀貫之様の歌と、私の解答は理解できたらしい。
「そ、そうなのか、だったら、まあ、好きなだけ、うちにいろよ」
照れて、頭をかいて、しきりに恥ずかしがっていた。そして、右を向いて、後ずさった。
「うあ」
私たちが載って来た船のむこうで、松の倒木に据わっている紀貫之様と奥様がじいっとこちらを見ている。
(この夫婦、見事に息がぴったりだ)
溝も埋まれば埋まるものである。揃えば揃う夫婦だったようだ。
「橙乃」
「は、はい」
「本を出しなさい」
私はてっきり、時文様とのことでと思ったけれど、紀貫之様は違うことを言われた。
「私のために尽くしてくれたのだな、ありがとう」
「旦那様、この本はいったい・・・・」
「いや、私も土佐日記というのを書いているが、他にも、伊勢物語のような男が彷徨う物語をちょっと書き記したこともあったんだ」
「色恋ばかりの冒険小説じゃよ。だから、外には出せん本じゃ」
「旦那様が?」
「これ、婆様。人聞きの悪い」
「ふっふ」
古今和歌集の序には、紀貫之様は己の言葉で和歌についての熱い思いが書かれている。
歌は、力も入れず、天土を動かし、目に見えない鬼や神も心を打たせ、男の胸の中の靄を払い、強い武士の心ですら慰めるのが和歌である。と。
紀貫之様は情熱を持って創作をする作家だ。
だから少々変な本も書いてしまう人でもある。
私が大事に抱いていたものは、その一冊だったなんて。
(今までいったい何を守って来たんだ、私は。何よ、これ、いったい何なの、いやあ、これ、何なのようううう?)
後生大事に胸に抱いた中身がいったい何なのか。
何てこと・・・と思って、さらに私は脱力感に襲われたのだった。