二十八日~一月七日(2)
「よーし、ワシの出番じゃな」
色々なものが乱れる気持ちになって、皆が意気消沈した暗い中にいるのを、船頭の爺さんが立ち上がった。
「おお、矢五郎の念仏唱えか。矢五郎は祈祷師でも有名なのじゃ。ぬしも頼むぞ」
婆様が言った。
「任せておけ。海神様なにとぞ、航海の道を開き給え、なむ」
矢五郎おじさんは腕をまくり立ち上がり、雨の中を庭に出て行き、泥の上で膝をついて、天に向かって祈り始めた。
婆様たちも、念仏を唱える。
念仏の効果かは分からない。雨がどんどんと強まり、風が吹くようになった。
ばちゃばちゃと庭は水を跳ね、しまいにぴかっ、ごろごろと鳴り始めた。爺は一心不乱に雨を受けて祈っている。
(怖い)
そう思うと、本当に海神が行く手を阻んでいたらどうしようと思った。
(もしも、私が原因だったらどうしよう?)
急に雨や波が、私に向けられている気がした。
罪人を捕まえようと、海神が潮をこちらに押し寄せたり引いたりしている。
ごおおおう・・・
ごううっ・・・
晴天の時は青くて綺麗なのに、灰色の空の下では黒い渦だ。巨大な波を荒立て、大きな飛沫音を立てて近づいて来る。
(まるで呪いみたい)
私は呪いとは何かを知らなかったから、その激しくとぐろを巻く灰色の海を見て、都を追われ、大宰府に流された政府高官だった菅原道真公の胸に抱いた呪いとか恨みとかまでつながっているように思えた。
出発時、紀貫之様から道真公の話を聞いたからだろう。
(まさか、私まで呪わないだろう)
そう思ったけど、怖い。
「お前、まさか、怖いのか?」
知らぬうちに時文様が私の横にいて、うつむいた私の顔を覗き込んでいた。
「知らなかった。お前が旅先でこんな雨で怖がるなんて」
「な、なによ。怖がったら駄目なの?」
「カエルだって怖がらなかっただろ」
「カエルはどこにでもいるでしょ、海神様と会うのは初めてなのよ」
「大丈夫だ。ただの雨だよ。安心しろ」
そう言って、時文様は私の背中に手を回した。
「ちょっと、何するの」
「そばにいてやるよ、怖いんだろ」
(何よ、時文様なんて弱虫、和歌の勉強もしないで、遊んでばっかりで怒られてしょげてるくせに・・・)
なんてそんなことを思ったけど、いつもなら悪党小僧の時文様でも、薄暗い中では存在感は大きくて、手は温かくて安心した。
時文様のふっくらした間抜け顔。
それもこんな時なら、頼もしく信頼できると思うのだから、不思議だ。
動揺が走った後の虚ろな空気と、陰気な雨の中、故郷や都、旅のことを色々思う人達の中、私も考えた。
時文様は、私のことを好きかもしれないってことを。
(いったいいつからだろう)
子供の時からいっしょで、いたずらとからかいばかりで、もともと悪ガキだ。私は負けたくなくて、いつもやり返すばかりだった。
(私はどうだろう?)
私は時文様のことを好きだろうか?
毎回からかわれて、私は怒ってばかりいた。
好きとか嫌いとか、考えることはなかった。
そう言えば、優しいところもあった。仕事が辛い時には、お菓子をくれたし、奥様に言って、厳しい年上侍女を取りなしてもらったこともある。
からかうだけで、いじめとか、本当に酷いことはされたことはない。
むしろ私の方が口悪く、時文様をからかったり、やり返したりしていた。
時文様は私のことなど、なぜ好きなのだろう?
本当に私のことなんか、好きなのだろうか。侍女なのに。