十日
十日。
奈半の港に着いた。その日はそこで泊まった。
朝から出発するかどうか、紀貫之様は考えた。
「船君はご主人なので、どうかご主人様がお決めください」
船頭の矢五郎が紀貫之様に出航の催促をした。気の毒に、持病が出たジジババは迷惑になりたくないと、出発の用意はしてついて来たのだが、元気がない。
「旦那様、私ら大丈夫です。気にせず、出発してください」
老人らは心配せぬようにそう言ったが、紀貫之様は病人を悪化させてはと心配している。
「旦那様、早く決めてくだせえ。遅れると、次の港まで辿り着きませんよ」
「しかしだな」
「途中に、立ち寄れる船着き場もあるから、とりあえずそこまで行ったらどうでしょう?」
「じゃあ、そうしよう。いったん出航してみよう」
紀貫之様が決めると、夜明け前に船は港を出た。
家人らはまだ眠たいので、皆で甲板の上で蓆を引いて寝た。
夜が明けると、羽根というところについて、いったん休んだ。
「どうだい、爺、婆。調子は」
「ええ、ひと眠りしたら、だいぶ良いようです」
「じゃあ、まだ船で揺られてもいけそうか?」
「はい」
「じゃあ、矢五郎さん。昼餉を食べたら、また出航しようか」
「ああ、進ませましょう」
調子の悪い者たちも落ち着いて来て、船の用意が整えられた。何度も足止めを食らっているから、少しでも前へ、皆が進みたがった。
紀貫之様までも、旅を急いでいる気がする。
「橙乃、お前は体調は悪くなってないか?」
皆の体調を見て回っていて、紀貫之様は私にも声をかけてくれた。
「私は大丈夫です。紀貫之様は?」
「私のことは心配ない。私は早く都に辿り着きたい」
(あれ?)
紀貫之様は普段は感情を出さないが、今は大きく先へ行きたいと思われているようなので、私は気になった。
「紀貫之様は、京へ戻るのに急ぐ理由があるのですか?」
私は婆様に聞いてみた。
「ああ。ある」
紀貫之様を深く知る婆様は、こっくりとうなづいて答えてくれた。
「土佐に来る前、紀貫之様は醍醐天皇と約束した。もう一つの勅撰和歌集を作ると。土佐守の間、それは出来た。本来なら、帰郷したら、醍醐天皇に捧げる予定だった。しかし、紀貫之様が土佐にいる間に、醍醐天皇は亡くなられた。だから、もう命じた本人はいない。だけど、はやく帰って、出来たということを報告したいのじゃろう」
(ああ、そうか、それで旦那様は早く帰ろうと・・・)
それほどまで紀貫之様にとって、醍醐天皇は大事な人だったのだなあと思った。
「醍醐天皇は、旦那様にとっては、大切な人なのですね」
「醍醐天皇は、紀貫之様に古今和歌集の編集を任じた人じゃ。いわば、醍醐天皇が紀貫之という人を見つけ、世に出してくれた恩人。土佐守として都を離れる前に、またもう一つの和歌集を作れとは、たぶん、醍醐天皇も紀貫之様とのつながりを大事にされたからに違いないじゃろう」
醍醐天皇と紀貫之様のお互いを思う気持ちが大きい。それほどまで、つながりを大切にされたとは、醍醐天皇の紀貫之様を思う気持ちも本物だ。
「だから、旦那様は急いで京へ帰りたい。本当は、このようにノラクラしたくはないはずや。じゃが、じっと耐えて、何も言わない。静かな男じゃからの。本当は京へ帰りたくてたまらないはずじゃ」
静かなるもののうちに、燃えるものがある。和歌だけのようでいて、内面は男らしい。紀貫之様らしいところだ。
「土佐守の間は、醍醐天皇との約束を果たす時間だったとも言えよう」
醍醐天皇と紀貫之様には、固い友情に、私は胸が熱くなった。
(紀貫之様も醍醐天皇のことを大事に思っている)
古今和歌集の編纂から、今までに至るまで、醍醐天皇という人はずっとそばにいて、大事な人であったに違いない。
「婆様は本当に、よく旦那様を知っていますね」
「わしゃ、どれだけ旦那様に仕えているか、この年までずっともう数十年、あの方に仕えておるからな」
「そっかあ」
「して、お前、旦那様の荷物に入れたはずのあれが、無いのじゃが、何か知っておるか」
「えっ?」
あれって、あれかしら?私の胸の中にある、あれかしら?。
私は思わず、ぎっくううっとなった。
「な、何の事です?」
「揺れるから荷が崩れて、重みのせいじゃから、荷を入れ直しているのじゃが、あれが見あたらん。どこかで入れ違いになったか」
「あれ?あれとは」
「いや、大したものじゃないのじゃが」
「大したものじゃない?そんなわけないじゃないですか」
「ん?大したものじゃないってことを、なぜ知っておるのじゃ?」
「い、いえ。それはその、紀貫之様の書かれた御本なんですよ。大したものじゃないわけないと思って」
「いや、いいか。お前、あれは大したものじゃない。じゃが」
その時だ。ぐらっと船が揺れて、婆様は足腰が弱いのでごろんっと転倒なされた。
「おい、婆、船の上で立っとらんと、座っておけと言ってあるだろ。怪我人などが出たら、また船を岸につけねばならんからって」
船の上では気が荒い矢五郎爺に思いっきり怒られてしまった。
「いてて」
「大丈夫ですか、婆様」
「いた、痛い。ちょっと手を引いておくれ、ああ、サユやあ」
腰を打った婆様は腰を思いっきり打ってしまい、それきりその話はしなくなった。
何か気になるけど、私が胸にしまい込んでいる理由も聞かれたら・・・私は婆様を助け起こして聞こうとしたけど、聞けなかった。