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二十七日(3)


 別れを告げる人らとは挨拶を十分にし合い、もうあとは行くだけとなった。一行は、旅立ちに全勢力を注いだ。

「あらあ、潮流も来た、風も来たあ」

 船の船頭のおじさんは酔っぱらって、我先に船に乗り込んで、出発しようとして、皆に怒られる。

 その時、その場にいる紀家の家人たちは、旅立ちにふさわしい漢詩を詠んだり、甲斐の民謡を披露した。

「これぐらい騒いだら、船も飛ばすし、空の不穏な雲も飛ばすぜ」

 と皆が旅立つうれしさにはしゃいで船を漕いだ。

 そして、大勢が心を一つにしてこぎ出すように船出をした。

「よーし、出発だ。皆、漕ぎ出せ」

「よーっす、えんやそーらー」

(ああ、もう土佐とはお別れだわ)

 ようやく少しずつ私たちは、土佐の国司の館から離れて行った。


「おじょうさん、今、あなた、大丈夫かって目、したでしょ」

 船頭のお爺さんに私は絡まれた。

「何、心配ないよ。橙乃。矢五郎爺はこの海域では、有名な船頭さんじゃ。紀伊の国でも、筑紫の国でも、矢五郎さんは安泰に船をつけてくれる、どこでも着ける矢五郎で有名な爺じゃでな」

「そ、そうですか、よろしくお願いします」

 紀家の付き人の中でも、一番の年長者である婆様が、孫のサユに支えらえて、船の屋形の中に座り、私と向かい合っている。抜けた歯でにかりとした。顔はしわくちゃだ。どこに鼻があるのか、目があるのか分からない。

 家人を率いるリーダーで、家人らからもっとも信頼感を置かれている。

 紀貫之様に数十人の妻=恋人がいたこと。内裏で事務を執る者として働いていたことなど、私が教えてもらったのが、この婆様だ。

「矢五郎爺は、昔木材を運搬して、このあたりを回っておった船頭の長じゃ。重い荷物を滞りなく届ける達者ものだし、海賊が出ても、剣を持って追い払ったりも出来る。な、矢五郎爺」

「剣はさすがに、もう若い頃のようにはいかんが、船なら、いくらでも運べるよ」

「ほら、だから、矢五郎爺に任せておけば、何も心配ないのじゃ」

「そうしゃ、わしに任せておけば心配することねえよ」

「じゃが、海に出るには禁忌があるのじゃったな?」

「ああ、海神様は刃物が嫌いじゃ。これはこの前の航海の時も言ったと思うが、海に落とさぬようにしておいてくれよ。海の神様は気難しい人じゃから、すぐに機嫌を損ない、大波で襲ってくる」

 私は思わず、背後の船を見たが、何事もなくついて来ている。背後の船には刀子とうすなどの生活道具も積んである。

 紀貫之様らを乗せた船だけでは足りないので、後から家来や荷物を乗せた二隻目も用意してある

(刃物は、梱包して荷造りしているので、船から落ちない限りは、大丈夫だろう)

 周りを見渡したが、あたりの海は凪いでいて、平らか。

「なんだ、怖いのか?」

 時文様も私の目の前に座っていて、またからかい小僧となって陽気にがははと笑った。

「そんなこと」

「じゃあちょっと、様子を見て来てやるよ」

 時文様は立って、後尾へ行った。単にじっとしているのが嫌なのかもしれない。船は狭いのでずっと座りっぱなしだ。

 海神が海にはおられる。航海の安全を見守ってくれる神だ。怒らせなければ、何も怖いことはない。専門家の船頭のおじさんに任せておけば心配ないだろう。

 あとは船酔いに耐えて、長い間、船に座っていられるかどうか。私はそっちのが心配だった。



しのぶれど 恋しき時は あしひきの 山より月の 出でてこそくれ




「えっ」

 窓の外で、船の手すりに座っていた紀貫之様から、また私はつぶやかれてしまった。

 浮世離れしているから、悪気はないとしても、恥ずかしいから、顔が赤くなる。

「いったい、どういうことを、誰のことを言っているのです?」 

 私は少々すねて、言い返してしまった。

「そんなの、決まっている」 

「旦那様は私のことをお詠み過ぎです」

 紀貫之様に至っては常に和歌が口をついて出てくるという、特殊和歌体質の方だから、常から何かにつけて和歌を口ずさむのは仕方ない。

 それは古今和歌集の恋の歌の一つだった。私も紀家の家人として、生まれた頃から奉仕しているので、和歌に関しては基本的な知識がある。

 和歌の名人は気軽に歌うが、表現された側は困るのだ。

 私が口ごもると、紀貫之様はくすっと笑って、もう遠くを見ている。

(今の時文様に聞こえたかしら?)

 時文様はというと、船の後方で、家来たちとがははと呑気に笑い合っている。

(時文様に聞かれなくて良かった。でも、時文様が?私のことを好き?そんなことってあるだろうか。いつもいたずらされたり、笑われたりする方が多いのに)

 確かに時文様はお優しい時がある。胸に衣の下に入れてある短剣もくれた。

 それは私のことを好き、だからだろうか。

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