十一日
十一日。
「旦那様、ここは羽根という名前のところですね。どこでも羽根のように飛んでいけるところですか?」
船は羽根という場所にさしかかった。
家の者たちは羽根という地名の場所に、それぞれ思いを寄せている。亡くなった者への思いを、もう会いたくても会えないけれど、羽根があったら会いに行けるだろうと思っている。
旦那様はその小さな女の子の言うことに同調し、ぼそっと天に向かって言った。
「羽根があるなら、私もここから飛んで帰りたい」
まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな
「貫之殿、あなたの和歌は素晴らしい。あなたが作る和歌集を楽しみに待っているよ」
(醍醐天皇は、京を出る私に向かって、そう言われた)
都に帰って来たら、真っ先に私の元に届けておくれ・・・
あなたの作るものを楽しみに待っている。
御免なさい。旦那様。そのような大事な和歌集がまさか、こっそりと私の胸の中にあるとは、思ってませんでしょう。どうぞお許しを。この橙乃が必ず都までお持ちしますから。
「どうかしたか?」
時文様がいつにない私の様子に気づいて、声をかけて来たけど、私は何事ないふりをした。
「何でもない」
「良いけど、皆、長旅になって具合が悪くなってきているから、お前も調子が悪くなったらすぐに言えよ」
「うん」
時文様は私のことを好きかもしれない。そう思うと、いつも通りにしていられない。胸がどきどきして来た。
「羽根があるなら、私も鳥になってみたい」
現世の嫌なことを忘れてしまえそうだから、私も鳥になって飛びたいな。
(きっと気持ち良いわね)
この羽根という地は、地名から飛ぶことを皆が想像し、紀貫之様は気を急かされたのだけれど、他の人は、亡くなった人を思い出したりして、涙にくれたり、飛ぶことを想像したりしてまた涙を流したりしたところだった。
奥様はさめざめまた泣くし、可愛い女童がいたらそれも皆が可愛さに可哀そうになって涙にくれるし。
紀貫之様も海の彼方を見ながら、耐えているし。
青い空に白い雲が輝く美しい海だったから、羽根というところは皆の心を打ってしまった。