二十一日
二十一日。
ようやく、船が出せる時が来た。卯の刻(朝六時)に船を出した。
停滞したので、他の船も皆揃い、一斉に漕ぎ出した。春の海に秋の紅葉で葉っぱが散ったよう。
奥様が特別に念仏を唱えたせいだろうか。風も吹かず、澄みわたった青空に良い日が出てきた。
やはり、皆、国の方を見てしまう。遠い都を皆が思っている。そこには家人らの父母もいることだろう。
海岸には黒いウミウが岩の上にいて、白い波と対称的だった。
「黒鳥に白波、寄せては引く」
矢五郎爺は勝手に歌を作って、鼻歌を歌っている。
「なんとも、矢五郎爺にしては趣のあることだな」
聞いた紀貫之様は、くすっと笑った。
「なーに言ってんだか、矢五郎爺が」
家人らも爺にしては上出来だと笑う。
「あいや、わしは才能をひけらかしてしまったか」
矢五郎爺も笑った。
「しかし、安穏とはしておられない。ここからは海賊の横行が激しいところだ」
船からの景色が変わっていくのに対し、紀貫之様の表情が厳しくなった。
「私は土佐の国守として、国を守る仕事に関わって来た。海賊討伐も伊予の官軍と共にしたことがある。私が帰るのを、海賊の中には心良く思わぬ者たちがいるだろう。帰りの警護が手薄なところを狙って、襲撃して来るかもしれない」
(やはり)
私は出航前に御本を狙われることを心配したが、紀貫之様も私と同じようことを考えていたのだ。
「ほ、本当ですか、旦那様」
「海賊が襲って来るのですか?船君」
家人らも船の漕ぎ手もあたりを警戒した。
紀貫之様の周辺にいる家人らはぞわっとなった。
私も私の予想したのが現実になりそうで、身が震えた。
「海が怖ろしいよ。頭も白くなるほどに。私はまだこれからだが、七十路、八十路にもなった気持ちだ」
世間離れした名人がそう言うのを聞いて、私はさらにぞっとなった。
(ど、どうしよう。海賊がほんとにいるんだ)
私の感だけかと思っていたけれど、海には海賊がいる。
(伊予の官軍が討伐して回って、あらかた粛清は出来たはず。先日、そう藤原純友も離別の会で言っていた。 今は土佐の宿毛などに逃れていると聞く)
その藤原純友がそもそも海賊だったなんて、誰も思わなかった・・・
(海賊が出たらどうしよう)
出たら狭い船の上だ。逃げ道はないのが怖かった。
「何があっても、離れるなよ、橙乃」
時文様は相変わらず私にくっついている。
(駄目だ。海賊が来たら、逃げなきゃ、私は。胸の本が)
落ち着きをすっかり私はなくしていた。
「海神様を見たら、私に言いなさい。私の祈りを捧げますから」
こんな時に、奥様はもう念仏三昧。
長旅にも疲れたけど、奥様の不機嫌がいつ爆発するか分からない。そんな危険も加わって、旅は困難を極めた。
私は焦った。
(このまま旅が続けられるだろうか。無事に都に着くだろうか)
もしも、万一、海賊の襲来があった場合、紀貫之様や奥様、時文様をどう逃がしたらいいのか。そんなことばかり考えた。